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 結果として、猪狩は常識を持ち合わせている人物であった。加え、物事に向き合う時には慎重な人物でもあった。
 方や現在無職の身、方や半ば自由業の情報業という一般的な時間感覚とは無縁である二人の約束は昼を回った頃から取り付けられている。待ち合わせの場に顔を合わせて早々に、鱗道は蛇神からの頼まれ事について猪狩に話をした。
「買い揃えるのも面倒だろうし、貸せるもんは俺のを貸してやる」
 頼まれ事の仔細について話すより前、鱗道が東北地方の山に向かわねばならない事、人の手が入っていない山を登らねばならない事を聞いた時点で、猪狩は軽い口調で言い放った。飲食店の多い駅前に向かい始めていた歩の先が変わるのは素早く、猪狩が鱗道を先導したのは彼の家である。猪狩の妻はほど近い実家に顔を出しているとのことで、大きな家には誰もいない。猪狩はまず家の裏手に回り、倉庫から登山道具一式を取り出して手早く分け始めた。どれもこれも素人目には新品同様に見えるほど手入れが行き届いている。
「使わんのか?」
「しばらく予定はねぇな。ああ、まだ防寒着も必要だな。お前、足のサイズいくつだ」
 猪狩の行動には躊躇いもなく無駄もない。次は家の中、と招かれながら鱗道はひたすら猪狩の後をついて歩いた。質問に答え、季節と気候に合わせた防寒着の試着にも従い、
「靴はさすがにサイズが違うから駄目だな。まぁ、駅前にある靴屋で見繕うとしようぜ。そのまま今日、明日と履けるだけ履いて慣れりゃぁいい。服は少しでかいが、まぁ、でかい分にゃ問題ねぇだろ」
 やはり使う予定がしばらくないというリュックサックに、倉庫で取り出された道具の他に細かな物も詰め込まれていった。防寒着を着込んだまま、一度背負うように指示をされ、肩紐の長さも調整される。直ぐにでも山に登れそうな装備一式を身につけた鱗道を見て猪狩は満足そうに頷いた後、やおら真剣な眼差しで、
「こんな大荷物を持ったままじゃ、店に入れねぇな?」
「ああ、そうだ。お前から気が付いてくれて助かったよ」
 鱗道の家と猪狩の家は遠くはない。猪狩の家の方が海に近いくらいで、鱗道の家は山と住宅地の中心に寄っている。とはいえ、双方ともS町の古い住宅地の範囲に家があり、駅までは同程度離れている。鱗道の家に寄って荷物を置いてから駅前に向かう、と当然の結論が出たことで二人は猪狩の家を後にした。
 まだ、日の高さは充分にあった。雲が出ているが、風が強い日でもなく、波の音までは聞こえてこない。海に背を向けて歩きなら、ぽつぽつと取り留めのない話に花が咲いた。昔を懐かしむような話題が多かったのは、ゆっくり話すのが久しぶりであったからだろう。ましてや二人ともS町育ちである。馴染んでいるものも変わってしまったものも目について、鱗道の家までの短い距離に咲いた花の数など片手に余るほどだ。
「家、売っちまうんだってな」
 鱗道が玄関の鍵を開けている間に、今までの会話とは語調を変えた猪狩が言う。振り返ってみれば、感慨深げに家を見上げる目はサングラス越しであるが懐かしむように、同時に諦めるように細められているのが分かった。大学でS町を離れるまでは何かと遊びに来ていた家である。気持ちは察するものがあった。
「俺一人には広すぎる」
 猪狩は豪胆な性分の割に、場所や物に思いを寄せて執着しやすい。旅行に行けば写真をやたらと撮るし、修学旅行で木刀を片手に迷う同級生達を尻目に地名や名所が書かれたペナントか温度計を真剣に悩むような男だった。アウトドア趣味であるから、以前の猪狩の部屋にはそういった記念品が多く飾られていた筈だ。今はどうだったか――先程部屋に上がったが、記憶にない。他人の部屋を観察するのは無粋であることぐらい、鱗道も心得ている。
「嫉妬して嫁さんも作らせてくれねぇなら、カミサマが一緒に住んでくれりゃァいいのにな」
 猪狩の言葉を背中に聞きながら玄関を開けた鱗道は、少し迷ってから靴を脱いだ。抱えている道具は全て借り物だ。玄関に置きっぱなしにするのは気が引けた。
「俺に取り憑いて一緒に暮らしてるみたいなもんだから嫉妬するんだろう」
「美人なのか?」
 猪狩も靴を脱いで、挨拶の一つもなく家に上がる。鱗道は特に咎めたり、視線を向けることもなかった。猪狩にとっては懐かしむに値するほど、しょっちゅう遊びに来ていた家なのだ。第二の実家だと言いだしても可笑しくはないとすら思っている。暗いばかりの居間に灯りを付けた。
「蛇の美人もブスも俺は知らん」
「それもそうだな。そう言うのは分からん方がいいってのが相場だしな――ああ、そうだ。線香を上げさせてくれ」
 この会話も聞かれているかも知れないぞ、と鱗道が言い出す前に猪狩がサングラスを外して暗い廊下を伺っていた。仏間はあっちだと指差しながら、蛍光灯の下で見る友人の顔に違和感を覚える。すれ違い程度の僅かな時間であった。猪狩は鱗道の指差す方向を確認すると、既に歩き出している。鱗道は少し間を置いて、居間の灯りを消してから後を追った。
 やはり、猪狩にとっては第二の実家のようなものだと、大きな背中を見ながら思う。仏間の場所を確認したのも、配置が換わっていないか確認しただけだろう。仏間の襖を開けた後は場所を探すようなこともせず、部屋のスイッチに手を伸ばしている。
 二十年近く前から据えられている父の、最近置かれた母の、二つ並んだ位牌に向かって座し、手持ちのライターで蝋燭を付け線香に火を移す。すっと伸びた背筋、合わせられた手、閉ざされた目。実子である鱗道ですらここまで真剣に位牌に向き合ったことはない。母親が亡くなったのはつい最近であるし、父親に関しては顛末を知っている。猪狩と違って場所や物に思いを寄せる性格でもない。
 鱗道の母親の葬式に猪狩は顔を出なかった。その時はH市を仕事で離れていて、すぐに来られるような距離にいなかったからだ。その思いもあるのだろう。猪狩は合わせた手を下ろしても、そのまましばらく動かなかった。立ち上がって蝋燭を消し、鱗道が仏間の前でずっと立っているのを見るとにやりと口元を笑わせる。
「墓参りは今度な。うちの両親の分と纏めて行こうぜ」
 猪狩の両親は、猪狩が大学を卒業し警察学校に入学した前後で亡くなっている。その時は鱗道がH市におらず、葬式にはかなり遅れて顔を出すことになった。互いに生活に変化があった時期なのもあって、長く話をすることは出来なかったが――
「……また、お前の両親に挨拶しそびれたな」
 猪狩が笑ったのはそのことだろう。猪狩が鱗道の家に遊びに来たのとほぼ同数、鱗道も猪狩の家に訪れている。世話になった回数もほぼ五分五分だ。それなのに、鱗道は猪狩の家で言い出さず、猪狩の行動で思い出した有様である。猪狩に引っ張り回されていたのもあるが、完全に失念していたのだ。他人の部屋を観察するよりも無礼な振る舞いを省みる鱗道の苦々しい表情を見て猪狩が声を上げて笑った。
「俺が引っ張り回したんだからしょうがねぇさ。それに、お前が真っ直ぐ挨拶に来たんじゃ、親父もお袋も驚いてあの世で死んじまうぜ」
 そこまで無愛想だった記憶はないが、愛想がいい性分ではなかったのは事実だ。どちらかと言われれば――あるいは言われずとも、鱗道は挨拶をされてから返すことの方が多かった。苦み走った表情の鱗道の肩を、猪狩は乱暴に叩く。
「気にすんなよ、グレイ。なぁに、また機会があるさ。お前もこの近くに落ち着くんだろう?」
 そう言えばあの世で死んだら次は何処へ行くんだろうか、まぁいいやとにかく腹が減った――と、猪狩は鱗道の横をすり抜けて玄関に向かう。猪狩の言葉に、蛇神の「神に到れぬ霊は消える」という言葉を思い返していた。消えて、何処へ行くのだろう。蛇神はそれを知っているのだろうか。知りたい内容ではないが。
 鱗道は仏間の灯りを消し、玄関に追いついた。靴を履こうとしゃがんでいる猪狩の背を見て、ふと、その右肩を叩く。
「おい、猪狩」
「なんだよ」
 猪狩の方が身長が高い。普段、鱗道が猪狩を見下ろすことなどまず無かった。が、今は数少ないそんな機会だ。右肩越しに振り返る猪狩の顔をまじまじと見下ろす。居間ほどではないが玄関の蛍光灯も白く、雲のある外よりも光源としては強い。
 男らしく切れ上がった目。すれ違い様の違和感の正体は右目だったようだ。右目が全体的に濁る、というかくすんでいるように感じる。白目の部分が若干分かりやすいが、インクを一滴垂らしたように色がついているように見えたのだ。
 鱗道の視線が猪狩の右目を見ていることに気が付いたのか、猪狩の目が大きく見開かれた。少しの間――履きかけの片方の靴紐を、大きな手が引っ張るだけの少しの間を挟んで、
「気付いたのか」
 驚いた表情は既になく、声は何も変わらぬ快活さで発せられた。が、それ故に気取り格好付けた言い回しの欠落が目立ち、右目の異常が鱗道の気のせいではないことを裏付けている。靴紐から手を離した猪狩は茶色に染めた短い髪を乱暴に混ぜた。
「お前より顔を合わせてる連中には、気付かれてねぇんだがなぁ」
 言いながら靴紐に手を伸ばし、笑ってみせる猪狩の声は聞き慣れないものがあった。暗く重いものを含んでいるような声だ。
「仕事中に事故ってな。義眼とかじゃねぇよ。そこまでの傷じゃねぇのさ。まぁ、いっそ義眼や眼帯ってのも、思い返すとありだと思うが」
 笑みが滲んでいる声であるが、それで暗さや重さが拭えているわけではない。普段はそんな物を抱えていようと見せることをしない男であるから、なおのこと暗さが際立ってしまう。鱗道には追及するつもりも暴くようなつもりもなかった。己の抱いた違和感を確認できればそれで良かったのだ。
「……触れない方が良かったか」
 鱗道の言葉を、靴紐を結び終えた猪狩の手が、手の平を向けることで否定する。が、それだけと言えばそれだけだった。映画やドラマの引用もなければ、格好付けた仕草も挙動もない。明朗さも茶化しもないが、真剣さにも欠けているのだ。猪狩は、おそらくわざと、鱗道を右目で振り返った。
「お前はミステリーなんか殆ど見ないだろうが、真実を見抜かれた側が素直に認めねぇってのは男らしさに欠けるぜ。暴かれた時には潔く、素直に認めてこそ格好が付くってもんだ」
 それでも、言葉の最後まで視線が鱗道を見ていることはなかった。とってつけられたような口上が、猪狩には不似合いな曖昧さの輪郭を明確にする。故に、鱗道は黙っていた。猪狩の手はもう片方の靴紐に伸びている。
「全く見えねぇってわけじゃねぇが、少し光に弱くなっちまったのと、視力が落ちちまってね。免許は更新できる程度なんだが――これが理由で退職したんだ。それだけだ。しかし、グレイ……お前が気が付くとはなぁ。自分の彼女が髪をバッサリ切ってきたのに気が付かなかった男だぞ」
「お前は何年前の話を引っ張り出してくるんだ」
 靴を履く猪狩の背中を見下ろしながら、鱗道はわざと大きい溜め息をついた。高校時代の鱗道に彼女が出来た時期がある。猪狩を含めた友人連中はやれ天変地異だ怪奇現象だと一通り騒ぎ倒した。が、猪狩の言う通り、彼女が髪を切って髪型を変えたことにも気が付かず、その他諸々が積み重なって半年ほどで呆気なく破局を迎えた。猪狩を除いた友人連中はこれでこそ鱗道だと言わんばかりの納得顔をしてきたものだから、生涯数少ないの大乱闘の一つをしたものである。
「そんな男だと分かってんのに、真っ先に気付くのはお前だと思っていた俺がいる」
 ぽつりと猪狩が落とした言葉を、鱗道は聞けども丁寧に拾うことはしなかった。
「蛇神の代理人を舐めてもらっちゃ困る」
 立ち上がった猪狩と入れ替わるように、鱗道もまた己の靴を履いた。わざとらしい笑みもおまけで付ければ、猪狩は大きな体を震わせて笑う。
 先に「それだけだ」と言ったのは猪狩だ。今はまだ、という意味かもしれないし、これから先も、を含んでいるかもしれないが「それだけだ」という言葉は、現状以上の詮索を避けて発せられた物で間違いない。そもそも、猪狩は話したければ話す男だ。それが自ら口にしないというのであれば、それが猪狩の結論である。鱗道が踏み込めよう筈がない。それに、蛇神の代理仕事をして此方の世界とは別の世界を跨いでいたとしても、猪狩の目の傷を治すことは出来ないのだ。
「はっ! 目の傷見抜いたくらいで胸を張られても俺が困らぁ。カミサマの代理ってのはその程度でドヤ顔決めるもんじゃねぇだろうが」
 既に、鱗道がよく知る猪狩晃がそこにいた。快活で豪胆な男だ。他人に対する配慮に欠けることも覆い無遠慮な男であるが、鈍い男ではない。鱗道がわざとらしく笑ったのも突きやすい箇所を設けて話を終わらせようという配慮であることに、猪狩は当然気が付いている。気が付いた上で乗ってきた、ということは、やはり右目の話はこれで終いなのだ。
「……そう言えば、お前、何か用があるんじゃなかったか」
 外に出て玄関の鍵を閉めながら、鱗道は思い出したように口にする。そもそも今日の約束は猪狩が取り付けたものだ。約束事の大半は猪狩からしてくるものであるが、今回は暇があれば聞いて欲しい話がある、という切り出し方だったはずだ。
「ああ? あー……ちょっとお前を引きずっていこうと思ってた案件があってな。オカルトっぽい空き家、というか、廃墟というか――まぁ、急ぎじゃねぇよ。カミサマの頼み事には敵わねぇ」
 背中を力強く叩かれ、鱗道は前につんのめった。そんなんで大丈夫か? などと悪びれもなく猪狩が言い放つ。
「その一件が片付いた頃に、また話すぜ。さぁ、マジで腹が減ったな。何を食おう。カミサマの頼み事にも興味があるしな。ああっと、その前に靴買わねぇと。お前がいると、本当に話の種には困らねぇな、グレイ」

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