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「んじゃ、呼び名も決まったことだ。時間制限もないと来てる。相談も存分にしろとのお達しだ」
腰を落ち着けた猪狩が垂れる前髪を掻き上げた。右手だけが掻き上げるものだから、左側は髪が垂れ落ちたままだ。右目が向いた先は、
「まずは警察の仕事をさせて貰おうか」
そんなに気にするならば束ねればいいだろうに――と、胡座をかき、背を丸めて猪狩の仕草を眺めている鱗道であった。
「警察の仕事?」
「おう。俺が上がってくるまでに〝藪〟と当然話はしてただろ? どんな話をしたか教えてくれ」
「確かに話してたが……〝藪〟に関する話をしてたわけじゃないぞ」
「だからこそ、だ。向こうも、一番気にせず話してる時だろ」
小気味良く猪狩が指を一鳴らしすると、警察の仕事などと聞いて緊張した顔になった鱗道に笑みを浮かべた。
「カミサマにも通じるかは知らねぇが、自分のことを完全に遮断して話すってのは難しいもんだ。どんなに細い枝でも幹や根に繋がってるからな。一見無関係そうな話なんかが一番根っこに近いなんてこともある。意識的に隠そうとして、かえって不自然な印象が残ったりもしてな。お前、人間相手にゃ鈍感だが、カミサマ相手には違うんだろ?」
実年齢不相応に、子供っぽさの抜けない笑みを浮かべる猪狩を鱗道は睨んでいた。確かに鱗道は人間を相手にすると鈍感な部類だろうが、猪狩にはデリカシーや配慮が薄墨でしか載っていない。その猪狩に指摘されることがどうにも納得しがたいのである。が、話の内容に異論があるわけではない。そう言うものか、と素直に思うだけだ。
『やれやれ――代理殿のお連れは、大層厄介な、ただの人間だこと』
〝藪〟もまた、素直な感心をしているらしい。カルタも手慣れてきたのか、捲り出すのが早くなっている。カルタの文面を読んだ猪狩は前髪越しの左目だけを〝藪〟へと向け、わざとらしく肩を竦めた。
「お褒めにあずかり光栄だぜ――っと、そうだ。メモを取らせて貰いてぇんだが、構わねぇだろ?」
そして、シャツのポケットからスマートフォンを取りだした時である。〝藪〟だけではなく、蔵中が一斉にざわめいた。鱗道が二階に上がってきた時のように、行李や引き出しから様々な物が顔を覗かせ、中には入れ物から飛び出す物もいる。
『その板はなんだね?』
物が動くのは当然、猪狩にも分かる出来事だ。先程音を立てた折り本を始めとし、和綴じ本や筆記道具、古い眼鏡などは興味深そうに猪狩ににじり寄ろうとしている。その中に肥後守もあった。カルタの文字列を見終えた猪狩が、肥後守を見付ければ――
「危ねぇもんじゃねぇよ! ただのスマホだろうが!」
スマートフォンを握ったまま両手を挙げて、慌てふためいた早口と強張る体。鱗道は猪狩の突然の挙動を――他の付喪神達と同様に呆気にとられて見た後に、ようやく二者間のズレに気が付いた。猪狩には物が動くのも、〝藪〟の言葉も分かる状況だが、雰囲気や声などが伝わっているわけではない。
「猪狩、腕を下げていい。お前は警戒されたわけじゃない」
〝藪〟の声には敵意も警戒も皆無だ。他の付喪神達も同様で、聞こえる囁き声も感じる気配も好奇心と興味に満ちている。鱗道は猪狩が上げた腕に手を添えて、下げるように示唆した。
「ここには長く人が来ていない。スマホなんてもんをここの連中は知らん。分からん物が出て来たんで、特に好奇心の強い奴が見に来た。〝藪〟も単純に聞いてるだけだ」
〝藪〟の問いに答えねばならないと決まった時、鱗道は己のすべきことは何かと迷っていた。物当てなどは――答えが〝此方の世界〟に存在するものと確定された今では特に――猪狩の得意分野であろうし、鱗道はクロのように知識が豊富なわけでも、シロのように勘が鋭いわけでもない。〝藪〟とのやり取りをカルタが仲介するのであれば、鱗道がするのはその補足くらいなものだと――自然と口にしていたように、本当にその程度だと考えていたのだ。
だが、今のようにカルタの文面では言葉のニュアンスまでは伝わらない。齟齬が生じれば無駄な諍いを招き、小さな躓きになり得ることもあろう。また、〝彼方の世界〟も〝此方の世界〟も、双方の「当たり前」はこの蔵の中では特に大きく異なる。蔵が外界から切り離されていた年月が長く、感覚や知識のズレを生んでいるからだ。
「お前に裁ち鋏が飛んでったのは、〝藪〟が指示したことじゃない。裁ち鋏も人間に気が付いて立ちはだかろうとしただけだ。酷く危なっかしいが……何せ、鋏なもんで、あんな風になる。〝藪〟にたしなめられて、反省してたが――〝藪〟も他の付喪神も、特別攻撃的なわけじゃない。それは、俺が保証する」
鱗道の言葉を聞くうちに、猪狩の腕から力は抜かれつつある。が、強張った表情からは猜疑心が抜けていない。それは当然のことだ、と鱗道には分かっている。だからこそ、猪狩に手を添えたまま、鱗道は蔵の物達を見るように顔をぐるりと巡らせた。
「付喪神達は――〝藪〟にも言ったが、コイツはただの一般人でアンタらの声は聞こえない。急に動かれたら驚くし、警戒もする。ちょっとでも自分が危なっかしいと自覚がある奴は特に気を付けてやってくれ。硬い奴だとか、刃物だとかは特にな」
二人を取り巻きつつある日用品の中で、鋏や硯、分厚い本などがおずおずと引き下がっていく。その中には肥後守もいて、ちらりと覗いていた刃を鞘に収めようとしていた。ありがとな、と鱗道は軽くもしっかりと礼を伝える。
ただの補足でしかない、と思っていた。が、それが重要な役回りであることを自覚する。だが、鱗道に緊張はなかった。普段から意識して行っていることと大きく違いがないと分かったからだ。
蛇神の力を降ろして食わせるほかに解決策がないような、切羽詰まった案件でなければ鱗道が担う代理仕事の大半は架け橋である。人間として〝此方の世界〟を代弁することで説得を試みたり損害を食い止めたり、誤解を解くこともある。また、〝彼方の世界〟からされた接触を紐解くことで以上の原因を探って人間側から解決策の模索や距離を取れないかと考える。実行するのが鱗道自身でない時も当然あるが、どの状況でも鱗道が行うのは――大袈裟に言えば、相互理解の為に橋渡しをすることだ。蛇神の領地を整えるという仕事は圧倒的な力で処断するだけではない。普段は一方通行や認識が出来ない双方の世界を、蛇神の力で行き来できる鱗道が橋渡しをすることであるべき形、あるべき姿の均衡を保つ――それが、蛇神の代理仕事の本質だ。
鱗道は真っ直ぐに猪狩の顔を見据えた。向けられている右側は戸惑いも不審も困惑も浮かんでいるわかりやすい表情だが、長い髪が左側を覆っていて見えない。それで、少し察しが付いた。結ばれない髪は猪狩の鎧なのだろう。視線を探らせないため、目から心情などを悟らせないため――どれだけ効果があるかは猪狩も分かっていないだろうが、非日常に巻き込まれたことを、この男なりに乗り越えようとしている表れではなかろうか。
「鋏で脅かされて、クロが捕まって、妙なやり取りに付き合わされるお前の気持ちに気付くのが遅れたな。今更だが……妙なことに巻き込んで、すまん」
鱗道に謝罪の言葉を投げかけられてまた猪狩の表情が歪む。目元に力がこもり、細められた。その表情の真意までは鱗道も読み取れない。猪狩の言ったとおり、やはり自分は鈍感だと自嘲する。
「ここは、日用品が多いだろ? 人間や、人間の使う道具には興味があるんだ。それは……なんというか、付喪神の性みたいなもんでな。危なっかしい物には近寄らせないように俺も気を付けるが……集まられたり、見られたりくらいは許容してやってくれ。それと、簡単にでいいんで、スマホの説明をしてやってくれないか。それが何か、どんなもんかってのが分かれば、コイツらは満足する」
猪狩はしばらく黙っていた。数分とも言えない時間であるが、右目は鱗道から少しも外されない。それでも瞬きを幾つか挟むうちに、目の険は和らいでいた。スマートフォンを握る右手だけが残されて、左手は下ろされる。
「あー……スマホってのは……いや、板でいいか。この板は便利なもんで、メモにもなるし、百科事典が入ってるみてぇに調べもんも出来る。電話もかけられるし、メール……手紙を送ったり、他にも色々と出来るが……外と連絡を取るってのは決まりに反しそうだな。メモと調べもんに使わせてくれりゃぁ、他の機能は使わねぇよ」
右手が残ったのは、スマホがよく見えるように掲げておくためだったようだ。鱗道から視線が外され、正面――〝藪〟に顔を向けながら話す猪狩には、不信感も猜疑心も警戒も隠されていない。少なくとも〝藪〟には猪狩の感情は伝わるはずだ。鱗道は特に口を挟まず、猪狩の言葉が終わり、〝藪〟からの返答を待った。
『猪狩や、お前の言う通り、外と通じるのは決まりに反する。だが、手帳や辞書の代わりならば構わぬ。それも人間の手段よ――丁寧な説明に感謝する』
音を立てて捲れるカルタは〝藪〟の言葉を忠実に表していく。この言葉は誤解を生まないだろう。鱗道が口を挟むべきは、嘘のない説明が正しく伝わっていない時や、あまりにかけ離れた誤解が生じたと感じた時だけでいい。相手にどのような印象を抱くか、感情をもたらすかを制御しよう調整しようなどというのは、到底無理な話である。
『カルタや――これは、表さなくて良いよ』
と、言う〝藪〟の言葉は鱗道には届いている。憂鬱そうな華奢な声は、
『いつの世も人間の歩みは驚異的よな。あんな板きれ一枚に、手帳に辞書に電話とは。人の世から付喪神が減るのは必然であるね』
悲哀や哀愁が色濃く滲む。〝藪〟がカルタに伝えなくて良いと言っている言葉だ。鱗道も猪狩に伝えようとは思わない。道具が減っていくという、道具の嘆きを伝えきる語彙が鱗道自身にはないし、生み出される最先端を率先して扱おうという猪狩には理解できても共感は出来まい。いつか、話の種にするには悪くなさそうだが。
「メモと検索は使用オーケーってのはありがてぇな。助かるぜ」
〝藪〟の言葉を読み終え、一息挟んだ猪狩は溌剌と礼を言いながら慣れた手付きでスマートフォンを操作し始めた。
「さぁ、さっさと情報整理を始めちまおうか。深く考える必要も気負う必要もねぇ。気楽に話してくれ」
鱗道が覗き込んでいる間に手早く素早くメモ帳の機能が開かれる。太い指で器用にスマートフォンを使いこなす様を見ていれば、〝藪〟の言葉が鱗道には余計に深く染み込む気がした。昔に比べて物を消費する期間は短くなり、複数の役割が一つの物に集約されるようになっている。すぐに最新型に乗り換えられるこの板きれ一枚に、蔵の付喪神がどれだけ収まってしまうだろう。意思が宿るまで使われることも減り、実際の物量も減って――付喪神は減少の一途を辿るのか。
「……いつか、スマホの付喪神なんて出てくるのかね」
「グレイ、お前、何言ってんだ」
猪狩にとっては唐突の、突拍子もない鱗道の独り言である。猪狩の冷めた視線を受けて鱗道は気にするなと首を横に振った。少し、〝藪〟や付喪神に感情が寄りすぎている。蔵の賑やかさを考えれば付喪神の減少は寂しい気もするが、あまりハイテクな付喪神に出て来られては最新技術に疎い鱗道では太刀打ちできない――等と考えていた思考を、今、この場所に戻そうと自身のこめかみを叩いた。
「しっかりしてくれよ。お前が頼りなんだぞ、俺は」
「すまん……しかし、あったことを話せって言われても、意識して話してたわけじゃない。ヌケだらけだし、覚えてるかどうかも本当に怪しいもんだ」
鱗道の言葉を受けて猪狩がからりと笑った。右目に、ほつれた前髪が一筋かかっている。
「構うなよ。思い出せる範囲で良いし、前後したって構わねぇぜ。お前の場合、印象や感想も情報源だからな――憶測、推測、分からねぇ、忘れたってぇのもなんでも御座れだ。変に言葉を飾る必要もねぇ」
猪狩はその髪を、掻き上げなかった。右手が、スマートフォンを握っているからだろうか。
「なんなら少し誘導してやろうか? ははっ! 取り調べめいて、ますます警察の仕事だな。さァて、グレイ容疑者よぅ、話して貰おうか。俺に待てを言いつけて階段を上ったお前が最初に見たもんは何だった?」
猪狩の軽口を聞きながら鱗道は目を閉じて腕を組んだ。誘導に従って階段に上った時のことを思い返す。クロの声を聞きながら階段から見たのは、妙に霞んだ蔵の二階だ。その霞が音もなく消えていき、相手は相当な力の持ち主だと思ったのである――