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『――嗚呼、本当にままならぬ』
華奢な声は悲嘆に暮れて、絡まった糸玉を投げ捨てるように言う。忌ま忌ましげに聞こえる声は、猪狩が追い詰めていると言ったことの裏付けと取れよう。だが、それよりも鱗道が気になったのは、
『最初の代理殿の言葉に乗るべきであった。最初から参加など認めず、会話も出来ずに参加など出来ようかと追い払ってしまえば良かった――否、否、それも、無理な話よなぁ。二人並ばれた時に、妾は悟っていたのだから』
言葉が進む度に増していく、枯れ木のような軋みと乾きである。言葉の最中に季節や年月を幾つも重ねていったかのように、華奢な声は乾いてしなりを失っていく。繊細で滑らかであるが故に華奢であると感じていた声が、病が進行したかのように重々しく苦痛と苦悩に苛まれて脆弱で貧相なものへと変わり果てていく。
『つい、が、来てしまったと』
〝藪〟の諦観と哀愁に満ちた声が語り終えても鱗道は黙っていた。カルタが〝藪〟の言葉を捲りきって、読み終えた猪狩が鱗道を低く呼びつける。指が、
「この、つい、ってのは一組って意味か? 終いの方か?」
二枚のカルタを指で押さえていた。鱗道は首を横に振る。声が聞こえていても判断が付けられず、それに故に黙って〝藪〟の言葉が続くのを待っていたのだ。されど、声を待つ鱗道に届いたのは声は声でも、か細い笑い声であり、
『やはり、どちらと断定することはせなんだか。本当にままならぬ。ままならぬ、対共め』
続く言葉は自嘲気味で脆弱な声であった。
『両方よ。一つの響きに、二つの意味が重なっている。妾も決めようのない、どちらでもある言葉よ。我が問いも同じであるからね……一つの答えで、妾の一対を当てよというのだから』
「一対?」
思わず瞬いて繰り返す鱗道に対し、カルタが捲れる時差もあってか猪狩は大した反応を見せない。軽石が転がるような、あるいは繭玉を擦ったような笑い声を〝藪〟は高らかに上げて、
『狼狽されているようであるが、どうされたのかえ? 代理殿。妾の姿形は、掛け軸に描かれた二つより形作られている。妾もまた、一対より成る物ぞ。ただ、それだけのこと』
事もなげに言う、それこそがおかしな事なのだ。かさり、かさりと蔵の中から乾いた音が上がっている。辿れば、二階のあらゆる場所に張り巡らされていた薄布が劣化した和紙のように千切れて床へと落ちる音らしい。
「アンタは蔵から出たくないんだろう? だから、決まりを強いてややこしい問い掛けなんぞをしてるんじゃないのか」
『その通りよ。その通りだとも。だからこそ妾が二つより形作られていることを知られたとして、それで何が変わろうか。妾は答えは一つで示せと言っておろう。甲と乙、では二つの言葉ぞ。それでは認められぬ。妾もまた一対と知られたところで、示せねば妾は蔵に残り続けられるというもの』
華奢から脆弱に変わろうとも、〝藪〟の声にはそれ以上の変化がない。人間と一定の距離を取り、見下しているかのような言葉選びも口調も変わらない。しかし、蔵の中からは乾いて千切れた薄布は音もなく消え去り、〝藪〟の力が失せていくのが鱗道には感覚として分かっている。それは、
『――されど、もう、良い。そう思って、思えてしまっている。妾は、精算せねばならぬ時が来たのであろうよ』
〝藪〟の心変わりに間違いない。糸のような声が、再び絡んだ糸玉として放られた。糸が絡んだ要因は己にあると、自身に対する幻滅を糸玉の中に閉じ込めて。
「精算?」
『妾は駄々を捏ねていたばかりであった、と言う事よ。童がしでかした粗相のように稚拙に隠したところで、いずれ曝かれるが物の道理。それを曝いて妾に終を告げるのは、人の対であった、ということよな』
「なんだなんだ。随分と弱気な言葉が並ぶじゃねぇか」
猪狩の軽妙な言い方は、〝藪〟を茶化しているものである。互いに、言えば一言多い者同士。短時間であったとは言え、変化は調子が狂うのだろう。が、〝藪〟は猪狩の釣り餌には食いつかず、
『妾にもとより、覇気などあろうか。妾は自ら光放つものではない。巨大な源より受けて、ただ映して送る物。その為に共にあれ、あり続けよと願われたが故に描かれたのが妾の片割れ。思い起こさせたのは、お前達ぞ』
やはり静かに、静かに――寝入る前のような静けさで語るのみ、だ。静まりかえった蔵の中で、カルタが〝藪〟の言葉を捲る音だけが続いている。
『――代理殿は繋ぐが、己が役目と言われましたな。妾も、繋ぐが本来の役目でありました。代理殿に見抜かれたとおり、妾はこの神社に奉納された掛け軸の、祈願の意思に群がった力が成ったもの。込められた願いを糧に、清き力を掛け軸所縁の地へと送るが本分。それに勤めて形を得れば、代理殿の仰る精霊と呼ばれる者でありましょう――先の、火難までは』
幾度となく会話に出てくる火事にまつわる言葉を、〝藪〟は一度とて揺らがず明瞭に声にしたことはない。蔵の外に出たがらないのは、奉納品であるが故に神社から離れられないこととカイコという家畜化された虫故に野生化では生きられない性質の二つに起因しているところが大きかろう。が、それをより強固な拒絶や悲壮な覚悟に固めているのは、箱に煤がこびり付くほど間近に体験した火事である。
『妾と共に奉納された帯が、妾を包んでくれたが故に、炎は妾の眼前を撫でたのみ。妾に煤がこびり付きはすれど、妾は火難を逃れられた。否、逃れてしまったと言うべきでしょうな。ここに逃れてしまった妾は、代わりに焼かれた帯のためにも我が身を守らねばと決意した。残ること、残り続けることこそ重要と、蔵を巣として力で囲い籠もり続け、運び出されることを恐れては来る者に問い掛けをし、記憶を潰して縛り続けておりました。最早、本殿に居たよりも長い年月かもしれませぬ』
〝藪〟を支え包む帯が、静かにゆっくりと撓んでいく。近付くことを拒絶するかのように梁を渡っていた何本かもまた、床へと力なく垂れ下がっていった。包む帯も垂れる帯も、目はどれも全て〝藪〟に向いている。
〝藪〟を見る目は帯だけではない。蔵中の付喪神が、おずおずと箪笥や行李の中から姿を覗かせて目を向けている。猪狩の背や膝に群がる玩具までもが、今はしんと静まりかえって動かない。それらの視線に、冷たさや鋭さは皆無であった。反発のない柔らかさ、日だまりのようなぬるさ――この感覚を無理に言葉に押し込むならば、鱗道は労いという言葉を選ぶだろう。
『それは、あらゆる物を灰燼と化す炎の恐ろしさを忘れられず、我が身可愛さ故に己の本分から目をそらし続けた年月とも言えよう――まさか、人間の言葉がこうもしっくりとはまるとは思わなんだ』
蔵の付喪神中の労いを一身に受ける〝藪〟の意識は明確に猪狩に向いていた。それを、猪狩が感じ取れないことなど承知であろう。が、
『妾は、生きていないも同じものに成り果てていた』
カルタの文面を読めば、〝藪〟が猪狩を意識して言葉を繰っていることに、猪狩が気付くことも承知している。ほう、と落とした溜め息のような、喉か腹に引っかかっていた物を吐き出すような、苦痛と安堵の声を猪狩に伝えようか、と鱗道は迷った。少なくとも皮肉や嫌味のような物ではないことを知らせるべきだと思ったのだが、当の猪狩は――
『妾は、あの火難で焼かれるべきであった。あの日、あの時、灰燼と成らずに本分を見失って無為に年月を重ねるだけであったならば』
「もう、遅ぇのか」
視線はカルタに落としたままである。顔を上げたところで何も見えないからだろう。が、今までは見えないからと言う理由で猪狩が顔を上げないことなどなかったはずだ。視線を上げないのは、〝藪〟を見ないのは、
『お前は分かっている筈ぞ。満ち欠けは逆さに回らず、機を逃せば取り返しが付かぬことを。だからお前は、妾と同じになりたくないと、この場に留まろうと言葉を並べ立てた』
〝藪〟の言葉や声に関する補足が不要なほど、通じるものがあるからだ。ただカルタが無味乾燥に並べる文字列を読むだけで、
『逆さに回らねど、満ち欠けは巡りて今、来た。人の対が我が本分を突き付け思い出させ、我が有様を曝露した――我が苦痛も、喜びも、お前には』
擦り寄る、とはまた違う。だが、寄り添うと言うには濃密な〝藪〟の声が表す感情を、〝彼方の世界〟の一切を見聞出来ない男が、
「生きてねぇも同じなら、いっそ死んだ方が分かりやすくて楽でいい」
見聞出来る鱗道よりも、手に取るように理解している。
『その通り。なれば、妾の望みは最早、ただ、一つ』
「すっぱり処断してくれってか。俺達が正解を出して俺達が無事に出たなら、アンタは蔵から引きずり出される。そうなることは仕方がねぇんで、いっそ潔く介錯してくれって事かよ」
『最早、我が半身は晒されているも同じ。蛇の目と猪の鼻によって、藪は剥がされ落ちるも目前よ。妾は、核心に触れる問いには答えられぬが、答えを言えぬ決まりはない。あとは一つの言葉、一つの物で示せば問い掛けは終い――全く、介錯と言うには大仰よな』
立ち上がりかけた鱗道を制したのは猪狩であった。鱗道の襟首を掴んで離さず、瞬間的な視線が座っていろと命じてくる。言い返そうと開いた口であったが、最後まで文面を読んでいないにも関わらず放たれた言葉に塞がれた。猪狩の顔が、ようやく上がる。
「俺は、アンタがどうなろうと一切興味がねぇ」
花が散るのを見るように、落ちた蝉の足掻きを見るように――それらを日常の風景として、同情も憐憫も抱きやしないと断ずるような無表情。鱗道から見える右目は細まって、墨を垂らしたようなくすみが影の所為か濃くなって見えた。
「グレイやクロと無事に蔵から出てぇ。それだけだ。結果、アンタが死のうとどうなろうと構わねぇし、そうなったとしても仕方がねぇ、で終いだ。アンタが答えを教えてくれるってぇなら、今まで散々引っ張りやがってと苛立つが、やっぱりそれだけだ。全部が、とは言わねぇが……確かに、俺はあんたの気持ちが分からなくは、ねぇ」
快活な語り口に反して淡々とした声は、猪狩の言葉に一切の嘘が無いことを表している。ただ、それも鱗道の襟首を掴んでいた手が離れるまでの間。
「けどな、生憎、俺はコチラに御座す鱗道堂のご主人に力仕事を頼まれてきてるだけだからよ、立場的に弱ぇんだわ」
握り拳を作った右手が鱗道の薄い胸板を、
「んで、コチラに御座す鱗道堂のご主人こと、グレイって野郎は物は言わねぇし主張もしねぇが、腹を括っちまうと梃子でも譲らねぇ。テメェには全く無関係の、取り残された犬に同情しちまって飼うことになったり、似たような鴉は店の一角に棲まわせたり。自分のモンでもねぇキーホルダーを砂利まみれになりながら割れる前に掴んだり。時には手段も選ばねぇし、後先の事は考えねぇし、相手の事なんざ割と二の次にしちまって、最終的に我を通すまで諦めねぇって、えらく頑固な野郎でよ。そんな野郎は、アンタにも言ったはずだ」
言葉の端々――主に、鱗道を強調する時に一々小突いてくる。言葉は立て板に水のごとし、表情は意地が悪そうな年齢不相応の笑み。そして、如何にも呆れるように、
「俺は、穏便に済ませたい――ってよ」
羨むように、誇るように、わざとらしく声を絞って掠れさせ、言葉も不明瞭にして大袈裟な物真似を披露する。
「……俺は、そんな言い方はせんぞ」
「でも、言っただろ?」
猪狩は分かり切っている鱗道の返事を当然待たない。言ってやれよと言わんばかりに、再度、鱗道の胸板を小突く。少しばかり力が強くこもっていて、鱗道は僅かに呻いた。猪狩は悪びれもなく、子どもっぽく笑って大きく体を揺すりながら短く笑い声を上げるだけだ。
「……何度も言ってるが、俺はアンタに何かしに来たわけじゃない。蔵の改めを頼まれただけだ。それは、どうしても話が通じんのが相手の時や、〝彼方〟にも〝此方〟にも害があるなら蛇神を降ろすが……アンタは違う。はっきり言って、介錯だとか、死なせるだとか……そんな話はゴメンだ。アンタにその必要があるとは思えんし――奉納品として生きていないかどうかは、決めるには早いと思う」
闊達な声に軽妙な語り口の後に、掠れた声で歯切れの悪い語り口では酷く聞きにくかろう。が、相手は人間ではなく、鱗道の声を耳ではないもので聞いているはずだ。さすれば、大差はないものと信じよう。それでも比較すれば負い目を感じるというものだが、少し言葉が途切れると猪狩が促すように胸を小突いてくるものだから、鱗道は頭の中で必死に言葉を繋ぎ合わせた。
「アンタからは瘴気を感じない。穢れてもいなけりゃ、荒神に成りかけてもいない。それどころか……精霊ってのに鈍感な俺が分かる程の力を、アンタは今でも持ってる。それが、奉納品としてアンタの故郷と縁が繋がっている証拠だ。アンタが本分とやらを見失ってたとしても、アンタは今でも繋がってるし……願われてるし、祈られてる。だったら、こんな蔵の片隅にじゃなく、在るべき場所に在るべきだ」
鱗道は視線を〝藪〟から離して蔵を一巡させた。鱗道が話し始めてから、付喪神達の視線が鱗道に注がれている。視線が物語るのは不安であった。蔵を治める〝藪〟が畏敬を込めて御柱様と呼び慕う蛇神の代理が〝藪〟をどうするつもりなのかという、至極自然に抱く不安の眼差しだ。それは、〝藪〟がここの付喪神達に慕われている証拠でもある。
付喪神まで成れていない玩具のような存在は、本来ならばとっくに力が散ってしまって居なくなってしまっているだろう。人間に使われなくなった付喪神となれば、力を腐らせて穢れや瘴気を孕んでいてもおかしくはない。後者はここが曲がりなりにも神社の片隅であるからとして、前者は神社の恩恵を受けてはいない。〝藪〟が来た故に蔵は人間生活と途絶されてしまったが、〝藪〟がいる故に付喪神達が保たれている側面もあった筈だ。
「生憎……俺は、奉納品の取り扱い方なんて知らん。知らんから、ここの神主に、アンタのことを伝える。ここの神社じゃ、火事の経験が尾を引くっていうなら、別の神社に移すことも出来る……と、思う。その辺りは向こうの方が専門家だからな、素直に話を聞くつもりだ。ただ、手段があってもアンタが蔵に籠もりたいって言うなら……それは、それだ。そこら辺は神主と話してくれ。必要なら俺が間に入るし、俺が言うし――穏便に済ませたいってのは……そういうもんだ」
顔を上げて、撓んだ帯の隙間からはっきりと見える箱を見た。こびり付いた煤。古くも艶やかな直方体。中には掛け軸が入っている。強い祈願を背負い、力を得て、精霊を宿した掛け軸が。
「……まぁ、アンタ程の精霊を宿す掛け軸ってのを……見てみたくも、あるしな。美術や芸術はからっきしだが……ともかく、その為に問い掛けに答える必要があるっていうなら、アンタの問い掛けに対する答えを、猪狩と一緒に考える。もう殆ど、コイツ任せになってた気がするが……」
ちらりと猪狩を見れば、猪狩もまた鱗道を見ていた。薄くにやついているが嫌味や得意げな様子はない。これだけ喋る鱗道が珍しいのもあるのだろうが、ただただ機嫌良く、かつ楽しげである。
「蛇神が偉かろうと、俺はしがない質屋で、代理で領地を整えてるだけのもんだ。大したことが出来るわけじゃない。他に出来るヤツがいるならその相手に伝える。それが、俺が務める繋ぐって役目で」
目を閉じて、開く。意識的に行った数秒の瞬きの間に、鱗道は自分の中を覗き込んだ。きっと〝藪〟が「生きていないも同じ」という言葉がしっくりきた、というのはこんな感覚なのだろうと思う。言葉が少ない鱗道では見付けられなかったしっくりとはまる言葉を、多弁な友人が口にしていた。己という男は――
「俺は、その役目を果たしたいだけだ」
――最終的に我を通すまで諦めない、頑固な男なのだ。
猪狩の短い笑い声が、静まりかえった蔵に上がる。堪えきれないと言わんばかりに口元に手を当てながら大きく体が揺れるものだから、張り付いていた玩具達が振り落とされてぱらぱらと音を立てている。
「お前ってヤツは啖呵の切り方がなっちゃいねぇよなァ。まぁ、それでこそグレイ! ってもんだが」
猪狩の声は心底呆れている。鱗道に睨み付けられて見返す目は、眩しい物を見るかのように細く――
「本当に――昔っから、お前は諦めが悪くて、結局は全部掴んじまうんだろうぜ」
――嫉妬や羨望、憧憬などを煮詰めて固めたかのような、笑みにも見える歪んだ表情を浮かべている。鱗道は文句を言いかけた口を開けたまま、しばらく猪狩の顔を見ていた。その表情には見覚えがある。初見は確か――録画した映画のアクションシーンを真似しようと友人達でテレビの前で遊んでいた最中だ。独特なカンフーシーンで、当然一朝一夕で真似できるものではない。失敗して笑い合う中で、猪狩だけは何度もビデオを巻き戻しては食い入るようにそのシーンを見つめていた。自分には出来ないことを、出来る相手に向ける尊敬と嫉妬が混ざった表情で。
映画に限らず、度々目にする顔ではあった。色々と器用な男であるが万能でも完璧でもない。壁にぶつかる事は当然だ。その壁を誰かが先に越えればその人物に、あるいは既に壁の向こうにいる先人に、と向けてきただろう。だが、その表情を鱗道が向けられることは長い付き合いの中でも初めてのことで――いや、あった。すっかり忘れていたが、妙な顔をするもんだと思ったことを思い出す。猪狩が親戚から貰ったという土産物のキーホルダーを手から滑らせたのを見たものだから、落下寸前の所でなんとか掴み取ったのだ。手渡したその時にも、確か――今と、同じ顔をしていたような、気がする。
呆けている鱗道を、猪狩は一際子どもっぽく笑い飛ばした。そして誇るように、羨むように、鱗道に向けていた視線を〝藪〟へと向ける。
「〝藪〟よぅ、分かっただろ? 綺麗さっぱり死にてぇなら、アンタは答えを言っちゃいけねぇよ。俺達には勝って、記憶とやらを持っていって、次に来る奴に頼むしかねぇのさ。弱気に成ってる場合じゃねぇぞ。アンタもやりてぇ事があるなら、コイツ以上に我を通せよ」
昔からの知り合いであったかのように、猪狩の言葉は非常に親しみ深く気安いものだった。尊敬も恐怖もなく、ただ対等に並んでいるかのように語っている。これは、どうしようもない猪狩の性分なのだろう。本人には悪気も善意もない。だからこそ多くには好かれるが、反りが合わない相手とはとことん合わない。〝藪〟にとってはどうだろうか。
「大雑把に言えば、アンタもカミサマなんだろ? カミサマは最後までふんぞり返ってろよ。一言多いくらいのアンタの方が憎らしくて見返してやるって気になるぜ」
『そうさな』
カルタは味気なく四枚捲れ、鱗道には静かな声が届く。繊細で、脆弱で、か細い声だ。
『確かに、そのようだ。幕引きというものを妾は望んでいるというのに、酷い代理殿だこと。冷酷なお人よな。これが御柱様の代理であるか。我欲を通す強さは御柱様の影響かえ? それとも、代理はこうでもなければ勤まらぬとでもいうのか』
だが、淀みなく続いた声に、先程まであった悲愴も諦観も失せている。か細い糸のような声は語れば語るほどより合わされていく。問いを投げかける前後の、あるいは罠をひけらかした時の、手を切らせようと悪辣を晒した時の、捻れて捩れたものとは全く違う形で。
『その連れも一言多い。一言どころか、幾つも多い。受け入れ飲み込み共感を装いながら、底の知れぬ男よ。真に藪に引き籠もっているのは、お前の方ぞ』
丁寧に丁寧により合わされた糸に、意思と意地の強さが編み込まれていく。ただの糸もより合わせて縄にし、芯を通せば時に刃すら受け付けぬように、
『嗚呼、嗚呼、誠、誠に厄介な人の対よな。ぐるりぐるりと目まぐるしい。食い合う獣に守り干支。貴様等は両方であったわけだ。否、対というものは、対であれば型など不要か。その時々で形を変える。それでも在るから対という。相分かった。分かったとも。妾も、覚悟を決めようぞ』
強靱な声を纏った〝藪〟は、更に奥へと身を翻す。
目の前に下りるは分厚い緞帳。重く湿った布の音が脳裏だけではなく、耳にすら届いているような幻聴を伴うほどの質量である。鱗道の視界は殆ど乳白色に染まっていた。霞も、薄布も、和紙も蜘蛛の巣も繭も、どの表現でも生温い。濃密に組まれ編まれた〝藪〟の糸が、鱗道達との間にそびえて遮断する。姿は見えない。声だけが、華奢で強靱な声だけが、脳裏に届く。
『妾が晩節、これ以上乱すのが貴殿の望む穏便であるというならば、妾も我を通しましょうぞ。穏便になど済ませてなるものか。ここは妾の領土。強いたは妾が決まりである。曲げぬ。我を通したければ通すが良い。我が問いに答えて、望む穏便に済ませて見せよ』
乳白色の藪の向こう、煌びやかな帯に包まれて、煤をこびり付けた箱は微塵も動かずにいるのだろう。忙しなく捲れていたカルタだが、鱗道には最後まで聞こえた言葉を表しきる前に散開した。最早、これだけ表せばよいとでも〝藪〟がカルタに告げたのだろう。
散って集まり捲れたカルタがピタリと止まる。文字が書かれた表を晒すは九枚、濁点を表す裏面を見せるが二枚、文章終いで横に並ぶが一枚の、計十二枚。
『我がオモテ何ぞや』
音にすればたった九音。それが、藪向こうに隠れるものの、最後の言葉であるようだ。