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「――〝藪〟よ。いや、〝藪〟の向こうの、アンタに言う。答えを出させてくれ」
 鱗道の言葉に乳白色の緞帳が溶けるように薄れていく。猪狩が言っていた通り、帯が規制線のように張っている。が、それも緞帳が溶けるに合わせて再び撓んでいった。最奥、直方体の箱が一枚の帯の上に乗っている。年月を重ねた艶のある風合いに、煤をこびり付けた姿。火事から逃れてしまった――否、そこから生き残ったものの姿である。
『解は一つの言葉、もしくは一つの物に限っている』
 糸をより合わせたような声は、繊細でか細い。病床に伏せる脆弱さや神経質な面影もある。が、諦観や悲愴の一切は排されていた。代わりに芯がある。意地、あるいは、覚悟の芯が。
「一つの物を出す」
 鱗道の言葉に、ほう、と短く一声が上がる。鱗道が〝藪〟に呼び掛けるよりも前、猪狩は全て鱗道に任せると言ったきり黙っていた。表情に少し緊張はあるが、一応は笑んでいるようだ。鱗道は常と変わらず、大して変化のない不機嫌が無表情に見える顔のままである。
『では、解を頂こうかえ――我がオモテ何ぞや』
「〝藪〟の向こうにある、アンタのオモテは、コレだ」
 鱗道が床に置いたのは、一枚の花札である。当然、花札は見えているだろうが〝藪〟からの反応はない。すでに答えを一つの物として出した以上、花札の内容を言葉にしても問題はなかろうと考えて、鱗道は柄を読んだ。
「花札の、桜に幕だ。桜の札なら、何でも構わんはずだろう」
『意を、問おう』
 返事の声は、静かで穏やか。足掻きもないが反応は薄く、真意は感じ取れない。なれば、することはいつもと変えなくて良いだろう。思ったことを嘘偽り誇張などを極力除外して、自分の考えを相手に伝え、繋ぐのだ。
「桜の花札は、新暦も旧暦も関係なく三月の札だ。そして、三月には色々と異称がある。アンタはその中で、養蚕を始める時期に由来する異称の一つ――そのまま、蚕の月と書いて、蚕月。養蚕に関する奉納品に描かれた表の絵柄も、その奉納品に宿った正体の面も、たった一つのこの花札で答えになる」
 蔵中がしんと静まりかえっていた。全てのものが動きを止めて、時が止まったようである。置いた花札から顔を上げて箱を見る鱗道と、ずっと箱の方を見ていた猪狩を除いて。
『このような瀟洒な真似、さてどちらの思い付きやら』
 カルタがパタパタと捲れた時に、鱗道も猪狩も思わず小さな声を上げた。帯の上に鎮座し続け、今まで微動だにしなかった箱の蓋が動いたのだ。擦れながら開いた蓋は、真っ直ぐに床へと落ちる。だが、二人の視線は蓋を追わなかった。
 開かれた蓋から静かに滑り出した掛け軸は滝のようだった。掛け軸を真っ直ぐに伸ばして飾るための軸や風鎮は当然付いておらず、曲がり揺れて撓んでと一連の動きが流水めいていたのも、表装が淡く落ち着いた青藤色をしていたのも、滝を連想させた要因であろう。絹光沢の淡い象牙色を残した本紙に描かれていた物は、煌びやかで鮮やかな帯とは対照的な色合いであった。墨汁の黒のみが、唯一の色である。
 描かれた円が月であると分かるのは、外側に向かってのみ滲みがあるからだ。漆黒の夜空に一つ、ぽつんと浮かぶ満月の零れ滲む光の色を反転したかのように、墨は外だけに柔らかく滲んでいる。一本の線と滲みのみで表された月の上下には、カイコが細い筆致で描き添えられている。
 上には、月の輪郭に沿うように沿った一匹の幼虫が。純白の体に目の擬態であろう頭部の横一筋、胴体の小さい斑点、尾角などの細部までが独特の柔らかさまで伝わるほど滑らかに描かれている。下には、月を背負うように羽を広げた成虫が。全体を覆う柔らかな毛や特徴的な触角の一筋一筋に及ぶ緻密さで描かれている。特に、月を背負う成虫――カイコガは墨の色艶が残っているかのようにしっとりと濡れて見え、今にも動き出さんばかりに、
『まさか花札で返されるとは思わなんだ。粋なことをなされますな、代理殿』
 否、たった今から、鱗道の目には艶めいた墨が動き出すのが見えていた。大きな羽がゆっくりと動き、月を覆うように広がってそのまま模様のように取り込むと、繭を溶かして羽化するかのように浮かび上がる。描かれた絵よりも大きな一匹の蚕蛾であるが、輪郭は墨の線そのままに薄く滲んだものであった。細かな筆致の顔にある真っ黒に塗りつぶされた複眼が微笑むように細くなった。
『お見事。これぞ我が正体、我が絵柄――我がオモテでありまする』
 大きな羽がふわりと、一礼するように柔らかく揺れる。模様のように溶かされた月がつられて揺れ動き、羽の重なりで半月のようにも三日月のようにも形を変えた。墨で描かれた蚕蛾は動くのも動き出すのも見えているが、向こう側――掛け軸の表装が透けている。十年以上前に見掛けた木霊と同じように、精霊はどれ程力があろうと鱗道には見えにくい存在なのだろう。
 重く鋭く力強い羽ばたきに、鱗道は反射的に右肩を開けた。が、羽音の主たるクロは鱗道の肩ではなく、鱗道の前に両足を付ける。翼や嘴、首や足をしきりに動かしているのは機構動作の確認だ。その為には鱗道の肩では狭すぎるのだろう。
「大丈夫か、クロ」
『ええ、鱗道。私に把握できる限りですが、動作不備はないようです』
 凜と済んだ硬質な声に、向けられる赤い鉱石の目。鱗道はここでようやく、大きな安堵の溜め息を吐いた。〝藪〟――蚕蛾は、やはりか細い声で短く笑う。
『悪戯はしておりませぬ。妾の糸では隙間の一つも、終ぞ見付けられずじまい。誠に、奇妙な鴉よな。無念、無念。実に無念ぞ』
 蚕蛾の言葉を聞き、クロが鱗道に向けていた頭を掛け軸へと向けた。嘴を掲げるように見上げる様は――鱗道であれば、クロが敬意を示している行動の一つだと分かる。
『貴方が、〝藪〟を名乗った掛け軸ですね。日本画に関しては浅学ながら、実に見事なお姿です。多色を用いていないからこそ、意識下で色が載るのでしょう。墨一色故の美ですね。水面のように揺れてすら見えるのは、筆運びの成せる技でしょうか』
 だが、行動を知らなくとも硬質ながら流れる抑揚が露わな声で、クロの驚嘆と感動は蚕蛾も聞き遂げたようである。細い声は震えながら、
『鴉に褒められても怖気しか立たぬわ――と、言うてやろうと思うたが、案外悪くないものよ』
 どこか満足そうに語って返す。クロ、と呼び掛けてから、鱗道はクロの後頭部から首の後ろにかけ手を指の腹で撫で下ろす。
「絵も上手だが……揺れて見えるのは、その所為だけじゃない。お前には見えにくいんだろうが、そこに絵から抜き出たようなカイコガの姿をした精霊がいるんだ」
 そこは、クロの嘴や脚では届かない場所だ。鱗道が触れることで些細な羽の乱れ程度であってもクロならば気が付ける。
「絵が揺れる、とかなんのことだよ。ああ、そうか。カミサマ沙汰のことか」
 本来ならば大多数となる、姿も見えず声も聞こえずの一般人が、酷く残念そうに拗ねたように言い捨てる。猪狩には朧気にすらも、見事な蚕蛾の姿は見えていない。目を細めたり、見開いたりしてみても、最終的には溜め息で締めくくり、
「まぁ、いいさ。月に蚕なんざ聞いたこともない画題だが、絵だけでも充分見事なもんだぜ」
 と、物知り顔でふんぞり返る。勉学も勉強もそつなくこなす猪狩であるが、美術や音楽の成績は芳しくない。その事を突けば、鱗道も似たようなものだったことを掘り返されるだろう。最も、絵画鑑賞において知識はあれば良いだろうが美術の成績など意味はないし、掛け軸の絵に対する感想に嘘はなく、鱗道も全くの同感である。
『……誠に、妾の声も姿も、お前には届かなんだな』
 蚕蛾の声には口惜しげなものがあった。〝藪〟を名乗り姿形を隠していた時とは異なり姿を晒すことに出し惜しみをしていないにも関わらず、猪狩には声も姿も見えることはない。時に感情の共有や理解をした者同士であっても世界の境界は越えられない。〝彼方の世界〟と〝此方の世界〟は隣接しながらも分厚く遠い隔たりに阻まれている。カルタの文面を読み終えた猪狩に、蚕蛾が酷く残念そうなことを鱗道が付け加えた。すると、
「俺は、ただの人間サマなんでな」
 と、猪狩は掛け軸に向かって苦く笑ってみせる。分厚く遠い隔たりがあろうと、口惜しさの共感もまた他と同じく通じるだろう。

 クロが鱗道に大人しく撫でられているのを見て、猪狩の手が伸びてきた。店での態度を考えればすぐさま飛び退きそうであるが、助けられた手前か払うことも飛び退くこともしない。カチカチと硬い足音を立てて数歩離れて、尾を向けた程度だ。尾は、猪狩の手が伸びきれば届く充分な距離にある。
 猪狩の指先が尾羽に触れて、「良かったな」などと声をかけられればクロは嘴を開いて一度鳴らした。尾羽を摘まみ上げでもしなければ、クロも嘴の開閉による些細な会話に付き合うつもりらしい。思うところが多々あるからか押し黙っているものの、クロの態度の軟化を目の当たりにして鱗道は少なからず感銘を覚えていた。
『代理殿』
 華奢な声が鱗道を呼ぶ。蚕蛾の声からは芯が抜かれているが、病的な不安や神経質さもない。繊細で柔軟な落ち着き払った声である。
『度々のご無礼、誠に申し訳ありませぬ』
 鱗道の視線を受けてから、掛け軸の上で蚕蛾は大きな羽を伏せさせた。謝辞を込めて垂らすには、蚕蛾の頭は小さすぎるからだ。
「いや……アンタは命を賭けてたんだ。なら……手段を選ばんのは当然だ」
 心からの言葉である。猪狩のように何かの言葉や切っ掛けで蚕蛾に対し共感や理解を持てたわけではない。ただ、蔵の二階に上がってきた鱗道に蚕蛾が言った、『弱き者には弱き者なりに領土の守り方がある』という言葉には共感も納得も持てたのだ。
 鱗道もまた、度々猪狩に揶揄されるように目的を達するためならば手段を選ばない。体力も腕力も人並みで、〝彼方の世界〟には蛇神やシロの力を借りねばただの人間である鱗道が、蛇神の代理仕事や己が決めたことを貫徹するためには自然とそうならざるを得ない。ケンカは素手でなければならないと思っていないし、借りられる力は借りるべきだ。
 問いを短くすることで回答者を惑わす術も、代償について問わせるタイミングを計ったことも、説明と説得を鱗道にさせた効果的な策も、己の居場所や命を守ろうとした蚕蛾には当然の術である――と、少なくとも、鱗道は納得している。
『そう言って頂ければ有り難きこと。我が決まりは破られもうした。妾の領土は御柱様に返上されましょう。つまり――代理殿、万事、貴殿の御存意に』
 カルタは鱗道に呼び掛けて以降の蚕蛾の言葉を表していない。が、鱗道が掛け軸に向いて一人で喋り出したのを見て、やり取りが行われていることを猪狩も気が付いたようだ。クロに向かって、聞こえているのか、話の内容は分かるのかと問うては嘴の開閉でやり取りをし始めた。細かな言葉までは分からずとも、蚕蛾が謝罪と処遇を委ねたことをクロから聞き出すのは、蚕蛾の問い掛けより簡単だろう。
「好きにしろ、と言われても……さっきも言ったとおり、俺はクロと猪狩を連れて今日はこのまま帰る。そして、神主にアンタのことを相談させて貰う。アンタは自分の居場所を自分で決めればいい。それに関して俺は口出しせんし、必要ならアンタや神主の橋渡しはさせてもらう」
 ただ、と発して鱗道は髪を掻く手を止めた。大きな月はカイコと人間の共存が月と地球のように長く続くことを、月を背負い月に沿って巡るように描かれた成虫と幼虫はずっと巡る養蚕の豊穣を願われて描かれたのだろう。それらの願いがどれ程強いものであったかは、
「俺は……アンタがまた、生きてると思えれば、それがいいと思う」
 ――「生きていないも同じ」に成ったと嘆きながらも、今もこうして掛け軸に浮かぶ立派な蚕蛾が物語っている。
『有り難きお言葉、誠に感謝つかまつる。となれば、一つ、お願い申す。妾以外の物達についても一声、申し伝えを願いたい』
 深く伏せられていた羽が持ち上がり、巨大な月の文様を浮かばせる。ざわりと蔵中の付喪神達が動く音を聞きながら、鱗道は蚕蛾の言葉を待った。
『この蔵の物達は、最初から仕舞い込まれていた物から妾と共に火難に追われた物までおりまする。妾が人間を遠ざけたのもあって、付喪神として未熟な物やそもそも到れていない物ばかりになってしまった。妾が蔵を離れるとなり、ここに再び置かれることになろうと無碍に処分されようとも、未熟で曖昧故に簡単に穢れに変じましょう。短くも人間と生活を共にしたことのある物達を、人間から遠ざけたのは妾の勝手。処分するにも、丁重な祓いを願いたい』
 様々な日用品の、小さな小さな声や視線が蚕蛾に向けられている。片言の、あるいは単語のみの、更には言葉になっていないものすらある声の一つ一つを聞き取り分けることは出来ないが、どれもが蚕蛾に非難を向けるものではない。彼らは、今まで付喪神として意思を保っていられたのは強い力を持つ精霊の庇護下にいたからと、分かっているのだ。
「ああ……それくらいは頼まれなくとも伝えるが、アンタからの申し出たと言うことも加えておく。ここの神主はきっと、他の付喪神も良いように計らってくれるはずだ」
 穢れに変じる、と聞いてどうしてもシロが思い浮かぶ。一度、荒神に成りかけたシロであるが、クロに説明を求められて穢れについて語ったことがある。穢れは熱い。熱くて重い。抱えていることは辛く苦しい、と。この神社を歩くと少し楽になる、と毛量豊かな尻尾を振り回して語ったシロは今頃、蔵の近くで昼寝でもしているのだろうか。
『何から何までお世話になりまする』
 気にするな、と蚕蛾に返事をした直後、グレイ、と呼ばれて猪狩を振り返る。クロからは手を離していて、顔付きは妙に真面目なまま腕を組んでいた。
「他の付喪神も、ってのは、何の話だ」
「ああ……ここの付喪神は成ってても未熟か、成り切れていない半端な物もいて、そういうのは放っておくと……良くない物になることがある。着物や骨董、書物なんかは別だろうが、蔵に長く置かれてた日用品や玩具なんかは単純に引き取り手がいないだろうし、そもそも使えるかどうか怪しいもんだ。処分せざるを得ない物が出てくるのは仕方がないが……それを雑に扱わんように頼んどく、っていう話をしてた」
 鱗道の言葉を聞きながら、猪狩は組んだ腕を解いて顎に手をやっていた。神妙な面持ちのまま話を聞き遂げると、
「付喪神ってヤツは基本的に害はないんだよな? この――ずっと群がってきてやがる玩具なんかは有害になりようがあんのか?」
 と、やはり真面目な口調で確認をしてくる。意図は分からないが、鱗道は自分の経験を思い出すために目を細め、
「〝彼方の世界〟の力や意思がある以上、完全に無害とは断言出来ん。人形なんかで穢れや瘴気を溜めたもんもあるし、先のことは分からんもんだ。ただ、まぁ……お前に纏わり付いてるような小さな玩具で害意の強いヤツに会ったことは殆どないな。最近だと、代々遊ばれて義理堅くなったブリキの車とかで……大事に遊ばれて子どもを見守る側になってることが多い気がする。が……お前、何を考えてるんだ?」
 鱗道が語り終えて問い掛けても猪狩から返事はない。考え込んでいるようで、床に置いていたスマートフォンを拾い上げて手遊びしている。聞き直そうかと鱗道が口を開くと同時に、
「祓われるよりは、貰い手が見つかる方がいいのか」
「それは……まぁ、そうだな。使えるもんは使われた方がいい。折角付喪神に成ったんなら」
「そうか……なァ、神主から許可が出たら玩具連中は、グレイ、お前が引き取ってくれねぇか? 玩具なら貰い手に心当たりが――いや、勝手に決められねぇな。ちょっと確認してくる。おい、面倒な決まりはもう終いだよな? 電話しようと自由だろ?」
 忙しない男は鱗道に頼んですぐに視線を掛け軸へと向けていた。闊達な声に対して一転、蚕蛾のか細い声が、
『是である。最早、妾は何も縛らぬ』
 と、返し、カルタが静かに捲れて言葉を表し始めると、猪狩は最後まで見ることはなかった。是、との返事があれば充分であったのだろう。
「よし、ちょっと下りるぜ。電話してくる。群がってる物共はいい加減離れろ! くっ付いてると落ちた拍子に踏んじまうぞ!」
 猪狩は言いながら大きな体をクマのように身震いさせて、纏わり付く玩具達を飛ばしてしまう。わぁ、だのきゃあ、だのという玩具の楽しげな悲鳴も聞こえない男は散らかした小さな玩具を踏まないように足下を見ながらのしのしと階段へと向かって行く。跳ねたり転がったりと玩具達が追いかけだした頃にはスマートフォンに耳を当て、階段を下り始めていた。
 呆然と猪狩を見送った鱗道の視界にクロが割り込んだ。言葉はないが目配せをして、クロは床を歩いて階段を下りていく。一階に下りてしまえば鱗道の目は届かない。その代わりに猪狩を見ています、というつもりであるのだろう。古い玩具に囲まれながら歩いているクロの後ろ姿は、よく出来たゼンマイ仕掛けのように見えた。
『変わった男よ。一時は凄まじい敵視を向けていたにも関わらず、玩具に纏わり付かれて情が移ったのかえ』
「元々はああいう、気の良い奴なんだ」
 心底不可解である、と言いたげな蚕蛾の声に、鱗道は苦笑いを向け、
「俺の話を信じてくれるが、アイツ自身が体感できることは限られてる。本当なら、アンタ達の世界とはどうしたって縁遠い人間だ。分からん存在に囲まれれば気が立つのも当然で……俺が不用意に巻き込んだばかりに、アイツには悪いことをしたな」
 臍を噛む思いで奥歯に力が入る。最中の猪狩を思い返せば、相当なストレスと緊張に晒されていたことだろうと鱗道には後悔が募った。頼るにしても頼り方というものがあったはずだ。狸神主が鬼籍に入っていることを思い出せていれば、〝彼方の世界〟が深く関わっている時が付ければ、その旨を猪狩に伝えられたのにと考えずに居られない。臆病なまでに慎重な男を、準備も構えもなく理外の出来事に巻き込むことにはならなかった筈だ。
『確かに――あの男はイガグリのように警戒し、緊張し、妾にも明確な敵意を向けた』
 蚕蛾と猪狩の、腹の探り合いなのか揶揄や皮肉の投げ合いなのか――ともかく、攻撃的なやり取りが多かったことも同時に思い出す。イガグリのようだと蚕蛾が言ったこともあるが、そうさせたのは自分なのだと思ってしまった以上、蚕蛾にも謝罪をせねばと口を開きかけた鱗道に、先に言葉を発したのは蚕蛾であった。
『ですが、代理殿――あの男が、我らから縁遠いというのは……少々、異ではなかろうか。ヤツは妾の声が聞こえず、妾の姿も力も見えなんだ。ヤツにとってこの蔵は得体の知れぬ有象無象でひしめき合う地であり、それらが立てる音以外は貴殿の声しか聞こえぬ異質な空間であったであろうとも。で、あるが――蔵に、上がる前。奴の身には何もまだ起きていないにも関わらず』
 蚕蛾の広げた羽にある月の模様が、徐々に徐々に内側へと滲んでいく。滲んで薄れ、消えていくのとはまた違い、
『ヤツは、裁ち鋏を避けたのだ』
 雲が月を覆うように、地球の影が月に被るように、蚕蛾が背負う月が黒ずんでいく。水に数滴の薄墨で塗られた月はまるで、
『猪は耳や目が優れておらなんだ。だが、えらく鼻の利く生き物ぞ。あの男――あの猪は、常に鼻を利かせて警戒し、藪に潜んでいる。妾の巣は確かに蔵の二階のみであり、下階に目も耳も届きはしませぬが――にしても、あれ程階段を上ってきていたのに妾より先に付喪神が気が付くなど』
 蚕蛾の羽に、ぽっかりと大穴を開けたかのようである。
「……アンタの言う、藪ってのはなんのことだ」
『沈める場所、と申しましょうか。理由は様々なれど、身を沈める場所こそが、藪。妾は我が身可愛さ故の隠遁でありました。代理殿は御柱様の代理として足を踏み入れ身を沈めることとなりましょう。そしてあの猪もまた、何らかの理由があってすでに身を沈めている。見えぬ目聞こえぬ耳でありながら、鼻を利かせ常に警戒を巡らせて』
 蚕蛾の声は、ピンと張り詰められた糸であった。些細な響きや揺らぎもないまま、鱗道に真っ直ぐ伸ばされた糸は真剣であり、重々しく、
『巨体の猪が藪に身を沈める理由は二つしかありませぬ。我が身を追う天敵から隠れ続けるためか、天敵もしくは獲物のどちらかを狩るためか。逃走か攻撃か――どちらにせよ、側にあれば巻き込まれるかも知れませぬぞ。あるいは……向こうはすでにそのつもりで、貴殿の側に居るのかも知れませぬ』
 警告、であろう。蚕蛾にとっては強い確信を持っている警告なのだ。確信を持った理由を鱗道が聞けば蚕蛾は答えるだろう。だが、鱗道にも想像は付いている。殆どいがみ合い同然のやり取りばかりであった蚕蛾と猪狩であるが、強い共感を抱く時が何度もあった。そこから、蚕蛾は己ならば――と、語っているのだろう。
 信憑性は高かろう、と鱗道も考えている。きっと、蚕蛾の警告は正しい。猪狩が何かを隠していることは、十年以上前に目の陰りを見付けてしまった時から気が付いていたことだ。それ以降も、時折、鱗道が知っている猪狩晃という男とは違う側面を見付けてきた。鱗道を巻き込むことも、鱗道に巻き込まれることも、何度もあったというのに猪狩が自らについて語ったことは――殆ど、記憶にない。だが、もしくは、だからこそ、
「構わんさ。俺がアイツの味方をしてるのは、俺がしたいからしてるだけだ」
 近いうちに話すと言った猪狩の言葉を信じるのは、やはり鱗道がそうしたいから、なのだろう。また、自分のことを完全に遮断して話すことが難しい、のならば、今までの出来事を思い返せば多少なり、猪狩が語っていない側面は見えてくるのかもしれない。最も、鱗道はそこまで記憶力が優れてはいないので、思い出せる限界はあろうが。
 鱗道の返事を聞いた蚕蛾は、大きく羽をはためかせた。二度、三度と揺れた羽の月は再び、輪郭のみの白く美しい満月に戻っている。
『要らぬ世話を焼いてしまいましたな。許されよ』
「いや、有り難い親切だ……そうだな、お節介ついでに答えてくれ」
 下階からの声が階段を上がってきた。と、同時に硬質なクロの嘆きも頭に届く。クロが鱗道の傍を離れて猪狩を見守っていた物珍しさから、猪狩が余計なちょっかいを出し始めたらしい。クロは嘴か爪か翼のどれかで払おうとして強めに当たったのだろう。やれ、どちらが悪い、何が悪いと一方通行とは思えない言い合いが聞き取れる。
 鱗道はそれらを振り払うように一度だけ頭を振り、
「猪狩が上がってきた時、アンタはアイツに、誰の遣いか……とか、聞こうとしただろう? なんでそんな聞き方をしたんだ? アイツが、鋏を避けたからか?」
 思い付いたのは、猪狩が二階に上ってきたことを蚕蛾が口にしたからである。妙な言い方をするものだ、とふと思ったことを思い出したのだ。鱗道の問いを受けて蚕蛾は小さな頭を傾げさせた。
『それは――確かに、奴が鋏を避けた一件は、理由の一つと言えましょう。誠に一切の見聞が出来ぬとは、妾が姿を晒してもなお目に映らぬらしい様子を見るまでにわかに信じがたかったのも事実。ただ……あの時は……』
 蚕蛾の言葉ははっきりと言い淀んで要領を得ない。蚕蛾自身も、その時の自身の言葉に困惑しているような節すら見える。
『妾が人間を忘れたせいか……とも思えましょうが……色と言えば良いか、においと言えば良いか……御柱様の気配が強くある代理殿とはまた違う、〝我ら〟側を――酷く薄くではありますが、感じたような気がしたのです。ですが……こればかりは断言が出来かねまする。明確な根拠に思い至らなんだ。ただの人間が、この蔵に足を踏み入れるわけがないと思い込んだが故の言葉やもしれませぬ』
 申し訳なさそうに羽を伏せさせる蚕蛾に、気にしないでくれと頼みながら、鱗道は髪を掻いた。深い意味があった質問ではなかったのだ。逆に恐縮してしまう、と鱗道は溜め息を吐き、
「まずは、アンタやこの蔵のことに取り掛かろう。今日明日……ってわけにはいかんかもしれんが、早い内には神社に話を通すから――」
 と、下階の声が一層大きくなった。蚕蛾が『帯や』と声をかけると、煌びやかな帯が観音扉に身をかけて窓を開く。真っ青だった空は、日が沈みかけているからか白み始めていた。そして、窓から飛び込むのは、子犬のような鳴き声と舌っ足らずな口調の声、それと木戸に前足をかけたり掘ろうとしたりとする擦過音だ。
 さては、あまりの音沙汰無さに心配になったか一人遊びに飽きたかしたシロが蔵までやってきた。閉ざされている扉の向こうでは猪狩とクロが言い合いをしている。混ぜて欲しいにしろ、顔を見たいにしろ、扉を開けてくれとシロが主張しだしたのだ。しかし、下階の二人は扉を開けていいものか、そもそも開けられるのか判断が付けられない。それで、シロに確認してくるから待っていろと二人がかりでたしなめようとしている、と言ったところか。
『代理殿がお連れという、お犬様かえ? 随分と愛らしいのお犬様よなぁ』
「……アンタが良ければ、是非、姿を見て貰いたいもんだ……猪狩に担いで運んで貰うか」
 愛らしいお犬様という口振りから、蔵の外は蚕蛾には見えていないようである。この子犬のような鳴き声と舌っ足らずな口調の主が、純白の大型犬だと知ったなら、蚕蛾はどんな反応を見せるだろうか。意地悪を仕返してやりたいという気持ちと単純な興味に揺れる鱗道に、
『代理殿の連れ合いは、実に賑やかで御座いますな』
 蚕蛾の言葉が、本音か皮肉かは鱗道には分からない。ただ、顔をしかめて立ち上がる。体の関節という関節が乾いた音を立てたのは、ずっと座っていたからだろう。
「全くだ」
 言葉と一緒に落とす溜め息は、賑やかすぎる下階の声達にも、順調に年齢を重ねている自分の体に対しても向いている。蚕蛾は繊細にして華奢な声でか細い笑い声を上げた。皮肉の色は一切ない微笑ましげな声には、
『代理殿はお嫌いではなかろうに。誠、貴方は――御柱様によく似ていらっしゃる』
 少しばかりの揶揄と、深い畏敬が編み込まれていた。

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