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 静かな夜だ。子ども達はとっくに寝入っていて、車通りがなければ波の音が届く程の静かな夜。麗子には仕事が残っているからと先に寝ているように言っておいた。部屋には自分しかいない。一人の夜だ。一人きりの夜である。カーテンを閉じ、右手が顔を覆った拍子に親指が目元を強く擦ってしまった。しまった、と過ったが、この程度ならば構うまい。
 パソコンに向き合い、猪狩は長い髪を掻き上げた。夕飯前に、猪狩のほつれる髪が気になったのか、娘がキャラクターの付いたヘアピンを「貸して上げる」と渡してきた。少し前にはお気に入りだと言って付けっぱなしにしていたじゃないかと言えば、麗子が猪狩の手からヘアピンを取り上げて前髪を纏めてくれながら、そんな年齢じゃなくなったのよ、と可笑しげに言う。麗子に留められた髪とヘアピンに、娘は「パパ可愛い」と喜んで、息子は「パパ格好悪い」と大笑いしていた。反応に困っていれば、麗子から「似合ってるわ」などと言われて機嫌が良くなるのだから、我ながらお手軽な性格である。
 娘から借りたヘアピンはキーボードの横で左手に遊ばれている。名残惜しさもあるが、ずっと触れていられない。仕事をしなければならない。すべきことを、やらねばならない。ディスプレイに表示される収集したデータを精査していく。画像も文字情報も区別なく、わずかな映り込み、数行の文章、都会も地方も新旧すらも無関係に必要なものを探し、今まで集約したものに追加していく。慣れた作業だ。淡々とこなしていく。だが、いつも、どうしても、同じ所で目と指が止まる。そこから離れるために最短でも数分は要した。ただ、今日は記憶そのものより関連した出来事の方が、記録を漁る鉤爪に引っかかったらしい。
 一般的な家族とは働き方も休日も違う猪狩に、幼い子ども達が「どうしてパパはフツウじゃないの?」と聞いて来た事がある。ざっくりとした質問であるうえに、子ども達の真意も測り損ねて気の利いた返事が浮かばない。すると、猪狩の横から顔を覗かせた麗子が事もなげに、
「パパがフツウだったら、貴方達だってビックリしちゃうでしょ?」
 と、笑いながら言った。不思議なことに子ども達はそれで納得したらしく、各々の遊びに戻って行く。残された猪狩は唇を尖らせながら、麗子にどう言う意味かと尋ねた。
「貴方は貴方らしいのが一番普通ってことよ」
 元警官の追求を誤魔化すために繰り出された頬へのキスは効果抜群だ。勿論、麗子が言った言葉にも感謝は思う。麗子は交際し始めの一時を除いて、猪狩に「普通」であることを求めなかった。早々に諦めたと言うより、猪狩晃という人間をそのまま受け入れてくれたようだ。麗子と同じように、猪狩をそのまま受け入れている人間がもう一人いる。古くからの親友である鱗道はいつかの酒の席で、
「お前は昔からお前だから、それでいいんだ」
 と、酔いの入りらしい不明瞭な口調で唐突に言ってきたことがある。鱗道は元来、酒は嗜む程度で強くも特に好むわけでもないのに、猪狩と飲食を共にするときにはある程度酔うまで飲むことがあった。その日も酒が進んでいて、本当に急にそんなことを言い出したのである。何を言ってやがると背中を叩いてやったのだが、猪狩が思っていたよりも力が入っていたのか、鱗道は盛大に噎せてから睨んできた。悪い、と笑って酒を注いでやった。
 視線がようやく画面から離れ、ディスプレイ横の写真立てに向く。最近、家族で旅行に行ったときの写真が飾られていた。水族館の記念写真で、ファンシーな装飾で加工されて隅には日付まで入っている。猪狩は最初、俺はいいから三人で撮れと言ったのだが、その装飾が特別なのだとかケース付きだからとかで子ども達に引っ張られて仕方なく折れた。印刷された写真を見た麗子が、
「貴方が写真に写るの、何年ぶりかしら」
 と、嬉しそうに笑った。結局何枚か印刷して貰い、そのうち一枚がここに飾られている。四十路に入ってもなお、猪狩にはこの世で最も愛しい妻である麗子。麗子によく似た、高学年になってキャラクターものを卒業した娘。猪狩によく似てやんちゃであるが、親に比べればマシだと言われる中学年の息子。そして、自分。
 猪狩は写真立てに手を伸ばして静かに倒した。伏せられた家族写真の横には、酷く古い別の写真立てがある。祖父の兄弟に当たる人物が、これから剥製にするキジを抱えて写っている写真だ。猪狩に酷く似ていると、親戚一同口を揃えて言ってくる。最初に写真を見たときにはそうでもないと思ったが、今は違う。似ているだろう。似ているはずだ。そうなるように、しているのだから。
 ――ふと、何かを言いかけて口を開いた。が、言うべき言葉が見つからずに口を閉ざす。水底から湧く泡のように、酷く短い言葉がこうして湧き上がることはあるが結局口にしたことはない。水面に上がり切る前に泡は潰れて消えている。そういうものだ。
 少し思案が長くなった。仕事を再開しようとディスプレイに視線を向けようとしたとき、窓に小石が当たるような音がした。気のせいか、風が小石を巻き上げたかと思った直後にまた音がする。今度は、細いものが窓ガラスを引っ掻く音も一緒だ。
 データを保存し、パソコンの電源を切ってから猪狩は席を立った。窓に向かい、カーテンを開くとカラスが一羽、窓の前を飛んでいる。そのカラスが嘴で窓を叩いたり、足で窓を引っ掻いたりしているようだ。随分と大きなカラスである。そもそも、カラスは夜に飛ぶものだろうか。じっと見ていると、室内の光を受けた目が赤い光を反射してきた。
「……お前、クロか?」
 猪狩の言葉にカラスが――クロが、窓を嘴で一度突く。飛び去るような動きを見せたので、猪狩は窓を開けた。外に漏れる室内の灯りの側で、クロは二周三周と円を描き、猪狩が自分の姿を追っている確信を得てから一方向に真っ直ぐ飛んだ。神社を有する山の方角だ。猪狩は身を乗り出し、クロの姿を追う。冬も進み、枯れ木のみとなった寂しい山だが、参道と神社には街灯がある。遠くからでも鳥居や参道があることははっきりと見て取れた。その脇に、奇妙な光がある。大して光量が強いわけではないが、人工的な鋭い光だ。本来、深夜の山中にある筈がない。
 当然、ここからその光の正体が分かるわけがない。だが、予想は出来た。猪狩は窓を閉じ、カーテンを閉めてブルゾンを羽織り、部屋を後にする。車のエンジン音で麗子や子ども達が目を覚ますかもしれない。特に子どもが目覚めたとなれば、麗子からは苦言を呈されるだろう。その辺りの言い訳は後に考えればよい。ただ、車に乗るまでの間に捕まらないよう、猪狩は音を立てないよう慎重に家を出た。

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