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こごめから貰った柊の枝を放り、砂を鳴らしながら鱗道は波の音を聞いていた。夏は海水浴で賑わう海だ。防波堤から波打ち際までは距離があり、沖までなだらかな地形が続いているため、サーフィンなどで季節問わずに人は訪れる。それは、昼間に限った話だ。
防波堤のすぐ横には大きな道路もあって、街灯が等間隔で並んでいる。一つ置き程度で砂浜側にも街灯が設置されているが、照らされているのはごく一部だ。真冬、真夜中の海に鱗道の他に人影などない。足下のボロボロで壊れかけたカンテラを拾い上げたとき、鱗道が吐いた息は白く残った。
鱗道は可能な限り海の方を見ないようにしている。波の音が絶えず聞こえようとも、満月の灯りが白波を照らそうとも、海の境も空の境も人の目には見えない。ただひたすら平らな闇が壁のように聳えるのが冬の海だ。距離も、時間も、なにもかもを飲み込んで風と音だけしか返さない。何が潜んでいるか、どこに潜んでいるか、どれだけ潜んでいるかも分からない。波が存在を主張するのだから海はそこにあるのだと、何かいれば水音が立つのだから分かるだろうと断言することは人間には――否、ただの人間にしか出来ないだろう。見えないもの、知らないもの、触れられないものを無いと断じているように、〝此方の世界〟と〝彼方の世界〟の境界線はただの人間を基準に引かれている。だが、鱗道はただの人間ではない。蛇神の代理という立場や仕事が鱗道に〝此方の世界〟と〝彼方の世界〟の境界線を跨がせた。見えずとも、知らずとも、触れられずとも何かがいる、いる可能性があるということを思い知らされながら、今もこうして街と海の境に立っている。
体の痛みはかなり引いているが、倦怠感は体に重く残っていた。こればかりはこごめや蛇神にもどうしようもない、加齢という定めである。人間は老いていくものだ。若い頃は体力任せで無理強いしてきたことも出来なくなる。だからこそ、積み重ねてきた経験や記憶を頼りにやっていくしか術がない。悪いことばかりではないと思っているが、不便であることは認めざるを得まい。
ランタンを腰に下げて、鱗道はじっと耳を澄ませていた。風と波音の隙間に力強い羽音を探す。〝彼方の世界〟の些細な音も聞こえなくなっている鱗道であったが、
『鱗道。貴方の指示通り、海に依り代は撒いてきました』
頭に響く硬質な声が、羽音より先に届いた。空を見上げてみたものの、街灯と腰のランタン、満月の中で漆黒の鴉を見付けることは難しい。と、言うより、不可能だ。
『北側――貴方の正面から来ているようです。貴方は既に見付けられていますよ』
冬の海を飛ばせたせいか、はたまた精神的な緊張故か、クロの声には若干の強張りがある。鱗道はランタンを一度だけ明滅させた。鱗道にクロの姿が見えなくとも、クロには鱗道とランタン灯りは見えている。鱗道がクロに合図をした時の指示はしてあった。クロはそれに従ってくれるだろう。
北は、昨夜登った山の方角だ。道路は海に沿って山へと向かい、街灯も立ち並んでいる。一つ置きに砂浜に向けられている街灯の下を、巨大な影はずいぶんゆっくりと向かってきていた。
巨大な牡鹿だ。頭上に純黒の、二本の異形の角を生やし、溢れる黒い瘴気は胸元まで黒く染め上げている。背から後ろはシカの名残があるが、歩むことで引き連れる瘴気の黒い霧に濡れそぼっていることだろう。鉄錆色の目がギラギラと、街灯も月明かりも無関係に光っている。蹄が砂を踏み、細い四肢が軽やかに歩を歩む。
『犬がいないな』
街灯三本分ほどの距離で鹿が足を止めた。鹿が頭を振ると、ぼたぼたと足下に瘴気が滴り落ちる。
『そりゃそうか。俺が貫いたんだ。奴は殺した。殺してやった。アイツの穢れを食えなかったのが残念だ』
嘲笑を隠さない、妙に甲高い鹿の声。鉄錆色の目が真っ直ぐに向けられると、鱗道は左足を一歩引いた。心臓を抉るような敵意と悪意、山で追い立てられた恐怖が引かせた足だ。だが、恥ではない。恐れは、今まで鱗道を生かしてきた要因の一つである。
後方で数度、金属同士がぶつかる音を聞く。自然発生するような音ではない。クロが事前に申し合わせしたとおり、鱗道が立っている場所から後方の街灯に止まったのだ。街灯に止まったときに、嘴で何度か叩くように頼んで置いた、その音である。それを聞いて、鱗道はゆっくりと口を開いた。
「生憎だが、シロは死んでない。お前は、シロを殺せてないぞ」
シロはこの場に連れてきていなかった。シロは動ける状態ではなく、穢れは鎮まっているように見えるが、荒神と対峙すればまた呼び起こされかねず、荒神から攻撃対象にされるだろう――と、こごめの言葉を受けて、こごめにシロを診てくれるように頼んである。鱗道は、シロを店に置いてきたのだ。
鹿の頭の影が、不自然な角度に捻られている。鱗道の言葉に首を傾いだようだ。鉄錆色の目が半ば閉ざされていて、不可解、不愉快といった感情を向けられているのが分かる。鋭い槍でも向けられているような気分だ。実際、此方に向いているのは異形の角である。
「……なぁ、鹿よ。昨日はあんな有様で、互いに話が出来る状況じゃなかったが、今は違うだろう?」
鱗道はコートのポケットに両手を突っ込んだまま立っていた。体がすっかり冷え切っている。今、この海辺で唯一吐かれる息はさぞかし白かろう。
「俺は領地を治める蛇神の代理を担ってる者だ。蛇神から、アンタへの言伝を預かってる」
鹿がゆっくりと歩み出したが、鱗道はその場を動かない。街灯の合間に入って、鹿の輪郭が闇夜に溶けても鉄錆色の目がはっきりと鹿の居場所を伝えている。
「――昨夜はああ言ったが、先客がいるので坊やの相手はすぐには出来ん。申し訳ないが、列に並んで待ってくれ、と」
鹿の双眸が大きく見開かれた。敵意と憎悪の槍は眼前に迫っている。だが、鹿はまだ角や頭を下げていない。鱗道よりも高い位置にある眼は、鱗道を見下ろしたまま穢れの意思に――憎悪と敵意に鉄錆色をギラギラと熱している。
『人間ごときが偉そうに! 言伝とやらもふざけるな! 俺は、ヘビを角の飾りにしてやるべくここに来た! 来いと言ったのもヘビだろうが! それを列に並んで待てだと! そんな列がどこにある! さっさとヘビを連れてこい! それとも代理とやら、お前が角の飾りになるか!』
恫喝と同時に鹿が大きく頭を振り、周囲に純黒の瘴気を撒き散らす。開いた口からも溢れ、垂れ流される分には赤い色が混ざっていた。感情によって熱せられた穢れが、瘴気に混ざって溢れ出てきているのだろう。
「だから、申し訳ないと謝ってるだろ。相手をしないと言ってるわけじゃない。先客がいると言ってるだけだ……待っててくれればいいと言ってるんだよ」
――昨夜の方が神々しく見えたもんだった、と、吠えて歯を剥き怒りに体を膨らませる鹿を見ながら思っていた。コートのポケットから両手を取り出す。両手共に厚手の手袋を填め、うち左手には薄紙に包んできた依り代を握っていた。
薄紙を挟むように両手を合わせる。揉むように擦れば薄紙などは容易く破けて、中に包んできた依り代ごと粉々に千切れてしまう。
「……そう言えばな、そのシロが言ってたよ。アンタみたいにはなりたくない、と」
鹿が街灯に照らされる。頭が酷く低く下げられていた。異形の角が砂にめり込み軋みながら、鋒を調整している。角の付け根が見えた。純黒に濡れた鹿の頭蓋をかち割って聳える角の付け根が。黒く滲む瘴気の下に、赤く煮えたぎるような穢れの熱塊が。
「あんなの、かわいそうだ、ってな」
鹿の鉄錆色の眼が橙色に近い輝きを放ち、前脚が砂地を蹴った。距離は精々、街灯一つ分。そんなもの、鹿には無いに等しい距離だ。跳躍とも言えぬ距離を跳ねて、角はすぐ鱗道に届く。足場が山とは違う砂地であっても大差など、ない。
決定的な差は、この場所は昨夜の山と違って、鱗道が迎え撃つために備えた地、ということにある。
鹿は素早くとも直線だ。角を下げて地面を巻き上げながら貫こうとしてくる。シロのお陰でさんざん見させられた。分かっている行動に対し、鱗道がしたことは後ろに大きく身を引くことと、いつものように合わせた両手を今はしっかりと指同士を組ませること。そして鱗道がしていたことは、鹿が抉るだろう鱗道の前方の砂地にこごめが穢れや瘴気を祓い鎮める力を込めた柊の葉を混ぜておくことだった。
砂と一緒に柊が舞い上げられる。鹿の表情が苦痛に歪んでいた。巻き上げた柊の葉が、マキビシのように鹿の角や頭部、前脚に食い込んでいる。特に、前脚。頭や胸元と違って瘴気を被っていない分、柊の葉は深く刺さり、瘴気を弱めて痺れを起こした。
『くそ! またイタチか! それともヘビか!』
それでも、こごめが言っていたとおりに鹿に生んだのは一瞬の怯みであった。砂を舞い上げた鹿は、眼前に鱗道がいることにすぐに気が付いた。痺れた前脚で跳ねる必要もないほどの距離だ。このまま前脚を折って角を下げ、後ろ脚で押し込んでから跳ね上げてやれば、人間の柔らかく無防備な腹など感触もなく貫けよう――
「ここにいるのは俺だけだ」
鱗道は組み合わせた両手を高く振り上げていた。狙うのは、二本の角の間。引いた体を一歩進める。前進することで更に勢いを付けるのだ。本当は、これでは足らない。到底足らない。足りない分はいつも通り、自分以外の手を借りる。砂浜に撒いたこごめの柊、手袋にすり込んだ五枚分の依り代、鱗道の腹を貫こうと振り上げられる鹿の威力、それらを全て使って、
「よくも、うちのシロをやってくれたな!」
目を見開いて歯を食いしばり、全力を込めて組んだ両手を鹿の頭に、その奥、瘴気に潜む穢れに向かって叩き付けた。