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『おや、流石に搾り滓ではこんなものかえ』
 鱗道が満月に向けていた視線を下ろせば、小さな蛇神の向こう側が透けつつある。しゅるりと砂を滑った蛇神の動きは、砂に模様を刻まない。顕現の刻限が迫っていると言うことだろう。蛇神はやれやれと息を吐くと、
『無駄に昔の話なぞをしたものだから、大した話も出来なんだ。まぁ、しかし、大事はこれにて片付いた。末代も犬っころも鴉も、ゆるりと休んでおくれ』
 蛇神はくねらせた体で再度雑に蜷局を巻くと、ゆっくりと鎌首をもたげてシロとクロの顔を改めて眺めているようだった。じぃっと見つめた後に、ふと鱗道の顔を見上げると、
『末代。わたしはお前に何をしても構わぬとは言ったが、命を捨てぬ限り、無謀に走らぬ限りとも行ったはずだ。お前の行動は実に痛快であったが、紛れもなく無謀であったよ。本当にお前は〝わたし〟に似たね。特にその執着心だ。お前は一度手元に置いたものに自身で思っている以上に執着を寄せるのだよ。わたしにきっちりと似て、少しは自覚をして欲しいね』
 と、まるで自身の体がごとく、つらりつらりと滑らかに言葉を紡ぐ。
「……おい、今しなきゃならん話か? それ」
 鱗道が浮かべたげんなりとした表情を咎めるように、蛇神が大きな威嚇音を発した。少し驚きはしたものの、夢で話せるのだからシロとクロの前で説教をする必要はないだろう、という思いに変わりはない。が、
『今しなければならぬ話さ。なにせこれは、わたしが犬っころと鴉にする頼み事に通ずるのだからね』
 鱗道に威嚇を向けた後の蛇神は、いつも通り表情の読めない蛇面でシロとクロを視界に収めた。素早く丁寧な蜷局をまき直し、真っ直ぐに首をもたげさせ、
『そんなわけでね、犬っころに鴉や――この末代が代理の仕事を終えるまでの間、世話も苦労もかけるがしっかり執着されてやっておくれ。お前達に執着している間ならば、無謀はすれど命を捨てたりもせぬだろうから安心なのだ。その為には、お前達も己が身を大事にするんだよ。〝わたし〟に比べれば、末代も犬っころも鴉も、皆等しく脆いのだから――よろしく頼むよ』
 頼むと言いながら頭も下げず、そして最後まで名前も呼ばず、しかし見下して命令を下すわけでもなく傲慢尊大に振る舞うわけでもない。蛇神は金色の目の瞳孔を丸く大きく開き、後に弓形に細めてぐるりと回し、美しい蜷局の姿勢のままで煌めく白い砂となって風に流れた。流れた先で消えゆく様は、依り代を撒いて見えなくなるときと似ている。違うのはシロの鼻に、蛇神のにおいを残さないことぐらいだろう。

 三人とも、黙りこくっていた。波の音が絶え間なく続き、冬の風が吹きすさぶ砂浜には相も変わらず、他に人っ子一人の姿もない。ただただ波の音が、延々と続くかのようだった。
『……鱗道。その……一柱と呼ばれる存在は……その――なんと言いましょうか』
 真っ先に開いたのは、やはりクロであった。とは言え、実に珍しいことにクロは言葉を発してみたものの、全く纏まらず、取り留めもなく、言葉が続かなかったようだ。クロの声を聞いたのを切っ掛けにしたように、鱗道は座っていた姿勢を完全に崩して倒れ込んだ。狙って倒した頭の下にはシロの体がある。
『重いよ、鱗道』
 ひゃん、と上がるシロの声はすっかり子犬めいたものである。ひゃんとワンの中間めいた鳴き声を発するシロにも馴染めなかったのだ。あのままワンと鳴くようにならずに良かったと思いながら、鱗道は、
「止めとけ、クロ。ああいうのはな、下手に言葉にすると余計にこんがらがるぞ……あれはな、言葉に落とし込まない方が、円滑に進む方だ」
 シロの抗議に完全無視を決め込んで、更に手足を砂浜に放り出した。服の下で汗がしめって心地が悪い。体の奥は熱いのだが、着込んでいるとは言え冬風が身に染みて指先の感覚は鈍りつつある。
「お前が思ったまま、そのままにしておけ……最後の蛇神の話もな。俺は……釈然としないが」
『私は、蛇神の言葉には同意出来ますが』
 砂浜よりマシかと思ったシロの枕であったが、後ろ足が鱗道を押し退けようと蹴ってくる以外にも難があった。シロは残雪をおし固めたように冷たい。穢れの熱も蠢きもなく、豊かな被毛で柔らかいもののただひたすらに冷たいばかりだ。こごめも、シロの穢れは鎮まりかけていると言っていたし、刺激となる鹿や〝鯨〟が去ったのだから、このままシロは普段通りの冷たさを保っていくのだろう。勝手を言えば、今は少し暖かい方が有り難いのだが。
「おい、それはどう言う意味だ」
『私が思ったままでいいのでしょう?』
 鱗道が少し首を持ち上げて見た先で、クロもまた鱗道を見ていた。じっと真っ直ぐに鱗道を見ていた顔だが、嘴を高く掲げて妙に感慨深げに、
『今回の件で……具体的には展望台で街を見た時からですが、貴方はあまり貴方自身のことを知らないのだと知りました。最も、己のことを完全に知っている存在など皆無に等しいのでしょうけれど』
『僕はねぇ、僕だよ。シロだよ。ちゃんと知ってるもの』
 シロの得意げな言葉にクロがしたのはぞんざいな相槌である。が、シロはクロの相槌を真に受けて得意げに鼻を鳴らしてみせた。鱗道はクロの言葉が解読出来ないでいる。小難しいことを考えるのは苦手であるのは勿論のこと、疲れ切って体も頭もいつも以上に錆び付いているのだ。鱗道は持ち上げていた頭を再びシロの体に落とした。
「……駄目だ……もう酷く疲れた……眠い」
『駄目だよ、鱗道。ここで寝ちゃったら、風邪引いちゃうよ』
 先ほどは退かそうとしていたシロの後ろ足が、今度は鱗道を眠らせまいと肩や背中を蹴りつけてくる。鱗道は重たい瞼を開きながら、
「分かってるが……気が抜けて、もう体中が痛くてかなわん……お前もだろ、シロ……ああ、明日明後日はろくに動ける気がしない……」
『明日明後日の心配ではなく、今の心配をしてください。鱗道。そのような有様だから、蛇神にもあの様に言い残されるのです』
 クロの言葉が気に障り、鱗道は片眉を上げた。気に障る、ということは思い当たることがあって――遠回しながら、蛇神がシロとクロに頼んでいった内容が正しいことを証明しているのだろう。もっとも、蛇神やシロやクロが感じ取ったことを否定するつもりは一切ない。どんな頼みをしようが、どんな感想を抱こうが各々の自由である。ただ、釈然としないでいる自由が鱗道にもあるのだ。
「……全く考えがないわけじゃない。クロ、頼まれてくれ」
『何をです?』
「猪狩のとこに行けば、アイツが車を出すから、ここまで連れてきてくれ……俺が寝る前にな」
 砂を歩み、跳ねる音がいくつかした後、鱗道の頭が大きく揺れた。シロの体にクロが飛び乗った振動である。シロが『そこは痛いところ!』とクロに抗議の声を上げるが、クロは禄に返事をせずに鱗道の顔を覗き込んでいた。
「カーテンは開けてるだろ……向こうもすぐに気が付く……あー……一応、あれだ。俺の手袋を持っていけ。それで分かるだろ」
『貴方は、私が空木を摘みに行っている間に猪狩晃と約束していたのですか?』
 鱗道が首を傾げたことに、クロが首を傾げている。鱗道の疲れ切った頭には期待出来ないとすぐに気が付いたのか、
『何故、貴方他は猪狩晃が起きていると、しかもカーテンを開けていると、しかも車を出すと言い切っているのです?』
 と、発言内容を改めた。ああ、と鱗道は少しの間を置いてから、
「……そういう奴だからな、猪狩は……逆でもまぁ……俺もそうしてる」
 と、言う。充分な返事であったと思うが、クロはしばらく動かず、
『成る程。これが釈然としないという感覚ですね』
 と、言い残してからシロの体を離れた。シロの体を離れるのに羽ばたきが一度、少し離れた砂浜に着地してからもう一度の羽ばたきがあり、その後は羽音が遠のくばかりであった。砂浜に着地したのは手袋を拾うためであったのだろう。
 クロの羽音が遠のくと、また海は静まりかえった。波と風の音だけである。そのままでいれば眠ってしまいそうであった。それが不味いことは、クロやシロに言われずとも分かっている。
「――おい、シロ……お前、もう、大丈夫なのか?」
 ぼんやりとした頭で、漠然とした問いを投げる。シロの尻尾がばさりと振られた。砂を被って、顔を払う。
『穢れはぐるぐるしてないよ。体はなんか、凄く重たいし、まだちょっと痛いところがある。さっきそこをクロに踏まれたの。鱗道の頭もちょっと踏んでる』
「そうか……すまんな。迎えが来るまで我慢してくれ」
 再び、波と風の音だけになった。鱗道は元々会話を好む性分ではなく、シロはしゃべり続けていられる性分ではない。鱗道が眠らないために一番大事な存在は、今は遣いに出してしまった。
「……しまった……眠い……シロ、なにか喋ってくれ」
『難しいこと言うなぁ』
 シロの声は心底困り切っている。きゅんきゅんと鼻で鳴きながら、声はうんうんと唸り続けていた。瞼が閉じかけていた鱗道の頭を揺さぶった振動は、シロが耳を立てたものらしい。
『そっか! 僕も聞けばいいんだ! 鱗道、鱗道は大丈夫?』
 子犬の鳴き声に舌っ足らずな語り。シロが喋り出せば、声の勢いもあってやはり眠ってはいられない。鱗道はまた目をこじ開けて、
「……大丈夫、って……何がだ?」
『えっ』
 聞き返されると思っていなかったシロが、驚きの声を上げて黙ってしまった。鱗道は数度、強めの瞬きをしてから、シロの枕に乗せた頭の向きを少しだけ変える。そのまま、じぃっと見つめていた。
「……やっぱり、駄目だ」
『えっ、駄目なの? 痛いの? 気持ち悪いの? お腹空いたの?』
「いや……冬の海は、怖いままだなって、思ってな……」
 ――ほのかに光り、揺れるシロの被毛越しに海を見る。満月に白波が目立っている以外の、境がない黒々とした光景。延々と続いているのか、もしくはどこかで不自然に途切れて真っ黒に塗られた板が一枚張られているのか。海の向こう、闇の向こう、板の向こうのいずれにせよ、黒の向こう側には何かいるのかいないのか、いるならば〝此方の世界〟のものか〝彼方の世界〟のものかも分からない。冬の夜の海の恐怖の象徴であった〝鯨〟をこれ程間近に見たというのに何も変わらない。
「……真っ暗だろ? 何がいるかも分からんし……本当に海かも分からん……そんな気がするんだよ」
 鱗道の頭が震えているのはシロにも伝わっている。が、鱗道の震えが怖がっているものではなさそうだ、とシロは受け取っていた。顔を見てみようかと首を回してみても、鱗道の顔は丁度自分の影になってしまって見られない。怖がっているわけでなければ、笑っていることになる。怖いと言いながら笑っている、その理由がシロには見当が付かなかった。ただ、鱗道が怖いと言うので、
『いない。今、海には何もいないよ』
 と、言い返す。鼻も耳も目も使ってしたシロの断言を聞いた鱗道だが、鱗道はシロの被毛越しの、冬の海から目を離さないまま、
「お前にも分からんのがいるかもしれんだろ」
『それはそうかもしれないけど、でも、分からないんだからいないんじゃない?』
「分からんからいるかもしれん」
『でも、いたら分かるよ。だからいないんだよ』
 と、禅問答のように支離滅裂な質問を繰り返し続けた。波の音は間隔に決まりなどなく、しかし絶え間なく続いている。似たようなものだ。鱗道とシロの問答は、車のエンジン音と力強い羽音が聞こえてくるまで、延々と、延々と続けられた。

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