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1. 大好きな絵本

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 脳神経科学者の父と量子物理学者の母。杠葉(ゆずりは)唯音は出自からしてサラブレッドだった。両親は同じ研究所に勤めていて、別々の研究部門に従事している。
 唯音は小さなころから、大多数の幼児が好むような童話やアニメの絵本にはあまり興味を示さなかった。物心ついたとき特に興味を持ったのは「Baby Universityシリーズ」の絵本だった。最初は日本語訳されたものだけだったが、そのうち原著でも読むようになった。言葉が分からなくても、絵や図を見て楽しんでいるようだ。

 幼児レベルの英語はこれらの絵本で自然に身に着けてしまい、唯音は本当に楽しそうにそれらの絵本を読破していった。両親は唯音の旺盛な好奇心と思考力に大いに期待をかけた。簡単な書物から始めていき、気が付けば小学校へ上がる頃には修士レベルの学術書や論文も難なく読みこなせるほどになっていく。
 元来人懐っこく、誰にでも物怖じせず話しかけるような性格だったが、そのオープンな性格は良くない方向へ作用してしまった。唯音が仲良くなろうと同年代のこどもと話そうとしてもまったく会話がかみ合わない。保育園の先生も扱いに困る態度を隠しきれなかった。しかしそんな唯音を両親は愛情をもって接した。彼らは唯音の才能を理解していたのだ。

 だが度重なる周囲との軋轢は、唯音の心を内向的にさせていった。そしてある日を境に唯音は、同年代の子とは完全にコミュニケーションを取ることを諦めてしまう。自分の考えを理解できない人間とは話す価値もない、とでもいうように。
 その朝、唯音は大好きな「りょうしりきがく」の原著を手放そうとせず、無理やりに取り上げようとすると必死に抵抗した。

――やぁー!りょうしりきがくするぅ!

 本を取り上げようとする両親に対して激しく泣き叫ぶ。父親は娘のあまりの剣幕に押されて思わず手を離してしまい、勢い余って床に転んでしまった。母親は慌てて娘を抱きかかえるとあやすように優しく語りかけた。
 すると唯音は少しずつ落ち着いていき、やがて泣き止んだ。母親が抱きかかえたまま頭を撫でると、唯音は母親の胸に顔を埋めた。もう家を出ないと間に合わなくなる。仕方なく絵本を持たせたまま保育園へ預けた。

 おままごとをしている女の子達を横目に、唯音は「りょうしりきがく」を黙々と読んでいた。そこへ同じクラスの男の子達が寄ってきてちょっかいを出した。
 子供の無邪気さは時に残酷である。一人だけぽつんと、自分達にはよく分からない英語の絵本を読む唯音のことを面白くないと思ったのか、男の子達はいきなり唯音の手から本を取り上げて放り投げた。

 突然の出来事に唯音は何もできなかった。ただ呆然と固まっていた。次の瞬間、男の子達の手にある絵本を見て大きなショックを受ける。絵本は真っ二つに破られてしまっていた。唯音は大声で泣きだしそれを見た男の子達は慌てて逃げていった。
 泣いている唯音を落ち着かせようと保育士が駆け寄るが、唯音はなかなか泣き止まない。ことを重く見た保育士は母親へ連絡し、迎えを頼んだ。母親は仕事を切り上げて急いで保育園へ向かった。

 到着するなり唯音の姿を探す。唯音は部屋の隅で、まだ泣いている。保育士から事情を聞くと母親は怒りを抑えられなかった。いくら子供のやったこととは言え、大事な娘を傷つけられて黙っていられるはずがなかった。
 保育士の制止を振り切り、男の子達を叱った。唯音が深く傷ついていること、どれだけ大切にしていた絵本なのか、を言って聞かせた。そうして、そのまま唯音を連れ帰った。

 帰宅後すぐに部屋に引き籠ってしまった唯音を、母親は優しく声をかけながら抱きしめた。しばらくすると唯音はようやく落ち着きを取り戻した。母親が絵本を手に取り、破れてしまった箇所を確認すると唯音はまた泣いた。

――新しいの買ってあげるからね

 唯音は首を振った。

――ううん、これでいい

 そう言って唯音は健気にもセロハンテープをぺたぺた貼って補修し始めた。母親はその様子を見て胸を痛めていた。こんなにも優しい子なのにどうして……。

 翌日になると唯音はすっかり元気になっていた。しかし昨日の一件もあり、しばらくは保育園に行くのをやめることにした。代わりに家政婦を雇い家の中で遊ぶことになったのだが、そこでも唯音の才能は発揮された。
 唯音は両親が持ち帰った仕事の内容を読んで、かなりのレベルで理解し、解決の糸口になりそうなアドバイスまで出した。これには両親も驚いた。唯音は嬉しくなってどんどん知識を吸収していった。そこで家政婦は断り、両親が勤務している時間帯は研究所で面倒を見ることになった。
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