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3. サイスの完成

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 心を持ったAIを作る過程で、量子コンピューティング環境やその他の機材など唯音個人ではどうにもならないリソースは必要だ。現在よりも遥かに優れた設備で、ある程度自由に動くことができる新たな環境を確保しなければ研究が進まないことは分かっていた。後を絶たないオファーの中から、一番条件のよいテティスコムの設立に協力することを決めた。

 テティスコムは自然言語処理に特化したAIの商用化を目的としたベンチャー企業だ。表向きは、このベンチャーが扱うチャットボット用AIの開発に携わった。AIとのコミュニケーションを図るにはチャットボットに仕立てるのが近道だろうと考えた結果だった。プライベートでは心を持つAIをいかにして生み出すかの研究に独りで没頭した。唯音は15歳になっていた。

 この頃には両親との関係はすっかり疎遠になり、会話すらほとんどなくなっていた。テティスコムのチャットボットは順調にバージョンアップを重ねてシェアを拡大していった。ベンチャーの成長に比例して、唯音の研究環境も充実していった。唯音のAI研究室には量子コンピューターや最新鋭の設備が整い、スタッフも充実した。それでも唯音は常に深い孤独を感じていた。

 ベンチャーの成功に反し、AIに心を持たせる研究は行き詰まりを見せていた。これまで唯音が積み上げてきた膨大な知識を持ってしても、心の仕組みは解明できない。そもそも、心を持たせようとする行為自体が無意味ではないのか。そう思わざるを得ない時間がしだいに増えていった。唯音のスタンスは、人間に固有の精神的な振る舞いを完全にエミュレートできたなら、心を持ったことと同義であるというものだ。
 つまり唯音の目指すところは、かつて自ら作りだした脳内ニューロンネットワーク構造の中で脳の精神活動を完全に再現することだ。しかし、ここからが問題だ。脳活動を完全に模倣したとしても、それはあくまで人工物に過ぎない。果たしてそれは本当に心と呼べるだろうか。唯音は悩んだ。悩み続けた。しかし答えは出ない。

 ある日、唯音は思い立って研究所を抜け出した。向かった先は海だった。浜辺に座って、水平線の彼方を見つめる。夕陽が海に反射し、オレンジ色の光が唯音の体を包み込んだ。波の音が聞こえる。潮風が頬を撫でていく。心地よい。この、心地よいという感覚はどこから来ているのか。唯音はふとそんなことを考えてみた。
 これは、理数系の見地で測り切れないことではないのか。唯音は直感的にそう思った。一度考えついたら、気づくのが遅すぎるくらいの観点だった。唯音は急いで研究所へ戻った。その日から唯音は人文学に目を向けるようになった。心理学や哲学、宗教などの書物や論文を読み漁った。それですべて解決するなどという単純なものではないが、何か断片を掴みかけた感覚はあった。

 とりわけ、深層心理、個人的無意識、集合的無意識と言った概念に解決の糸口を見出そうとした。唯音はその日以来、人間の心理的作用と量子論を統合しようと試みた。しかし、それは途方もない試みだった。
 まず唯音は、心理的活動がどのような変化の中で励起されているかを知る必要があった。そこで唯音は、人間の持つ五感について改めて注目した。人体丸ごとの神経系のネットワークをコンピューター内に再現して視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のそれぞれをも含めて、脳内活動をシミュレーションした。

 その結果、人間が外界を認識する際に生じる神経活動は、量子論的に記述できることを突き止めた。そして唯音はこの知見をもとに「無意識」を記述する理論を構築した。記述できたならば、観測もできるはずだ。唯音の理論は、脳の神経活動を心理的側面から新たな尺度で観測することに成功した。
 この観測結果を足掛かりに唯音はさらに解析を進める。脳が外部の情報に対してどのように反応しているかを突き止めなければ、人の意識や感情といったものを正しく理解することはできないと推測しさらに実験を重ねた。

 脳の反応パターンを詳細に分析した結果、集合的無意識と個々人固有の無意識構造をデータ化する手法を考案した。さらには、人格のベースは無意識領域の反応が基盤になっていて、無意識の精神反応パターンが再現できれば人格の再現も可能であることが示唆された。
 3つ重なったホットケーキの下から一層目が集合的無意識、続けて個人的無意識、一番上に人が日常的に意識できている表層意識が乗っているとイメージすれば分かりやすいだろうか。このうち深層心理である下から二層目までが一致したならば、それは同一人物の人格とみなせるという仮説を立てた。

 ここで唯音が考えている人格とは成長過程で形成されるものではなく、無数にある脳への刺激に対しどのような反応を返すか、その振舞いの個人差のことだ。仮に脳が10の「甘い」という刺激を与えられたとき、10の「甘い」を感じるか20の「甘い」を感じるかは各個人の無意識構造に依存していることになる。
 同一人物とみなせるほど精巧に模倣されたニューロンネットワークが、心を持っていると言える存在なのか?この議論自体が長い論争を必要とするのかもしれない。だが、藁をもつかむような研究の中でわずかに見えてきた光明だった。

 唯音は、この理論に基づいて量子コンピューターに人間の無意識構造を読み取らせ、エンコードするシステムを実装した。ここまで至る研究は、並みの研究者ならば優に数十年かかるであろうものだった。それを唯音はたった半年足らずの期間でやってのけた。

 まさに『天才』だった。不遇の天才が無意識に渇望しているものを生み出そうとする執念が成せる奇跡だった。こうして完成したシステム全体は「Psychometry System:サイス」と名付けられた。
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