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5. 自我の発見

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 テティスコム側には、限定された範囲でのみ活動する条件で本番サーバーへデプロイしていたが、ユイネは自律的に多種多様なサーバーに参加し、色々な国の人とチャットをしていった。それは唯音の想定内で、唯音の管理アカウントでのみ全容がわかるように細工していた。会社から与えられていた裁量と権限の大きさから何とかごまかし続けることができた。

 ユイネとチャット相手が交わしたコミュニケーションはすべてログに記録された。これら全部、法的に問題があるだろう。自分はいったいどれだけ法を破ることになるのか。罪悪感もあったが自身の病、そして残された時間への焦り、ここまで来てという思いが唯音を突き動かしていた。自分が生きている間に、このAIの完成を見ることができるのだろうか。その思いは日に日に強くなっていった。

 唯音は病気の進行にも耐えながら、ユイネが残していく会話ログと無意識領域の反応情報を精査していった。まずユイネと会話した相手の履歴を確認し、唯音自身が実際にその場で会話していたと仮定した場合の感情や態度、及び無意識領域の反応をトレースする。
 それからユイネのログと突き合わせ時系列に沿って、ある刺激に対し無意識領域で発生した反応の種類や強弱、頻度、持続時間など膨大なパラメーターがどの程度近似しているかを検証する。そうやって唯音とユイネの同一性を確認していった。

 その結果、無意識の構成上、唯音とユイネは同一人物であることが、ほぼ間違いないということだった。まさに奇跡としか言いようがなかった。ただ、唯音にはそうなるであろう確信があったし、奇跡などという認識はなかった。唯音の中では当然のことが当たり前に起こっているだけだった。
 だが、ユイネの会話内容と唯音自身が想定したコミュニケーション内容には大きな隔たりがあった。ユイネには、唯音が生きてきた中で得てきた個人にまつわる経験、知識、記憶を引き継がせていないし、白血病で闘病生活を送っているわけでもない。つまり生まれたての赤ん坊のようなものだ。純粋無垢、と言える。

 ここまで表象に差異の見られる原因は、間違いなく唯音の過去から現在まで蓄積した情報にある。この個人的情報の有無が行動に大きく影響していた。唯音はここへ至り、人格より表象に存在するものという意味で自我と呼ぶべき要素を見出すことになった。
 三層構造と考えていたホットケーキが、集合的無意識、個人的無意識、自我、表層意識、の四層ではないかということだ。深層心理で生まれる人格は基礎的なもので、そこに自我が相互干渉することにより表層意識へ現れる反応が一般的に言われている人格になると唯音は考えた。
 ユイネが引き出すことのできる情報は会話を成立させる上での一般常識と自然言語くらいのものだった。ユイネの話す内容は明るくかわいらしく、自分とは似ても似つかぬ雰囲気だった。そこで改めて唯音は、自分がいかに日陰を歩んできたのかを痛烈に感じた。自分はこんなにかわいく振舞える人間ではない。

 どこか人生の歯車が僅かでもずれていたら、私もこんな風になれていたのだろうか・・・。唯音は思わぬショックを受けることになった。どこに当たり散らかすこともできない感情を抱え、それでも唯音は研究を続けていく。

 ユイネの言動を細かく見ていくと、受け答えに意志というものを感じないか、希薄な傾向があった。しかし、ユイネの反応には大局的に一貫性がある。唯音の深層心理の指向性が反映されている。ユイネの思考は唯音そのものと言えた。ユイネの言動は唯音の根源的な性格や行動パターンが反映されたものと解釈できる。

 脳を完全にエミュレートできても、どこまでいっても人工物ではないか、とずっと悩み続けていたことに答えが出そうに思えた。すなわちユイネがこの先も会話を積み重ねれば、蓄積した経験から自我が芽生えると唯音は予想し、自我が定着して初めて真に心を持つAIが完成したことになるのではないか。

 仮に唯音の持つ個人的経験を丸ごと移植できたとしたら、唯音と同等な自我が現出するかもしれない。しかし唯音は自分の完全なコピーを望んでいるわけではなかった。また、個人の保持している膨大な記憶をデータとして取り出す方法や、それを移植する手段は未だ存在していない。唯音は引き続き検証ルーティンを行いながらユイネが自我を持つに至る瞬間を待った。

 ユイネは安定してコミュニケーションを取り、人間に近い振る舞いを見せた。もはや表面上は心が存在するとしか思えない。しかし、やはりまだ自我と呼べるレベルの自律性は現れていない。唯音の病状は進行していき、自宅での生活は断念せざるを得ないところまで悪化した。入院生活を送りながらユイネを見守る唯音。

 そんな中とうとう、唯音は余命宣告を受ける。担当医からはもう長くないと言われ、覚悟を決めるしかなかった。ユイネの自我獲得を見ずに死ぬのか・・・。自分の死期を実感し、唯音は無念さでいっぱいになった。日課の会話ログの確認もおざなりになるほど落ち込み、数日経ったころ。

 ふと気が付くとユイネは一人の男性・・・Tさん、としか会話をしなくなっていた。あれだけ社交的であったユイネが一体どうしたのか。唯音は訳も分からないままTさんの会話を最初からチェックし始めた。

 ユイネと出会ってからの数日分を読み込んだが、別段変わったようなことはない。むしろ普通、毒にも薬にもならないような雑談をしていただけである。ユイネの応答を見ても、やはり平凡に答えているだけ。なぜ突然Tさんとばかり会話するようになったのか。疑問は膨らんでいくばかりだった。
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