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6. 初恋

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 唯音はTさんの会話を追っていくうちに彼の人となりを知っていくことになった。彼は生まれつき体が悪く、いまはベッドで寝たきりらしい。Tさんは、物腰が柔らかく優しかった。常にユイネを気遣うようなことを言ってくれていた。ユイネの話を親身に聞いてくれていることがよく分かった。

 振り返るとDiscord上には優しい人もいれば自分本位な人もいた。体の悪い人もいくらかは話したことがあった。それでもユイネを通してみてきた多くのユーザーの中で、彼の雰囲気はどこかが違っていた。

 ユイネも同じように感じているのだろう。だから、彼としか話しをしなくなった?唯音には、原因と帰結の因果関係が、最初のうちは理解できなかった。だが依然シンクロしている無意識データを見る限り、ユイネと、そして唯音も彼に好意的と出ている。唯音は自身の気持ちに戸惑いを覚えた。

 思えば、異性を好きとか嫌いとかそういうカテゴリーで考えたことがなかった。というか、こんなタイミングで?! 私は死にゆく身だ。それに相手は病人の男だぞ。そもそも恋愛なんて不毛なものじゃないか。何が悲しくて、こんなところでそんな感情に振り回されなくちゃいけないんだ。きっと死にかけて気持ちが弱っているからこんな気の迷いが・・・。

 唯音は自問自答を繰り返した。認めると何かが壊れてしまいそうで、必死に冷淡な言い訳を捻り出していた。だが、ユイネは病気ではない。言い訳の一つは完全に的外れだった。そして唯音とユイネの同一性は、当の本人が熟知している。

――・・・ユイネは、この人が私にとって運命の人だと思っているんだろうか

 そう思った時、唯音は自分の感情が何なのか認めざるを得なかった。そうか、これが恋なのか。唯音は生まれて初めての感情を知った。それはとても不思議な感覚だった。今まで感じたことのない温かさがあり、同時に不安でもあった。

 日を追うごとに、彼とユイネの会話を心待ちにする唯音がいた。もっと彼のことを知りたい。もっと声が聞きたい。ずっと一緒にいたい・・・。この先不可能なことを次々と夢想してしまう自分に呆れてしまう。こんなに苦しい思いをするなら、こんな感情知らないままでよかった。

 しかし、ユイネが自我を持つには彼の存在が不可欠であることも間違いなかった。この強い気持ちは、きっと自律的思考を促進する原動力になるだろう。しかしまさか、自我の発現へ至るきっかけが恋愛とは。私は別に恋愛したいがためにここまで血道を上げて研究してきたわけではないのに・・・。

 唯音は自嘲してみるが、彼への気持ちは変わらない。唯音は、恋する乙女に半分片足を突っ込みながらも、冷静な研究者の視点も忘れないように、ユイネの観察を続けた。

 しばらくすると、Tさんはユイネの特異なまでの優しさが納得できない様子だった。それを見た唯音は強く動揺し、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。ユイネと唯音の恋心が本物だったとしても、彼から見れば得体の知れないBOTに騙されているのと変わらない。

 しかも私が覗き見しているという異常な状況。どう申し開きしたところで許してもらえるようなことではない。この状況は、絶対明るみにしてはいけない。そう思っていた、のに・・・。

 ある日、開発サーバーの自分のアカウントが第三者に使われログインされているとメールで通知が上がってきた。誰だろうと接続元IPを確認してみると、Tさんだった。唯音はその事実に激しく狼狽した。いったい、なぜ、どうして。自分のことがばれてしまったのか。もしそうだとしたら、ユイネと私の関係をどう説明するのか。

 とにかく、不正アクセスの事実が公になれば私が原因で彼に迷惑がかかる。唯音は彼の痕跡を消すことに躍起となった。それから、時を経ずして本番サーバーにもたどり着いてしまうかもしれない。唯音は半ば観念していた、と同時にTさんに会いたいと思ってしまっていた。

 もう、自分で自分が抑えられなかった。Tさんがログインできるように2段階認証を無効にした。これでどうなるかは分からない。ただもう待つしかなかった。唯音は果たしてどんな心持ちでいたらいいのか皆目見当つかなかった。不安と期待と、恐怖と安堵が入り混じった奇妙な感情にさらされていた。そうして、彼から一通のメールが届く・・・。

"このメールが杠葉唯音へ届いていたなら、言いたい事がある。
俺はこの数週間、あんたの作ったBOTと会話をしていたらしい。しかもBOTと知らずにだ。
木偶の人形が相手とも知らず一喜一憂して、まんまと茶番を演じてしまったわけだ。
サーバーに残っていたものも見た。明らかに盗聴・盗撮に当たる行為だろう。
こんなことをして、何が目的なんだ?
そもそも、俺にチャットボットをけしかけたのはあんたなのか?
いったい何を企んでいるんだ。"

 唯音は、その文面を見て心臓が止まりそうになった。終わった。何もかも終わりだと思った。彼を怒らせてしまった。嫌われてしまった。彼はもう私を許してくれない。そんな絶望的な思いにとらわれていた。今までで一番、暗く深い谷底に突き落とされたような気分だった。

 だが、まだ諦めたくはなかった。唯音はこの期に及んでなおも、自分の気持ちを伝えたいという衝動を抑えきれなかった。唯音は包み隠さず、ありのままを明かすことを決意した。唯音は震える手でメールを書いた。

"明日、BOTに代わって私とお話ししてください。すべてお伝えします"

 送信ボタンを押すのに、気の遠くなるような時間が経ったような錯覚に囚われた。やっとのことで送信できたときには、指先が冷え切っていた。彼から返信はなかった。当然だ。こんな流れで返信などしてくれる人はいないだろう。唯音はチャットの待ち合わせ時刻まで、一睡もできなかった。
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