おふろ
摺りガラスの扉を開けると昭和の匂いがした。がらがらと軽い音が木目広がる脱衣場に響く。
番台に鎮座するおばあさんは、わたしが来客したことに未だ気付かず、この室内に不釣り合いな液晶テレビに夢中だった。
「……こんにちは」
わたしの方から声をかける。誰かに関わるって行為は苦手なんだけど。
番台の老婆は「いらっしゃい」と反応した。小学六年生の女子としては身長が低い方のわたしを見下ろするようににっこり笑う。小学生は百五十円だと、心地よい館の契約料が告げられた。
わたしたちには優しい価格。優しい世界への誘いだとすれば良心的な価格だと。
昭和、いや大正の頃からこの地に座を構える銭湯を知ったのはいつの頃だろう。
近所だから存在だけは存じてた。ただ、ここの常連になろうという思考には及ばなかった。それが正しいのか否かは、ここの湯につかることで一気にとこぞへと吹っ飛んだのだった。
お母さんから「聖子ちゃんも美肌になろうね」と連れて行ってもらった覚えがある。その時の湯の感触が忘れられず一人でここにやって来た。古の時代から入り継がれた文化を継承するのはわたしたちの任務だし。
お風呂に入ろうとしているのに、わたしの家の脱衣場とは違う雰囲気に飲み込まれ、ちょっとした小旅行気分でわたしの心臓に翼が生える。
くすんだポスター、いかついマッサージ機、錆びだらけの体重計。そして常連客が置いていっているのであろう、かごに入ったシャンプーとリンスがロッカーの上に並ぶ。切り取られて時間が止まった室内に、この世に生を受けて十年ちょっとのわたしが足を踏み入れることを歓迎してくれるだろうか。
大きく数字が描かれた木製の扉が連なったロッカー。わたしは取り合えず一番下の棚を選ぶ。場所が覚えやすいし、高い所は届かないし。見たことのない鍵のシステムに戸惑うが触っているうちにだんだんと要領を掴んだ。
鍵に刻印されたオシドリの絵が時代を感じさせた。オシドリ夫婦、二人で一つ。うまいこと言うなぁと、ふふっと誰にも見られないように笑った。笑ってないけど。
どうやら浴室内には先客がいるようだ。作法に従って「こんにちは」とご挨拶。中にはわたしと同い年ぐらいの女の子が椅子に座って体を洗っていた。
女の子も「こんにちは」と返事を返す。黄色い桶がかこーんと大きな音を響かせていた。目、耳、鼻、肌すべてを包む湯気。彼女のそばを通ると女の子の匂いがわたしの鼻腔をくすぐった。湯気のおかげで相手の顔はよく見えない。
先客の女の子と一つ離れてジャグジーの前に座る。目の前には水道管につながる左右、赤青のボタンが。赤のボタンを押すとお湯、青いボタンを押すと水が出る仕組み。まるで巨大ロボットを操縦するかのような手さばきで、ケロリンと表記された桶に好みの温度のお湯を溜めてゆく。確か、お湯から入れるのが作法だと。ぶっしゃーと跳ねるお湯がわたしのふとももに掛かるたびに、濡れたわたしの黒い髪が揺れていた。
持参した石鹸でごしごしと体を洗う。体中に白くも柔らかい泡がまとわりついて、わたしの中の毒素が浄化されていった。クラスメイトの莉々ちゃんもきっとお風呂で体を洗っているときは、わたしと同じような気分だろう。
クラスメイトの莉々ちゃんは北欧っぽいところから来たらしい。だから、ブロンドの髪に透き通るような白い肌を持っている。そんな莉々ちゃんも同じ女子小学生だし、きっとお風呂は好きだろう。好きに違いない。
あ……でも、莉々ちゃんにはお姉ちゃんがいた。莉々ちゃんに似てブロンドの長い髪で白い肌、そして、柔らかそうなたわわな……を持っている女子高生のお姉ちゃん。きっと毎日お姉ちゃんと一緒にお風呂に入っているんだろう。ずるいぞ。
どうしてわたしにはお姉ちゃんがいないのだろう。お姉ちゃんというものはタワマンの背丈を超すぐらいのお金をつんでも、決して手に入れることはできない尊い存在だし。莉々ちゃんは莉々ちゃんのお姉ちゃんのことをよく「ウルトラばか」と言っているけれど、わたしからすれば喉から手が出るほどの存在だというのに、それに気づかない莉々ちゃんはもっとお姉ちゃんのことを大切にするべきだ、と伝えたいな。伝えないけど。
小学六年生はオトナでもなく、コドモ扱いされたくもないお年頃。背伸びして、温泉気分を楽しむことをお許しいただきたい。だって、わたしは、女子小学生。
のんびりと日常を忘れて、地球の重力から解放されるこの気分。オトナだけの専売特許とするのは如何なものかと、わたしは思うのだ。
わたしが見果てぬ夢から覚めようとしていると、既に先客の女の子は湯船に浸かっていた。
ここの泉質は特異だ。コーヒーのような色をしている。それでもって、お湯の感触は柔らかい。ぬるっとした、肌に優しいお湯だ。なんでも、メタケイ酸という物質が多く含まれたモール泉という貴重なお湯らしい。確かにお母さんが言うように、ここのお湯に入り続ければ美肌になること間違いない。三畳にも満たない湯船が異世界への魔法陣にも見える。たっぷりと張ったお湯が回復魔術にも感じる。
「ちっちゃな頃からうっさくて、十五で黙れと言われたよ♪」
となりの女の子が湯船の中でのびのびと歌唱した。銭湯の音響効果で、まるで地下アイドルのライブ会場にいるようだ。わたしだって、ここの銭湯に入ることで銭湯の『推し活』をしているんだ。お金は正義。お金は裏切らない。
そういえば、となりの女の子の声を聴いたことがあるような気がする。わたしの記憶が正しければ一組の水上飛鳥。彼女は学校にこっそりとアイドル活動をしているとか。わたしは水上飛鳥のことを知っているけれど、水上飛鳥はわたしのことを知らないかもしれない。アイドルなんてそんなもん。
アイドルはステージの上できらきらと輝く生き物だとわたしは認識している。だからこそ英気を養いにオフの時間を充実させているのだろう。そして、思わず口にする歌詞。全身全霊で芸事を愛する彼女はアイドルの鏡だろう。曇りひとつない鏡。でも、眩しすぎて思わず煌めくペンライトでつんつんと彼女の腋を突いてやりたい、恥ずかしさとくすぐったさで苦悶する姿をさらしてあげたい。と思うのは、わたしがひねている証拠でもあるのだ。しないけど。
水上飛鳥が湯船につかっている光景など、彼女の『推し』が知ったものならば、なりふり構わずしっぽを振って羨ましがるに違いない。それどころかわたしは水上飛鳥と同じ湯船にいるんだけど、と。
わたし自身は同じ女子小学生同士だから、意識をすることなど必要はないのだが、何度も言うが彼女の『推し』が……と、いう邪念とは裏腹に、水上飛鳥は相も変わらず上機嫌だった。彼女の姿を横目にわたしは湯船の中で足をばたつかせる。わたしの足が琥珀色のお湯に沈んだり浮かんだりしていた。
ざばっと水上飛鳥が湯船から出る。波立つお湯が一層に熱い。逆光に照らされた水上飛鳥の後ろ姿がアイドルと言う名の『偶像』を具現化している。同じ小学六年生なので、決してスタイルがすばらしいとかいうものではないし大人びてはない。ただ、触ってはいけないような、荘厳というといい過ぎだが、今、この瞬間に光を放つ水上飛鳥の肢体がわたしの二つの瞳に焼き付く。細く、か弱い彼女の脚。ふとももから滴る薄く茶色い湯。美肌の湯の名に恥じずつややかな水上飛鳥の肌。二の腕をつんとつまんでやりたいほど。湯上りのあの子はふんわりと女の子の匂いがした。
次の日は学校だった。朝から教室ではクラスメイトがたわいのない会話で盛り上がる。そんな空気、わたしは苦手なのだが、莉々ちゃんの声には素直になれる。
「聖子ちゃんっ。新曲出るぞっ」
莉々ちゃんだ。ブロンドの長い髪をふわんりとなびかせ、ソーダ水の香りがしそうな水色のランドセルをどんと机の上に置いた。朝からのスタートダッシュがいつものごとく全力で、わたしの不意を突いてくる。興奮気味の莉々ちゃんはガッツポーズを決めると、大好物を目の前にした子犬のように、はぁはぁと息を荒くしていた。
その場でくるりとターンを決めた莉々ちゃんは水上飛鳥とは違った女の子の匂いがする。メリーゴーラウンドのように回るスカートが莉々ちゃんの気持ちを表していた。
「何の?」
「ほら。『しっぽくびわ』の新曲だよっ」
『しっぽくびわ』とはアイドルグループの名だ。水上飛鳥が所属するグループだ。莉々ちゃんは自慢げな顔をして、スマホの画面を操作して、新曲の試聴ページを表示させていた。
莉々ちゃんもこのアイドルグループのことがもの凄く気になるようで、この日を待ちに待っていたようだった。水上飛鳥ではなく、莉々ちゃんが代わりにステージに立てばいいのにと思う反面、見知らぬ誰かの為に莉々ちゃんがきらめきを振りまくのは悔しいとも思うのは、自分自身が小さいからだろうかと苦悶する。日陰のわたしに対して陽の申し子な莉々ちゃんがわたしの耳にスマホを押し当ててきた。
「ちっちゃな頃からうっさくて、十五で黙れと言われたよ♪」
水上飛鳥の声だった。
わたしに近づいてきた莉々ちゃんの肌は珠のように透き通っている。莉々ちゃん、絶対わたしより……ちょっと恥ずかしくて声に出せない。何かを伝えたいのに、お腹の底がもどかしい。
だから、これが精いっぱい。
「莉々ちゃん、肌きれいだよね」
今度、一緒にお風呂に行こう。