13話 白い夢、灰色の斜面
鹿児島に冬が来た。
南国の鹿児島で冬らしさを感じる事はできないと、他県の人間から思われがちだが、そんな事はない。
鹿児島が誇る観光地であり、登山の名所でもある霧島連山では、まるで北国のような雪景色を味わう事が可能だ。
現に俺は肌を刺す北風に、言葉では語り尽くせぬ程の感動と快感を覚えているところで、そんな中、不満があるとすれば、目の前に雪景色が広がっていない事だ。
この日、我々『桜島ワンダーフォーゲル部』は冬の季節を満喫しようとして霧島連山を訪れたのだが、この日は雪などまるでない、厳つい茶色の山肌が待ち受けていた。
期待と真逆の味気ない景色を見て、俺達は分かりやすく溜息をついた。
抱いていた淡い期待は存在しなかった雪のように融けてなくなってしまったようだ。
「雪景色、見たかったな」
右隣を歩く野村が口を尖らせる。
銀色に染め変えられた野村の髪が風になびくと、夢想していた銀世界の代わりみたいに思えた。
「この景色だってじゅうぶんに美しいだろ」
「それはそうだけど。これなら、いつもと同じだよ」
確かに、たまには違った景色も味わってみたいとは思う。
「私も雪景色が見たいかも」
俺の左を歩いていた高崎も同じ意見らしい。
「雪は降らないけど、灰が降るだろ。それでいいじゃないか」
「良くない」
火山灰を否定してくるとは。やはりコイツは桜島に対する愛が足りない。そう思わされる機会が多いので、一度、腹を割って話す機会が必要だろうか。
「まあ、雪はないけど。ちゃんと氷はあるだろ」
俺が指さした先には、天然のスケートリンクがあった。
雪の降らない現実にいつまでも文句を言っている訳にはいかない。霧島連山を訪れた本来の目的はキャンプと、アイススケートをする事で、霧島連山にはキャンプ場に加えて、平均気温が3℃近くまで下がる気候と広大な土地を活用した、屋外アイススケート場も用意されているのだ。
屋外のアイススケート場自体はそこまで珍しいものではないが、これほどの高地で、雄大な山々と木々に囲まれた絶景の中に存在するアイススケート場というのは珍しく、貴重な筈だ。そして冬の優しい陽の光を浴びながら氷の上を滑るのは、たいへん心地が良いらしい。
その快感を味わってみたいのだが、俺は致命的なほど運動センスに乏しい為、アイススケートが全くできないので、さっさと準備を済ませて氷の上を滑り始めたワンゲル部メンバーが和気藹々としているのを、場外から羨ましく眺めていた。
才能の塊である高崎は初体験だというアイススケートも卒なくこなしていた。やはり彼女は何事もスマートにこなしてしまうのだろう。
「隼人君、やらなくていいの。山を登ったりするの、得意だし。スケートもできるんじゃない?」
同じくアイススケートに参加しなかった野村が訊ねてくる。
「登山の場合は体力任せで登っているだけだから、ああやって繊細なバランス感覚が求められるのは無理だ。小さい頃に転んで怪我をした事がある。だから駄目だ。野村こそ、運動神経は悪くないんじゃないか。クロスバイクだって乗れていたし」
クロスバイクに跨り藺牟田池の外周を颯爽と駆けまわる姿を想起しながら言った。
「子供の頃は自転車が必需品だったから、乗れただけだよ。でも、乗れるようになるまで、何度も怪我した記憶がある。だから、スケートは無理だ。五分で病院送りになるよ」
「なるほど」
五分で病院送りになるのは困る。
「じゃあ、そろそろキャンプの準備をするか」
「うん」
俺にとって、一番の目的はキャンプだ。黙って眺めているだけでは終われない。
キャンプ場はアイススケート場のすぐ隣にあるので移動が便利だった。
車の中から必要な道具を取り出して、野村と二人で炊事場に立つ。
「今日はバーベキューだから、具材を切って焼くだけ。というのはあまりにも寂しいから、ダッチオーブン料理も用意する事にした」
「そういえば、会議の時に話してたね。鳥の丸焼きみたいな料理だったっけ」
「ああ。業務用スーパーで丸鶏を購入してきたんだ。見た目が怖いからと否定的な意見も聞かれたから、予算に組み込むためのプレゼンテーションが大変だった」
「プレゼンテーションの後も賛成されてなかった気がするけど」
「そんなのは無視だ。みんな初めての事で委縮してるんだよ。だから、何でも挑戦してみるべきで。まあ、料理の出来栄えで納得させてやるさ」
考えは纏まっていないまま、ナイフを取り出す。
「これが前に話していたナイフだ。やっとでお披露目できたな」
「全体的に黒い。それに何か、ギザギザしてる。何というか、渋い、格好良さだね」
「まさにその通りだ。これはサバイバルナイフといって、名前の通りサバイバルを想定した造りになってるんだ」
「サバイバルって、どういうこと?」
「大自然の中で生き残るための知恵が集結されてる。ナイフの刃が黒いのは光が反射して獲物に見つかる事を避ける為に施された工夫だ。そして背中側のギザギザは鋸の役割を果たしている。そして注目するところはもう一つ。この握り柄の末端が少し膨らんでいるだろ、これは何かを砕きたい時の鈍器として使うことができるんだ。更にこの膨らんでいるところを捻ると、ペットボトルの蓋を取るみたいに外れて、柄の中が空洞になっている。ここに何か必要な物を詰め込むんだ。戦時中はマッチ棒や、医薬品を収納することが多かったらしい。どうだ、堪らないだろ」
「凄い。利便性が全て詰め込まれている感じ、本当にサバイバルを想定してるって感じだね」
「まさに、その通りだ」
俺はナイフの紹介に満足したので、クーラーボックスから丸鶏を取り出した。
「うっ」
羽毛を剝がされて、生肌が剥き出しの丸鶏を見た野村は呻き声を漏らした。
「さっそく始めるか」
丸鶏の胸部から垂直にナイフを刺し、刃を上下させながら股間の辺りまで切り開いていく。内臓は既に処理されているので、そのままハーブや胡椒などがブレンドされた調味料をまぶしていく。
「こうやって、雑になじませるのがいいんだよな」
「何だか。グロテスクだね」
野村は引き攣ったような薄目の表情で言う。
「グロいかもしれないけど、その内、慣れる。何より、命に感謝だ」
「うん、そうだね。それに、アウトドアらしいかも」
「確かにそうだな。じゃあ、調味料をまぶした後は香りづけの為にニンニクを丸ごと入れる。ニンニクを潰した方が良いなんて意見もあるが、丸ごと入れた方が野性的な感じがするから俺は潰さない。さらにシイタケや玉ねぎを丸ごと入れたら下処理は終わりだ」
ダッチオーブンの底へオリーブオイルを塗った後に、丸鶏を入れ、その周りにジャガイモや人参を敷き詰めて、蓋をする。
「あとは、あいつらが帰ってくるタイミングで火起こしをするだけだ」
ワンゲル部の面々が帰ってくるのはいつ頃だろうかと思い、スケート場の方へ眼を向けると、高崎と直井が戻ってきていた。
「手伝いに来たぞ」
「ああ、助かる」
高崎の方を見ると、彼女も頷いた。
「じゃあ私は火起こしするから」
野村は率先して動くと、高崎が、「私も手伝うよ」と言った。
火起こしを始めた二人を見て、直井は、「大丈夫か?」と言って、不安げな様子を見せる。
「高崎がついているなら大丈夫だろ」
「そういう意味じゃない」
直井の言葉を理解できずに聞き流して、バーベキューの準備を始める。
準備と言っても食材を切って、串に刺したり、ホイルで包んだりするだけの単純な作業だ。ナイフで食材をザクザクと切り進めていき、それを直井に渡し、作業を進める。
一方、高崎と野村は焚き火台とバーベキューコンロのセッティングを終えていた。
「ここまでは出来たけど。火起こしするのは、初めてなんだよね。動画で勉強しているけど、実践するのは初めてだ」
「じゃあ、見てて」
高崎は自前のナイフを手に取り、薪をサッサと削り、焚き火台の中へ落としていく。
薄く削られた木屑は少しずつ積もっていき、鳥の巣のような集合体ができあがった。素早くファイアスターターを手に取り、木屑の山に近づける。ファイアスターターの凹凸にナイフの背を擦って火花を起こす。数回繰り返すと、木屑に火種が生まれた。続けて火吹き棒を手に取って、肩を軽く上げながら息を吸い込み、息を吐いて火種に向けて少しずつ酸素を送り込んでいく。木屑は次第にパチパチと音を立てて火を上げ始め、そこに小さな薪をくべていく。
見事なお手並みだった。
火が大きくなるのを見て、俺と直井は自然と拍手を送った。
高崎は照れくさそうに頭を掻いている。
「凄い、けど、これは、真似できない」
野村は呆然とした様子で言った。
「こんな凄いのは俺だって無理だよ」
直井はフォローに回ったので、俺も、「難しいな」と同調する。
「私も最初からこんな風にできたわけじゃないから、大丈夫だよ」
高崎は謙遜してみせる。
「練習して。いつか、できるように練習するから」
野村は小さな声で言って、古紙にライターで火をつけ、バーベキューコンロの中へ放り込んだ。
何となく重苦しい雰囲気になってしまったが、すぐに作業は再開された。
俺は食材を切り続け、直井は食材を串刺しにしたり、アルミホイルに包んだりしていく。食材の準備が終わると、炎の安定した焚き火台の上にダッチオーブンを吊るす。
轟々と燃え盛る炎に包まれたダッチオーブンを眺める直井は、「まさにアウトドアって感じだな」と呟いた。
バーベキューコンロの火加減も良好となり食材を焼き始めた頃、長瀬達は見計らったようなタイミングでこちらへ引き上げてきた。
長瀬はへらへらしながら、「高崎さんと野村さんに任せて悪いね」と言った。
「俺達も準備したからな」
直井は不服そうに言うが、長瀬はそれを無視した。
一日中外に出ていると、陽の沈む早さに驚かされる。四方を山に囲まれているせいでもあるが、日の入りは随分と早くなっているようだ。
空が暗くなる頃には足元から強く冷えこんできて、鹿児島市街地では味わえないほどの寒気だ。防寒着だけではとても耐えられるものではなく、暖を取って寒さを凌ぐ為に全員が焚き火の周りに集まって過ごした。
バーベキューはもちろん好評だったのだが、丸鶏の方も想定した以上に反響が良く、食事の場はたいへん盛り上がった。
夏の頃は全員、考えなしに酒を呷っては酔い潰れていたものだが、今は酒を飲みながらも散歩に行ったり、焚き火を眺めたりと各々が健全に楽しむ事ができている。
俺は背もたれから足先までの角度を自在に調整できるリクライニングチェアに腰かけると、椅子全体をフラットにすることで全身を寝そべった姿勢にし、そのまま夜空を眺めて過ごしていた。
そしてどういう訳か、俺の隣には、何故か直井が座っている。
「さっきの丸鶏な、俺に切り分けられた部分は胸肉だったからパサパサだったぞ」
「どの部位を引き当てるかは、運次第。それが丸鶏の楽しみ方だ。俺は首のセセリっていう部位でさ、コリコリした独特な食感が最高だったよ。オススメだ」
「いや、俺には合わないかもしれない。次回はモモ肉を頼む」
「不正はしない」
「そうかよ」
直井は他に何か言いたい事があるのだろう。俺は天体観測を楽しんでいるのに、こちらをじろじろと見てきて気分が悪い。
「こんなところでぼんやりして、いいのか。山中さんを口説かなくていいのかよ」
「お前なあ。俺と山中さんが出会って、どれくらい経ってる。ここまで、まるで進展がないのに、いまさら山中さんと付き合う訳ないだろ」
「そんなものか」
「そうだよ。いまさら言うまでもないけど、隼人はそういうのには疎いよな」
「ああ、全く分からないね」
「それで、隼人の方こそどうなんだよ。高崎さんと何か進展はあったのか」
「高崎とは何もないよ」
「高崎さんとは、って何だよ。まるで野村さんとは何かあったみたいじゃないか」
「何もなかったとは言えないけど、別に付き合うとかじゃない」
直井は、「やっぱり、何かあったのかよ」と唸りながら頭を抱える。
「隼人は凄いな。桜島とアウトドアに熱狂しているだけのバカだと思っていたのに」
「そんな酷い印象だったのか」
「すまん。だけど、好きな事に対して情熱的で、一直線なところが異性に好かれる理由かもしれないな」
「別に好かれてない」
「間違いなく好かれてはいるだろ。それで、野村さんと高崎さん、どっちと付き合うんだよ」
「だから、どちらとも付き合うとか、そんな関係じゃない」
この間までの事を思えば、そうとは言い切れないが。今は、そんな関係にはなれない。その筈だが、本心は、よく分からない。分からないから、深く考えるべきかもしれないが、無意識にそれを避けてしまうし。今は桜島とアウトドアの事以外を最優先にしていたいのだ。
「相変わらずだな。でも、こういう話ができるようになっただけ成長してるのかもしれないな」
直井は俺に疑問をぶつけて満足したのか、満足いく答えが得られそうになくて諦めたのか、それ以上は何も語らなかった。
途端に静寂が訪れたようで、俺はゆっくりと夜空を見上げた。
あれから何時間経っただろうか。
俺はいつの間にか眠ってしまったようで、腰に痛みを感じて意識が戻った。ゆっくり瞼を開けると、満天の星空が広がっていた。
消灯時間が過ぎた事で、辺りは真っ暗闇に包まれ、先程までとは比べものにならない程、星達が煌めいていた。
いよいよ凍死してもおかしくないほどに冷え込んでいるが、防寒のため寝袋にくるまっていたし、寝袋の上へ誰かが一枚毛布を掛けてくれていたので、ほとんど寒さを感じなかった。
コートのポケットを探ってスマートフォンを見ると時刻は午前二時になっていた。
直井が毛布をかけてくれたのだろうか。隣に目を遣ると、直井の代わりに野村が座っていた。
「手品かよ」
野村は首をかしげる。
「びっくりした?」
「かなりびっくりした」
「何だか、眠れなくて。起きてきたら、隼人君が寝てたから、黙って座ってた」
「そうか。俺はよく寝ていたな。それで腰が痛くて起きたところだ。やっぱり椅子の上で寝ていては駄目だな」
そう言って俺は倒していた椅子の背を起こして、立ち上がろうとすると、野村が「待って」と言った。
「何だよ」
「眠れないんだって」
「いや、でもいい時間だし」
俺が言うと、野村は口を噤んだままこちらを見つめてくる。
このまま、ここにいろと言っているのだろう。
「分かったよ」
「ありがとう」
「まあ、いい時間だから、静かに過ごさないといけない」
「うん」
野村は騒ぎたてるようなタイプではないが、一応注意しておいた。
「いつからここにいるんだ?」
「二時間くらいまえかな。十二時くらいにみんな寝ちゃって、私は眠れなくて、起きてきたんだ」
「そんなに前からいたのか。毛布掛けてくれたのは、野村なのか?」
「うん」
「助かったよ、ありがとう。おかげで凍え死なすに済んだ。野村は寒くないか?」
「何枚も重ね着して、毛布も被ってるから、大丈夫」
「それなら良かった。じゃあ、ゆっくり星を眺めて、眠くなるのを待とう」
「うん。星の事は詳しくないけど、この景色は凄いよね」
「ああ、いつまでも見飽きない」
「こうしているのは、凄く新鮮だ」
「電気やガスのない時代の人は、一晩中焚き火をして、星空を眺めながら過ごしていたんだよな」
「大変な時代だね」
「何百年も前の生活に想いを馳せて、何となく味わった気分になれるのも、アウトドアの魅力だ」
得意気に語っていると、夜空を横切る光が一瞬だけ見えた。
「流れ星だ」
「え、ほんと?」
「本当だよ。今夜は月明かりが弱いし、これだけ空が澄んでいるなら、流星群の日じゃなくても流れ星を見つけるのは難しくない」
「初めて知った。私、流れ星は一度も見た事ないな」
「一度も?」
「うん。一度もない」
耳を疑った。そんな奴がいるのか。信じられない。
「願い事しないとね」
「それもいいな」
過去から届く光に、未来への願いを託すというのは、何とも妙な文化だと前から思っていた。
「じっくり見とけば、そのうち見つけられるぜ」
「うん。流れ星を百個見つけて、願いを叶えたい」
何を願うのかは知らないが、すさまじい執念である。
その時、テントのファスナーが開く音がして、目を向けると、中から高崎が出てきた。
「何してるの?」
高崎が言う。
「流れ星を探していたところだ。高崎はトイレか?」
「いや。いま起きたら野村さんが居ないから、心配になって」
「そっか。ごめんね。眠れなくて、起きてたんだよ」
「大丈夫なら、良かった」
高崎は安心して、テントに戻ろうとする。
「なあ、高崎も流れ星を探さないか」
俺は何の気なしに訊いてみた。
「流れ星?」
「ああ。野村は流れ星を百個見つけるそうだ。せっかく起きたんだ。高崎も参加したらどうだ」
「目が覚めたから、いい機会だし。探してみようかな」
「冷えるから。ちゃんと着込めよ」
言われた通りに高崎はコートを羽織った姿で出てきて、野村の隣に椅子を置いて腰かけ、そこから更に毛布を被った。
「隼人君はいくつ見つけるの?」
野村が訊ねてくる。
「俺は一つ見たから満足だ。いつ眠ってもいい」
「アウトドアの弟子の、野村さんに負けていいの?」
何をもって負けとするのか理解に苦しむが、競争心は充分に焚きつけられた。
相変わらず人を挑発する事が得意なようだ。
「じゃあ、俺は百十個見つけるよ」
「あ、そう。なら、私は百二十個かな」
「やっぱり俺は百三十個だ」
野村がクスクスと笑うので、俺と高崎もつられて笑った。
こんな風にくだらない話をしていると、俺は理想を手に入れていると思った。
既に願いは叶っているのだから、流れ星なんて見つからなくてもいいと思える。だが、真剣に流れ星を探す二人に悪いので、夜空を見上げた。
夜空に輝く無数の星よりも尊く、貴重なものを見つけた。
流れ星に一つだけ願う事があるとすれば、この時間がいつまでも続いてほしいという事だろう。
・
流れ星に願いをこめた翌日。俺は三十八度七分の熱にうなされていた。
寒空の下で一晩中流れ星を探していたのが悪かったのだろう。朝方には疲れと冷えで、身体に違和感を覚えていた。昼過ぎにアパートへ帰って、一眠りした頃には随分と気分が悪く、体温はぐんぐん上がってしまった。
更に翌朝、熱は下がってのだが、酷い倦怠感で身体が碌に動かせなかった。気力を振り絞って寝床から這い出ると、この部屋には食料が全くない事に気がついた。買い物に行く気力はないが、このまま栄養を摂れないのはまずいので、誰かを頼るしかないだろう。実家の方に連絡してみると、仕事で忙しいのですぐには難しいと連絡が帰ってきた。続いて直井に頼んでみると、あっさり承諾してくれた。やはり仲間は大切である。
それからは何をすることもできず、脱水を防ぐため、水道水を飲みに起きては、横になる動作を繰り返した。じっとしたまま過ごしていると、何となく気分が下がり陰鬱な感情が強くなってしまうので、『さくらじまん』のキーホルダーを握って桜島に祈りを捧げたりもした。そして直井から指定されていた十三時頃、部屋のドアがノックされた。
待ちわびるあまり、相手を確認する事もなくドアを開け放った。
暗い部屋に閉じこもっていたので、外の光が眩しくて、目を凝らす。
その先に立っていたのは、直井ではなく。高崎と野村だった。高熱によって幻覚でも見ているのだろうか。
まあ、そんな訳はない。
「インターホンがついてないって、凄いね」
現れて早々、高崎は嫌味を言う。
「古くて安いアパートだからな。大学生なら当然の事だ。むしろ美学ですらある。いや、そんな事より、どうして直井じゃなくて、高崎と野村の二人が来てくれたんだ?」
「急用ができたから私達に行ってこいって、だから高崎さんと一緒に来たんだ」
「無理なお願いされて、どうして断らなかったんだよ」
「だって。隼人君が風邪ひいたのは、天体観測に誘った私のせいだし」と野村が言って、「私がそれを唆したから、私の責任でもある」と高崎が続けた。
「確かに、その通り。なのか?」
直井の思惑が伺い知れて、してやったりと嘲笑う姿が目に浮かんだ。
だが、いまは憎むべきではなく、素直に感謝するべきだろう。
「とにかく助かったよ。せっかくだから中に上がっていかないか」
「いいの?」
「ああ、持ってきてくれた物をみんなで食べるか」
そう言って、二人を部屋へ上げた。
「すごい、こじんまりとした部屋だ」
部屋の中を見た野村は、心底驚いたように言う。彼女のような豪邸暮らしの人間からすれば大変狭い部屋に思えるだろうが、大学生の一人暮らしといえばワンルームの四畳半だろう。玄関から部屋の隅まで見渡せるなんていうのも当たり前だ。
「そして何もない」
高崎が言う通り、この部屋にあるのは冷蔵庫と電子レンジ。床に置かれた卓袱台とその上にノートパソコン、そして床に敷いたマットレス。それくらいである。
「ミニマリストなの?」
野村が訊ねてくるが、知らない言葉だった。
「なんだそれ」
「物を持たない人だよ。部屋の中に生活必需品しか置かない人」
「確かにここには最低限の物しかなくて、アウトドア用品は全て実家に置いてあるな。そう考えると俺はミニマリストとやらになるのかもしれない」
「実家に物が溢れているなら少し違う気がするけど」
高崎にはっきりと否定された。
ミニマリストと言われて何となく誇らしい気持ちになっていたので少し残念だった。
「うん、それでさ。私、何か作ろうと思って、食材を持ってきたんだよ」
野村は買い物袋を掲げる。
「ありがたいけど、この部屋には調理器具が無いぞ」
「ええっ」
「電子レンジしかない」
「そっか、事前に訊いておけばよかった。でも、隼人君を、脅かせようと思ったんだよね」
野村は分かりやすく落ち込んでしまった。
「まあ、総菜もたくさんあるから。大丈夫だよ」
高崎はすかさずフォローするが、野村は何も答えず、そのまま二人は沈黙してしまった。相変わらず体調の悪い俺も、自ら話をしようという気持ちにはなれなかったので三人とも無言で立ち尽くす事になった。
永遠に続きそうな程に感じる長い沈黙を目にして、無神経な俺でも気まずくなってきた頃。静寂を破る玄関のドアをノックする音が部屋中に響いた。
一瞬、驚いたが、扉先に居る相手がなんとなく分かったので、「空いてるよ」と声をかけた。
勢いよく扉が開き、そこに立って居たのは、やはりヒカルだった。
彼女は中身がパンパンに詰まったエコバッグを携えて、仁王立ちしていた。
ヒカルの姿を見た野村は、「え」と声を漏らし、手にしていた買い物袋を落とした。
「ああ、食料が」
野村は嘆く俺を無視して、ヒカルを凝視しており、高崎も同じような反応をしている。
「なにこれ、修羅場?」
ヒカルが首を傾げる。
「修羅場って、なんだよ」
「だってほら、この人たちがそんな感じで、凄く驚いているからさ」
言うだけ言って、ヒカルはさっさと部屋の中へ入ってくる。
「ヒカルが突然現れたから、二人とも驚いているだけだよ」
「そうかなあ。ただ驚いているだけにはみえないけど」
「いいからちゃんと挨拶しろ」
そう言ってヒカルの背中を押す。
「分かったよ。挨拶はちゃんとしないといけないもんね」
ヒカルは頭を下げる。
「驚かせてすまない。こいつは妹のヒカルだ」
「いもうとって。あ、妹か」
野村は反芻するように言って、高崎も状況を飲み込んだように深く頷いた。
「それで、こっちの二人は、同じサークルに所属する高崎と野村だ」
俺が紹介すると二人揃って頭を下げる。
「とりあえず、みんな座ろうぜ。そろそろ立ったままでいるのも辛くなってきたんだ」
「それは、大変だ。早く座ろう」
野村が心配してくれる。
そのままクッションやカーペットすらないフローリングの上に腰かけ、卓袱台を囲った。
「体調はどうなの。昨日から熱が出てたって聞いたけど」
野村が訊ねてくる。
「昨日は大変だった。キャンプから戻ってきて。ずっと寝込んでたんだ。今では熱が下がって、三十七度くらいかな。でも身体が怠くて、あまり動けそうになくてさ。食料もなくて困ってて。本当に助かったよ」
「そうなんだ。とりあえず、無事でよかった」
「ありがとう。本当はウチの親に頼んでいたんだけど。仕事ですぐには来れそうになくて、直井に連絡を取ったんだけど。結局、ヒカルが来てくれたみたいだ」
「サプライズでね、お兄を喜ばせようと思って。でも、そのせいで高崎さんと野村さんにまで来てもらう事になって。迷惑をかけちゃったね」
「いや、そんなのは、大丈夫」
野村は首を横に振る。
「ところでさ。高崎さんと野村さんが同じサークルで活動してる同級生だっていうのは分かったけど。この部屋に女性が二人いるっていうのは、おかしな状況だよね」
「何故だ。いまも言ったけど。俺を助けるために、この二人が来てくれただけだ」
「それは分かるけど、いままで同性の友達だってほとんどいなかったのに。部屋に異性が二人も来てるなんて、おかしいと思うよ。サークルには男性の人もいる訳でしょ、それなのにどうしてこの二人が看病に来てくれるの」
「俺だって納得してるわけじゃないが。俺が風邪をひいたのは自分たちのせいだと思って、看病に来てくれたそうだ」
「ふうん」
ヒカルは俺と同じく納得しない様子だ。
「でもさ。さっき玄関の先から現れた私を見て、高崎さんと野村さんは死ぬほど驚いていたよね。それは、二人の知らない女性が現れて、都合の悪い想像をして、ショックだったからで。だから、もしかすると、お兄に気があるんじゃないのかなって思うんだよ」
「いい加減にしろ」
ヒカルを制止する。
「高崎と野村に失礼だろ」
「…そうだね。ごめんなさい」
ヒカルは頭を下げて素直に謝った。そして頭を挙げると、野村と高崎をジロジロとみつめる。
「それにしても、綺麗な人達だね」
ヒカルが褒めると、野村と高崎は感情の読みにくい苦笑いを浮かべた。
「ていうか、ノムさんじゃない?」
ヒカルが訊ねると、野村は唇を結んで顔を伏せた。
やはり、野村は高校生の間で広く認知されているらしい。
口を閉ざして緘黙症に陥ってしまった野村の代わりに、俺は「そうだよ」と答える。
「凄い。こんなところでノムさんに会えるなんて。奇跡じゃん。実物のノムさんも顔が小さくて、目が綺麗で可愛らしいな。あと、最近の投稿では髪が銀色になっていたけど、地毛を染めていたんだ。大学生は自由で良いなあ」
ヒカルの言葉に野村はみるみる委縮していく。元々俯いていたが、今では顎が首に沈み込みそうなほど深く俯いている。
「だけど、なんか大人しいというか。SNS上のイメージと違うなあ」
「そうだよね。よく言われる」
野村は小さく頷く。SNS上のイメージと違うというのは全くもって同感である。
「恥ずかしがり屋なんだよ。それくらいにしとけ」
再びヒカルを制止するが、彼女は気にせず話し続ける。
「うん。でも、投稿してる写真はあんまり加工してないですよね。SNSの投稿なんて加工してなんぼ。アナタの背景、ゆがんでますけど。みたいな感じなのに」
「意味の分からない事ばかり言うな。いい加減にしろ」
「いいじゃん。褒めてるんだよ」
「でも困ってるだろ」
「はい」
ヒカルはようやく口を閉ざした。
「じゃあ、改めて。三人とも、ありがとう。おかげで生きていけるよ」
場が落ち着いたので、改めて食料を運んでくれた事への感謝を告げた。
高崎と野村は小さく頷いて、ヒカルは、「大袈裟だな」と言って笑う。
ヒカルはエコバックの中を漁った。俺が何日寝込む事を想定しているのだろうか、大量の総菜やお菓子、缶詰などを引っ張り出した。
「助かるよ。今度、何か奢るからな」
「当然でしょ」
ヒカルは胸を張って、総菜を卓袱台の上に並べ始めた。
各々で手を洗ったり、箸を並べたりと準備をしてから食事が始まった。
およそ一日ぶりの食事は美味しく感じるのではないかと思ったが、あまり味がしなくて、体調はまだまだ本調子じゃないと思った。
その後も、黙々と総菜を食べ続け、三人が自己紹介や談笑する様子を黙って見届けた。
「やっぱりさ。お兄が素敵な女性二人も部屋に連れ込むなんて、信じられないよ。これが大学デビューってヤツ?」
「俺は連れ込んでない」
「外見を磨いている訳じゃないし、服装は未だにダサいアウトドアファッションのままだから、何が変化したのかは分からないけど」
ヒカルは腕組をして、考え込む様子を見せる。
「やっぱ、中身が良いのかな」
「急に褒められると気味が悪い」
「冗談っぽく聞こえたかもしれないけど、本当に良い所はあるんだよ。二人とも、聞きたくないですか?」
俺は「余計な事を言うな」と注意するが、野村と高崎は「聞きたい」と答えた。
「お兄は大学受験が終わってからすぐにバイトを始めたんだけどさ。アウトドアグッズとか、ゲームとか、自分の好きなものを好きなだけ買いあさって、お金がなくなるんだろうなあとか思っていたんだけど。父の日や母の日にはそれぞれプレゼントを贈っているし、私の誕生日には欲しかった鞄を買ってくれたんだよね。ほらこれ、結構可愛いでしょ」
そう言って、ヒカルは肩にかけた小さな鞄を見せびらかす。
「ね、良い所あるでしょ」
その言葉に、高崎と野村はしっかり頷いた。
「だから余計な事を言うなって。ちゃんとアウトドアグッズも買いあさってる」
「最初は悪く言ったけど、お兄は優しくてね、基本的には良い奴なんだよね」
ヒカルが俺を褒めては、高崎と野村が繰り返し頷いて同調する。妙な空間だと思った。
「だから、お兄に惹かれる二人の気持ちは分かるけど、この感じはやっぱりおかしいんじゃないかな」
「この感じってなんだよ」
俺が訊くと、ヒカルは、「お兄に言ってない」と答えた。
俺には言っていないようだが、高崎と野村は軽く俯いたまま、何も言わなかった。
本当に、妙な空間である。
「じゃあ、お兄の株を上げたところで、邪魔者は帰ります」
ヒカルは立ち上がり、さっさと玄関先に向かった。そして、「がんばって」と言い残し、部屋から出ていった。
好き勝手に話し尽くして、こちらが言葉をかける前に帰っていった。こういう所は俺に似ているかもしれない。
「じゃあ、二人とも、どうする?」
俺が訊くと高崎が、「私もそろそろ帰ろうかな」と言って立ち上がろうとした時。野村は、「待って」と言った。
「私は、ヒカルさんの言う通りだと思う」
「ヒカルの言う通りって、何が?」
「隼人君の前で心の内を秘めたまま、こうして過ごしているのは、おかしいと思うんだよ」
野村は声を震わせながら言って、スカートの裾を強く握り締めている。
「いや。心の内って言われてもさ。そんなの、分からないし。あいつの言っている事は、意味が分かっていないんだけど」
「本当は分かっているでしょ。私達が何の気もなく隼人君の家に来るはずがないって。それくらい分かってるでしょ」
「それは」
そうかもしれない。
委縮した俺の様子を見て、野村は、「ごめん」と謝った。
「だけど、今みたいに、本心を抑え込んで何でもないように割り切って過ごすのは、これ以上、難しい。だから、今の関係をこのまま続けるわけにはいかない」
野村の話を聞いていると、何となく嫌な予感がした。
「だから、今度こそ私は隼人君と付き合いたい」
野村に強い視線を向けられて、俺は言葉が出なかった。
「これまで、隼人君に認めてもらいたくて、アウトドアとSNSをがんばってきた。だけど、アウトドアでは未だに高崎さんには、敵わなくて。この先も、高崎さんに追いつけるか、分からない。それでは、これまでと何も変わらなくて、隼人君に認めてもらえないから、付き合う事はできない。それでも、何とかしたくて。考えてきたんだ」
野村は俺の目を見つめたまま話し続ける。
「アウトドアが駄目なら、SNSで私の実力を認めてもらうしかない。だから、私と隼人君の実力を比べてみたいんだ」
「実力を比べる?」
「私と隼人君で、SNSを使った勝負をする。そうすることで、私の実力を認めさせたい。得意分野で勝負するのは、卑怯かもしれないけど。私と付き合ってもいいって思ってもらうには、もう、それしか思い浮かばない」
「分かった、いや、本当はよく分からないけど。少し待ってもらえるか」
「うん。私がおかしな事を言っているのは分かっている。だから待つ。それまで、私も準備をする」
野村の言う通り、おかしな事を言っていると思う。だから、簡単に飲み込める話ではなかった。だが、それだけ必死で、真剣だという事はよく伝わってきた。だから、野村の気持ちを容易く蔑ろにはできない。
「隼人君も準備ができたら、教えてほしい」
「分かったよ」
俺の了承を聞くと野村は、「体調が悪いのに、こんな話して、ごめんなさい。これ、食べてね」と買い物袋を置いて立ち上がる。
掛ける言葉が見つからないまま、部屋から出ていく野村を見送る。
部屋の中は高崎と二人だけになり、余計静かになった。
「悪いけど。少し、しんどくなってきたから横になっていいか」
「うん」
俺はマットレスに倒れ込む。高崎は腰かけたままで俺の姿を見つめていた。
「あまり見られると恥ずかしいんだけど」
「ごめん」
高崎は少し上に目線を反らした。
「大丈夫かな。熱がぶり返さないといいけど」
「本当にそうだな」
高崎は沈黙して、再び静寂が訪れる。
野村の言う通り、高崎も何かの想いを抱いて、ここを訪れたのだろうか。もしそうだとすれば、考えるだけで嫌になってしまう。
「ヒカルが言っていたけど、俺はいままで碌に友達はいなくて、桜島とアウトドアの事ばかり考えていてさ。人の気持ちが本当に理解できなかったんだ。でも、ワンゲル部に入って、みんなと交流していく中で、少しずつ人の気持ちが分かってきたつもりでいたんだけど。それは勘違いだった。今日、こんな事になるなんてまるで思わなかった。正直、野村と勝負なんてしたくない。だけど、野村の事を簡単に裏切りたくもない」
「そうだね」
「どうすればいいのか。答えは分からないけど、こんな複雑な気持ちになるなら。以前のように一人でアウトドアをする方が気楽でいいんじゃないかって。思ってしまうんだよな」
「私達と離れて、アウトドアをするって事?」
「ああ。今はその方がいいと思うんだ」
高崎は、「そうなんだ」と無表情のまま言った。
「私も一人のアウトドアは好き。だけど隼人君とアウトドアをするのも好きだ。だから」
そこまで言って、高崎は口を噤んだ。
「だから?」
少し考える様子を見せて、高崎は口を開く。
「いや、何でもない。隼人君は、やりたい事をやる人だから。隼人君が一人でアウトドアをやりたいと思うならそれが良いと思う。だから、私に言える事は何もないや」
「そうだよな。やりたい事はやるべきだよな」
俺の言葉に、高崎からの返事はなかった。
お互いが再び、沈黙してしまったところで高崎は立ち上がった。
「お惣菜、温めるようか?」
「いやさっきの分で、割と満腹だな」
「そっか」
高崎は空いた総菜の容器を捨て、食材等の持ってきてくれた物の片づけまでしてくれた。
「じゃあ、気をつけてな」
「うん」
高崎が扉を閉めた途端、一人の世界が始まったように思えた。
また、どうしようもない変化が起きてしまった。
夢の詰まっていた一人の世界には、代わりに溜息が詰め込まれている。
どうやら流れ星に込めた願いは叶わなかったらしい。