5話 おかえりインフルエンサー
大学生活の四年間を通して、自分はいったい何者なのか、生涯を通して何ができる人間なのか。明確な目標を掲げて、そこへ進んでいくべきなのだと、大学の学長が入学式で語っていたのを覚えている。
それから数ヶ月経った七月下旬。初めての夏季休暇を迎えた。
大学の夏季休暇は非常に長いが、高校生までと違って課題などは一切与えられない。だから自由に過ごす事ができるのだと歓喜したものだが、いざ休暇を迎えてみると何をすればいいのか、何を目標に過ごせばいいのか分からない日々に悩まされる事になった。
休暇が始まり一週間が経つ頃には、気が遠くなるほどに長く続く空虚な時間に恐怖して震えた。
数日前にアウトドアはやらないのかと直井からメッセージが届いたが、夏はアウトドアのオフシーズンだ。近年の猛暑の中、外で過ごすなんて命取りだ。だが、この環境でもアウトドアに励む人は少なくない。そのほとんどはアウトドアの新参者達だ。
感染症の影響でアウトドア人口が増えており、新たにアウトドアを志す人達を歓迎している。しかし、危険な暑さの中でも構わずにアウトドアをやる新参者達の行動を認める事はできない。アウトドアは自然体で楽しむもので、暑さに耐えながらやるものではない。何故、命の危険を抱えながらアウトドアをするのか、理解できなかった。
新参者の行動で認められない事は他にもある。それはアウトドアを快適に過ごす為、グランピングという施設を利用したり、キャンピングカーに泊まったりする事だ。それはもはや、アウトドアではない、ただのインドアだろう。
俺の考えは古い。厄介な老害だと思われるのかもしれないが気にしない。俺は我が道を行く。
威勢よく息巻いているが、肝心の我が道というのは冴えないものである。
毎朝の桜島礼拝、短時間のアルバイト、部屋に籠ってゲーム三昧。それだけだ。
桜島を眺めている間は幸せだが、この暑さの中いつまでも眺めている事は叶わない。だから諦めて部屋に戻ると、そこからは虚しいだけの時間が続くのだ。桜島を眺める以外にまるでやりがいの無い日々。俺からアウトドアを取れば何も残らないのだと思い知らされた。自分が何者なのかを見つけるどころか、完全に自分を見失ってしまった。
だから俺はひたすら現実逃避をする事にした。
アパートの部屋に籠ってひたすらテレビゲームをして過ごした。実家に居た頃は、ずっと部屋に籠ってばかりだと妹から馬鹿にされたものだが、いまは誰にも咎められたりはしない。そうしている内に、ゲームのあらゆるやりこみ要素までクリアしてしまった。
俺は元々、アウトドアをするとき以外は家の中で過ごす事が多いので、家に引き籠もる事は嫌いではない。だが、夏季休暇は引き籠もって過ごすにはあまりにも長すぎる。引き籠もり、ゲームをするだけで何の生産性もなく時間を消費していると、精神が少しづつ消耗していくのを感じた。身体はリラックスしているのに精神を消耗するというのは気持ちが悪く、対処が難しい。
静かに時が流れるのを楽しむ事ができる人間ならば苦労をしないだろうが、俺にはそれができない。以前、実家の近所に住む老人が庭に植えた花に水やりをするだけで満足して一日を終えるのだという話を聞いた事があるが、そんな生き方は俺には到底できない。だから強く苦悩しているのだ。
これが自由の恐ろしさだ。不自由とは人の動きを縛り付ける鎖ではなく、動きを制限しながらも心身を守ってくれている鎧だったのだと思い知らされる。
それが分かった所で、どうしようもない。自由からは逃れられない。
このままでは、自由に圧し潰されて、死ぬ。
まだ、道半ばだ。ここでは終われない。
せめて、アウトドアはできなくとも、それに頼ろうと思った。
そうして、アウトドアと同様、しばらく距離を置いていたワンゲル部の部室を訪れた。
部室では、夏季休暇前から交際を始めたらしい長瀬と満重、それに加えて直井の三人がいて、テレビゲームをして遊んでいた。
「隼人、久しぶりだな。すっかり暑くてワンゲル部らしい活動は難しくなったな」
直井は俺を横目に見て、言った。
「こういう時はゲームをするに限るだろう。お堅い高校生の部活動じゃないから、目的を外れたっていいんだ。自由に楽しもう」
長瀬が言う。
自由に辟易していたところだが、そういう楽しみ方は悪くないと思った。
「隼人もやるか?」
「ああ」
ゲームに飽き飽きしてここへ来たというのに、再びゲームのコントローラーを握る事になるとは思わなかった。だが部屋に籠っている時より心が弾んだ。
「最近、何してたんだよ」
直井がゲームを操作しながら言う。
「バイトとゲーム」
「俺達と同じだな」
「休暇中なのにキャンパス内には学生がたくさんいて、驚いたよ。みんな暇なのか?」
「本格的な体育会系サークルは毎日活動しているし、研究に没頭している奴もいる。そういう人達を暇人扱いするのは間違っているけど、俺達のように暇を潰している連中もたくさんいるよ」
「人それぞれ、いろいろあるんだな」
「ああ、そうだな」
「それで、ワンゲル部はどうなんだ。集まっているのか」
「全くだ。山中は地元に帰省。高崎さんは仕事が忙しいみたいで。ここに来るのは俺達三人だけだ」
「高崎が仕事を?」
「親御さんが経営している旅館を手伝っているらしいよ、知らなかったのか」
「知らなかった」
「意外だな、親密な仲の二人なら知っていて当然だと思っていたが」
「何だよ、それ」
そう思われている事こそ、意外である。
動揺している隙に俺が操作しているゲームのキャラクターは画面外へ吹き飛ばされた。
「高崎さんがワンゲル部に加入したのは五月中旬くらいだっただろ。あれはゴールデンウィークに仕事が繁忙期を迎えていて、ワンゲル部で活動する余裕がなかったかららしい」
「せっかくの大学生活なのに、苦労しているんだな」
「本当だよ。だから今度、高崎さんの家に泊まりにいって、彼女を労う計画があるんだよ」
「泊まりにいくってなると、高崎にとっては仕事が増えて余計な負担になるんじゃないのか」
「いや、そもそも本人から泊まりにきてほしいって、歓迎してきたんだよ」
「何というか、アイツがそんな事を言うのは珍しいな」
「ああ。だから、みんなで行って、楽しもうと思ってるんだ。勿論行くよな」
「考えとく」
「何だよそれ」
俺はアイテムのハンマーを入手すると、軽快なリズムに乗りながらハンマーを振り下ろしていき、全員を吹き飛ばした。
敗れた三人の溜息が漏れた瞬間、部室の扉をノックする音が部屋中に響いた。
ワンゲル部のメンバーはいつも乱暴に扉を開けて入ってくるものだ。だから部室の扉が丁寧にノックされるなんて事は初めてで、全員が顔を見合わせる。
一呼吸置いて長瀬が、「どうぞ」と声をかけた。
すると、蝶番を軋ませながら扉がゆっくりと開いた。扉の先にはマッシュルームのような髪型で、髪を緑か銀なのかよく分からない色に染めた猫背気味の女子が立っていた。
「すみません。桜島ワンダーフォーゲル部の部室って、ここで合ってますか」
「はい、その通りですよ」
長瀬が立ち上がって、答える。
「あの。初めまして。それで、私は、この大学の一回生で、野村と言います」
彼女は頭を下げる。
「いきなりで申し訳ない、ですが。私は、登山とか、キャンプを、始めたいと思っていて。だから、このサークルにも興味があって、よければ、見学を、させてもらえませんか」
緊張しているのか、たどたどしい話し方が印象的である。
「お安い御用ですよ」
長瀬は調子良く了承したが、今の俺達はアウトドアとは程遠い行為に耽っているではないか。そこを見学とはどうすればよいのか、困ったものである。
「ありがとうございます。ここは、ホームページとか、SNSとかが無かったので、こうして来てみました。急に押しかけたみたいになって、迷惑だったらごめんなさい」
「いえ、ありがたいです。歓迎しますよ。それでは、サークルの説明から始めさせてもらいますね」
長瀬は率先して立ち上がり、野村を招き入れると、我々の活動内容について語り始めた。俺達は空気を読んでゲームの片づけをする事にした。
それにしても夏季休暇に入ってからサークル探しをしているとは、ずいぶんと出遅れたものである。彼女も高崎と同じように何か事情があるのだろうか。
野村を観察していると、彼女と目が合った。拙劣な話し方と、猫背気味の姿勢が覇気のない印象を与えるが、彼女の丸く大きな瞳は非常に存在感があった。
その後、野村の話を聞いていると、SNSを見てアウトドアに興味を持った事、大学内のアウトドア系サークルをいくつか見学している途中である事が分かった。
長瀬は積極的に野村を加入させたいようで、さっそく予定を組み立て始めた。
「桜島へ泊まるのは数週間先だし、本格的なアウトドア活動の予定も今はない。だから、今日のところはアウトドア用品の買い物に付き合ってみませんか」
「はい。ぜひ、お願いします。アウトドアの買い物は、行ったことがないので、楽しみです」
野村は再び頭を下げた。
「買い物に行くなんて、珍しいじゃないか」
アウトドア用品の買い物をするなんていうのは初めての事なので、俺は驚いて言った。
「実はワンゲル部のこれまでの活動が認められて、大学から助成金を貰えたんだ」
「それは凄いな」
ワンゲル部の一体何を認めてもらえたのか。疑問である。
「さっそく助成金でアウトドアの備品を揃えたい。そして、この買い物を通して野村さんにはワンゲル部の雰囲気を知ってもらおう」
そう言って長瀬は身支度を始めたので、俺達も慌てて準備をする。
路面電車に乗って到着したのはアウトドア用品の専門店が入った複合商業施設だ。
先導する長瀬は見学者の野村と何やら語り合っていて、俺達はその後をついていく。
「まさか、あんな可愛い子が見学に来るとは、我々の大学生活は幸先が良いな」
直井は野村の後姿を見て言う。
「相変わらず、そればっかりだな」
「勿論だ。彼女の今時っていう感じの身なりに目が行くかもしれないが、野村さんの魅力は瞳だ。あの麗しい瞳で見つめられた時、俺達みたいな冴えない男子が冷静で居るのは難しいだろう」
「そうかもしれないな」
確かに、野村の瞳に視線を引き付けられたのは事実だ。
「やっぱり、ああいう感じの娘が男子には人気なのかなあ」
隣を歩く満重が言った。
「いや、まあそうだが。何というか、気の多い彼氏を持つと大変だな」
「別に嫉妬してるわけじゃないから」
満重が少し言葉を強くすると、直井はヘラヘラ笑った。
「それより。私、野村さんとは前にどこかで会ったような気がするんだよね」
「昔の同級生じゃないのか」
「同級生ならすぐに思い出せるんだけど」
満重が腕組をして熟考を始めたところで、アウトドア専門店のエリアへ到着する。
ここは県内では最大規模のアウトドア用品店で、視界の全てがアウトドア用品で埋め尽くされるほどに充実している。だから、入店して、この景色を眺めた途端、俺は心が躍った。
「それじゃあテントを買おう。健全な桜島ワンダーフォーゲル部は男女別でテントを用意する。同じ空間で寝泊まりなんてしない。だからテントは二張りだ。じゃあ隼人先生、案内よろしく」
そう言って長瀬は俺の肩を叩いた。
都合の良い奴である。とはいえアウトドア用品について語るのは嫌いではないし、最高の空間に居るため気分が良い。そして何より、俺の可愛いアウトドア用品を貸し出さなくてよくなるのだから、一肌脱ぐしかないだろう。
「予算の事を考えると、高級なブランド品には手を出せないが、手頃な価格で品質の良い物は購入できる。ブランド品は基本的に自己満足の領域だから、気にしなくていい」
「ほお」
「テントに寝るためのスペースがあるのは誰でも知ってると思うが、そのスペースと連結している前室が用意されているタイプがあるんだ」
「ほお」
「前室って言うのは屋根の下でくつろげるスペースの事だ、簡単に言えば、タープの代わりだ。タープっていうのは分かるよな、ナイロンとかの布一枚でできた屋根みたいなやつだ。もちろんタープを別で購入した方が良いのは間違いないが、そこまで贅沢はしていられないだろう」
「ほお」
長瀬は適当に聞き流しているのだろう。鳩の物真似をしているみたいに、ほおほおと繰り返す。一方、野村は熱心に頷いており好印象だったので、聞かせてやりたいアウトドアの情報が頭の中に次々と浮かんできてはアウトプットした。
蘊蓄を語るだけでなく、店内を入念に見て回り、購入するテントを決めた。そこで満足した長瀬は各自、この施設内を自由に移動するように号令を出した。
長瀬達は思った通り、さっさとここを離れてスターバックスだとかに行くようだった。
俺はそんな所に興味は無いので、引き続きアウトドア用品を眺めて回る事にした。
ここは歩いているだけで幸福感に包まれる夢の国だ。この素晴らしさに共感し、語り合える人間がいないのは少し寂しく思える。思い浮かぶのは、やはり高崎の姿だ。アウトドアに対する情熱の強い、彼女の存在が恋しくなってしまう。
上の空で並べられた商品を眺めていると、「ねえ」と背後から声をかけられた。
声の主は野村だった。
「野村さんか」
「うん。隼人君、だよね」
「ああ、野村さんはあいつらについていかなかったのか」
「そうなんだ。私、アウトドアに、本気で取り組みたくて、もうちょっと、見てみたかった、かな」
「素晴らしい」
非常に良い志であり、良い判断である。
「アウトドアのサークルをいくつか見て回ってるんだっけ」
「そう、いくつか見学させてもらってから、どこに加入するか、決めようと思う」
「そうだったのか。そこまで本気なら。ここより、いいサークルがあると思うよ」
「え。そうなの、どうして?」
野村は分かりやすく動揺してしまっているようだ。だが、本気でアウトドアをやってみたい人間にとって、ワンゲル部がふさわしくないのは間違いないだろう。
「ここまでの様子でなんとなく伝わっていると思うけど、このサークルはそこまで本気でアウトドアに取り組んでいる訳じゃないんだ」
「そっか」
野村は呟いて、俺を見つめてくる。
「でも、隼人君は、本気だよね」
「まあ、それはそうだけど」
「そうだよね。それはすごく、伝わってくる。失礼だから、言わなかったんだけど、アウトドア系のサークルを見学するのは、ここで最後なんだ」
「え、大学のサークルを全て回ったって事か?」
「そう。公認されているアウトドア系のサークルは全部見学させてもらった」
野村はハッキリと言い切った。
大した根性である。
「ほかのサークルは、男女の出会いが目的になっていたり、集まってお酒を飲みに行きたいだけとか、何となく時間を潰したいだけ、とか。アウトドアがオマケになっていて、明確な目的の定まっていないサークルが多かった」
「本気で取り組んでいるところは少ないのか」
周りの状況を知らなかったが、大学のサークルというのは大概がそんなものなのだろうか。
「もちろん、真面目に取り組んでいるサークルはあるけど。隼人君ほど、アウトドアへの情熱を持っている人は、居なかった、かな」
「そうなのか」
「うん」
野村は頷く。
「このサークルに入らせてもらうかは、まだ分からないけど。良ければ、アウトドア用品について、もう少し教えてもらえないかな」
「別にいいけど」
誇らしくて仕方がなく、照れ隠しでそっけない言葉を返してしまったが、早く教えてあげたかった。
俺の脳内でアウトドアの情報達が楽しく踊るように駆け巡っていく。
「欲しい物は決まっているのか」
「とりあえず、キャンプで使う道具かな。ソロキャンプができる位の道具は揃えたいな」
「分かった。じゃあ、ついてきてくれ」
俺は案内する順番を決めて移動する。
「ソロキャンプはとにかくコンパクトなものが良い。そして、必要最低限の物を用意するのがマストだ。最近は企業側が無駄な物を巧みに売りつけてくるから気をつけないといけない。あれは企業側の戦略だ。まんまと騙されて要らない物を買わされる奴が多い、それでは資本主義の奴隷だ。そういったしがらみから解き放たれてこそのアウトドアなんだ、そこは念頭に置くべきだ」
「そっか、分かった」
つい、語り口に熱が入るが野村は俺の言葉に深く頷いてくれる。長瀬達とはまるで違う態度だ。これも気分が良い。
「あ、これ、気になってたんだ」
野村が陳列棚に並ぶメスティンを指さした。
「メスティンか。それも良いが、飯盒はどうだ。武骨でイケてるだろ」
俺は陳列棚からソラマメ型の飯盒を取って渡す。
「こういうのもあるんだ。昔ながらの、レトロな道具って感じで、いいね」
「その通りだ。レトロブームにはストライクかもしれない。世間はメスティンを推しているが、そろそろ飯盒人気が回帰しても良さそうだよな」
「隼人君は、飯盒推しなんだね。でも、メスティンは駄目なの?」
「メスティンの使い勝手が悪いとかではないけど、ベテランキャンパーからすれば邪道だと思われている節はある。だけどメスティンの本場ではだいぶ昔から使われている物らしいから簡単に邪道とは言い切れない。それでも認められない人が多いのは、飯盒に対する拘りの強さからだろうな」
「そうなんだね」
「だけど、飯盒は本当に魅力的だと思うぜ。炊飯する時は業火の中に飯盒をそのまま突っ込むんだ。沸騰したお湯の力で蓋が浮き上がってくるから、拾った木の枝で蓋をボコボコに殴って抑え込むんだ」
「殴るのがいいの?」
「そうだ。そうやって酷使していく内に飯盒は外観に味が出て、自分だけの飯盒に育っていき愛着が湧いてくる。こんな楽しみ方はメスティンにはできないんだよ」
「それは、本当に楽しそう」
「ああ。飯盒は本当に良い物だ。まあ、長々と語ってしまったけど最初に買うなら扱いやすいメスティンの方が良いかもしれないな。邪道だとか言いながら俺も一つ持ってるし、便利なのは間違いない」
「そっか。メスティンはSNSで知ったんだけど。飯盒は知らなかったな。飯盒も魅力的だけど、最初だから、メスティンにしようかな」
そう言って、野村は買い物籠にメスティンを入れる。
「野村さんは、SNSでアウトドアに興味を持ったって言っていたよな」
「うん。隼人君は、SNSやってるの?」
「いや、やったことがない。そういうのはかなり疎いな」
「そっか。それは、良かった」
「良かったって、何だよ」
「いや、何でもない」
野村はよく分からない反応を見せる。少し気になったが、追及はしなかった。
その後もアウトドアについて長々と語りつくした結果、野村にいろいろな物を買わせてしまったが、彼女は満足している様子だった。
アウトドア専門店を出て、そろそろ長瀬達と合流するべきか考えていると、高校生だろうか、制服姿の女子二人組が近寄ってきた。
「あのお」
二人組の一人が、声を掛けてきて、野村が後退りする。
「もしかして。ノムさんじゃないですか?」
女子高生は続けて訊ねてくる。
その途端、野村の顔が引き攣るのを見た。
「いや。人違い、です」
野村は否定し、顔を伏せた。すると二人組は、「そうですか」と言い、二人揃って首を傾げながら去っていく。
女子高生は野村の知り合いではなかったのか。『ノムさん』というのは、察するに野村の仇名ではないのだろうか。だが、人違いとは、ただの偶然だったのだろうか。
疑問が次々と浮かび、野村を見ると、彼女の姿は無く。ずいぶんと前方へ、足を進めていた。
どうやらここから逃れようとしている様子だ。恐らく女子高生とのやり取りが勘消しているのだろうが、事情がさっぱり分からない。分からないが、追いかけるしかない。
野村はエスカレーターで上のフロアへ向かう。彼女を見失わないように早足でついていく。そして施設の屋上に着くと、野村は併設のカフェへ入店していった。
「何なんだよ」
俺は愚痴を溢してから、急いで店へ入る。
案内にやってきた店員へ野村の連れである事を説明すると、彼女の座るテラス席へと案内された。
野村は俺の姿を確認すると目を反らすように俯いた。
俺は気後れしながらも、彼女の正面に立つ。
「見学中の人間が居なくなるのを黙って見送る訳にはいかないから勝手についてきたけど。座っていいか」
「うん」
「それで、大丈夫なのか?」
「うん、まあ、大丈夫」
大丈夫とは言ったが、野村は俯いたままで、何も話したくない様に見える。
アウトドアについて多少語り合ったとはいえ、ほとんど初対面の相手に事情を話せないというのは当然だろう。
こんな時、どうすればいいのか懸命に考えてみる。
「そういえば。この店は、俺も以前から気になっていたんだが。何というかお洒落な所で、男一人では入りにくいから敬遠してたんだ」
「確かに、内装が凝ってるから、男の人は入りにくいかも。だけど、ここはSNSで人気のお店だから。私も、たまに来るんだ」
「そうか。想定外だったけど。こうして来れてよかったよ」
「うん。よかった」
話している内に店員が注文を訊きにきた。野村は、これがオススメだと言って、ブレンドコーヒーとケーキのセットを頼んだので、俺も同じものを注文した。
「俺が特に気になっていたのはこのテラス席だ。この席から眺める桜島は別格なんじゃないかと思っていたんだ」
「実際に座ってみて、どうだった?」
「予想通り。いや、予想を容易く飛び越える程に最高だ。海沿いにある建物の屋上だから桜島を遮るものは何もないし、桜島を眺めながら優雅に過ごす事のできる空間は多くない。だから唯一無二で、最高だ」
俺が熱く語っていると、野村は微笑んで見せた。
「桜島が好きなんだね」
「好きだ。俺より桜島を好きな奴は居ないほどに、好きだ。いや、一人ライバルはいるんだが」
「ライバルがいるんだね」
「ああ、なかなか厄介な奴がいる。だがまあ、そんな事はいい。俺は野村さんに感謝している」
「感謝って、どうして?」
「こうして桜島の違った表情を見られたからだ。海沿いで見晴らしよく桜島を眺める事のできるスポットは桜島フェリー乗り場とか、色々あるけど、ここは鹿児島市内でもかなり南側の位置にあるだろ。南側の、この角度から、眺める桜島はまた違った魅力がある。それに加えて、この空間だ。この上ない喜びで興奮が収まらない。今だってほら、言葉が止まらないんだ」
「そっか、それは良かった」
「野村さんは桜島の力を感じないか?」
「桜島の力?」
「そうだ。桜島が分けてくれる力だ。その力を身体に授かると、全身から活力が漲ってくるんだ。更に、桜島に向かって耳をすませば、桜島の声が聞こえたりもする。野村さんもそれを感じないか?」
「んん」
「どうだ」
「感じないかな」
残念だ。俺は項垂れる。
「あの、さっきは飛び出すように店を出て、ごめんなさい。あと、追いかけてきてくれて嬉しい、です」
「別に、いいよ。何か事情があるんだろうし」
「うん、実は、私ね。インフルエンサーだったの」
「インフルエンサーってなんだっけ」
聞いた事はあるが、馴染みのない言葉だ。
「ざっくり言えば。SNS上のフォロワーが多くて、主に若い人から注目を浴びるような人達。良くも悪くも、影響力があるんだ」
分かったような、分からないような。
それはともかく。どういう訳か、野村の心境が変わって事情を話す気持ちになったようだ。
「それで、野村さんもインフルエンサーの一人ってことか」
「うん、前はね。でも、信じられないよね」
「確かに、野村さんのイメージとはかけ離れてるな。だけど、さっき女子高生に声をかけられたのはそれが理由って事だろ。ノムさんとか言ったか」
「そう。安直だけど、名字が野村だから、『ノム』っていう名前で、SNSの活動をやっていたんだ」
「SNSの活動っていうのは、写真とか、動画を投稿する奴だよな」
「そんな感じ。気に入った場所とか、食事の写真をSNSに投稿するんだ」
「だけどその活動は辞めてしまったのか」
「うん。色々嫌な事があって辞めた。だからあの人達に話しかけられた時は、嫌な事を思い出して、逃げてしまったんだ」
「相当嫌な想いをしたんだな」
「うん、私なりに本気でSNSの活動に向き合っていたんだけど。その反動で、疲れたんだ」
「疲れた?」
どこまで追及していいのか分からないながらも相槌を打っていく。
「高校一年生くらいかな。私のアカウントが注目され始めた頃は、この写真のここが可愛いとか、この景色が美しいとか、私の投稿を褒めてくれるメッセージが多くて、その全てが嬉しくて、本当に楽しかった。だけど、更にフォロワーが増えていって、いろんな人達に見られるようになってからは、私を批判してくるようなメッセージも届くようになってきたんだ。私の投稿に対して、ほんの些細なことを取り上げて、粗探しをするみたいに嫌な言葉をぶつけてくるんだ」
「何だよそれ、そいつは赤の他人だろ。どこの誰とも知れない奴が、嫌がらせをしてくるのか?」
「おかしいよね。だけど、SNSでは、よくある事なんだ」
「そうなのか」
SNSとは、なかなか恐ろしい場所である。
「当時は感染症の行動制限が厳しい時期だったというのもあって、私が投稿する度に感染対策が不十分だ、感染拡大を助長しているとか、そんなメッセージがいつも付き纏ってきた。批判が来る度に、行動と対策を変えていると、いつしか、何もできなくなった。仕方なく部屋の中に籠って、普段の生活を写真に撮って投稿してみると、面白みがないとか、才能が枯れたとか言われたりして」
「それは本当に酷い話だな」
「うん。それで、私一人では耐えられなくなって、親に相談したけど、SNSの事はよく分からないって言われて、学校の先生に相談してみると、SNSに投稿をするから悪いと言われて、親身になって話を聞いてくれる人は一人も居なかった。だから、自分で抱え込むしかなくて。どうにか乗り越えようとして、SNS上にいる人は赤の他人だから、何を言われても気にする事はないって自分に言い聞かせてみたら、今度は私を応援してくれている人達の言葉まで無意味なものに思えてしまった。その頃には、街中で知らない人に話しかけられる事が増えてきた。そういう時は、応援してもらえて嬉しかったけど、いつかは酷い言葉を浴びせられるんじゃないか、って怖くなったりして。そういう苦しさと不安が積み重なって、耐えられなくて。SNSの投稿を辞めたんだ」
野村は想像していた以上に、苦しい想いをしていたようで、かけるべき言葉が見つからなかった。
「SNSへの投稿を辞めたら、私には何もなくなった。情熱も夢も持たずに、ただ受験勉強をするだけの時期を過ごしてきた。そんな中で、アウトドアを知った。アウトドアは自然に囲まれながら人と交流するっていう、SNSとは真逆の存在だから、魅力を感じたんだ」
「だから、アウトドアをやってみたくなったんだな」
「うん。でも何だろう。こんなにたくさん話して、悩みを打ち明けられたのは初めてだ。きっと、隼人君がアウトドアの事とか、桜島の事とかを熱心に話してくれたから。隼人君の、強い情熱に触れる事ができたからだ」
「それは良かったけど、俺は少し話過ぎたな」
「いや、私の方こそ、だよ。でも、おかげでスッキリした。気が、楽になった」
俺自身、他人の悩みを受け止めるのは初めての事だったが、どういう訳か、悪い気分ではなかった。それは何だか自分らしくない気がして、不思議な気分だ。
話が一段落したタイミングで店員がコーヒーとケーキのセットを運んできた。
俺はさっそくコーヒーに口をつける。コーヒーの味に違いがあるかなんて正直分からないが、野村は頷きながら飲んでいるので、きっと美味しいのだろう。
「アウトドアを始めるのは素晴らしい事だが、SNSを再開してみるのもいいんじゃないか?」
「SNSを?」
「ああ。ここへ来るまでも、野村さんはSNSの話をしていたし。嫌な事があった時、SNSで話題になっている店へ咄嗟に逃げ込むくらいだから、やっぱりSNSが好きなんだろうと思ってさ」
「それは、そうかもしれないけど」
「まあ、無理に始めろとか言いたい訳じゃないけどさ。SNSが好きなのにやらないでいるのは、勿体ないと思ったんだよな」
「勿体ないかな」
「勿体ないよ。俺自身も、環境が悪かったとか、運が悪かったとか、そういう理由でやりたい事を諦めたりしていたんだ。だけど、少し前に起きた出来事がきっかけで、諦める事はしない。やりたい事は最後までやり通す。そうしないと、ずっと後悔するって考えるようになったんだ。だから、野村さんにもやりたい事を諦めないでほしいと思うんだよ」
野村は、俺を見つめた後に俯いて考えた様子を見せる。
「確かに、SNSは好きかもしれないし、やってみたい気持ちもある。でも、やっぱり。SNSが怖いっていう気持ちが強いから、簡単には、始められないかな」
「…そうか」
すぐには割り切れない事で、野村にとってそれほど辛い体験だったのだろう。
SNSの状況をよく知らないままで、深入りしすぎただろうか。
俺は熱く語り過ぎた事を反省しながら、フォークを手に取りケーキを小さく切った。
・
あれから数日経っても、部室に野村は現れなかった。
どこか別のサークルに加入してしまったのか分からないが、アウトドアを楽しむ事ができれば良い、いずれSNSが再開できれば更に良いだろうと思っていた。
この日は、まだ午前八時だというのにひどく暑い。なるべく外出を控えたいところだが毎朝のルーティンを欠かす事はできないので、この日もフェリー乗り場で桜島の礼拝に励んでいた。
暑さは厳しいが、快晴により桜島の眺望は文句なしだ。
俺は桜島へ向かって合掌し、黙想していると、背後から「何してるの」と声をかけられた。
以前もこんな事があったなと思いながら振り返ると、そこには野村が立っていた。
「桜島の礼拝だよ。毎朝の日課だ」
「モーニングルーティンだね」
「そんなところだな。それで、野村さんこそ、何してるんだよ」
「この間、フェリー乗り場の眺めが良いって、隼人君が話していたから。ちょっと見学して、写真でも撮ってみようと思ったんだ」
「それは素晴らしいが、写真を撮りにきたって事はもしかしてSNSを始めるのか?」
「うん。色々考えたんだけど。また始めてみようかな、と思って」
野村はもじもじとして、話しにくそうにしている。
「隼人君が桜島や、アウトドアについて話している姿は、本当に楽しそうだったから。内に籠って、悩んでいるのは、無駄な事で、後悔するだけ。だから、SNSやアウトドアで人と関わりたい。やりたい事は何があってもやり通すべきかもしれないって、思ったんだ」
「そうか」
彼女の明るくなった表情を見て、俺は安心した。
「SNSの悩みっていうのは理解できなかったけどさ。何であれ楽しんだ奴の勝ちだと思うぜ」
「ありがとう。楽しまないと、損だよね。SNSとアウトドアの両方に挑戦して、楽しんでみる。だから、桜島ワンダーフォーゲル部に入会させてもらう事にもなったんだ」
「そうなのか。それは良かった。歓迎するよ」
「うん。良ければ、これからも色々と教えてほしい」
「勿論だ。何でも聞いてくれよ」
「ありがとう。よろしくお願いします」
野村は頭を下げた。
アウトドアを始める仲間が増えてくれたのは素直に嬉しく、桜島の魅力も何となく伝わっている気がして、気分が良かった。
こうして野村が決断できた事は桜島に力を与えてもらったおかげではないだろうか。
「さっそくなんだけど、写真を撮ってもらえないかな。桜島の見える、この景色を投稿して、SNSを再開したくて」
「それは良い心意気だ。桜島の声も聞こえてきたんじゃないか」
「いや、まだ、聞こえないかな」
その後、野村に細かく指示を受けながら何度も写真を撮り続けた。
普段の姿からは想像できないほどに野村は真剣な表情を作り、様々なポーズを取って見せた。
撮影を終えた後、野村は写真を確認しながら顔を綻ばせ、心底嬉しそうにした。彼女は常に陰気な印象があったので、この姿を見て何だか安心してしまう。
「早速だけど、アウトドアについて、教えておきたい事があるんだ」
「うん」
「この前、野村さんはアウトドアについて、人と直接会って交流をするところが魅力的だって言っていたよな。だけど、それは全く逆なんだ」
「え、そうなの?」
「人や社会から解放されて、自然に溶け込み、自由に過ごす事がアウトドアの魅力だと俺は思うんだ」
「そうなんだ。でも、それはそれで。良かったかな」
「それならいいけど、やっていけそうか」
「うん、楽しみだよ」
そう言って、野村は笑った。
撮影の後。野村がお気に入りだと言って見せてきた写真の背景では、桜島が噴煙を上げており、彼女の決意を讃える祝砲のようだった。
「とりあえず、キャンプで使う道具かな。ソロキャンプができる位の道具は揃えたいな」
「分かった。じゃあ、ついてきてくれ」
俺は案内する順番を決めて移動する。
「ソロキャンプはとにかくコンパクトなものが良い。そして、必要最低限の物を用意するのがマストだ。最近は企業側が無駄な物を巧みに売りつけてくるから気をつけないといけない。あれは企業側の戦略だ。まんまと騙されて要らない物を買わされる奴が多い、それでは資本主義の奴隷だ。そういったしがらみから解き放たれてこそのアウトドアなんだ、そこは念頭に置くべきだ」
「そっか、分かった」
つい、語り口に熱が入るが野村は俺の言葉に深く頷いてくれる。長瀬達とはまるで違う態度だ。これも気分が良い。
「あ、これ、気になってたんだ」
野村が陳列棚に並ぶメスティンを指さした。
「メスティンか。それも良いが、飯盒はどうだ。武骨でイケてるだろ」
俺は陳列棚からソラマメ型の飯盒を取って渡す。
「こういうのもあるんだ。昔ながらの、レトロな道具って感じで、いいね」
「その通りだ。レトロブームにはストライクかもしれない。世間はメスティンを推しているが、そろそろ飯盒人気が回帰しても良さそうだよな」
「隼人君は、飯盒推しなんだね。でも、メスティンは駄目なの?」
「メスティンの使い勝手が悪いとかではないけど、ベテランキャンパーからすれば邪道だと思われている節はある。だけどメスティンの本場ではだいぶ昔から使われている物らしいから簡単に邪道とは言い切れない。それでも認められない人が多いのは、飯盒に対する拘りの強さからだろうな」
「そうなんだね」
「だけど、飯盒は本当に魅力的だと思うぜ。炊飯する時は業火の中に飯盒をそのまま突っ込むんだ。沸騰したお湯の力で蓋が浮き上がってくるから、拾った木の枝で蓋をボコボコに殴って抑え込むんだ」
「殴るのがいいの?」
「そうだ。そうやって酷使していく内に飯盒は外観に味が出て、自分だけの飯盒に育っていき愛着が湧いてくる。こんな楽しみ方はメスティンにはできないんだよ」
「それは、本当に楽しそう」
「ああ。飯盒は本当に良い物だ。まあ、長々と語ってしまったけど最初に買うなら扱いやすいメスティンの方が良いかもしれないな。邪道だとか言いながら俺も一つ持ってるし、便利なのは間違いない」
「そっか。メスティンはSNSで知ったんだけど。飯盒は知らなかったな。飯盒も魅力的だけど、最初だから、メスティンにしようかな」
そう言って、野村は買い物籠にメスティンを入れる。
「野村さんは、SNSでアウトドアに興味を持ったって言っていたよな」
「うん。隼人君は、SNSやってるの?」
「いや、やったことがない。そういうのはかなり疎いな」
「そっか。それは、良かった」
「良かったって、何だよ」
「いや、何でもない」
野村はよく分からない反応を見せる。少し気になったが、追及はしなかった。
その後もアウトドアについて長々と語りつくした結果、野村にいろいろな物を買わせてしまったが、彼女は満足している様子だった。
アウトドア専門店を出て、そろそろ長瀬達と合流するべきか考えていると、高校生だろうか、制服姿の女子二人組が近寄ってきた。
「あのお」
二人組の一人が、声を掛けてきて、野村が後退りする。
「もしかして。ノムさんじゃないですか?」
女子高生は続けて訊ねてくる。
その途端、野村の顔が引き攣るのを見た。
「いや。人違い、です」
野村は否定し、顔を伏せた。すると二人組は、「そうですか」と言い、二人揃って首を傾げながら去っていく。
女子高生は野村の知り合いではなかったのか。『ノムさん』というのは、察するに野村の仇名ではないのだろうか。だが、人違いとは、ただの偶然だったのだろうか。
疑問が次々と浮かび、野村を見ると、彼女の姿は無く。ずいぶんと前方へ、足を進めていた。
どうやらここから逃れようとしている様子だ。恐らく女子高生とのやり取りが勘消しているのだろうが、事情がさっぱり分からない。分からないが、追いかけるしかない。
野村はエスカレーターで上のフロアへ向かう。彼女を見失わないように早足でついていく。そして施設の屋上に着くと、野村は併設のカフェへ入店していった。
「何なんだよ」
俺は愚痴を溢してから、急いで店へ入る。
案内にやってきた店員へ野村の連れである事を説明すると、彼女の座るテラス席へと案内された。
野村は俺の姿を確認すると目を反らすように俯いた。
俺は気後れしながらも、彼女の正面に立つ。
「見学中の人間が居なくなるのを黙って見送る訳にはいかないから勝手についてきたけど。座っていいか」
「うん」
「それで、大丈夫なのか?」
「うん、まあ、大丈夫」
大丈夫とは言ったが、野村は俯いたままで、何も話したくない様に見える。
アウトドアについて多少語り合ったとはいえ、ほとんど初対面の相手に事情を話せないというのは当然だろう。
こんな時、どうすればいいのか懸命に考えてみる。
「そういえば。この店は、俺も以前から気になっていたんだが。何というかお洒落な所で、男一人では入りにくいから敬遠してたんだ」
「確かに、内装が凝ってるから、男の人は入りにくいかも。だけど、ここはSNSで人気のお店だから。私も、たまに来るんだ」
「そうか。想定外だったけど。こうして来れてよかったよ」
「うん。よかった」
話している内に店員が注文を訊きにきた。野村は、これがオススメだと言って、ブレンドコーヒーとケーキのセットを頼んだので、俺も同じものを注文した。
「俺が特に気になっていたのはこのテラス席だ。この席から眺める桜島は別格なんじゃないかと思っていたんだ」
「実際に座ってみて、どうだった?」
「予想通り。いや、予想を容易く飛び越える程に最高だ。海沿いにある建物の屋上だから桜島を遮るものは何もないし、桜島を眺めながら優雅に過ごす事のできる空間は多くない。だから唯一無二で、最高だ」
俺が熱く語っていると、野村は微笑んで見せた。
「桜島が好きなんだね」
「好きだ。俺より桜島を好きな奴は居ないほどに、好きだ。いや、一人ライバルはいるんだが」
「ライバルがいるんだね」
「ああ、なかなか厄介な奴がいる。だがまあ、そんな事はいい。俺は野村さんに感謝している」
「感謝って、どうして?」
「こうして桜島の違った表情を見られたからだ。海沿いで見晴らしよく桜島を眺める事のできるスポットは桜島フェリー乗り場とか、色々あるけど、ここは鹿児島市内でもかなり南側の位置にあるだろ。南側の、この角度から、眺める桜島はまた違った魅力がある。それに加えて、この空間だ。この上ない喜びで興奮が収まらない。今だってほら、言葉が止まらないんだ」
「そっか、それは良かった」
「野村さんは桜島の力を感じないか?」
「桜島の力?」
「そうだ。桜島が分けてくれる力だ。その力を身体に授かると、全身から活力が漲ってくるんだ。更に、桜島に向かって耳をすませば、桜島の声が聞こえたりもする。野村さんもそれを感じないか?」
「んん」
「どうだ」
「感じないかな」
残念だ。俺は項垂れる。
「あの、さっきは飛び出すように店を出て、ごめんなさい。あと、追いかけてきてくれて嬉しい、です」
「別に、いいよ。何か事情があるんだろうし」
「うん、実は、私ね。インフルエンサーだったの」
「インフルエンサーってなんだっけ」
聞いた事はあるが、馴染みのない言葉だ。
「ざっくり言えば。SNS上のフォロワーが多くて、主に若い人から注目を浴びるような人達。良くも悪くも、影響力があるんだ」
分かったような、分からないような。
それはともかく。どういう訳か、野村の心境が変わって事情を話す気持ちになったようだ。
「それで、野村さんもインフルエンサーの一人ってことか」
「うん、前はね。でも、信じられないよね」
「確かに、野村さんのイメージとはかけ離れてるな。だけど、さっき女子高生に声をかけられたのはそれが理由って事だろ。ノムさんとか言ったか」
「そう。安直だけど、名字が野村だから、『ノム』っていう名前で、SNSの活動をやっていたんだ」
「SNSの活動っていうのは、写真とか、動画を投稿する奴だよな」
「そんな感じ。気に入った場所とか、食事の写真をSNSに投稿するんだ」
「だけどその活動は辞めてしまったのか」
「うん。色々嫌な事があって辞めた。だからあの人達に話しかけられた時は、嫌な事を思い出して、逃げてしまったんだ」
「相当嫌な想いをしたんだな」
「うん、私なりに本気でSNSの活動に向き合っていたんだけど。その反動で、疲れたんだ」
「疲れた?」
どこまで追及していいのか分からないながらも相槌を打っていく。
「高校一年生くらいかな。私のアカウントが注目され始めた頃は、この写真のここが可愛いとか、この景色が美しいとか、私の投稿を褒めてくれるメッセージが多くて、その全てが嬉しくて、本当に楽しかった。だけど、更にフォロワーが増えていって、いろんな人達に見られるようになってからは、私を批判してくるようなメッセージも届くようになってきたんだ。私の投稿に対して、ほんの些細なことを取り上げて、粗探しをするみたいに嫌な言葉をぶつけてくるんだ」
「何だよそれ、そいつは赤の他人だろ。どこの誰とも知れない奴が、嫌がらせをしてくるのか?」
「おかしいよね。だけど、SNSでは、よくある事なんだ」
「そうなのか」
SNSとは、なかなか恐ろしい場所である。
「当時は感染症の行動制限が厳しい時期だったというのもあって、私が投稿する度に感染対策が不十分だ、感染拡大を助長しているとか、そんなメッセージがいつも付き纏ってきた。批判が来る度に、行動と対策を変えていると、いつしか、何もできなくなった。仕方なく部屋の中に籠って、普段の生活を写真に撮って投稿してみると、面白みがないとか、才能が枯れたとか言われたりして」
「それは本当に酷い話だな」
「うん。それで、私一人では耐えられなくなって、親に相談したけど、SNSの事はよく分からないって言われて、学校の先生に相談してみると、SNSに投稿をするから悪いと言われて、親身になって話を聞いてくれる人は一人も居なかった。だから、自分で抱え込むしかなくて。どうにか乗り越えようとして、SNS上にいる人は赤の他人だから、何を言われても気にする事はないって自分に言い聞かせてみたら、今度は私を応援してくれている人達の言葉まで無意味なものに思えてしまった。その頃には、街中で知らない人に話しかけられる事が増えてきた。そういう時は、応援してもらえて嬉しかったけど、いつかは酷い言葉を浴びせられるんじゃないか、って怖くなったりして。そういう苦しさと不安が積み重なって、耐えられなくて。SNSの投稿を辞めたんだ」
野村は想像していた以上に、苦しい想いをしていたようで、かけるべき言葉が見つからなかった。
「SNSへの投稿を辞めたら、私には何もなくなった。情熱も夢も持たずに、ただ受験勉強をするだけの時期を過ごしてきた。そんな中で、アウトドアを知った。アウトドアは自然に囲まれながら人と交流するっていう、SNSとは真逆の存在だから、魅力を感じたんだ」
「だから、アウトドアをやってみたくなったんだな」
「うん。でも何だろう。こんなにたくさん話して、悩みを打ち明けられたのは初めてだ。きっと、隼人君がアウトドアの事とか、桜島の事とかを熱心に話してくれたから。隼人君の、強い情熱に触れる事ができたからだ」
「それは良かったけど、俺は少し話過ぎたな」
「いや、私の方こそ、だよ。でも、おかげでスッキリした。気が、楽になった」
俺自身、他人の悩みを受け止めるのは初めての事だったが、どういう訳か、悪い気分ではなかった。それは何だか自分らしくない気がして、不思議な気分だ。
話が一段落したタイミングで店員がコーヒーとケーキのセットを運んできた。
俺はさっそくコーヒーに口をつける。コーヒーの味に違いがあるかなんて正直分からないが、野村は頷きながら飲んでいるので、きっと美味しいのだろう。
「アウトドアを始めるのは素晴らしい事だが、SNSを再開してみるのもいいんじゃないか?」
「SNSを?」
「ああ。ここへ来るまでも、野村さんはSNSの話をしていたし。嫌な事があった時、SNSで話題になっている店へ咄嗟に逃げ込むくらいだから、やっぱりSNSが好きなんだろうと思ってさ」
「それは、そうかもしれないけど」
「まあ、無理に始めろとか言いたい訳じゃないけどさ。SNSが好きなのにやらないでいるのは、勿体ないと思ったんだよな」
「勿体ないかな」
「勿体ないよ。俺自身も、環境が悪かったとか、運が悪かったとか、そういう理由でやりたい事を諦めたりしていたんだ。だけど、少し前に起きた出来事がきっかけで、諦める事はしない。やりたい事は最後までやり通す。そうしないと、ずっと後悔するって考えるようになったんだ。だから、野村さんにもやりたい事を諦めないでほしいと思うんだよ」
野村は、俺を見つめた後に俯いて考えた様子を見せる。
「確かに、SNSは好きかもしれないし、やってみたい気持ちもある。でも、やっぱり。SNSが怖いっていう気持ちが強いから、簡単には、始められないかな」
「…そうか」
すぐには割り切れない事で、野村にとってそれほど辛い体験だったのだろう。
SNSの状況をよく知らないままで、深入りしすぎただろうか。
俺は熱く語り過ぎた事を反省しながら、フォークを手に取りケーキを小さく切った。
・
あれから数日経っても、部室に野村は現れなかった。
どこか別のサークルに加入してしまったのか分からないが、アウトドアを楽しむ事ができれば良い、いずれSNSが再開できれば更に良いだろうと思っていた。
この日は、まだ午前八時だというのにひどく暑い。なるべく外出を控えたいところだが毎朝のルーティンを欠かす事はできないので、この日もフェリー乗り場で桜島の礼拝に励んでいた。
暑さは厳しいが、快晴により桜島の眺望は文句なしだ。
俺は桜島へ向かって合掌し、黙想していると、背後から「何してるの」と声をかけられた。
以前もこんな事があったなと思いながら振り返ると、そこには野村が立っていた。
「桜島の礼拝だよ。毎朝の日課だ」
「モーニングルーティンだね」
「そんなところだな。それで、野村さんこそ、何してるんだよ」
「この間、フェリー乗り場の眺めが良いって、隼人君が話していたから。ちょっと見学して、写真でも撮ってみようと思ったんだ」
「それは素晴らしいが、写真を撮りにきたって事はもしかしてSNSを始めるのか?」
「うん。色々考えたんだけど。また始めてみようかな、と思って」
野村はもじもじとして、話しにくそうにしている。
「隼人君が桜島や、アウトドアについて話している姿は、本当に楽しそうだったから。内に籠って、悩んでいるのは、無駄な事で、後悔するだけ。だから、SNSやアウトドアで人と関わりたい。やりたい事は何があってもやり通すべきかもしれないって、思ったんだ」
「そうか」
彼女の明るくなった表情を見て、俺は安心した。
「SNSの悩みっていうのは理解できなかったけどさ。何であれ楽しんだ奴の勝ちだと思うぜ」
「ありがとう。楽しまないと、損だよね。SNSとアウトドアの両方に挑戦して、楽しんでみる。だから、桜島ワンダーフォーゲル部に入会させてもらう事にもなったんだ」
「そうなのか。それは良かった。歓迎するよ」
「うん。良ければ、これからも色々と教えてほしい」
「勿論だ。何でも聞いてくれよ」
「ありがとう。よろしくお願いします」
野村は頭を下げた。
アウトドアを始める仲間が増えてくれたのは素直に嬉しく、桜島の魅力も何となく伝わっている気がして、気分が良かった。
こうして野村が決断できた事は桜島に力を与えてもらったおかげではないだろうか。
「さっそくなんだけど、写真を撮ってもらえないかな。桜島の見える、この景色を投稿して、SNSを再開したくて」
「それは良い心意気だ。桜島の声も聞こえてきたんじゃないか」
「いや、まだ、聞こえないかな」
その後、野村に細かく指示を受けながら何度も写真を撮り続けた。
普段の姿からは想像できないほどに野村は真剣な表情を作り、様々なポーズを取って見せた。
撮影を終えた後、野村は写真を確認しながら顔を綻ばせ、心底嬉しそうにした。彼女は常に陰気な印象があったので、この姿を見て何だか安心してしまう。
「早速だけど、アウトドアについて、教えておきたい事があるんだ」
「うん」
「この前、野村さんはアウトドアについて、人と直接会って交流をするところが魅力的だって言っていたよな。だけど、それは全く逆なんだ」
「え、そうなの?」
「人や社会から解放されて、自然に溶け込み、自由に過ごす事がアウトドアの魅力だと俺は思うんだ」
「そうなんだ。でも、それはそれで。良かったかな」
「それならいいけど、やっていけそうか」
「うん、楽しみだよ」
そう言って、野村は笑った。
撮影の後。野村がお気に入りだと言って見せてきた写真の背景では、桜島が噴煙を上げており、彼女の決意を讃える祝砲のようだった。