地獄の敬老オフ会(後編)/スナツキン
◆◆◆
喧噪飛び交う駅前を離れ、比較的涼しさと静けさの残る新宿の夜。その静寂を、ジィィィと鈍い虫のような音が、一瞬で遮った。主が――スナツキンが、カバンのジッパーを開けて手をつっこんだ。
吾輩はバッと身を起こし、内ポケットに身を潜めた。拍子に、持ち帰っていた食べかけのフィナンシェのかけらが反対側へ転がっていった。危ないところだった。吾輩は存在を気づかれると、意思に反して分身が生まれるのだ。あの狭い部屋に分身まで現れては、もっと手狭で住みづらい部屋になってしまう。
……それはさて置いて、スナツキンの手は蜘蛛のようにうごめき、何かを探していたが……やがて、滑らかな黒いハンカチをつかむと、外へひっこんでいった。主は汗を拭き、小走りに階段を下りていく。1段下りるたびに足音が反響する。ここはどこかのビルの中らしい。
「ごめんなさい千鳥(ちどり)さん、四ツ丸さん、やっぱりここじゃなかった……」
「ははは、まぁそりゃそうっすよ、明らかに雑居ビルの勝手口って感じだったし」
「比嘉千鳥(ぴかちう)先生、スナさん、予約した店ならイワオ先生が見つけてくれてましたよ。僕らも行きましょう」
予約? 勝手口? 何のことやら、吾輩は這う這うかけらを拾い(少し食べ)つつ思い出す。確かセッションの後、数十分したら打ち上げへ行こうと持ち上がっていたが、吾輩いつの間にか寝入っていたらしい。
ポケットをもぞもぞと抜け出し、菓子クズをティッシュにまとめ、また隅で縮こまる。ほんの10分程度かと思ったものの、とうに時間は経っていたのだ。それとも主たちの足が速いせいだろうか。
最後に覚えていたのは、隣を歩いていた岩田氏が「予習のためにスナさんの小説全部読んできたんすよ」と話しかけた辺りであった。主は大喜び、感想・考察談義は耳に心地よく、そのまま居眠りしてしまったのだろう。
外から主と千鳥氏の話す声が聞こえ、状況もだんだん分かってきた――主は氏らと予約した店を探していたが「取れ高欲しさに絶対あるはずないとこ突撃した」とうち明けていた。緊張が混じっているせいか、先ほどより声が1オクターブうわずっている。千鳥氏が微笑んだ。主の顔は真っ赤だった。
「みんなそんなとこにいたのー? 動くの速すぎでしょ、膝痛いんだから配慮してよお」
「岩田さんが呼んでたよ、もう時間だから早く居酒屋に入ろうってさ」
少し離れた先から、ぱんすと氏とクマカツ氏が迎えにきた。岩田氏と一緒に店の入り口を探していたようだ。かくして6人は一つ所に集まって、いよいよ食事会である。吾輩も当然おこぼれをもらう気満々であった。
◆◆◆
ダークグレーの曇った夜空と、薄汚い歩道を、ビル明かりが照らしはじめた新宿の夜。その一部屋一部屋はずいぶん外と対照的である。
喧噪飛び交う駅前を離れ、比較的涼しさと静けさの残る新宿の夜。その静寂を、ジィィィと鈍い虫のような音が、一瞬で遮った。主が――スナツキンが、カバンのジッパーを開けて手をつっこんだ。
吾輩はバッと身を起こし、内ポケットに身を潜めた。拍子に、持ち帰っていた食べかけのフィナンシェのかけらが反対側へ転がっていった。危ないところだった。吾輩は存在を気づかれると、意思に反して分身が生まれるのだ。あの狭い部屋に分身まで現れては、もっと手狭で住みづらい部屋になってしまう。
……それはさて置いて、スナツキンの手は蜘蛛のようにうごめき、何かを探していたが……やがて、滑らかな黒いハンカチをつかむと、外へひっこんでいった。主は汗を拭き、小走りに階段を下りていく。1段下りるたびに足音が反響する。ここはどこかのビルの中らしい。
「ごめんなさい千鳥(ちどり)さん、四ツ丸さん、やっぱりここじゃなかった……」
「ははは、まぁそりゃそうっすよ、明らかに雑居ビルの勝手口って感じだったし」
「比嘉千鳥(ぴかちう)先生、スナさん、予約した店ならイワオ先生が見つけてくれてましたよ。僕らも行きましょう」
予約? 勝手口? 何のことやら、吾輩は這う這うかけらを拾い(少し食べ)つつ思い出す。確かセッションの後、数十分したら打ち上げへ行こうと持ち上がっていたが、吾輩いつの間にか寝入っていたらしい。
ポケットをもぞもぞと抜け出し、菓子クズをティッシュにまとめ、また隅で縮こまる。ほんの10分程度かと思ったものの、とうに時間は経っていたのだ。それとも主たちの足が速いせいだろうか。
最後に覚えていたのは、隣を歩いていた岩田氏が「予習のためにスナさんの小説全部読んできたんすよ」と話しかけた辺りであった。主は大喜び、感想・考察談義は耳に心地よく、そのまま居眠りしてしまったのだろう。
外から主と千鳥氏の話す声が聞こえ、状況もだんだん分かってきた――主は氏らと予約した店を探していたが「取れ高欲しさに絶対あるはずないとこ突撃した」とうち明けていた。緊張が混じっているせいか、先ほどより声が1オクターブうわずっている。千鳥氏が微笑んだ。主の顔は真っ赤だった。
「みんなそんなとこにいたのー? 動くの速すぎでしょ、膝痛いんだから配慮してよお」
「岩田さんが呼んでたよ、もう時間だから早く居酒屋に入ろうってさ」
少し離れた先から、ぱんすと氏とクマカツ氏が迎えにきた。岩田氏と一緒に店の入り口を探していたようだ。かくして6人は一つ所に集まって、いよいよ食事会である。吾輩も当然おこぼれをもらう気満々であった。
◆◆◆
ダークグレーの曇った夜空と、薄汚い歩道を、ビル明かりが照らしはじめた新宿の夜。その一部屋一部屋はずいぶん外と対照的である。
とりわけこの雑居ビル2階の居酒屋は、半径数十メートルの明るさと騒がしさを一身に閉じ込めたようであった。狭い大テーブルの群れを、若い店員たちが料理を持ってあちこち行き交っている。
「お待たせしました、こちら蛸の唐揚げと、明太ソースの玉子焼き、茄子の揚げ浸しでございます。先ほどの注文は以上になりますので……」
店員が手際よく、お風呂バンド一行のテーブルに、料理をを並べていく。四ツ丸氏は注文用タブレットから手を離し、ありがとうございます、と頭を下げた。つられて主もそっと会釈した。
「ねえ四ツ丸君、食い物減ってきたらさ、おれに注文させてね。おれ酒飲めないからその分多く食べたい」
ぱんすと氏が言った。手元の取り箸は既に玉子焼きに伸びている。取り皿には焼き物揚げ物その他申し訳程度の野菜がひしめき、彼の腹に収まるのを今か今かと待っていた。
「うーん、ぱんすとさんが頼むとえらい量になりませんかね」
「だったら次さ、注文はきみに取ってもらって、飲まない人に1品ずつ多く頼んでもらおうぜ、スナさんにもさ。彼女呑まないから。普段はせいぜい、行きつけのカクテル1杯で止めてるっつってたぜ。それでいいっすかね、スナさん」
「……はいっ」
千鳥氏はビアグラスを口に運んで、ぷはぁ、と息をつき、
「1杯だけなんて、格好いいっすなぁ。俺、酒となると1杯じゃきかないからなぁ」
寂しそうに言うのだった。
「いや私ほんと弱いのしか飲めないだけで……それに、仲良い店員さんいる方が、酔いすぎてもなんとかなる気がしますから、はい、ほんと、ねぇ」
テーブルの下でくすねた蛸の唐揚げを食べながら、吾輩はふとそこから這い出て、上を見やる。主が一生懸命早口で弁解していたが、その表情はオフ会の初めよりよほどにこやかに見える。彼女の部屋では、大好きな歌手の配信を聴くとき以外で、初めて見せる表情なのだった。
吾輩は胸がぽかぽか暖まって、何かさっぱりしたものでも欲しくなった。元の姿に戻って、物陰から遠目に料理を物色する。お通しのキャベツの大盆なら、今更手をつけている者はいないはず、そう見込むと、身を縮めてテーブルの下に潜り込んだ。
……さて、ここまで読んできた諸君の中には、察しのつく方も多いであろう。クマカツ氏のことである。勢いよくキャベツを皿に取っては食べ取っては食べ、気迫に押されて吾輩も近づけなかった。岩田氏が蛸の唐揚げを勧めていたが、結局他の料理に手をつけていたかは分からないままである。
「クマカツ先生ー、唐揚げここ置いとくんで遠慮しないで食べてくださいよ、おいしいから。スナさんは……あ、魚介嫌いだっけ」
「これ結構好きですよ。魚介は臭みが苦手だけど、香りのよい衣で包んであればぎりぎりいけます」
「お待たせしました、こちら蛸の唐揚げと、明太ソースの玉子焼き、茄子の揚げ浸しでございます。先ほどの注文は以上になりますので……」
店員が手際よく、お風呂バンド一行のテーブルに、料理をを並べていく。四ツ丸氏は注文用タブレットから手を離し、ありがとうございます、と頭を下げた。つられて主もそっと会釈した。
「ねえ四ツ丸君、食い物減ってきたらさ、おれに注文させてね。おれ酒飲めないからその分多く食べたい」
ぱんすと氏が言った。手元の取り箸は既に玉子焼きに伸びている。取り皿には焼き物揚げ物その他申し訳程度の野菜がひしめき、彼の腹に収まるのを今か今かと待っていた。
「うーん、ぱんすとさんが頼むとえらい量になりませんかね」
「だったら次さ、注文はきみに取ってもらって、飲まない人に1品ずつ多く頼んでもらおうぜ、スナさんにもさ。彼女呑まないから。普段はせいぜい、行きつけのカクテル1杯で止めてるっつってたぜ。それでいいっすかね、スナさん」
「……はいっ」
千鳥氏はビアグラスを口に運んで、ぷはぁ、と息をつき、
「1杯だけなんて、格好いいっすなぁ。俺、酒となると1杯じゃきかないからなぁ」
寂しそうに言うのだった。
「いや私ほんと弱いのしか飲めないだけで……それに、仲良い店員さんいる方が、酔いすぎてもなんとかなる気がしますから、はい、ほんと、ねぇ」
テーブルの下でくすねた蛸の唐揚げを食べながら、吾輩はふとそこから這い出て、上を見やる。主が一生懸命早口で弁解していたが、その表情はオフ会の初めよりよほどにこやかに見える。彼女の部屋では、大好きな歌手の配信を聴くとき以外で、初めて見せる表情なのだった。
吾輩は胸がぽかぽか暖まって、何かさっぱりしたものでも欲しくなった。元の姿に戻って、物陰から遠目に料理を物色する。お通しのキャベツの大盆なら、今更手をつけている者はいないはず、そう見込むと、身を縮めてテーブルの下に潜り込んだ。
……さて、ここまで読んできた諸君の中には、察しのつく方も多いであろう。クマカツ氏のことである。勢いよくキャベツを皿に取っては食べ取っては食べ、気迫に押されて吾輩も近づけなかった。岩田氏が蛸の唐揚げを勧めていたが、結局他の料理に手をつけていたかは分からないままである。
「クマカツ先生ー、唐揚げここ置いとくんで遠慮しないで食べてくださいよ、おいしいから。スナさんは……あ、魚介嫌いだっけ」
「これ結構好きですよ。魚介は臭みが苦手だけど、香りのよい衣で包んであればぎりぎりいけます」
主は既に、親指の爪ほどの欠片をいくらか更に取って、こりこりと食べている。吾輩ももちろん、スパイスの香りやクリスピーな食感を気に入った。魚介嫌いでそれほど凝ったスパイスのない主の家では中々食べられないからだ。主は取り箸を借りて、ほかにも珍しい料理を取っては、舌鼓を打っていたのだった。
「……あっ、おいしい! これ明太子ソースだけど、私も大丈夫な味です、ぱんすとさん」
「お、また平気なもの増えた? 良かったなぁ、それおれがリクエストしたやつだから」
「飲み会って、普段苦手なものちょっとずつもらって、気軽に挑戦できるから嬉しいです。好きなもの被ると嬉しいし」
「ほんとだ、さっきからずっと気に入ったもの揃ってるね」
「でも追加注文くらい、スナさんの好きなもん選んだらよかったんじゃないすか」
「いいじゃん比嘉千鳥君、余ったらおれが食うから」
「いえ私小食だし好み独特だしお子ちゃまだしほんとにみなさんの食べたいやつ優先がいいんで」
またしても一瀉千里に遠慮を並べ立てる主――はっと我に返って口元を押さえるが時既に遅し。過ぎた卑屈はかえって悪目立ちすると、自己啓発本で読んだ次の日に、ご覧の有様である。心の扉が全開になるときは未だ先のようだ。しかし、お風呂バンド諸兄とのつながりを見いだせただけでも、スナツキンにとっては大きな収穫だったであろう。
◆◆◆
「――すげー、育ちの良さが出てるなぁ」
岩田氏が感心して言う。主は卓に届いたほっけの塩焼きから、一生懸命骨を取っていた。真一文字に結んだ口からは、ときどき「あーあ」「何ハラですかこれ」と不平がこぼれ出る。やがて、慎重に骨を除けると、サッと手を伸ばし、氏の取り皿へ身を乗せはじめた。
「……ありがとうございます。でも親が厳しかっただけだし、これ骨取りやすい身なんで。四ツ丸さんも、いります?」
「じゃあもらおうかな。でも、今どき魚嫌いって言ってて、そんなきれいに食べられる人はいないように思いますよ。親御さん、静岡の海沿いの方ですっけ」
「はい。魚好きなのは母方だけですし、多分関係ないと思うけど」
主が顔を上げ、それぞれの取り皿を渡した。
「ほへ転職前ひ……ごくん、おれ転職前に静岡行ったことあるよ、あとおれもほっけ食べたいちょうだい」
「はいっ」
ぱんすと氏が文字どおり食い気味に身を乗り出してきた。主はてきぱきと焼き魚の身を盛っていく。ぱんすと氏は礼儀正しく、頬袋の中身を飲み込んで口を拭くと、おもむろにしゃべりだした。
「確かスナさんの出身と同じ町で、おれが行ったのはもっと海寄りの方だった。人に会いに行ったんだよね」
「何しにですか」
「……あっ、おいしい! これ明太子ソースだけど、私も大丈夫な味です、ぱんすとさん」
「お、また平気なもの増えた? 良かったなぁ、それおれがリクエストしたやつだから」
「飲み会って、普段苦手なものちょっとずつもらって、気軽に挑戦できるから嬉しいです。好きなもの被ると嬉しいし」
「ほんとだ、さっきからずっと気に入ったもの揃ってるね」
「でも追加注文くらい、スナさんの好きなもん選んだらよかったんじゃないすか」
「いいじゃん比嘉千鳥君、余ったらおれが食うから」
「いえ私小食だし好み独特だしお子ちゃまだしほんとにみなさんの食べたいやつ優先がいいんで」
またしても一瀉千里に遠慮を並べ立てる主――はっと我に返って口元を押さえるが時既に遅し。過ぎた卑屈はかえって悪目立ちすると、自己啓発本で読んだ次の日に、ご覧の有様である。心の扉が全開になるときは未だ先のようだ。しかし、お風呂バンド諸兄とのつながりを見いだせただけでも、スナツキンにとっては大きな収穫だったであろう。
◆◆◆
「――すげー、育ちの良さが出てるなぁ」
岩田氏が感心して言う。主は卓に届いたほっけの塩焼きから、一生懸命骨を取っていた。真一文字に結んだ口からは、ときどき「あーあ」「何ハラですかこれ」と不平がこぼれ出る。やがて、慎重に骨を除けると、サッと手を伸ばし、氏の取り皿へ身を乗せはじめた。
「……ありがとうございます。でも親が厳しかっただけだし、これ骨取りやすい身なんで。四ツ丸さんも、いります?」
「じゃあもらおうかな。でも、今どき魚嫌いって言ってて、そんなきれいに食べられる人はいないように思いますよ。親御さん、静岡の海沿いの方ですっけ」
「はい。魚好きなのは母方だけですし、多分関係ないと思うけど」
主が顔を上げ、それぞれの取り皿を渡した。
「ほへ転職前ひ……ごくん、おれ転職前に静岡行ったことあるよ、あとおれもほっけ食べたいちょうだい」
「はいっ」
ぱんすと氏が文字どおり食い気味に身を乗り出してきた。主はてきぱきと焼き魚の身を盛っていく。ぱんすと氏は礼儀正しく、頬袋の中身を飲み込んで口を拭くと、おもむろにしゃべりだした。
「確かスナさんの出身と同じ町で、おれが行ったのはもっと海寄りの方だった。人に会いに行ったんだよね」
「何しにですか」
「細かい目的は忘れたし、言うほどでもないけど。会う前に床屋行ったんだけど、散髪してもらってたら、何かがごそごそ足元を横切ったの」
「えぇ、虫ですか、怖い」
「何かと思ってのぞいたら、かわいい子どもの蟹だったの。蟹だよ蟹。小さい虫みたいな感覚でいるんだもん」
わぁ、と主が喜びの声を上げた。魚介も見る分には好きらしい。道中、生け簀に入った魚や蟹たちを見て、にこにこ微笑んでいたのを思い出す。
海の近くだと道にも結構いますよねぇ、と、四ツ丸氏が3杯目のジョッキを傾けた。
「四ツ丸さんも蟹さん見たですか」
「えぇ、海の方へ行ったときはしょっちゅう見ましたね。海沿いに住んでる知り合いを訪ねたときとか。行く道すがらコンクリートの橋の上をちょこちょこ横歩きしてましたよ」
「かわいーいっ。童話みたい。海の蟹? 川の蟹ですか?」
「川ですね。夕焼け色をした、まだ若い沢蟹でした。写真が残ってればよかったけど意外と速かったからなあ」
主は珍しい話を大いに楽しんでいた。四ツ丸氏は動物と仲良くなるのがうまい男で、よくTwitterでも出会った生き物の写真や話を見せている(我々の家は愛想の無い閑静なエリアで、外で見かけるのは専ら鳩かゴミ漁りのカラスばかりだった)。
「ぱんすと君拾って食えばよかったじゃないか」
「いくらおれでも生きたままの蟹は食べられないって。食あたり怖いじゃん」
「ははは、火を通せるなら食べるつもりだったんですか?」
「いや、あり得る。ぱんすと君は支援学級の給食を羨んで、発達障害のふりしてクラス変わろうとしてたからね」
途端、主が咳混じりの笑い声を漏らした。うずくまったまま小刻みに震え、よじれたお腹を必死に押さえている。何がツボったんすかねぇ、と千鳥氏が半分呆れて言った。その声も、主の笑いも、店の騒々しさと明るさがじきに飲み込んでしまった。
◆◆◆
「さっきは大笑いしてましたね、スナさん。もうお腹は大丈夫ですか」
「はい、お恥ずかしいかぎりで。四ツ丸さんにもご心配をおかけしました」
「いや、スナさんが楽しいなら何よりですよ。でも次の店は無理に出ないでも構いませんからね、クマカツ先生は『明日早いから』ってもう帰ったし」
「ううん、出ます。お茶1杯だけ。素敵なお土産ももらったし、もうちょっと、一緒にいたいので」
あれから数十分。お風呂バンド一行は居酒屋を出て、串揚げ専門店に入ろうとしていた。意気揚々と硝子戸を開けるのは、食べ足りなかったぱんすと氏、次いで千鳥氏が皆の入るまで硝子戸を押さえ、岩田氏がいそいそと入っていく。
親切な四ツ丸氏は、隣を歩く主を気遣ってくれていた。主の顔はだいぶ力が抜けたように見えるが、それは疲れのせいか、はたまた淋しさのせいか――クマカツ氏が帰ってしまったときに「私も帰らないとまずいかな、明日の仕事……」と独りごちていたのを、吾輩は聞いている。だがともかく、素直に表情を出せるほど気を許していることは、間違いない。
「えぇ、虫ですか、怖い」
「何かと思ってのぞいたら、かわいい子どもの蟹だったの。蟹だよ蟹。小さい虫みたいな感覚でいるんだもん」
わぁ、と主が喜びの声を上げた。魚介も見る分には好きらしい。道中、生け簀に入った魚や蟹たちを見て、にこにこ微笑んでいたのを思い出す。
海の近くだと道にも結構いますよねぇ、と、四ツ丸氏が3杯目のジョッキを傾けた。
「四ツ丸さんも蟹さん見たですか」
「えぇ、海の方へ行ったときはしょっちゅう見ましたね。海沿いに住んでる知り合いを訪ねたときとか。行く道すがらコンクリートの橋の上をちょこちょこ横歩きしてましたよ」
「かわいーいっ。童話みたい。海の蟹? 川の蟹ですか?」
「川ですね。夕焼け色をした、まだ若い沢蟹でした。写真が残ってればよかったけど意外と速かったからなあ」
主は珍しい話を大いに楽しんでいた。四ツ丸氏は動物と仲良くなるのがうまい男で、よくTwitterでも出会った生き物の写真や話を見せている(我々の家は愛想の無い閑静なエリアで、外で見かけるのは専ら鳩かゴミ漁りのカラスばかりだった)。
「ぱんすと君拾って食えばよかったじゃないか」
「いくらおれでも生きたままの蟹は食べられないって。食あたり怖いじゃん」
「ははは、火を通せるなら食べるつもりだったんですか?」
「いや、あり得る。ぱんすと君は支援学級の給食を羨んで、発達障害のふりしてクラス変わろうとしてたからね」
途端、主が咳混じりの笑い声を漏らした。うずくまったまま小刻みに震え、よじれたお腹を必死に押さえている。何がツボったんすかねぇ、と千鳥氏が半分呆れて言った。その声も、主の笑いも、店の騒々しさと明るさがじきに飲み込んでしまった。
◆◆◆
「さっきは大笑いしてましたね、スナさん。もうお腹は大丈夫ですか」
「はい、お恥ずかしいかぎりで。四ツ丸さんにもご心配をおかけしました」
「いや、スナさんが楽しいなら何よりですよ。でも次の店は無理に出ないでも構いませんからね、クマカツ先生は『明日早いから』ってもう帰ったし」
「ううん、出ます。お茶1杯だけ。素敵なお土産ももらったし、もうちょっと、一緒にいたいので」
あれから数十分。お風呂バンド一行は居酒屋を出て、串揚げ専門店に入ろうとしていた。意気揚々と硝子戸を開けるのは、食べ足りなかったぱんすと氏、次いで千鳥氏が皆の入るまで硝子戸を押さえ、岩田氏がいそいそと入っていく。
親切な四ツ丸氏は、隣を歩く主を気遣ってくれていた。主の顔はだいぶ力が抜けたように見えるが、それは疲れのせいか、はたまた淋しさのせいか――クマカツ氏が帰ってしまったときに「私も帰らないとまずいかな、明日の仕事……」と独りごちていたのを、吾輩は聞いている。だがともかく、素直に表情を出せるほど気を許していることは、間違いない。
テーブル席に通され、お通しの小鉢と各々の飲み物がそろうと、すぐに三次会に限りなく近い二次会が始まった。1軒目で何杯もジョッキを空けたというのに皆は元気なもので、酒を飲めないぱんすと氏もお通しを食べながら、メニューを舐めるように吟味している。串揚げが届いたあとも、真っ先に自分の分を確保していた。
「スナさん取らないんすか? アスパラの揚げたやつとか、店の名物って言ってましたけど」
「……大丈夫ですよ。岩田さんたちで分けちゃってください。お通しとコーン茶さえいただければ、満ちそうです」
九分九厘大丈夫ではない。夜遅くまで動いていると、溜まりに溜まった疲れはすぐに主の態度に出る。
「じゃあおれ食べちゃおっかなー、ここまで来たら串揚げ1本も2本も変わらないし、来週ハードワーク続くから今のうちに蓄えたいし」
「じゃあお願いします、私もう一杯だから——ねえぱんすとさん、コーン茶おいしいですねぇ、ほこほことして」
「うん、おれもよく家で淹れるけど、こんな香ばしいのは中々できないな」
「このお通しもね、落花生の茹でたのですよね、珍しいなぁ、枝豆みたいな味がするですよ」
これも、少なくとも事実ではあるが、遠慮を隠した顔だ。主はそもそも枝豆が好きではないし、食べた量からして腹も一杯にはほど遠いはずである。
「確かに、ほんのり塩気がきいてますね。スナツキンさん、枝豆は好きですか? ナッツはよく行きつけのバーで食べてるようですけど」
「枝豆? 四ツ丸さんが欲しければ、どうぞ」
「ねースナさん、気になってたんだけどさ、その行きつけのバーって高円寺中通りのあそこ?」
「えぇまぁ一番端の」
「スナさんが書いてたあの小説に出てたとこのモデルでしょ? ギタリストが不思議な街を旅するやつ」
「あぁその高円寺では、それなりに、ほどほどに」
「……スナさん、眠いんすか」
「……はい」
もう誰の目にも明らかであった。主はうつむいたまま、おもむろにまばたきして、ゆらゆらと船を漕ぐように揺れていた。昼から歩きどおし、頭と気を使ったせいで(いつもより気持ち少なめの)夕食で補充したエネルギーも、すっかりなくなってしまったのだろう。明日もゆっくりとはいえ仕事があるため、主は早めに帰ることになった。吾輩も気づかれる前に、カバンの中へ隠れていることにした。
「お代はいいよ、スナさんコーン茶とお通しだけだし、俺払っとくね」
「ほんとですか」
「ほんとだって比嘉千鳥先生言ったじゃありませんか」
「よかった、嬉しいです」
あ、と主が思い出したように言って、
「スナさん取らないんすか? アスパラの揚げたやつとか、店の名物って言ってましたけど」
「……大丈夫ですよ。岩田さんたちで分けちゃってください。お通しとコーン茶さえいただければ、満ちそうです」
九分九厘大丈夫ではない。夜遅くまで動いていると、溜まりに溜まった疲れはすぐに主の態度に出る。
「じゃあおれ食べちゃおっかなー、ここまで来たら串揚げ1本も2本も変わらないし、来週ハードワーク続くから今のうちに蓄えたいし」
「じゃあお願いします、私もう一杯だから——ねえぱんすとさん、コーン茶おいしいですねぇ、ほこほことして」
「うん、おれもよく家で淹れるけど、こんな香ばしいのは中々できないな」
「このお通しもね、落花生の茹でたのですよね、珍しいなぁ、枝豆みたいな味がするですよ」
これも、少なくとも事実ではあるが、遠慮を隠した顔だ。主はそもそも枝豆が好きではないし、食べた量からして腹も一杯にはほど遠いはずである。
「確かに、ほんのり塩気がきいてますね。スナツキンさん、枝豆は好きですか? ナッツはよく行きつけのバーで食べてるようですけど」
「枝豆? 四ツ丸さんが欲しければ、どうぞ」
「ねースナさん、気になってたんだけどさ、その行きつけのバーって高円寺中通りのあそこ?」
「えぇまぁ一番端の」
「スナさんが書いてたあの小説に出てたとこのモデルでしょ? ギタリストが不思議な街を旅するやつ」
「あぁその高円寺では、それなりに、ほどほどに」
「……スナさん、眠いんすか」
「……はい」
もう誰の目にも明らかであった。主はうつむいたまま、おもむろにまばたきして、ゆらゆらと船を漕ぐように揺れていた。昼から歩きどおし、頭と気を使ったせいで(いつもより気持ち少なめの)夕食で補充したエネルギーも、すっかりなくなってしまったのだろう。明日もゆっくりとはいえ仕事があるため、主は早めに帰ることになった。吾輩も気づかれる前に、カバンの中へ隠れていることにした。
「お代はいいよ、スナさんコーン茶とお通しだけだし、俺払っとくね」
「ほんとですか」
「ほんとだって比嘉千鳥先生言ったじゃありませんか」
「よかった、嬉しいです」
あ、と主が思い出したように言って、
「四ツ丸さん、ありがとうございました。今日は幹事やったりお店や道具の手配してくれて。私表情なさすぎて分からなかったと思うからここで言うけど、おかげで相当助かりました」
ぺこりと頭を下げた。「気にすることないですよ」と四ツ丸氏は首を振る。それもそうである。趣味の友人付き合いで、命の恩人かのように頭を下げていては、やけによそよそしく、時間がいくらあっても足りない……と思っていたが、吾輩はスナツキンを甘く見ていた。
「ぱんすとさんもです。今日は太鼓貸してくれて、ありがとうございました」
「いいのいいの、太鼓も気に入ってもらえて、喜んでるよ」
「私たち二次会で好きになった料理も似てて、おかげで苦手な食べ物にもチャレンジしやすかったです」
「明太子の玉子焼きもコーン茶もおいしかったよね」
「ふふ。それから、岩田さん。何かと気を使って、励ましたり盛り上げたりしてくれましたよね。最初は緊張したけど相当気が楽でした」
「良かった〜っ。スナさんの書いた小説面白かったし、オレ仲良くなりたかったんだよね」
「はい、私も。小説読んだよって、真っ先に丁寧な感想をくれたのが嬉しかったんです。岩田さん、ほんとにありがとうございました」
「いいっていいって」
……スナツキンは馬鹿丁寧にも、一人ひとりに頭を下げ、お礼を言ってまわった。さしずめ「こうでもしなければ気持ちが伝わらないかも」といったところか。疲れのせいか、度を越した心配症が空回りし、はち切れんばかりの嬉しさをコントロールできないようだ。
「……最後に、千鳥さん」
「はい、なんでございましょうか、スナさん」
千鳥氏がおどけて返す。主は一度深呼吸をすると、
「えっと、あの、新都社で出会ってくださって、ありがとうございました。友達に勧めてもらった『オヤジッティ』を読んで、お風呂バンドの歌を聴いてから、本当にお気に入りになったんです」
「うんうん」
「こうしてオフ会にまで呼んでいただけるなんて思わなくて、今すごく嬉しい気持ちです。きっかけをくださった千鳥さんにはずっと感謝しています」
主が騒がしい店の中、二次会の席だけが、さながら解散ライブのような雰囲気に包まれていた——ただ同好の士が集まり、音楽をやり、和気藹々と話した、それだけのことだったはずである。また誘われれば会うときもあろう。それを今生の別れのごとく考える主は、世間知らずで卑屈にもほどがあるというものだ。
「——スナさん」
千鳥氏が口を開いた。
「お礼を言うのは俺たちの方っすよ」
「えっ」
ぺこりと頭を下げた。「気にすることないですよ」と四ツ丸氏は首を振る。それもそうである。趣味の友人付き合いで、命の恩人かのように頭を下げていては、やけによそよそしく、時間がいくらあっても足りない……と思っていたが、吾輩はスナツキンを甘く見ていた。
「ぱんすとさんもです。今日は太鼓貸してくれて、ありがとうございました」
「いいのいいの、太鼓も気に入ってもらえて、喜んでるよ」
「私たち二次会で好きになった料理も似てて、おかげで苦手な食べ物にもチャレンジしやすかったです」
「明太子の玉子焼きもコーン茶もおいしかったよね」
「ふふ。それから、岩田さん。何かと気を使って、励ましたり盛り上げたりしてくれましたよね。最初は緊張したけど相当気が楽でした」
「良かった〜っ。スナさんの書いた小説面白かったし、オレ仲良くなりたかったんだよね」
「はい、私も。小説読んだよって、真っ先に丁寧な感想をくれたのが嬉しかったんです。岩田さん、ほんとにありがとうございました」
「いいっていいって」
……スナツキンは馬鹿丁寧にも、一人ひとりに頭を下げ、お礼を言ってまわった。さしずめ「こうでもしなければ気持ちが伝わらないかも」といったところか。疲れのせいか、度を越した心配症が空回りし、はち切れんばかりの嬉しさをコントロールできないようだ。
「……最後に、千鳥さん」
「はい、なんでございましょうか、スナさん」
千鳥氏がおどけて返す。主は一度深呼吸をすると、
「えっと、あの、新都社で出会ってくださって、ありがとうございました。友達に勧めてもらった『オヤジッティ』を読んで、お風呂バンドの歌を聴いてから、本当にお気に入りになったんです」
「うんうん」
「こうしてオフ会にまで呼んでいただけるなんて思わなくて、今すごく嬉しい気持ちです。きっかけをくださった千鳥さんにはずっと感謝しています」
主が騒がしい店の中、二次会の席だけが、さながら解散ライブのような雰囲気に包まれていた——ただ同好の士が集まり、音楽をやり、和気藹々と話した、それだけのことだったはずである。また誘われれば会うときもあろう。それを今生の別れのごとく考える主は、世間知らずで卑屈にもほどがあるというものだ。
「——スナさん」
千鳥氏が口を開いた。
「お礼を言うのは俺たちの方っすよ」
「えっ」
「俺ぁ元々こういう創作活動と日常はしっかり分ける方だったんですがね、お風呂バンドに誘われて加わってから、その境が少しずつ変わっていった自覚がありまして」
「……」
「活動を始めてからは四ツ丸くん達にも何かとお世話になって、まさかこんな時間を過ごすとは、あの頃思っちゃいませんでしたよ。それに、スナさんみたく実生活と併せて創作してる方は貴重なんでね。こんなご縁、大事にせにゃ罰が当たりまさぁ」
「……」
「だからね、スナさん、また来てください。この後のオフレポも、歌詞作って送ってくれるんでもなんでもいいんで、気軽に音楽やりましょうや」
主の背筋がぴんと伸び、手先から足元に至るまでまっすぐに揃った。
「そうですよ比嘉千鳥先生、何より僕たちの活動でこんな喜んでくれる人はいませんでしたからね」
「いやー良かったよ気に入ってくれて、なんか関係ないオレまで緊張しちゃった! 比嘉千鳥先生が泣かしたみたいになってさぁ」
「いや、これ俺のせいじゃないっしょ、イワオ先生」
どっと一同の笑い声が上がる——おぉ、お風呂バンドはじめ、新都社皆様方の懐の広さは、いかばかりであったことだろう。もし姿を見られても構わないのであれば、吾輩も前に進み出て、謝意を伝えたいところであった。
主は目をつぶり、カバンの持ち手をぎゅっと握りしめ、あふれ出そうな感情を必死に押し留めていた。これ以上話しては、それだけでもう15分は長引くからだ。
「良いこといっぱいあってください」ともう一度頭を下げると、主は席を立ち、歩き出した。「ありがとう」「気をつけてね」と皆の声が遠くに聞こえた。
——吾輩は、主がカバンのジッパーを閉め忘れたのに気がついた。何の気なしに外を覗いてみると、一面色とりどりのネオンと窓明かりの列、オフィスビルの森である。その遙か彼方では、大きな丸い月が、こうこうと世界を照らしている。吾輩と主も照らしている。
——嬉しかったなぁ、あんなの初めてだよ、良い人たちだったなぁ。
主の独り言が聞こえた。温かいしずくが、一度、二度、続けざまに垂れた。ただの通り雨だ。駅に着くころには止むことだろう。吾輩は急いでカバンの奥から折りたたみ傘を出して、主がいつでもさせるようにしてやった。
◆◆◆
後書きの代わりに、それからのスナツキンの話をしよう。
あれからスナツキンの予後は非常に良くなった。元々Twitter読書会など別の自主活動や、大学などのサークルの集まりに出ることはあったようだが、人見知りのせいか、そのどれにもずっと違和感を覚えていたらしい。あの緩やかな雰囲気が、初めて一番馴染めた場所だったのだ。彼らが宣う「地獄オフ会」の先に、主は最も暖かい光を見たのだろう。家を訪ねてきた両親にもこのことを話し、「人見知りだったあの子が……」と喜ばせている(ぱんすと氏が発達障害のふりをした話と、「うんちくん」と題した新曲の話は非常に不評だった)。
それからも四ツ丸氏に誘われ新曲のコンセプトを提供したり、歌を歌ったり歌詞を考えたりと、何か関われることを探しているようだ。
「……」
「活動を始めてからは四ツ丸くん達にも何かとお世話になって、まさかこんな時間を過ごすとは、あの頃思っちゃいませんでしたよ。それに、スナさんみたく実生活と併せて創作してる方は貴重なんでね。こんなご縁、大事にせにゃ罰が当たりまさぁ」
「……」
「だからね、スナさん、また来てください。この後のオフレポも、歌詞作って送ってくれるんでもなんでもいいんで、気軽に音楽やりましょうや」
主の背筋がぴんと伸び、手先から足元に至るまでまっすぐに揃った。
「そうですよ比嘉千鳥先生、何より僕たちの活動でこんな喜んでくれる人はいませんでしたからね」
「いやー良かったよ気に入ってくれて、なんか関係ないオレまで緊張しちゃった! 比嘉千鳥先生が泣かしたみたいになってさぁ」
「いや、これ俺のせいじゃないっしょ、イワオ先生」
どっと一同の笑い声が上がる——おぉ、お風呂バンドはじめ、新都社皆様方の懐の広さは、いかばかりであったことだろう。もし姿を見られても構わないのであれば、吾輩も前に進み出て、謝意を伝えたいところであった。
主は目をつぶり、カバンの持ち手をぎゅっと握りしめ、あふれ出そうな感情を必死に押し留めていた。これ以上話しては、それだけでもう15分は長引くからだ。
「良いこといっぱいあってください」ともう一度頭を下げると、主は席を立ち、歩き出した。「ありがとう」「気をつけてね」と皆の声が遠くに聞こえた。
——吾輩は、主がカバンのジッパーを閉め忘れたのに気がついた。何の気なしに外を覗いてみると、一面色とりどりのネオンと窓明かりの列、オフィスビルの森である。その遙か彼方では、大きな丸い月が、こうこうと世界を照らしている。吾輩と主も照らしている。
——嬉しかったなぁ、あんなの初めてだよ、良い人たちだったなぁ。
主の独り言が聞こえた。温かいしずくが、一度、二度、続けざまに垂れた。ただの通り雨だ。駅に着くころには止むことだろう。吾輩は急いでカバンの奥から折りたたみ傘を出して、主がいつでもさせるようにしてやった。
◆◆◆
後書きの代わりに、それからのスナツキンの話をしよう。
あれからスナツキンの予後は非常に良くなった。元々Twitter読書会など別の自主活動や、大学などのサークルの集まりに出ることはあったようだが、人見知りのせいか、そのどれにもずっと違和感を覚えていたらしい。あの緩やかな雰囲気が、初めて一番馴染めた場所だったのだ。彼らが宣う「地獄オフ会」の先に、主は最も暖かい光を見たのだろう。家を訪ねてきた両親にもこのことを話し、「人見知りだったあの子が……」と喜ばせている(ぱんすと氏が発達障害のふりをした話と、「うんちくん」と題した新曲の話は非常に不評だった)。
それからも四ツ丸氏に誘われ新曲のコンセプトを提供したり、歌を歌ったり歌詞を考えたりと、何か関われることを探しているようだ。
——そうそう、とりわけ喜んでいたのは、オフ会の「お土産」である。読者の諸君は主の「素敵なお土産も……」というセリフを覚えているだろうか。実は四ツ丸氏が参加者全員に、手ずからプリントしたTシャツをくれたのである。オーバーサイズで秋口の部屋着にはぴったり、乾きもよく、主は冬に入るまでずっと大切に着ていた。また初夏の頃に使いはじめることだろう。
お風呂バンド関係以外のことでは、仕事に副業にはたまた勉強にと、相変わらず忙しそうな主である。しかしそれでも楽しんで、スナツキンはなんだかんだと頑張っている。そのせいで吾輩は中々彼女からパソコンやスマホを拝借できず、こうした記録をまとめるのが遅くなってしまったのが、恐縮である。辛抱強く続きを待っていた読者の諸君に、目一杯の感謝を表すことで、この記録の結びとしたい。
じゃ、行ってきます。オヤジッティ、留守番よろしくね、なんちゃって。
追記
上記の1文は、音声認識が捉えたスナツキンの声である。スマホを忘れたまま出かけたらしいが、それはどうでもいい。主は今、「オヤジッティはいないだろうけどいたら楽しい」と思って言ったものか、それともまさか、もしや主は吾輩に気づいていたのか。
冷蔵庫の方から、物音がしたような気がした。
〈おわり〉
お風呂バンド関係以外のことでは、仕事に副業にはたまた勉強にと、相変わらず忙しそうな主である。しかしそれでも楽しんで、スナツキンはなんだかんだと頑張っている。そのせいで吾輩は中々彼女からパソコンやスマホを拝借できず、こうした記録をまとめるのが遅くなってしまったのが、恐縮である。辛抱強く続きを待っていた読者の諸君に、目一杯の感謝を表すことで、この記録の結びとしたい。
じゃ、行ってきます。オヤジッティ、留守番よろしくね、なんちゃって。
追記
上記の1文は、音声認識が捉えたスナツキンの声である。スマホを忘れたまま出かけたらしいが、それはどうでもいい。主は今、「オヤジッティはいないだろうけどいたら楽しい」と思って言ったものか、それともまさか、もしや主は吾輩に気づいていたのか。
冷蔵庫の方から、物音がしたような気がした。
〈おわり〉