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ROOM

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                      ――1――


 …………太陽が、青い。
男は独り、ベッドの上にいた。
ベッドの上にいる殆んどの人間がそうであるように、彼もまた寝台に寝転び、
リラックスした姿勢でそこにいたし、そのことには何の疑問も抱いていなかった。
「問題は」…彼は呟く。
「問題は―――この部屋が水没していることか」
 ボコッ ボコッ ボゴゴッ
男の言葉に答えるように、ビー玉のような気泡が音を立てて弾けた。
 部屋は、水の中にあった。窓からは、瑠璃色の光が差し込んで来る。
美しい光景ではあったが、およそ人の住まうことのできる空間ではないことは明白だった。
 …にもかかわらず、男は冷静に状況を把握することができた。
理に合わぬこと甚だしいが、まるでエラでも生まれたかのように呼吸ができるのである。
 「しかし、重い」
男は、無音といってもほぼ間違いない静かな空間の中で、
頻繁に―――恐らくは寂しさを誤魔化すために―――独り言を泡とともに吐き出していた。
「とはいえ」
起き上がる。 水を含んだTシャツが、酷く重い。
どうせ周囲に人などいないのだから……そう思い、服を脱ぎ捨てようとしてごく自然に
(いつもの習慣で)洗濯機の前へと向かった。 
 シャツを脱ぎ、洗濯機に放り込む…その行為の無意味さに気づき、男が苦笑を漏らしたそのとき、
水に満たされた部屋に沈む、水に満たされた洗濯機に異変が生じた。
 がたがたと揺れ、内壁に何かが(或いは『誰か』が)ぶつかる音がする。
不審に思い、中を覗き込んだ男は、小さな叫び声をあげてたじろいだ。
 
……洗濯機の、中から。
           瞳が、真紅の瞳が、見つめていた。
                           まっすぐに、彼を。

『ハジメマシテ』

声がした。
男のそれとは違う、シャボン色のノイズを介さない、クリアーな発音で。

『ハジメマシテ。 アナタニアエテ、トテモウレシイ』





                      ――2――


『ハジメマシテ。 アナタニアエテ、トテモウレシイ』

瞳は、淡々と、平板なイントネーションで言葉を続ける。

『ワタシハ、「とるまんと」。 アナタサヲコノヨウナバショヘゴアンナイシタノハ、
コノワタシ…』

そこで一旦言葉を切ると、瞳は男の反応を窺うように暫し沈黙した。
 男はのけぞった体勢のまま暫く硬直していたが、ハッとわれに返ると困惑気味に口を開く。

「……失礼だが、俺に家電の中に潜り込むことを生き甲斐にしている友人はいなかった、
と記憶している。 これが夢でないなら、お前は何なんだ?
何故、俺は水中にいる? そして何故窒息しない?」             

『アア、オマチクダサイ。 ソノ「こんわく」ハ、モットモデス。
ワタシハサキホドモイイマシタガ、「とるまんと」。 「しんかいじん」デス』

「『新カイジ』…いや、ニュアンスから言って『深海人』か……何だそれは?」

『…ワタシノハナシハ、マダ、スンデイマセン。 ヒトノハナシハ、サイゴマデキクモノデス』

「洗濯機のなかから説教されるとは思わなかったな。 …分かった、聞こう」
男は壁に寄りかかり、洗濯機を見た。 真紅の瞳の視線は、彼を捉えたまま外れない。

『マズ、アナタガ「こきゅう」スルコトガデキルノハ、ワレワレガナガイ「かいちゅうせいかつ」
デツクリダシタ「じんこうえら」ノオカゲデス。 ソシテ――――――』

男はその言葉に、自らの首筋に手を伸ばした。
 鏡も無い部屋では気づかなかったが、触れてみるとその言葉通りに、
首になにやらエラのようなものがあった。
 絶句する男に咳払いをすると、洗濯機の中の何者かは、また話し始める。

『ソシテ、アナタヲオヨビシタ「りゆう」ハ……アナタノ「こだね」ヲ、イタダクタメデス。
ワレワレニハ、オトコガイマセン……キンネンノカンキョウノキュウゲキナ「へんか」ハ、
ワレワレノ「せいぶつ」トシテノ「きのう」ヲクルワセマシタ。
ワタシハ「しんかいじん」サイゴノ、「しそんをのこせる」コタイデス。
デスカラ……カクゴシテ、イタダキマス』


真紅の瞳は、そう言い放つと洗濯機から身を乗り出した。
水中ゆえか、その肌は驚くほど白く、また頭皮には極めて短い毛しか存在しなかったが、
その痩身は間違いなく、人間の……女性の、それだった。
2, 1

  

                      ――3――



「な……」
『アラタメテ、ハジメマシテ。 「のるまんと」ノ「アゴーギグ」デス』

そういうと、真っ赤な目の女、アゴーギグは優雅に礼をしてみせた。
 呆気にとられる男を尻目に、手を後ろに組んで、彼女はつい、と男に歩み寄り、
まるっきり声音を変えて男に声をかけた。

「よろしい、でしょうか?」
「いや、待て、待ってくれ。 急に子種などと言われても……」
「無理、ですか」
「急には無理だ。 大体、何故俺が選ばれたか、その説明はまだだろう」

およそ二メートル。 手を伸ばせば届く距離で言葉を交わす、
男とヒレのような装身具を身につけた女…アゴーギグ。

「理由は、ありません」
「無いのか?」
「ええ。 誰でも、構いませんので。 今までに百飛んで七人で試しました。
……あなたで、百八人目になります」
「お前ひとりでか?」
「いいえ。 他の方です。 私は……言えません」

ジリッ、とアゴーギグが距離を詰める。 男は後ずさろうとして、自らの背後が
洗面台だったことを思い出した。
 洗面台によりかかる男。水の中で、いやな汗が額を伝う感覚がした。

「おかしい。 それだけの人間を連れ込んだのか? 何故、噂にならない?
言いふらす人間もいるはずだし、それに」
「…あなたは、何故嵐や台風の中、あれだけの人間が『毎回』亡くなると思いますか?」
「…それは……まさか」
「我々の存在が地上に伝わることは避けねばなりません。
そうしなければ、人類は樹上生物から進化したと頑なに信じる人々が、
我々を滅ぼしにかかることでしょう」
「それは余りにも飛躍しすぎた考えだ」
 M a y b e y e s, m a y b e n o.
「そうかも知れません。 しかし、そうでないかも知れません」

また一歩、アゴーギグが距離を詰めた。

「冗談じゃない。 俺は御免こうむる……帰り方を教えろ」
「そうですか。 残念です……しかしながら」

後ろで組んだ腕をほどき、
アゴーギグはその手に握られた、
石細工のナイフを構えた。

「あなたに、選択肢はもとより存在しておりません」 
                      ――4――



 マンションのユニットバス前の脱衣場。 
 本来ならば、そこは一日の疲れと汚れを取るため、
その準備をするための場所である。

 間違っても、突如海中に没し、見知らぬ女にナイフを向けられる場所ではない。

「……覚悟を決めることを、お勧めします」

一切の迷いを感じさせない動きで、うら若き深海人の女は石造りの凶器を突き出した。
 男は青褪めた顔でそれをかわすと、洗面台に激突したアゴーギグが体勢を立て直す前に、
全力で洗面台を手前に引っ張った。
 重い音とともに洗面台が倒れこむのを見ずに、男は洗濯機を蹴り、ドアへと向かう――――――
 だが、鈍い音とともに男は水中で停止した。 鈍痛に振り向いた男は、
ガボガボと吐き出される自らのシャボンの向こうに、
刃に貫かれ、赤い煙をたなびかせる右足と、
その足を掴み、真紅の瞳でこちらを見据えるアゴーギグを見た。

「待て……殺したら、それこそ子種どころじゃあないだろう?」
「問題ありません。 あなたの『その部分』だけを切り取り、保存します」
「……たのむ、それは勘弁してくれ」
「言った筈です」

アゴーギグは、ナイフを振り上げた。

「あなたに選択肢はない、と」

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――――――――――― 
4, 3

  

                      ――5――



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―――――――――――

………
…………………
…………………………男は、汀で波に揺られていた。

 あれから、何があったのだろう……男は、頭を捻ったが、
記憶は霧の向こうに隠れてしまったようだった。
 とりあえず、男としての象徴は、失わずに済んだようだったが。
 
 アゴーギグのことを、男は思い起こす。
 
 もしも自分があのとき、もっと違う態度をとっていたなら、
彼女があのような凶行に走ることもなかったのだろうか?
 もしかしたら、もっと違う形で……

 もう終わったことだと苦笑しながら、男は寒気を覚えた。
もう夏は終わっている。 水に長い時間浸かるのは健康にはよろしくないだろう。

 沖に上がり、乱れたシャツの襟を直そうと、男は腕を後ろに回した。

なにげなく首筋に触れて、彼はそこにあるデコボコしたものに触れた。




         …それは、魚のようなエラだった。
                                一日目 終

    
 男は、自らの頤にそっと触れた。そこには、エラが生えている。深海人とかいう女――アゴーギグと名乗っていた――の、迷惑な置き土産なのだろうか。
 試しに海面に顔をつけてみると、陸地で呼吸するのとほとんど変わらぬ感覚で、水中呼吸ができることを確信できた。とにかく、エラが生えてしまったものは仕方あるまい。ならば早速一泳ぎしよう……そう思ったところで、男は夕陽が水平線へと没しつつあることに気付いた。
 夜の海は、寒い。しかも明かりもない。いくらエラがあるとはいえ、その中を泳ぐことは自殺行為に思えた。男はやれやれと立ち上がると、家に帰ることにした。

「……おいおい」
男は、自分の暮らしているマンションの前に立ち尽くしていた。
「おいおいおいおい」
いや、「暮らしていた」と言うべきか。マンションのあったそこには、巨大なクレーターが空いていた。まるでスプーンでそこら一体をごっそりとこそげとったかのように、地面が豪快に抉られている。
「冗談じゃないぞ……いきなり海の底に誘拐されたかと思ったら、今度はマンションがないとはな」
磯臭い頭をボリボリと掻きながら、途方にくれる男。その肩を、ポン、と。
誰かが叩いた。
「何だ? 悪いが今俺は気が立ってるんだ。喧嘩なら買ってやる……」
苛立ちを隠そうともせず、振り返る男。その顔が、次の瞬間に凍りついた。
「――ケンカ、とは、なんです?」
男はその奇妙なイントネーションの声に聞き覚えがあった。その赤い瞳に、見覚えがあった。その水色の肌にも、首元のエラにも、手足のヒレにも。
「し、深海人!」

「さがしました、よ?」
たじろぐ男の前に、君臨するかのように、深海人アゴーギグはその細い腕を広げた。
 その痩躯は人間の成人女性と何ら変わるところはない。一糸まとわぬその姿は、状況さえ許すなら男の心を躍らせたかも知れぬ。
 しかし今は、彼女の姿はただ恐怖の対象であった。男は、よろめくように彼女から逃れるため駆け出した。
「むだな抵抗、です。その足では」
アゴーギグは、怜悧な瞳を男に向けていた。彼女の言葉は正しい。海底で、アゴーギグは石のナイフで彼の足を貫いている。その逃避行は、負傷した足を庇いながらの何とも心もとないものであった。


6, 5

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