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理想郷S

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「はっか、はっか、はっかのきゃんでぃはいりませんか。はっか、はっか、はっかのきゃんでぃはいりませんか」
 灰が止め処なく落ちてくる。ここは終焉の地であった。空は黒く渦巻く粉塵に閉ざされ、永い冬に終わりは見えない。
 儚げな売り子が、煤けた缶を抱えて、しわがれた声を振り絞って飴を売り歩いている。灰に喉を侵されているのだ。長くは持つまい。
「だいたい、何だってハッカの飴なんか売り歩いているんだ。そんなものは所詮、この灰への気休めだ」
 私は、隣でそう呟いた青年に目をやった。黒いマフラーで、口元を覆っている。飴は気休めに過ぎない――彼の言葉は事実だが、しかし彼のマフラーによる防塵も、また気休めに過ぎなかった。
 我々は、ただ滅びに向かって歩き続けていた。私は、どうしようもなく膨れ上がる悲観的憶測を前に、ただ頭を抱えていた。

 何故こんなことになったのだろう。

 我々はここで、雨風から護られた安楽な暮らしを享受していた。時折差し込む日差しに安らぎ、そして無尽蔵に蓄えられた食糧を貪っていた。高い防壁は外敵を寄せ付けず、たまの侵入者があっても、ただちに撃退されて我々の食糧となった。
 そう、ここはまさに理想郷だったのだ。……全てが暗転したあの日までは。
 あの日――私は、友であり初恋のライバルであったグレッグと共に、食糧の調達に向かっていた。我々の都市には十分な備蓄があったが、何しろ味のバリエーションが少なかった。今にして考えると贅沢な話だが、飽きが来るのである。
「日が暮れるとあれが出る。さっさと済ませて帰ろう、ジョナサン」
 グレッグは、心地よいバリトンで私にそう言った。「あれ」とは、我々を付け狙う天敵である。巨体と怪力を持つ奴らと我々は、互いの生活圏を懸けて争いを続けていた。
 命のやりとりをする相手ではあるが、同時に奴らは種類豊富かつ潤沢な食糧の備蓄を有しており、我々の食糧調達は専ら、奴らの備蓄を盗み取ることで行われていた。
「そうだな。連中が戻ってくる前にやってしまおう。君には帰りを待つ者もいる」
「ははは、それはお前も同じだろう、ジョナサン」
 我々はそう言って笑いあった。彼の妻は私の姉であり、私の妻は彼の妹だ。二重の義兄弟という関係になるが、お互いあまり気にせず友人として付き合ってきた。
「だがジョナサン、お前のところは身重だろう。家を空けていいのか?」
「姉さんが世話をしてくれているさ。それに、これは我々全体に益する仕事だ。個人の問題じゃない」
 そう言って、奴らの食糧庫の前に立った矢先、ズシンという重い音が我々の後方で響いた。
「ジョナサン、奴だ! 奴が出たぞ!」
 グレッグが叫ぶ。振り返ると、我々が奴らの首領格と目している老年のオスが見えた。奴は巨躯を揺らし、屈みこんで低い声で唸っていた。
「マズいな。この時刻には現れないはずなんだが」
「奴らの行動パターンは時々崩れるからな……観測局には再度分析を依頼しなければ」
 下手に動くとやられる。私とグレッグは物陰に身を潜め、様子を見ることにした。
 しばらく観察を続けていると、奴が地面に視線を彷徨わせて、何かを探していることに気付いた。
「グレッグ、見ろ。奴の動きを」
「ああ、何か探しものがあるようだ。俺達じゃないだろうな」
「まさか。ん、奴が動いたぞ……何か見つけたらしい。あっ、あれは……!」
 奴は屈みこんだまま、やおら動き出し、右手で何かを掴み、持ち上げた。
 私とグレッグは絶句した。持ち上げられているのは、我々の都市であった。
 奴らの目に留まらぬよう、巧妙に隠蔽された位置にあったというのに……敵の首領が我々に向ける敵愾心は、どうやら想像以上のものがあったようだ。
「なんてこった、皆がやられる……!」
 呆然とする私を尻目に、グレッグは猛然と奴の足元へと駆け出していた。
「待て、グレッグ! どうするつもりだ、私たちだけでどうにかできる相手じゃない!」
「だからって逃げるわけにもいかんだろう。ジョナサン、俺は容易な役目を引き受ける。お前は困難な道をゆけ」
 そう言うと、グレッグは悲壮な笑みを浮かべた。
「俺が奴の注意を引き付ける。お前はその隙に街に入り、皆の力になれ」
「やめろグレッグ、死ぬつもりだろう。私が囮に――」
 グレッグは、私を制した。
「駄目だ。お前には、守るべき子がいるだろう」
 我が妻と、妹によろしく。そう言い残して、彼は大敵に向かって行った。都市の壁に取り付き、内部へ入り込む私の目に、叩き潰されたグレッグの亡骸を抱える敵の姿が見えた。畜生、畜生。

 都市に戻った私は、住民をとりまとめて移住を計画した。だがその計画が実行に移されんとした矢先、あの悪夢の灰がこの都市に降り注いだのだ。
 灰は我々の呼吸を奪い、灰の張り付いた壁面は昇ることもままならず、若いもの、年老いたものから順々に灰にやられて死んでいった。
「あなた、私の、私たちの仔は――」
 枕元で、灰に侵された声でそう囁いていた妻・グレタの声を、私は生涯忘れることはないだろう。
 ああ、大丈夫だ。必ず守るよ。そう私は嘘をついた。死に行く妻に、絶望して死んで欲しくなかった。
 我が仔は、その二日前には息を引き取っていた。

「はっか、はっか、はっかのきゃんでぃはいりませんか。はっか、はっか、はっかのきゃんでぃは――」
 地面に倒れた売り子の声が、虚しくこだましていた。
「畜生、おい、しっかりしやがれ、おいっ」
 さっき悪態をついていた青年が、彼女に駆け寄り抱え起こす。
「飴なんていくらでも買ってやるから……死ぬなよ、おい!」
「……はっか、しか、ないですけど」
「それでいいから!」
 彼女は、優しく微笑んだ。
「ありがと、ござ、ます」
 そうして、眠るように動きを止めた。
 青年は目を伏せ、激情を抑えるように拳を握り締めていた。
「済まない、グレッグ。せっかく助けられた命だというのに――」
 私は、宙を見上げた。そこから、滝のように大量の水が流れ込んできた。

 我々は、何もかも押し流す水の勢いを、ただ、呆然と見つめていた。
 その日、私たちの歴史は終わった。全ては、灰と水の混じった濁りの中に埋もれて消えていってしまった。
 主婦・財前喜美子(46)は、居間で舅である良治(68)を憤然と睨みつけていた。
「ちょっとお義父さん!タバコを吸うのはいいけど、ちゃんと灰皿使ってくださいっていつも言ってるじゃないですか!」
 良治は、頑固そうな細い目を喜美子に向けた。
「なんでも良いだろうが、このドロップスの缶がそんなに大事かねえ」
「まだちょっとハッカが残ってたでしょう!だいたい食べ物の入れものを灰皿代わりにするなんて、非常識な」
 売り言葉に買い言葉で、二人の間の険悪な空気は際限なく高まる。
「俺はハッカは嫌いなんだ!どうせ食わないんだから空っぽと変わらないだろう」
「そういういい加減な考えがいけないんです!まったく、とにかくこれは捨てときますよ」
 ブツブツ言いながらサクマドロップスの缶を捨てにいった喜美子が、中で大量に死んでいる虫の群れを発見して悲鳴を上げたのは、その三十秒後のことであった。

                                                                             理想郷S 完
10, 9

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