『四』
のぞみが屋上に足を運ぶと冷たい冬の風が全身に押し寄せてきた。
空には雲ひとつなく太陽が一心不乱に輝いているのにその暖かさを微塵にも感じない。
秋分は少し前に過ぎ去り冬が徐々に近づいてはいたがそれでもこの気温の下がり方をのぞみは予想していなかった。
茶色いリボンでくくっているのぞみのポニーテールが右に左にせわしく揺れている。
髪の毛が耳に当たってすこしくすぐったく感じた。約束の時間まではまだ余裕がある。
暇つぶしにとのぞみはこの冬の寒さにどうすればいいのか考える。
「寒い冬がどうしてこんなに熱心なのよ。」
結局文句を言うことしかできなかった。
上履きの下からコンクリートの硬さと冷たさを受けながらのぞみは大きく深呼吸をする。乾いた空気がのぞみの肺に吸い込まれ、頭を必要以上に冷やしていく。
目を閉じて考えることをやめる。
薄暗い暗さを見つめる中でこれから自分がしようとしていることが浮かんできた。
何回も踏みとどまって足踏みしていた数日間を乗り越えて、
ようやく決心がこの日についたのだ。それでもまだ軽い抵抗がのぞみの手を掴んでいる。緊張が解けなくて胸が圧迫される。頼れるものは何もいない。
高校生にもなってここまで心細くて、無力感をかみ締めるときが来るとは
夢にも思わなかった。冬の寒さとは違った孤独感から来る冷たさが痛い。
しかしもうここまできたのならやらなければいけない。
ゆっくりと目を開く。以前より落ち着いていることが分かった。
冬の寒さのおかげだろうか。
しかしやはりこの寒さに耐えられなく自らを抱きかかえるように腕を組み身震いする。
やはり外に出るのは得策ではなかった。しかし屋上でなければならない理由もある。
とりあえず教室はひかりがいるからだめだ。
それならと廊下を選んではみてもそこでは人目につきすぎる。
のぞみの頭の中で思いつく一番無難な場所が屋上だった。
屋上にはのぞみが立っている場所から死角となる場所がない。
それに入り口が一つしかない屋上なら誰かがやってくる前に話をやめることもできる。
密談をするには最適といってもよかった。
不測の事態を気にするほどにのぞみはいつになく慎重になっている。
それほど今からやることにのぞみは慣れていない。
慣れていないがゆえにのぞみは神経質になっていた。
いつもとは違う自分の思考がちょっと気持ち悪い。
空を漂っていた雲が太陽を隠し校舎のコンクリートがより灰色に染まっていく。
二羽の鳥が器用に屋上の柵を渡っている。
柵の上という一直線上しか歩けないのにその鳥は本当に遊んでいるかのように
楽しげでのぞみはすこしうらやましくなった。
そのときにノブが回り、金属がこすれるあまり聞きたくない音がのぞみの注意を引いた。必要な分だけ開いた隙間から誰かが通り抜ける。
のぞみは表情を固める。
いつの間にか顔を出していた太陽がその人物の顔を照らす。
静かに扉を閉じると、こだまは数歩のぞみに向かって歩み寄ると
一定の距離をとって立ち止まる。
まるで根でも生えているかのようにそこから一歩も動かないで
直立姿勢を曲げることはない。
針金のように細い前髪の奥に潜むこだまの瞳が
のぞみを観察しているかのように左右に揺れていた。
のぞみはその動きには気づかないふりをしてこだまと向き合う。
こだまとは数メートル離れている。
その距離をとったこだまが何を考えているかは知らないが
のぞみは別に目で見える範囲にこだまがいればどうでもよかった。
こだまにはへんな小細工は通用しない。単刀直入に聞いたほうがいい。
主導権を奪われないためにのぞみが口火を切った。
「クーライナーカって何?」
屋上の柵に止まっていた数羽の鳥が飛び立った。それ以外には何も動きがなく、
のぞみはこの一瞬が十秒にも十分にも感じた。
こだまは反応らしい反応を見せない。のぞみの言葉を聴いていたのかも疑わしくなる。
わずかにすぅっと目を細めて背後で垂れている髪の毛が揺れていた。
「どうして私に聞くのよ。」
顔には出さなかったがのぞみは胸中で軽く笑った。
相変わらずの反応で予想の真ん中にある言葉だったからだ。
とぼけている言い方だがうっすらと開いて、
わずかにゆがんでいるこだまの口が彼女の本音を物語っている。
直感的に悟った。こだまはのぞみを試している。
両手で拳をつくり、汗を握り締める。頭の中でゆっくりと言葉を選ぶ。
言葉を一つ一つ力強く押し出していった。
「あのときの、あなたの行動がすこしごまかしているように、見えたから。」
「あのとき?」
「ひかりがクーライナーカを会話に出したときのこと。」
のぞみは語尾に力をこめた。
自分でもこだまにそのような言い方をするのはあまりいい気持ちがしない。
けれどこうでもしない限りこだまが違う態度をとることはないだろう。
こだまにどういう意図があるのかは分からないが
ひかりについてこだまはのぞみの知らないことを知っている。
その可能性がのぞみの中で強くなる。屋上ではのぞみとこだまの二人しかいない。
こだまが入ってから誰も屋上に訪れる気配はない。
冬の風が二人の髪を揺らしている中、のぞみはその寒さを感じないほどに
こだまを凝視していた。
こだまは腕を組んだまま目を完全に閉じてしゃべらない。
のぞみのことばを聴いている。加えて自分の中で返す言葉を組み立てている。
こだましかやらない集中するための動作だった。
のぞみも口をつぐむ。言いたいことは頭の中でまとまっているが
今は間を取ったほうが後々の会話の流れがうまくいくのではないかと思いついたからだ。こだまが目を開けるまで待つほうがいい。
校内へと続く扉の先から顔も名前の知らない生徒のざわめきがかすかに聞こえる。
心なしか扉がカタカタ揺れていた。
騒音が騒音を呼ぶ校舎の中とは争うように屋上では静寂が静寂を呼んでいる。
しかしどちらも気を乱されるのは共通していた。
やがてこだまがゆっくりと目を開く。その動きを見逃さず、のぞみは軽く息を吸う。
「本当は知っているのでしょ?知っていてあんな態度をとった。
あなたはクーライナーカから避けている。恐れているといってもいい。」
「ばからしい。その少し直感でものをいう性格を治したらどうなの。」
「直感でも、思いつきでも、勘でも、あてずっぽうでもない。
私はクーライナーカを知りたいの。」
「ひかりがまた骨折しても?」
一際大きい風が吹き荒れて
こだまの長い髪の毛が膨らんで何倍にも大きく見えた。
こだまは手を広げ威圧感を高める。
こだまの簡素な言葉がのぞみの耳から入り容赦なく体の中をかき乱していった。
やはりこだまはのぞみの全てを知り尽くしている。
のぞみの開いた口からは何も出なかった。
考えていた言葉が何もかも抜け出し頭が真っ白に塗りつぶされた。
「のぞみはどうしてその言葉を知りたいの?その場限りの安直な好奇心?
それとも別の何か?」
「だって…」
こだまの言葉をさえぎりのぞみはやっと一言だけ発する。
それから言うことは昨日の夜に頭の中で反芻してある。
まだ動揺を鎮めることはできないけど
言うべき言葉を一字一句言い尽くすことはできる。
けどのぞみの中に話を進める覚悟が足りない。
のぞみが一番言いたいことで一番言いにくいことだった。
このまま言わなければまた昨日と同じ今日を迎えることができる。
のぞみは久しぶりに葛藤を味わっていた。
雲の切れ目から太陽は猛然と光を発し屋上には二人の影だけが残る。
始めはこだまが考えていることを問い詰めたかった。
それなのにいつのまにかこだまがのぞみをじわりじわりと追い詰めていた。
もう逃げ出してしまいたい。でものぞみは今日だけはちょっとひねくれてみた。
「またひかりに何かあったらどうすればいいの。
ひかりが骨折したのだって無関係とは思えないの。クーライナーカを調べ始めたとた んにあんな状態になって……」
こだまが前よりも大きく目を開いていた。
おそらくこだまはのぞみに呼ばれたときから
のぞみがこのことについて言うことを予想していたのだろう。
そしてここまで彼女の予測どおりに事が抜かりなく進んでいたが
ここに来てそれが外れた。
こだまは適当にのぞみを揺さぶればのぞみから会話をやめると
予想していただけにのぞみの言動には驚かされた。
「それだけ?」
こだまは開いた瞳を少し閉じた。
のぞみは言うのに精一杯になっているから
こだまの変化には気づいていない。
のぞみはひかりに話しているというよりも自分に言い聞かせているかのようだ。
「ひかりを骨折させたのは私のせいかもしれない。
根拠がない主張に思えるかもしれないけど私はそう思えない。
ひかりに巻かれているギブスを見るたびに罪悪感に悩まされるの。
ひかりが笑っているのを見るのはもう限界なの。」
目を伏せて、顔をわずかに背けながらはき捨てるように呟いた。
本当は数秒にも満たない時間だったがのぞみにしては
その後の一瞬は本当に永遠にも感じ取れた。
雨が降っていたなら落ちてゆく水滴が一粒一粒視認できていたかもしれない。
懺悔にも誓いのぞみの告白を聞いた後こだまは広がった髪を手で簡単にまとめる。
風に仰がれる前の様子に戻り、そしてこだまは見せ付けるように大きく欠伸をした。
口で隠さない辺りのぞみを挑発している。寧ろばかにしているのかもしれない。
「話にならないわね。もう帰るわ。」
有無を言わせない態度でこだまは振り返るとまっすぐに校内へと向かっていった。
のぞみには何も得ることがなかった。
のぞみがいくら考えを張り巡らせても
こだまはその一枚も二枚も上をいくのは十分承知していた。
それでものぞみの落胆は大きかった。
一方的な感情であるとは思うがのぞみは
このまま帰っていくこだまの背中を恨めしく睨み付ける。
こだまが消えてもしばらくは動かないはずだ。
「一つだけ言っておくわ。」
でもこだまはまだ屋上にいた。一本立てた自身の指を上に差している。
のぞみの注意を引くために芝居くさい行動をとっているのかもしれないが、
とにかく何か思い出したようだ。振り返りはせずに横顔だけを見せる。
「あなたが思っていることの真偽について私は今でも分からない。
けど少なくともひかりは自分の骨折を気にしてないわよ。
さっさと帰ってあげたらどう?今でも待っているはずよ。」
それだけ言うとこだまは屋上の扉を開き、のぞみの前から姿を消した。
こうして屋上は一人だけになった。
のぞみはふっきることができないわだかまりを抱えたまま空を見渡す。
こだまが言っていることに間違いはない。
だが仮にそうだとしても今までどおりにひかりと接することができるのかは
自信がなかった。
そういう迷ったときは空を眺めてみるのがのぞみの迷いを吹っ切る方法だ。
空だけはいつも自分と共にいる。
時間に応じて見せる天気も人が見せる表情の変化と似たようなものと
のぞみは思っていた。
のぞみが生きているように、空も生きている。
その空を見上げれば空がのぞみを励ましてくれる気がした。
ポニーテールを作っていた茶色いリボンをほどく。
のぞみの髪は空中を泳ぐように広がる。
ときおり耳の裏をくすぐるけどさっきよりかは気にはならなかった。
教室ではひかりがのぞみとこだまを待っていた。
昼休みに一緒にお弁当を食べようと思っていたのにいつのまにか二人とも姿を消している。まさかとは思うがひかりを忘れて二人でどこかに行ってしまったのだろうか。
どこか学食の周辺のようなひかりが来られない場所で
楽しい昼休みを過ごしているのぞみとこだまの映像がひかりの目の前に作られる。
ひかりは頭を振ってその答えを否定した。そのようなわけはない。
おそらく購買のパンでも買いに行って今ひかりのところに戻っているところなのだろう。
いつもなら二人からひかりのところに寄り添ってくるのだ。
ひとつの机で窮屈だが三人が集まるひかりの机は三人が持ち寄る弁当のおかげで
彩が豊かになっていた。
だからひかりはのぞみとこだまの二人と一緒に昼の時間を共にすごしたい。
ギブスのおかげでうまく歩けないからひかりは人が来るのを待っておくことしかできない。しかし待っても二人は帰ってこない。
時間だけが過ぎ去っていく間、能天気なひかりでさえ少しずつ不安がたまっていった。
教室の扉が開くたびに期待してしまう自分もなんだか馬鹿らしくなっている。
誰かの机の上にほったらかしにしてある鉛筆が風に仰がれてころころと転がっていた。
授業中は締め切ってみんなが狭い場所に詰め込まれていたおかげで
ぬくぬくしていた教室も昼休みは空調の関係で誰かが窓を開けている。
風が流れてくるたびにひかりの体に鳥肌が立つ。
でもギブスに包まれている足だけは何も感じない。
まるで自分の足ではないようだ。ひかりは自分でも知らないうちに頬杖をついて、
もう片方の手で机の上をせわしく小刻みに叩いていた。
まさかギブスにこれほど嫌悪することになるとは思わなかった。
教室のみんなは似たもの同士でグループを作り、それに従って学校生活を楽しんでいる。それが学生としては普通のことだしひかりだってやっていることだ。
だから今日友達がいない自分が教室の中で異常に浮いている気がしてさっきから息苦しい。
授業中とは打って変わってにぎやかな声で教室が沸いている中、
一人弁当箱を開けないでじっと座っているひかりは誰からも気づかれていない。
それは周りに一枚見えない壁が立っているようだった。
見えないのにその存在感をひしひしと感じ、
それを打ち破ろうとするもどうしてもできない。一人ではできなかった。
のぞみとこだまの二人が破ってくれるのを待っているしかなかった。
それなのに二人が来てくれない。
自分の周りに誰もいないことが我慢できなかった。口に力が入り歯を食いしばる。
「こうなったら探しに行こう。そうしよう。座っているだけは飽きちゃったよ。」
ひかりはそばに立てかけてあった松葉杖を取ると立ち上がり教室の入り口に向かう。
松葉杖を使っているから普通に歩くよりもやや歩調が遅いのは否めない。
ひかりはあまり気にしなかったが
このときだけは扉にたどり着くまでの時間がもどかしかった。
取っ手に手をかけ開けようとする前にタイミングよく扉が開いた。
そしてひかりの良く知っている人物が入ってきた。
クラスのみんなが一瞬だけその人物に視線を向けたがまたすぐに自分たちの会話に戻る。
「あっ。谷川先生。こんにちは。」
いっせいに集まった視線に気圧されていたひかりは入ってきた人物に挨拶するのを
遅れてしまった。
谷川は気にするそぶりも見せずにひかりに軽く挨拶をするとそのそばを通り過ぎる。
ひかりのクラスの担任が谷川であるから、
こう授業以外にここに来る可能性というのは少なからずある。
それでも谷川が昼休みの今、教室に現れたのは珍しいことだったから
ひかりはどういう事情があるのかすこし興味が生まれた。
壁に寄りかかりその様子を見る。
谷川は教室の机の最後尾にあった机を掴むとそれを抱えたまま来た道を戻ろうとした。
谷川が抱えた机は誰も座ったことがない。
教室にいる生徒はひかりを含めて36人。しかし教室にある机の数は37個。
余りの1がその机だった。その机は四月あたりから余っていて、
今11月まで手をつけなかったのに今更どうしようというのだろう。
別になくてもいいのだが谷川の行動にひかりは納得できなくて
その訳を尋ねてみたくなった。
「谷川先生。急に机を運んだりしてどうしたのですか。」
谷川は抱えていた机を一旦床に置くと、その机に手を置き、ひかりのほうに顔を向けた。
「もともとこの机って予定されていた転校生が来るはずだったから
余分に置いておいたものなんだ。でも急な都合で転校生が来られないらしくてね。
初めは転校する時期が遅れると知らせてくれたのだけど、
もう来ないなら教室においておく必要もないかなと思ったわけ。」
言われてみるとそのようなことを一ヶ月に一回ぐらいの頻度で
谷川が説明していたのを思い出した。
クラスの誰かが忘れたころに素朴な疑問を谷川に投げかけて、
谷川が今と変わらない返答をしていた。
ひかりはその机のことには大して目につかなかった。
けれどそれがいつまでも使われないまま教室の隅でぽつんとしていたと
知らされると今まで気がつかなかったことを申し訳なくなる。
そっと机の表面を指でなぞり指先についたほこりを擦る。
ほこりはひらひらと床へ落ち、見えなくなる。
その机が使われてもいないのに妙にところどころ傷がついていて、
使用感があるのをひかりはどこか否めなかった。
だが転校生のために用意された机が新品とは限らない。
ひかりはそれで自分の疑問を納得させた。
そしてのぞみとこだまを探しに行くという忘れかけていた自分の使命を思い出した。
「そうだ。谷川先生。こだまとのぞみの場所を知りませんか?」
谷川は着ていた背広の乱れを直しネクタイを元に戻す。
他の教師たちは襟付きのTシャツぐらいでちょうどいいぐらいいと思っている。
一方谷川は毎日背広を着て、ネクタイをかかさない。
「こだまさんならさっき近くでみかけたよ。そろそろここに来ると思うけどね。」
ひかりの代わりに顎をかきながら谷川は廊下に顔をだして左右を見渡した。
顔を戻すと谷川はにっこりと笑顔を作る。
一歩引いた谷川の前からひかりの探していた人物が来てくれた。
「こだま。どこ行っていたの?」
ひかりはなるべく平静を装った。けれど最後に声がうわずってしまった。
こだまはそれには気づかない振りをして
ちょうど近くにあった自分の席にひかりを座らせる。
「購買でパン買っていた。込んでいたから少し遅れちゃった。
何も言わず出て行ったら探しに行こうとするのも無理はないわね。
でも弁当を机の上に置いたままよ。」
のぞみはひかりの机の上から置きっぱなしになっていた弁当を持ってくる。
そして空いていた別の椅子に座り持っていたパンを机に広げた。
大きさはさまざまだけど
全部透明なビニール袋に包まれているパンはこだまが机に置いた拍子にぶつかり、
ビニールが擦れる音を一度だけ響かせた。
「のぞみは?一緒じゃないの?」
「彼女はちょっと用事があるらしいから今日は一緒じゃないわ。」
選びもせず適当に買ってきたこだまのパンは甘いものしかなく、
見ているだけで逆にのどが痛くなりそうな品揃えだった。
その中からメロンパンを無造作に取ると慣れた手つきでビニールを引き剥がす。
控えめに一口食べ、その分だけパンに歯形がつく。
口の中で何度か噛み、飲み込む前にもう一口メロンパンを口に運ぼうとする。
しかしこだまのその口の動きは止まった。
ひかりの後ろにいる人物がこっちを見ていた。
つまり谷川が後ろでこだまとひかりの様子を見ていたからだった。
こだまの視線に気づいた谷川は模範のような笑顔を見せた。
それは場を和ますというより紛らわすためのようだった。
こだまは谷川の笑顔のメッセージを無視して
彼の傍にある机を見るとまばたきをする間隔を長くした。
「見つかってよかったね。それじゃあ僕は失礼するよ。」
谷川は机を抱えると教室から姿を消した。
昼食を食べる時間はもう終わりに差し掛かっていて
二人以外のクラスメートは各の目的のために教室からいなくなっていく者もいれば、
その場で雑段に移る者たちもいる。
祭りの後の静けさというべきなのだろうか?
すこし大げさすぎるかもしれないがそれくらい劇的な変化だった。
こだまにとっては好都合な変化でもある。
窓が閉められ逃げ場を失った風は教室の中を何度も回り、
その勢いを失くしていく。
少しよどんではいるもののほんのりと、ちょうどいい暖かさが教室に訪れていた。
その暖かさをこだまは黙ってメロンパンを食べていた。それにバランスをとるようにひかりは騒いでいた。
ひかりはさっきまでの陰鬱な雰囲気をどこかに吹き飛ばして
こだまにたくさんの事を話し続けた。
「購買で売っているチョココロネとクリームコロネのどっちがおいしいかな?」
「こだまは一ヶ月が三十日の月と一ヶ月が三十一日の日はどっちが好き?」
「ねぇ今度みんなでどっか遊びに行かない?」
こだまはただ淡々と相槌を打っていた。その表情は少し朗らかだった。
授業が終わる。そして鐘が鳴る。
学校にいれば当然のことなのだが
最後の鐘を聞くたびにこまちの腹の底に黒い感情が芽を出す。
このところ毎日がそうだった。家に帰ればすぐにそれを拭い取ることができるのだけど、帰り道の間で暴れまわるそれをなだめながら家まで向かうことはなかなか慣れなかった。
今すぐにでも家に帰りたい。
そう思い続けることでどんどんたまっているどろついたタールのようなそれを
押し縮めることができる。帰り支度をして教室を後にする。
「こまち。待って。」
聞きなれた声がこまちの耳を刺激してこまちを立ち止まらせる。
振り返りそこにいたのはいつも会っているこまちの友達だった。
親友というほどの仲ではないが教室にいるときはその友達を放すことが多い。
慌しく生徒が動いている中でこまちと友達だけが教室の隅で動いていなかった。
ざわめきが収まらない教室の中、こまちはそっと鞄を持ち直す。友達は真剣そうな顔つきだが目はしっかりと笑っていた。
「ねぇこまち。あなた部活に入らないの?もう11月だよ。」
こまちは軽くため息をつこうとしたがやめた。それすら疲れることだと気づいていた。
放課後に友達が呼び止めるから何かと思えばそういうことか。
こまちの表情には目もくれずに友達は自分の話を進めていく。
「ねぇ。今から練習があるからさ。見学するだけでもいいの。
ちょっと見て行ってもいいじゃない。」
おそらく先輩から来年の新人の勧誘でも任されているのだろう。
この学校は部活の存亡を懸けた争いが他校より激しい傾向になっている。
こまちもその厳しさを体験していた。
噂には聞いているがどうせたいしたことないのだろうと
たかをくくってこまちは入学式を迎えた。
そして入学式当日に体育館から出てくると、四方八方から勧誘の怒声にも
似た宣伝が飛び交い、
それらが混ざり合って何を言っているのか理解することができず、
ただ目を丸くするしかなかった。
大げさに聞こえるかもしれないけどその混沌地帯で進入部員を獲得できたものだけが
一年間の安泰を許されるのだ。
そろそろ年の終わりに近づいた今月。この頃になると新入部員獲得のために作戦なり、
練習なり積んでおかなくてはいけない時期になっていたのだ。
そしてちょうどよくこまちが帰宅部だと知ったことで、手始めにこまちを練習台にでもしようと考えているのだろう。
こまちが勧誘につられて友達たちの部活に入ってくれれば一石二鳥であり、
彼女たちには損失は一切ない。
そのような理由が背中を押しているのか、今日の友達の勧誘は結構しつこかった。
このことだってこれが初めてではない。
「ほらさ。健全な魂は良好な体に宿るっていうじゃない。
本当に見学するだけでもいいからよかったら立ち寄ってみてよ。」
他人のことを思っているような口ぶりとは裏腹に
自分の利益を考えていることがこまちは丸分かりだった。
でもそんな考えしかできない自分がちょっと残念だった。
友達の勧誘に折れてさっさと新しい部活にでも入ればまだ学校は楽しくなるし、
終業の鐘が鳴る後の黒い感情もなくなるかもしれない。
けれどいくら頭の中で誰かがそう呟いてもこまちはその決断には踏み入れられない。
どうして素直になれないのかはうすうす見えている。
こまちはまだ諦めきれていないのだ。
失くしてしまった自分の居場所をもう一度ほしがっている。
「うん。また今度ね。」
そう言ってこまちは逃げた。
この約束はその場限りになって数日後にはまた同じことを聞かれるのだろう。
そしてこまちは同じ口答を返す。
繰り返したくないことだがこまちはこれしか言えなかった。
言えるわけがない。
自分は生徒会の一員だったなんてどう告白したらいいか分からない。
信じてもらえるわけがない。
放課後になった後のこまちの居場所は一つしかなかった。
たったそれしかないのは悲しいとふと思うがその一つでもこまちは十分満足だった。
しかし今はその一つでさえこまちの届かないところにある。
物理的な距離は離れていないはずなのにその違いはどこから来ているのであろうか。
階段を上りながらこまちはその理由を考えていた。
階段を上りきると立ち止まる。ここを曲がれば目的の場所は目の前だ。
あの時以来ここには足を踏み入れていない。
ここから先が自分の知らない場所に変わっていることを知るのが怖かった。
曲がり角を曲がってこの先にある生徒会室への扉を開ければいい。
そんな簡単で、前までこまちは普通にこなしていたことなのに、
今のこまちにはそれをすることはおろか、考えるだけでもためらい足踏みを繰り返す。
階段の上で立ち止まりおろおろしているこまちは傍目からみると変人そのものだった。
こまちは決心がつかず壁に寄りかかり顔をうなだれる。
うつむいていると昼はミルク色の白い廊下が今はほんのりと赤に染まっているのに気づく。こまちがもたもたしているうちに太陽が沈もうとしている。
太陽とは反対側の空には白い月がもう浮かび始めているかもしれない。
けれどこまちがいるところではそれは見えない。
太陽と月はもとより外の様子をこまちは全然知らないでいて、
だんだん赤い色に変化する廊下だけこまちの目に映る。
自分から動き出さない限りこまちはただ立っているだけでそこでは何も見えないのに
気づいてしまった。
やっとこまちは動き出す。といっても曲がり角を曲がることはなく、
その先の様子を見るために顔をだして様子を見ることが精一杯だった。
顔を出すと同時に誰かが生徒会室から出て行く。
こまちは目を凝らす。
生徒会室から出てきた人は両手に大量の紙束を平積みにして
扉を通るのに四苦八苦していた。
足がすくむ。認めたくても認めたくない。
しかし紛れもない事実しかこまちの目には映らなかった。
一度だけしか見たことのない人が生徒会室から堂々とした態度で廊下を進んでいく。
こまちがいる方とは反対の方向へと歩いていったのは
こまちにとって幸運だった。
こまちのほうに向かってきたのなら、
彼女は回れ右をして階段を下りていったことになっただろう。
こまちは壁に寄りかかるがそのままずるずると腰を落として床に座り込んだ。
丸くなり自分の体で黒い空間を作る。
その中でこまちは目を力一杯閉じた。
やっぱりそうだ。つばめはもういない。
そしてこまちが感じていた生徒会室への距離を再認識した。
どうしてここに来てしまったのだろうか。
こまちは力いっぱい自分の体につめを立てながら自問自答する。
ここへ来てしまったことの愚かさが身にしみた。
誰もいない廊下で、こまちは自分自身を責め続ける。
つばめがこまちを苛めるときよりもそのつらさは何倍も大きかった。
つばめに会いたい。たとえそれが記憶の中という虚像の中でも
こまちはつばめの姿を探していた。
今でも脳裏に焼きついているつばめとの初対面のとき。
生徒会室に無理やり連れてこられてこまちとつばめとの約束を交わしたとき。
こまちがあげた提案を呑んでくれたとき。
そして七不思議の調査を最後につばめを見つけるときができなかったとき。
一年にも満たない期間なのに思い起こそうとすれば思い起こすほどに
生徒会でも記憶が鮮明になっていった。
その記憶に溺れながらうっすらと瞳を開く。
立ち上がり体の節々がきしむ音の後にその痛みだけが残った。
なぜだろう。なぜこまちはそんな昔のことを思い出してしまったのだろうか。そ
んなことしてもつばめが現れるわけがない。
それなのに思い出してしまって一層今の自分が惨めに見えてくる。
泣いてしまいたい。でも泣いても誰も来てくれない。
泣いてもそばにいてくれる人がいなかった。もう学校にいることが耐え切れなかった。
こまちは逃げ出した。階段を勢いよく下りる。その姿は負け犬そのものだった。
最下段が迫ってくると残りの数段は飛び降りた。
着地する瞬間にその先から黒い人影がいきなり現れる。
危ないと思ってもこまちは空中に浮いているのでどうにもすることができない。
相手に避けてもらうことを期待するだけだった。
しかし相手はこまちに気づくのは一拍遅かったようだ。
こまちのほうを向いて声も上げずに目が丸くしていた。
結果としてこまちはそれにぶつかり気持ちいいほどにしりもちを踏んだ。
相手もこまちがぶつかった衝撃に押されてそのまましりもちを踏む。
ぶつかったのがやわらかいのが救いだったけど痛いことには変わらなかった。
腰を抑えながら微妙にぼやける視界で自分がぶつかったものを確認する。
一見したところ生徒のようだ。
こんな時間にこんなところをほっつき歩いている生徒を見たことはなかった。
その生徒も痛そうにしながらも腰を抑えながら痛みを耐えていた。
その人が持っていたらしいクリアファイルにはさまれていたレポート用紙が
空中にばら撒かれてはらはらと舞っている。
痛みが引くと同時に視界がはっきりしてきて、
自分がぶつかった生徒を観察できるくらいになった。
どことなく身長もぱっとしないし、顔つきもバランスがいい代わりになんだか特徴がない。
一回か二回見たぐらいでは覚えづらいような人。
そのような印象をこまちは受けた。力なく半開きになっている目を見ると近寄りがたい。
だからといってこのまま逃げるのはいくら何でも無責任すぎる。
悪いのは自分に決まっているからまずは謝ることをしなければいけない。
「すっ…すいません。大丈夫ですか。」
急いで立ち上がるとその人が持っていた紙切れを急いで集める。
相手は何か言いたげだったがこまちは紙を集めることに集中していた。
相手はこまちが聞いていないのに気づいて口をもごもごさせる。
「いや俺もよそ見していたから……。」
声変わりを終えて大人びている低い声をこぼしながら、こまちが紙を拾う作業を手伝った。
彼が落としたクリアファイルのなかには数枚のレポート用紙が挟まれていた。
どれも出だしは同じ一文で始まっている。
こまちは拾い上げようとしたさいに反射的に文頭を読んでしまった。
『クーライナーカについて、』
レポート用紙がこまちの指を離れはらはらと舞い落ちる。
彼が拾いきるまでこまちは動けなかった