『十三』
生徒が居るはずのない深夜の学校になぜかこまちは残っていた。警備員が巡回しているのは分かっているがそんなのに怯えているなら今ここにいない。それに警備員は十一時を過ぎると学校を出てゆく。そこから一時間ほどの余裕を持てば大丈夫だろう。そう見込みをつけてこまちは今女子トイレでじっと息をひそめている。さすがにここまでは警備員は調べに来ない。つまりここで待っていれば幼いときに誰もが夢見た夜の学校に入れることができる。退屈なのが玉に傷だけど文句は言っていられない。安全には変えられない。それに実際やってみたところ、トイレの壁に寄りかかりながら目を閉じてじっとしている数時間はあっという間に過ぎていった。
換気扇が空気をかき回している音に耳をすませば時間は飛ぶ矢のように過ぎてゆく。ポケットの中から携帯電話を取り出すと十一時を過ぎていた。あと一時間。人のけはいも感じない。さっきから聞こえる音も換気扇のそれだけだった。冷たかったトイレの壁も長い時間寄りかかっているためか今となっては何も感じない。この狭い個室の中にいるためか、余計な刺激がないためか、とにかくこまちはいつもよりも落ち着いていた。緊張で体が硬くなっていない。不安や焦燥感で胸を締め付けられてもいない。
ひんやりした冷静な思考でこれからさきどうするのかが鮮明に想像できたしそれを実行する自信もあった。つばめは夜の学校に入ることは困難だと言っていたがこまちにしてはさほど苦労することではなかった。失敗する要素などどこにも見当たらない。自信が確信にかわりこまちは誰にも見えないここで薄い笑みをこぼしそれに酔うかのように眼を閉じる。まどろむような黒い自分の視界の中に何かが見えてくる。
それは針の先のように小さいと思っていたが時間がたつにつれてわたあめのように周りから何かを取り込んで大きくなってゆく。見ているのは過去の自分。思い起こしているのは昔の思い出だった。
こまちがむりやり生徒会の書記に任命されてから約一週間が過ぎた。そろそろ生徒会の仕事も板についてきたと思っていたがその日になってとんでもないことがおきた。こまちは人生で初めて山のような紙束を見たような気がする。机の上に当然のように置かれている紙が集まって見事な立方体を作っているのを見たら軽い眩暈を覚えて吐きそうになった。
「それあんたの分だから。」
背後から声がすると思ったらつばめがやや不機嫌そうな顔をしている。つばめがこのような顔をするのは二度目だった。一度目に理由を聞いてみたところ職員室に呼ばれたからと簡潔に言ってそれ以上のことは何も言わなかった。おそらくつばめの生徒会のやり方に教師が皮肉といやみでも言ったに違いない。いくら上手くいっても破天荒なやり方は周囲の人間からは敬遠される。そして教師という人間はステレオタイプの代名詞といってもいい。こまちを横切るつばめの目はとても疲れた色を浮かべていた。水と油。
つばめと教師はそのような関係なのだろう。ただ教師のほうは何が何でも交わろうとする分水と油よりも厄介かもしれない。その衝突はこまちが来る前からおきていそうだ。
つばめは窓を閉じ、カーテンを閉めて生徒会長御用達の椅子に座るとポケットから眼鏡を取り出す。椅子に足を組みながら深く座るとつばめは自分の仕事を始めた。この人工的な光しかないのにつばめの眼鏡が変に光ってつばめの目が見えなかった。こまちも黙ったままつばめに言われたプリントに目を通し始める。改めて見るとため息しかでない。その量は多すぎてとても今日一日では終わらないだろう。しかし文句は言えない。
我が生徒会長さんはこまちよりも遥かに高い山と向かい合っている。こまちは一番上から一枚一枚紙を取るとその文字を読み始めた。大体は他の部活や委員会からの報告書であるがそれを全て読み通す。それをまとめて改善点を見つけるのが生徒会の役目である。部活や委員会からの要望をおおざっぱにまとめながら次の紙を一枚取る。一人では決めきれない問題にはつばめに聞く。超をつけても差し支えないつばめの不機嫌さに触れたくはなかったけどこまちだけではどうにもならない。つばめはざっと目を通すと自分なりの意見を述べてこまちに賛同をとった。つばめの判断はいつも画期的で最善、最適だった。これだけは感心してしまう。生徒会を一人できりもりしていただけはある。ただそのことは口と顔にはださずこまちはまた自分の机でプリントと格闘を開始した。
この日ここにいる二人は仕事関係の会話しか交わすだけだった。仕事に集中しなければ一週間たっても終わらないだろう。紙を捲る音が一番大きい音となっている。つばめもこまちも無言のまま時間がチクタクと過ぎてゆく。
事務的で同じ仕事を繰り返すだけの単調な仕事は面白いという気持ちを根こそぎ奪うものだったけど、ここにいなければ知ることができない裏事情を知ることができるのはちょっと得した気分だった。そう思って自分を励ましていればこの仕事もちょっと楽になるというものだ。しかしその作業は徐々にこまちの神経を磨耗させてゆく。体力は減らないものの気力が少なくなって、深呼吸をする感覚も狭まってゆく。
「こまち。夜の学校に入る方法を九つ列挙しなさい。」
こまちが疲れたタイミングを見計らったかのようにつばめがこまちに質問を飛ばす。
こまちは何も答えなかった。いきなりでこまちに向けた質問だと分からなかっただけではなく、急に九つも考えろと言われて困惑していただけでもなく、つばめのなぞかけのようなそれに呆れていたからであるのが一番大きな理由だった。
持っていた紙を机の上にそっと置くとつばめを無視するように大きく伸びをする。考えれば考えるほどにつばめの質問は意味不明だった。つばめは半分ほどの高さになった紙の塔の裏から顔をひょいとだしている。眼鏡をはずしたつばめがさっきまでの表情をどこかに吹き飛ばしにっこりとしていた。
「どうしてそのようなことを考えるのですか? 」
こまちの質問はつばめがそのような疑問を持った経緯を聞いているのではなく、つばめの疑問を根底から否定するようなそのような言い方だった。
そんなこと無理に決まっているのだから考えるだけ無駄だろとこう言い換えても差し支えない。勿論つばめはこまちの言いたいことを汲み取る。
つばめはやれやれとでも言いたそうな顔と共に立ち上がると本棚に押し込まれているショーウィンドウの中からフラスコを取り出す。そして隅においてあった電気ポットのボタンを押した。トポトポとお湯が滴り落ちる音が流れる。
「夢を見たのよ。」
フラスコに溜まるお湯の水面に目を向けてつばめがぽつりと呟く。つばめにしては珍しい重苦しく渋い声だった。何時もと違うつばめの様子におののきそうになりながらもどうせただの戯言であることを認識した。
「学校にはね、秘密の部屋があるの。影のように寄り添うけど誰もその存在を知覚しない。 そんな場所がここにある。私はその部屋を見つけてその中を探検するの。」
つばめ先輩は遅ればせながらもハリーポッターと秘密の部屋を読み終えたのだろうか? こまちは即座にそう茶々を入れたかったが黙って聞くことに徹することにした。
机に組んだ足をのせながら座りつばめは作ったような咳をすると窓を隠していたカーテンを開き、窓を開け放つ。新鮮な空気が今まで中で停滞していた空気と入れ替わる。そして空の先には待っていたといわんばかりに太陽が仁王立ちしていた。こまちはつばめと共にまぶしい光を浴びている。けどこまちはそれで自分の足元に影ができていることに気づいていた。つばめは机の引き出しから紅茶のティーバッグを出すとフラスコの中に落としてゆく。透明なお湯がこげ茶色に染まってゆく。つばめがこちらに顔を向けている。逆光で顔がよく見えなかった。
「ちょっとそれを探してみたくなったわけ。面白そうでしょ。夢じゃない? ロマンじゃ ない? ときめきじゃない? だからこんど忍び込んでみようとするわけ。」
フラスコから漂う紅茶の香りをつばめはたんのうしている。こまちはばかばかしいと心の中で彼女を罵倒した。夢の中でみた幻覚に振り回されて何がロマンだろう。何がときめきだろう。つばめのそういった話にはもううんざりしていた。だからこまちは聞き流した。聞いていなかったとその話を忘れて口を閉じたまま手だけを動かす。紅茶を飲み干したつばめは窓を閉めてカーテンでさえぎる。いつもの陰湿な生徒会室がもどりつつあり、つばめはこまちの反応にわざとらしくため息をついた。
「あなたはこの学校に夢を感じていないの?」
「夢はみなくてはいけないものなのですか?」
度重なる作業の連続がこまちを苛立たせてついムキになって答えてしまった。こめかみがひきつく。言いたい言葉をこらえられない。
「つばめ先輩はとても有能です。賢いし機転も効いていて、それにやる気もありますね。」
つばめがこまちの言葉を聞いている。そしてこまちの顔へと視線を投げかけているのも知っている。だからこまちは分かっているがその顔を見たくなかった。紙面に目を向けたまま次の言葉を結ぶ。
「でもつばめ先輩は規律に対する厳格さが足りない。つばめ先輩は学校を勘違いしていな いでしょうか? ここはあなたの場所ではない。」
背筋がぞっとするほどに自分でも冷たい声をしていると思った。こまちが書記となってからつばめに感じた憤りはそれだろう。とんでもない発想をするのがつばめの長所であるのだけどこまちはそれについていけなかった。今までのつばめの言葉はただの世間話のつもりだったかもしれないけどそれさえも満足できなかった。きまずい空気をつばめは気にせずに肩をすくめる。
「学生というこのモラトリアムの間だけは
すこしぐらいばかさわぎしてもいいでしょう? 」
それだけだった。つばめの答えはいつも簡潔としている。それはつばめがこまちの疑問を疑問と思っていないことを示していた。火曜日の次の日が水曜日であるようにつばめは悩みもしない。こまちは反論できない。つばめはそれを待つことなく会話をさえぎるようにまた立ち上がり別のフラスコを手に取るとまた紅茶を淹れはじめた。できたそれをこまちへと差し出す。こまちはそれを軽い会釈をして両手で受け取った。紅茶の水面にはややうろたえている自分の顔が移っていたけど温かい湯気と紅茶の香りをかいでいるうちに穏やかなものに戻ってゆく。
「今にしかできないことをしてもいいじゃない。」
どしんとつばめは自分のいすに深く座りその衝撃に回転椅子がくるくると回る。
「まぁあなたの思ったとおり夜の学校は不可侵の領域だからね。考えるだけ頭の無駄遣い かもね。」
紅茶を全て飲み干すとつばめは身の回りを片付けた。こまちもそれに習って帰り始めることにした。こまちはつばめの言葉をもう一度考える。つばめの主張には簡単に賛成できない。でもそれは今つばめが言ったからであってその主張が間違っていると思っていなかった。ちょっと動揺しているためか素直になれない。
さっきまでつばめのことを嫌悪していたけど今は自分のほうが嫌いだった。つばめはこまちを軽蔑しているのではなく何かを伝えようとしている。それは分かった。
ではつばめは学校で何をやってみたいのだろう? それを聞いてみたかったけどためらっているうちにつばめの姿は見えなくなっていった。
目を開き携帯のディスプレイを開く。それは十二時を示している。それを見て軽くうなずいた後こまちは小さく伸びをした。これから自分がすることに対しての気合をいれる。こまちは学校に侵入した。多少の心配は抱えていたもののここまでのことは失敗するはずのないものだった。女子トイレの扉を開くと転ばないようにゆっくり歩く。長い間動いていなかったから体の節々が錆びているように痛い。自分が想像しているよりも深夜の学校はひっそりと静まっている。でも自分が巨大な建築物の中にいるという自覚は十分あった。壁につけた手はどんどん冷たくなり、自分の足を引きずるぺたりという音もあじけないただの効果音なゆえにこまちの中にどんどんたまってゆく。そしてなによりも電灯の何一つないここは暗かった。廊下の先が見えないほどに形容しなくてもいい暗さがこまちの目の前にどしんとかまえていた。
懐中電灯は持ってきていないから目の前はかなり暗い。月明かりを期待していたのに月は遥か遠くで空の海に浮かんでいるだけだった。一寸先は闇というのはこのことをいうのだろうか。今のこまちは目も頭の中も一寸先は闇だろう。
これから何が起こるかはわからない。考えつくしても考えきれない予想外のことが起こるかもしれない。だけど自分がこれから何をするべきかよく分かっている。それがこまちの進むべき道しるべになってくれるだろう。もう一度おさらいをしておこう。こまちは七不思議を確かめにきた。しかしそれだけではない。まずは生徒会室に行かなければいけない。そしてそっちの方を優先しなければならない。目的地を決めるとこまちは小さいが重たい一歩を踏み出した。ゆっくり歩いていてもコンクリートの床とこまちの足の二つはペタペタと擦り切れる音を出している。
こまちはその音の数を数えて冷静になることを努めていたが、窓がかたんと揺れる音も、その外でざわめいている木々も、自分の足音でさえこまちの背筋を凍らせ、こまちは立ちすくんでしまう。気味が悪いほどにひっそりとしている廊下を一人で歩くことはこまちにはちょっと度胸のいることだった。怖くはないと言ったらうそになる。
ポケットの中で手のひらに爪あとがつくほどに手を握っていたし、歩くたびに自分のひざが笑っている。こまちはそれらには気づいていない振りをした。ここにいるのは自分が決めたことだった。だから文句を言ってはいられない。足元につい向いてしまう自分の視線を前に見据えてこまちはしっかりした足取りを崩さないように全力を注ぐ。生徒会室への道は少しずつ縮んでいく。変わらない廊下の風景が終わり階段を一段一段登る。階段も廊下と変わらず光がない。影さえもこまちのそばに存在しない完全な孤独が続いている。本当なら今頃こまちの隣にあさひが居ただろう。こまちはそれを思い浮かべたがすぐに息を漏らしそれを頭の中からかき消す。ただしそれはあのときのこまちのお願いにすぐにでも答えてくれたらの話である。あさひは少し躊躇した。ほんの一瞬だったけどこまちを失望させるのに十分だった。もともとこまちはあさひのことを頼りにしているわけではない。あさひが自分には気づかなかったことを見つけてくれればいい。その程度のことでこまちはあさひと関係を持った。七不思議、それとクーライナーカを調べている立場だけではいけない。七不思議を調べるために誰かを使役する立場に回らなければいけないのである。例えばつばめのように……
生徒会室がある階までのぼるとこまちは廊下の先にその扉があるのを全身で感じた。歩けば歩くほど、近づけば近づくほどにその輪郭がぼんやりと描かれる。
こまちはためらいもせず扉を開いた。自分は生徒会の書記なのだから躊躇することもない。開いた隙間に体をもぐりこませ、扉を閉める。熱がこもったような微妙な温かさと、ほこりっぽい空気にすこしむせてしまった。廊下が暗いのもさながらだが生徒会室はもっと暗かった。文字通り何も見えなかったこまちは入り口でたちつくして、じっと暗闇に慣れるのを待つ。
つけっぱなしのパソコンがよく見たスクリーンセーバーを映していた。
暗いこの空間でもよく分かる赤い絨毯の感触が懐かしい。
机の上に乗せていたプリントの山から一枚はらりと紙が落ちる。
閉めっぱなしの窓とカーテンもみたものばかりだった。安心感を胸に抱いてこまちは本棚に近寄る。
ショーウィンドウがそこにあった。けどそれがあるのはもう見通していたことだ。枝付きフラスコ、試験管、ビュレットやホールピペット、そしてスポイトがやや埃を被っている全てつばめの所持品だった。つばめが一番大切にしていたそれは主人を失って寂しそうにしている。ダンボールに捨てられている主人が居ない子犬のようだった。こまちはつばを飲み込む。こまちでさえつばめの承認なしにこれをさわることは万死に値するのだがこのときばかりはどうにもならない。ここにはいないつばめに小さく謝ると中の実験器具を動かし始めた。ガラスが擦れるその音がどこか嫌がっているように聞こえる。こまちは聞こえないふりをして手を止めない。やがてショーウィンドウに一つの大きな空間ができるとこまちはそこに手を入れた。最奥にガラス器具の感触ではないそれを見つけるとそれを掴む。開いた手のひらの上でそれを確かめる。今まで硬くなっていたこまちの表情はここにきてやっと綻んだ。こまちの笑い声は音にはならないものの、自身の体内で響いている。全ては目安箱を開けたときに見つけた紙切れに書いてあったとおりだ。それはこの暗い部屋の中でも蛍火のような淡い光をまとっているような気がした。
「これで……つばめ先輩に会える。」
握り締めたそれに微妙な温かさを感じてこまちの中に熱い何かが満たされる。閉めていたはずの生徒会室の扉が開いているのにまだ気づけなかった。