彼女を、買った。
五万九千八百円也。
安い買い物ではなかった。ただ、人間を買うために必要な金銭は、思っていた以上に少ないものなのだな、と驚いた。
商品は今、俺の掌を握って、遠慮がちに横を歩いている。手を握ったのは、俺の方からだった。今は、ようやく握り返してくれている。
年齢は、わからない。商人を通して聞いたのだが、彼女には「年」がわからないそうだ。
今が、西暦何年の何月何日なのかをド忘れした、と言うわけではない。「時」そのものがわからないらしい。
彼女が知っていたのは、「ご飯を食べること」と「寝ること」と「鎖をガチャガチャ鳴らすこと」だけだった。
・
俺の引越し先のマンションが、いわゆる一つの「曰く付き」だったからだろうと思う。
「幽霊がいる」とか「変な染みがある」とか、そういう意味の曰くではなく、「前に住んでいた人が、何やら怪しい仕事をしている」という意味での「曰く」だった。何かしらのとばっちりを受けるのは嫌なので、前の住民が出て行ってからは、その部屋には、誰も住もうとはしなかったそうだ。
そこへ、「安くて住めればいい」という、不動産業を営む者にとって、これ以上ないくらいの厄介払い先が現れ、一も二も無く、この部屋に契約を取り付けた、というわけだ。
つまり、俺である。
だって、1LDKの風呂トイレ別の角部屋が、二万五千円だ。部屋も四階部屋で、見晴らしも結構なものだった。
危ない仕事なら危ない仕事なりに、証拠隠滅も徹底しているだろう。昔の部屋に危害など無いさ。
そう思って、契約した。だって、1LDKの風呂トイレ別の角部屋が、二万五千円だ。部屋も四階部屋で、見晴らしも結構なものだった。
その魅力は、俺に都合良い妄想で自己解決させてくれるだけの妄想力を与えてくれた。
そして、妄想はやはり妄想である。
半ば放置気味になっていたポストから、出るわ出るわ前住民の忘れ形見。
どこの通貨なのかも解らない単位で記載された入金明細票。チリチリに燃やした髪の毛を適当に繋げて文字にしました、と言わんばかりの、解読不可の手紙(正直、これは本当にやばいものだと思う)。驚くことに、拳銃のカタログまでが押し込まれてあった。
裏社会の意外な管理体制の杜撰さと、先住民の守秘義務に対する関心の無さに戦慄しながらも、内心俺は、それはもう焦った焦った。
焦って、焦って。
「ま、しょうがねぇか」と、開き直った。
だって、1LDKの風呂トイレ別の角部屋が、二万五千円だ。部屋も四階部屋で、見晴らしも結構なものだったからだ。
一枚のチラシが、眼に止まった。
文字の羅列に、銀座の某マンションの一室の住所の記載。見ただけで、五ヶ国語くらいで、同じことが書かれていた(と、思う)。
「人形、売ります」
英語、ドイツ語、スペイン語と行を増やし、四行目に、日本語でそう記載されている。勿論、俺は額面通りに「趣味の悪い人形職人の特売セールだ」などとは、受け取らなかった。どんなにセールスセンスの無い人間だって、もう少し「物を買わせよう」という意気込みが伝わってくるチラシを作るものだ。
これは、おそらく、人身売買のことだ。
まともな想像力を持っていれば、いきなりこれほど突飛な発想など浮かばなかっただろうが、先住民の形見の品の数々が、俺の中の「まともな想像力」など、とっくの昔に藻屑と化してしまっていた。
ここでいきなり、俺の武勇伝を語ることになってしまうのだが、俺は小さな頃から、結構な悪ガキだった。
グレていたわけでは、ない。ただ「あの子は全くもう!」で済んでしまう程度の「ちょっとした」悪さを繰り返してきただけだ。要するに「ムードメーカー」というやつだった。
学校のアブラナ菜園にスイカを植え、立派に実らせたり、体育大会の応援委員会の活動では、全校生徒の前でふんどし一丁になって水浴びをするというパフォーマンスをやったり、修学旅行で万里の長城を全力疾走して迷子になったりと、まぁそういった、何と言うか、「誰も不幸にならない悪さ」というやつを繰り返して大人になったクチだ。
そういった、何と言うか。
怖いもの見たさというか、無茶上等魂というか、目立ちたがり属性というか。
そういうものが擽られたのか何なのか。
行った。
人身売買の、商店へ。
チラシを地図代わりに、ジーンズとインナーという出で立ちで。
・
当然というべきであるが、俺はゾッとした。
俺が想像していた、カビや苔だらけで、レンガで仕切られていて、天井から漏る水がポツポツと音を立てていて、腐臭や悪臭漂う、要するに「いかにも」な感じの雰囲気は、欠片も無い。
事務所、だった。
軽快なテンポの音楽を、ごく小さな音で流して、スーツを着た男達が、他の客に商品の説明をしている(「他の客」が、俺と同じような格好をしていたことが、とても不自然に思えた)。
だからこそ、ゾッとした。
「展示されている商品」と、その雰囲気が、あまりにもかけ離れていたから。
檻。
首輪。
足枷。
手錠。
全裸。
要するに「いかにも」な感じの雰囲気、そのままだった。そこだけが、貴様の常識のテリトリーなど知ったことかと言わんばかりに超越している。
檻には、札が掛けられてあった。
「スペイン語」「ドイツ語」「日本語」……。
「黄色」という項目を見つけて、ようやくそれが「商品説明」なのだと理解した。記載されている言語名は、要するに「使用出来る言語」なのだろう。
項目には、最後に「貞操」と記載されていた。「商品」の縦幅は、百十センチほどしかなかった。
ドイツもコイツも、歪んだ眼をしていた。
濁りきった眼で、俺「達」を見つめていた。濁った瞳も、輝く。
「他の客」が、一人の少女を買ったことが解った。クレジットカードを、スーツ姿の男に渡していたからだ。「配送で」という言葉が聞こえた。
その時の客の眼を、「下品だ」とは思わなかった。おそらく、あるべき形だったからだろう。
発情した雄生命体が、同種の雌生命体を凝視する際、きっとあんな眼をする。
えぁー。
えぁー。
えぁー。
音が、聞こえた。
何度も何度も聞いて、やっとそれが「声」だと言うことに、気が付いた。
グワシャン、という音が聞こえた。スーツ姿の男が、一つの檻を蹴ったのだろう。「吠えるな」と、そういう意味なのだろう。
それだけの音に、俺は心底仰天して、脅える様に振り返る。それほど、この世界に対して臆病になっていた。
檻というより、ケージだった。
濁って、苔の生えた水入れ。
そこにあるのは、それだけ。
濁って濁って、光も曇るほどに濁った瞳が、こちらを見つめていた。
・
俺は、小学校四年の頃、高橋という奴を苛めていた。ムカついたからとか、嫌いだからとか、そういう理由ではなかった。
みんなが喜ぶからだ。
俺が高橋に嫌がらせをする度に、みんなが騒ぎ立て、俺は人気者になった。
俺が高橋の運動靴を隠して、高橋が運動靴を探す姿を見て、みんなは笑った。
俺が箒で高橋の頭をゴシゴシとこすり付け、高橋が嫌がり、みんなは笑った。
俺が高橋の頭に牛乳を零し、高橋が泣きそうになったのをみて、みんなは笑った。
ある日、俺は高橋を、殴った。
それをすれば、みんなは笑うと思ったからだ。
ところが、誰も笑わなかった。「え……?」という眼をしていた。泣き出す女子もいた。
その時の高橋の眼を、俺は今でも忘れることは、出来ない。
高橋はその次の日から学校に来なくなり、それ以来、俺は高橋と会うことは無かった。
転校、したらしい。
・
その、何十倍の眼。
何が「何十倍」なのか? そんなのは、決まっている。
「衝撃」だ。
人間のする眼じゃない。
太陽を浴びて生きた人間は、こんな眼はしないに決まっている。
この時ほど、俺は親に感謝をしたことは無かった。親だけじゃない。友にも、友の親にも、すれ違っただけの他人にも、胸糞悪くなるような同級生にも、一人残らず……本当に、一人残らず、感謝した。
いるのだ、「想われなかった」人間は。
スーツ姿の男は、ケージを蹴った。
何を考えて蹴ったのだろう?
コイツが
吠えて
うるさいから
蹴った
コイツは
怪我を
するだろうか?
怪我をしたら
手当ては
必要だろうか?
……違う。
吠えて
うるさいから
蹴った
それだけだ。
そこに「個」は無い。吠えたものが、何者であり、何をしたら、どうなるか、など、考えちゃいない。
ケージが無かったら?
迷うことも無い。そのまま蹴っていたのだ、きっと。
彼女のケージについている札には、ほんの僅かしか「セールスポイント」が記載されていなかった。
「貞操」とだけ、書かれていた。
・
彼女を、買った。
59,800円也。
安い買い物ではなかった。ただ、人間を買うために必要な金銭は、思っていた以上に少ないものなのだな、と驚いた。
彼女は今、俺の掌を握って、遠慮がちに横を歩いている。手を握ったのは、俺の方からだった。今は、ようやく握り返してくれている。
年齢は、わからない。商人を通して聞いたのだが、彼女には「年」がわからないそうだ。
今が、西暦何年の何月何日なのかをド忘れした、と言うわけではない。「時」そのものがわからないらしい。
彼女が知っていたのは、「ご飯を食べること」と「寝ること」と「鎖をガチャガチャ鳴らすこと」だけだった。
「腹、減ってないか?」
俺はそう聞いた。
それだけで、彼女はビクリと体を震わせた。彼女にとって、大きな男が発するありとあらゆる行動は、恐怖の前触れでしか、無かったのだろうか? 最初に彼女の手を握った時、彼女は失禁までしでかした。
もう一度聞こうとして、そもそも彼女は言葉が解らないのだと思い出す。
──さて、と。
何をやっているんだろうね、俺は。
どうするつもりなんだろうね、俺は。
戸籍は、向こうが何とかしてくれるらしい。
俺はそういった、戸籍がどうとか身分証明がどうとか、そういった小難しいことを、一切合切知らない。よくここまで社会を渡ってこれたな、というくらいに知らない。
ただ、スーツ姿の男曰く、戸籍など、少々の金があればどうとでも出来るらしかった。費用は、五千円だった。
問題は、俺自身の能力。
……養える、わけがない。
曰くが起こす身の危険よりも、金銭の都合を選ぶほどに、裕福とは程遠い。
子供を持った試しは無い。そもそも一年以上異性交際が続いたことが、無い。
おまけに、末っ子。つまり、我侭で自分勝手。
わーい、八方塞がりだぜぃ。
「……ま、しょうがねぇか」
と、言えたら幸せなのだろうが、残念なことに、そこまで能天気には、なれなかった。
グゥ。
猫が唸っているのかと、最初は思った。彼女の手が引き攣ったから、気付けたようなものだ。
彼女が、腹を鳴らしたのだ。
「腹が減った」と、最も原始的な方法で、それを俺に伝えたのだ。
俺が彼女を見ると、同じように、彼女は俺を見上げていた。
脅えている。
あぅあぅと鳴き、何かを訴えようとしている。訴えられないことに気付いて、それでも何かを訴えようとして、鳴く。あぅあぅ。あぅあぅ。
不謹慎だとは思ったが、その様子が……本当に、不謹慎だと思う。
あまりにも可愛らしくて、俺は吹き出してしまった。その音に、また彼女はビクリと体を強張らせた。
歩いていた場所は、公園だった。
公園というものは中々どうして便利なもので、屋台から自動販売機やら休憩所やら、それなりの物は揃っている。
たこ焼きをチョイスした。「公園とは、たこ焼きである」とは、誰が言ったのだろう?
そう、俺が言った。異論があるだろうか?
たこ焼きは、二百円だった。
・
がっつきはしなかった。ただ黙々と、たこ焼きを口に運んでいた。
最初、手でたこ焼きを掴んで、熱いことがわかると、彼女は頑なにそれを口に入れることを拒否した。「熱い」という感覚が、「痛い」という感覚のそれと酷似していたため、危険を連想したのだろう。
俺は爪楊枝でたこ焼きを刺して、それを自分の口に運んだ。「大丈夫だよ、安全だよ」と伝えたつもりだ。それでも彼女は渋っていたが、ようやく一つ目を口に入れて、後は黙々と食べ続けた。
たこ焼きの味など、当然知らないのだろう。目を丸くして、たこ焼きを凝視する姿も見受けられた。
顔を、濁らせた。多分、喉に詰まったのだ。
何時間くらい前に、どこで買ったかも忘れたジュースを、彼女に手渡した。彼女がそれを受け取り、ゴクゴクと飲み干す。今度は、飲むことを拒否したりはしなかった。
やはり、目を丸くした。たこ焼き同様、レモンジュースも飲んだことが無いのだろうと、考えるまでもなく理解する。
この時点で、俺は随分と彼女に信用されていた……と、思う。
彼女が座っている場所と、俺が座る場所の距離は、物差しほども離れていなかった。それはつまり、彼女の中で「この人は、この距離に居ても大丈夫なのだ」と、太鼓判を貰っているからだと思う。
ワンピースだった。
それが安物なのかどうなのかは、俺には判らない。ワンピースに拘る趣味は、生憎持っていなかった。
彼女は下着を身に着けていない。誤解されぬように弁解するが、決して俺の趣味ではない。それしか、支給されなかったのだ。
異質、だった。
ワンピース姿の少女が、公園のベンチに腰掛けて、たこ焼きを食べている。
異質でも何でも無いのだろう。
だけど、異質だ。
「ワンピース姿の少女が」の前文をめくれば、誰だってその異質さには気付くはずなのだ。
彼女が、たこ焼きを食べ終わる。
「美味しかったか?」
俺は、そう聞いた。返事は期待していなかった。ただ、彼女から何かしらの「サイン」があれば、是非にそれを受信したいと、そう思っていた。
返事など、期待していなかったのだ。
だから、俺は彼女のこの後の行動に、戦慄した。
身を強張らせることはしなかった。ただ、ゆっくりと俺の方を見て……
笑ったのだ。
ニコリと、本当に微かに笑った。
そして、一言、呟いた。
────ごめんなさい─────
・
彼女の頭を、自分の腹に押し付けた。
今度こそ、彼女はビクリと戦慄いた。震えが伝わってくる。それが解っても、俺は彼女の頭を、腹に抱いた。
だって、彼女の身長は、腹に届くくらいしかなかったから。
細い。本当に、細い。
彼女の腕を見れば、青い血管が走っているのが判った。まるで、老婆のような腕だ。
ふるふると震える頭は、確かに硬いが、それでも、脆いイメージを抱かせる。
力を入れないように、それでも強く、頭を抱いた。
こんなに、細い。こんなに、脆い。こんなに、儚い。こんなに、小さい。
だけど。
こんなに、暖かいじゃないか。
彼女は、俺に「ごめんなさい」と言った。
彼女が、唯一、たった一つだけ扱える、人間として備えて当然のスキル。……の、たった一欠けら。
子を持った親は、よく最初に喋らせる言葉は「パパ」か「ママ」で争うと聞く。
子供は、愛を選ぶ権利があるのだ。父親か、母親か。どちらの名を先に呼ぶか、選ぶ権利があるのだ。
彼女には、選ぶ権利は無かった。与えられる機会すら、きっと無かったのだろう。言葉を知らないということは、言葉を学ぶよりも先に、今の境遇になった、ということだ。
暴力を受けたのかどうかは、知らない。もしかしたらケージ越しにしか受けなかったのかもしれないし、あの時はたまたまケージ越しであって、普段は肉体に暴力を受けていたのかもしれない。知る由も無いし、知りたくも無い。
おそらく、彼女は他の子から学んだのだ。
それを言えば、許されるのだ。それを言えば、苦しみから”とりあえず”介抱されるのだ。それを言えば、身を守れるのだ。
吹けば消えてしまうような細かな知性と、人間が伏せ持つ本能が、彼女にたった一つだけ、それを学ばせた。
─────ごめんなさい─────
涙が止まらなかった。涙を見せるわけにはいかないので、彼女の頭を、もっと強く抱きしめた。
もう、震えてはいなかった。ただ、ぼそぼそと呟いていた。
─────ごめんなさい。ごめんなさい。─────
同情だ。
どうしようもなく、止ん事無く、余地も無く。
これは、同情だ。
暇な動物だと思う。
人間という動物は、ひどく暇な動物だ。自分じゃない誰かが、何かしらの仕打ちを受けて、それに対していちいちあれこれと感傷する。
それが煙たがられるようになったのは、いつからなのだろう?
或いは、それをする暇が、人間から無くなってしまったのか?
人間にとって、他者に何かを施すことは、「余計なことだ」と忌み嫌う者が増えた。人はそれに「同情」という名前をつけた。
同じ情になる、と書いて「同情」と説く。
彼女の凄惨たるこれまでの人生を知らない俺には、彼女の気持ちはわからない。だからこれは「同情」ではない。
だけど、「同情」なのだ。
自分にはあって、他人には無い。そしてそれを憐憫するのは、考える限り最低のエゴイズムだと思う。
だけど、それにしたって、あんまりじゃないか。
彼女の年を、俺は知らない。だけどきっと、我侭を言っても良い年頃だ。むしろ、我侭しか言えない年頃なのだ。
自分はどうだったろうか? きっと、縦に詰めば天まで届かんばかりに、我侭を言い放題してきたのではないか?
だって、それは「あって当たり前」じゃないか。
愛の在り方が解らないから、我侭を言って愛を確かめようとするじゃないか。そうして、知ってきたじゃないか。
彼女は、我侭も言えない。
だって、我侭のやり方を知らない。我侭のやり方を知ったところで、それをすれば、見返りは苦痛だけだったのだろう。
謝ることしか出来なかった。多分、それを「謝っている」と、彼女は理解すらしていない。それを唱えれば、苦痛から開放される、魔法の言葉とでも思っているのかもしれない。ただそれだけが、どうしても俺には許せない。
彼女には、これっぽっちも、謝ることなんか無い。
俺には、これっぽっちも、謝られることなんか無い。
仮に、彼女が何かしらの粗相をしたのだ、としても。
それは、彼女の年頃の子供達にとっては、最も口にしたくない言葉なのだ。
謝りたくない、年頃なのだ。
・
挨拶から、教えてやろうと思った。
「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」。
それだけの単語を、人間は馬鹿に大事にする。大事なことだと、俺も思う。
どんなコミュニケーションだって、例え亜種はあれど、まずはそこから始まるのだ。
彼女はいつの間にか、寝ていた。
俺が泣き止んで、ふと彼女を見た時には、もうスヤスヤと寝息を立てていたのだ。立ったままで。
それを見て、やはり俺は、不謹慎なことに吹き出してしまった。
安心したのだと思う。俺も、彼女も。
抱きしめてやることが、人間に出来る数少ない愛情表現の一つであることを、まだ彼女の本能が忘れてなかったことに、ほっとしたのだ。
教えることなんか、出来ない。
愛を語るほど恥知らずに青春する年でも無いし、だからといって言葉で解らせてやれるほど、人生経験を積んじゃいない。
だから、与えよう。
美味しい物を沢山食べて、綺麗な物を沢山見て、暖かい所で寝て、起きて、沢山頭を撫でて、沢山抱きしめてやろう。きっと、そうすれば伝わるはずだ。自分の時は、そうして伝わったのだから。
そして、味を染めた時が大変だ。今度は中々の我侭娘になるのだろう。
その時は、怒ろう。怒って、時には打って、打った後、また抱きしめてやろう。自分の時は……まぁ、性別の差はあれど、そうして伝わったのだから。
住む場所には困らない。きっと狭くなんか、ならないはずだ。あの部屋は、一人で住むには広すぎる。
だって、1LDKの風呂トイレ別の角部屋が、二万五千円だ。
部屋も四階部屋で、見晴らしも結構なものだったからだ。