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act.1「奇妙の来訪」

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「ごめんなさい。もうあなたとは付き合えない」
 その日、僕が覚悟していた言葉を、雪野早苗は予想通りに突きつけてきた。その時僕は多分恐ろしく冷酷で鋭い目をしていたんだろう。
「そう」
 はき捨てた二文字。くるりと踵を返すと僕は一度も振り返らずに二人だけの教室を出た。がらりと閉めた引き戸は、僕が階段を降りるときも開くことは無かった。
 思えば彼女とは二年の付き合いだった。最初の告白は彼女。ドラマのように校舎裏に呼び出された僕は、そこで顔を赤らめた雪野に四文字と九文字の言葉をぶつけられた。告白された経験の無い男子が、まさかの想い人からの告白を受けた。気が付けば僕の表情は真っ赤で、心臓は突然高鳴り、握った掌は汗でまみれていた。
 そんな好スタートを切っても所詮別れるときはこれだ。僕の中にあった筈の熱はすっかり冷め、あんなに大事に思っていた筈の彼女に鋭い一言を吐き捨てることができるようになる。
 人間というのはどこまでも飽きやすい性格だ。
 だからこそ、このまま関係が続いていたとしても、長くは持たなかっただろう。
 そう、この関係をずっと保てる可能性は無かったに違いない。

   ―深淵の瞳―
     act.1「“奇妙”の来訪」

 その日の登校は、とても息苦しいものであった。周囲の視線が集まる中、僕は一人で登校しているのだから当たり前だ。二年間付き合っていた仲の良い雪野と杉原が破局。話題になるには十分すぎる。
「おはよう杉原」
 清清しい声に振り返り、僕は声の主を見た。クラスメイトである須賀衛はむっつりとした表情を浮かべながら僕の横に着くと耳元で呟いてきた。
「別れたってのは本当か?」
「そうだけど、それが?」
 須賀は不安そうな表情で僕を見ると、そうか。と一言呟く。
「多分、頃合だったんだと思う」
 多人数からの視線が集中する中、僕は言った。
「頃合?」
「所詮は高校生の恋愛ごっこだったってことさ」
 僕は須賀に向けて微笑む。須賀は戸惑いの色を見せ、そして会話が途切れると同時に僕から離れ、盛り上がっている登校集団の中へと混ざっていった。
―高校生の恋愛は所詮ママゴトみたいなもの。
 そんな言葉が自らの口から出たことに驚いた。昨日まで真面目に付き合っていた人間が吐く言葉では無いだろう。
 僕は校舎へと流れていく生徒を見回し、そして空を見上げる。今日も快晴だ。これから激しい雨が降るなんて考えられない天気だ。僕はぼんやりとかばんの中に納まった折りたたみ式の傘に触れながらそんな事を思う。
「何事も、突然なんだなぁ……」
 僕をチラリと盗み見る集団に鬱陶しさを感じながらも、静かに呟く。この言葉が一体誰の耳に届いているのかは分からない。というより届いて欲しくない。
足早に正面玄関に入り、ローファを乱暴に突っ込んでから使い古され朽ちかけた上履きに足を入れる。履いただけで靴下が汚れる上履きは果たして上履きとしての役目を果たしているのかなんて事を考え、最終的に新調することにしようと決める。古いのは捨ててしまおう。そうだそれがいい。
 下駄箱からそう遠くない教室に足を踏み入れると、ざわざわと周囲がざわめいていた。雪野の周囲に女子が溜まっているのを横目で確認し、やはり話題になっているんだなと感じた。
「うす」
「よう、杉原」
 今週の漫画雑誌を片手に片桐は僕の方を引き寄せ、そして胸に持っていた漫画雑誌を押し当ててきた。
「俺まだ読んでないが、読んでいいぞ」
「え、なんで?」
「別に、気まぐれさ」
 彼のわかりやすい慰めに少し笑みをこぼしながら、どうせだからと僕はその漫画雑誌を手に席に着く。とりあえず一時限目はこれで乗り切るとしよう。友人のを写しただけのノートと大して開いたことも無い教科書を用意し、早速雑誌を開く。巻頭にグラビアのポスターがあるが、一人で見たって面白くもなんとも無いので飛ばす。
「えぇ、皆おはよう」
 ちらほらと生徒の返事が返ってくるのに安堵の表情を浮かべながら担任―永井次郎―は教卓の前に立つ。
「えぇ、今日は大事な連絡があるので、皆さんお静かに」
 今は破局の話題で持ちきりだよ。とか自分で自分を痛めつけながら雑誌に再度目を落とす。どうやら永井はあきらめたらしく、チョークで黒板に何かを書き始めたようだった。カツカツ、という無機質な音が響き渡る。
 ふと、僕はチョークが黒板をノックする音が、室内に響いている事に違和感を感じ、雑誌から顔を上げる。周囲は驚くほど静まり返り、そして永井の隣にはチョコンと立った少女が無表情でポツンと立っていた。
「編入生……つうのは変な話だな。編入は第一学年からだし…」
 永井は言葉を詰まらせながらポリポリと頭を掻き、周囲を見渡す。
「とりあえず、この三年五組に新しく入る……アバウトに言えば転校生の水島沙希さんだ」
 僕は彼女をじっと見据えた後、黒板に書かれた字を見る。
「……よろしくおねがいします」
 肩の辺りまで伸びた髪を振りながら水島沙希は軽くお辞儀をすると、ひんやりとした目で周囲を見回す。拍手は無い。多分皆圧倒されていたのだろう。彼女のただならぬ雰囲気に。
 ふと、彼女と偶然目が合う。何故かは分からないけれども、僕は目を逸らすことが出来なかった。彼女の深い漆黒の目に吸い込まれるように僕は彼女を見つめていた。
一目ぼれというものではない。その漆黒の目に奇妙な恐怖を抱いたとでも言えばいいだろうか。
「じゃあ、水島さん。右端に用意した席に座ってくれ」
 水島沙希は小さくうなづくと、ゆっくりとした重々しい足運びで席へと向かう。僕とは離れた席であるということにさりげない安堵を覚えた。
 直感的に感じ取ったのだ。
 彼女と関わるべきではない。
「どうした杉原、えらく強張った表情して」
 永井は不思議そうな表情で僕を教卓から見下ろす。どちらかといえば、心配というより不思議がっているといった感じだ。
「いえ別に、なんでもありません」
「そうかぁ、ならいいんだけどな」
 永井はそう呟くと一度頷き、そしてそのままじゃあ一時限目静かに受けろよといつもの台詞を口にすると教室からフェードアウトしていった。僕はふと彼女に視線を送る。不思議なまでに整ったその姿と、深く沈むような不思議な雰囲気を身に纏う女性。綺麗、というよりも妖美という言葉が似合いそうだ。
 そんなことを考えるのは僕だけなのだろうな。と思いつつ机の中から一時限目の教科書と大学ノートを取り出し左側に筆箱と共にセットしておく。準備は完璧だ。
「……よね」
「……かわいそう」
 不意に背後からひそひそと囁くような、まるで僕に聞いてくださいとでもいった声のボリュームで喋る女子群があった。こちらをじぃっと見つめながら僕を目の敵にでもするかのような陰湿な表情を浮かべている。噂に戸は立てられぬとは本当によく言ったものだ。そして別れ話を切り出した側の雪野が正義、僕が悪のように仕立て上げられる。
「……」
 何か、用があるなら俺に直接言えよ。と言ってみようと立ち上がるが、惜しくもそこで教室の戸が開き、現代文の森本がのっそりと、もっさりと蓄えた髭を撫ぜながらやってきた。
 そして僕の行動に危険を察知したのか、女子達は一目散に自らの席へと戻っていき、僕のみが立っている状態となった。
「どうした?」
「いえ、別に」
 女子達のざわざわとした騒音が聞こえる中、僕はそっと席に腰を下ろした。

 本当に、この世界の恋愛はとてつもなく薄くて黒々としている。
 例えば馬鹿と付いて良いようなカップルがささいな事で喧嘩を始める。周囲にとってはとてつもなく些細なことだ。例えば「最近あの女子とよく喋るのね」と彼女の方が拗ねてみたり、「そういうお前も最近俺よりあいつと喋ってるだろ」と反論する。結果、口を利かなくなるほどの大喧嘩までに発展し、最終的に破局となる。
 最初は互いに少しばかりの後悔と虚しさを周囲に漂わせて同情を誘う。まんまと吊られた女子グループが破局を迎えた彼女を取り囲み、「あいつは何もわかっちゃいないのよ」なり「二股とかかけてたっぽいし、あんな男別れて当然よ」等と在りもしない噂を並べ立てて彼女の気を紛らわせるのだ。
 男子側は男子側で「別れたし、俺狙っちゃおうかな」等の言葉を吐き、しょぼくれてる彼氏には「次の恋があるって」と軽い一言で終わらせる。彼氏も彼氏で「それもそうだよな」とあっさりと頷いてしまったりするわけだ。
 そして数日もすれば、ぐすぐすと泣き喚いていた彼女の隣には新しい男子がいて、彼氏はその二人の光景を見て寂しそうにしているという図、または彼氏側も新しい彼女をこさえている状況となり、事態は収束していく。
 そんなものなのだ。高校生の恋愛なんて。
 最近いともたやすくフィーバーし、数々の女子高生の涙を掠め取っているが大した量も中身も書かれていない、寝転がりながら書いていたであろう(もちろん全てとまでは言わない)携帯小説とやらのような激甘な恋愛物語等のような出来事は決して起こらない。起こったとしてもそれは全国というか全世界位の規模でも極わずか……。
「おい杉原、聞いてるのか?」
 一瞬、その言葉が理解できなかった。どこかの外国の言葉かと思った。僕は周囲を見渡し、教科書を食い入るように覗き込むクラスメイトを見て我に返った。
「えっと、すみません。もう一度お願いします」
 とにかく何を聞かれていたのかが分からない。というか完全にここ十分間程度の教師の言葉を聞き逃していた。テストが近い筈なのに何故僕は呆けていたのだろうか。
「もういい、山崎。答えろ」
 ガタリと立ち上がるとがっちりとした体付きの男子生徒―山崎大輔―は一言「山です」と答え、それに満足の表情を浮かべながら「よろしい」と現代文の森本は一言返した。
「杉原、お前もテスト前なんだからしっかりと話を聞け。だいたいなぁ……」
 うるせぇ森本。とか言ってしまいたいところだが、ここで言えば確実に森本の怒りの鉄拳が待っている。
「…はい」
 僕は項垂れながら、説教をする自分に酔い痴れる森本をのろい続けた。


「屋上の鍵は?」
「拝借して既に合鍵も作ってあるさ」
 それは犯罪と言うのではないだろうかと思いつつも、完璧な仕事をしてきた須賀を英雄と囃し立ててみる。勿論、当たり前のように彼は照れ、そして意味不明に近いポージングを何度も取り続けていた。
「結城は?」
「今アレ、取りに行った」
 アレの存在に僕は少し興味を持つ。荒んだ精神状態に、アレは少しばかり癒しのアイテムとなってくれるかもしれない。
「とりあえず先に食ってようぜ」
「あぁ、そうだな」
 屋上の扉が開く。秋とは言えない冷たい風がひゅるりと僕らを貫く。ブレザーを脱いできたのは失敗だったかもしれない。だが風を避けられる場所はある筈だろうから。それに須賀の犯罪的行為が無駄になってしまうのはあまりにも報われない。
「そこら辺どうだ?」
 風も時々吹く程度で、避けられる場所を発見した僕らはそこに腰を下ろした。
「それにしても、森本の授業で上の空になるなよ」
 須賀はビニールに包まれたメロンパンの食べかすをぼろぼろと溢しながら僕の背中を叩く。
「まず食い終わってから喋れよ。森本なんて逆らわなけりゃただの説教好きの教師だろ?」
 須賀と距離をとりつつ反論をする。森本は自分の説教を止められると激しく怒る。辞職してもかまわねぇよこの野郎とでも言わんばかりに拳を飛ばし、そして被害に遭った生徒自身が森本を擁護して厳重注意をされるだけで終わる。確実に生徒を口止めしてるだろって誰だって思うさ。「僕が馬鹿だったんです」とか「森本先生に渇を入れてもらったんです」等分かり易過ぎる程マニュアルに沿った台詞を吐くようにと脅されている生徒が見える。
「暴力教師だってあれは……。生徒リンチして口止めしてるって噂なんだから」
「正直どうなんだ? そこまでしてたら警察呼んでも良いんじゃないか?」
 森本が犯罪を起こしているかどうか、そんな話はどうでも良かった。この会話は単なる暇つぶしにしか過ぎない。
 僕と須賀で何気ない会話で盛り上がる中、屋上の扉が重々しく開き、そこから童顔の少年が入ってくる。
「おう結城! 結果どうなってた?」
「待ってよ。俺頑張って持ってきたんだからさ、とりあえずアレちょうだい」
 よしよし、お前は良く頑張った。とちょこんと冷たい屋上の床に座る結城の短髪をスパゲッティを和えるかのように掻き回す。こんなの欲しくないと本気で怒り出したところで、流石にまずいと思い僕は炭酸のペットボトルを手渡しする。
 結城は両手で缶を支えるとゴクリと旨そうに喉を鳴らし、そしてプハッと声を漏らした。
「はてさて、今月のクラス内ミスコン一位はどなたか……」
「須賀。お前が賭けてたのは確か山下さんだったよな?」
 須賀はクラスで一、二を争うのではないかと言われている女子、山下由佳に賭けていた。未発達な体型で貧乳であるが、天然な性格、そしてもっちりとした柔和な笑顔が男子の心を掴んでいる。多分きっぱりと言ってしまえば幼女体型な女の子だ。
「そういやお前は?」
「俺今回未参加」
 投票が行われたのが、破局後のショックを軽く受けていた時期であった為、少し惜しい気もしたが参加を諦めた。今思うと何故あんなに虚勢を張りつつ裏で落ち込んでいたのだろうかと思ってしまう。
「でね、今回はびっくりの結果だったんだよ!」
「何?」
「クラス内男子十八人全てが一人の女子に投票していたとか?」
「違う違う」
 結城は首を横に振り、胸元から一枚の紙を取り出した。
「結果か……ってえぇ!?」
 僕はその結果に驚きの色を隠せなかった。
 第三位 山下由佳
 第二位 雪野早苗
 第一位 水島沙希
「ええと、杉原君?」
「言いたいことは分かっているよ須賀君……」
「ね、びっくりでしょ? 水島さんが堂々のトップ!」
 水島沙希がトップに来るのは正直予想外であった。
 確かに大人びた顔立ちに、服の上から見ても形の良さそうな胸と尻、なめらかな体のライン、すらっと伸びた足。トップに輝いてもおかしくは無いと普通なら思うが、彼女はこの高校に来てから一言も喋らないし、誰ともコミュニケイションを取ろうとすらしない。誰かが勇気を振り絞って声を掛けたとしても…。
「うるさい」
 この一言で何人切り捨てられたことか。その光景を窓際から見ては「距離を置いていて本当に良かった」と思ってしまう僕がいるわけで。
「とにかく、これは一大事だ。この順位表が女子に漏洩しないように滅却してしまおう」
 すると突然、何を思ったのか結城はわたわたしながら須賀から紙を取り、ポケットに入っていたライターを点火する。
 結城の頭部に、僕と須賀の拳が同時に下った。ガツンと痛々しい音と同時に結城は床に顔面から倒れこんだ。
「「これ一枚を燃やしてどうなるんだ馬鹿!!」」
 見事にハモった。見事にブラジル人を一人殺してしまった。殺人を犯した僕と須賀は目を見合わせて、ははは、と乾いた笑いを上げると、頭を抱えて丸まっている結城を抱えて階段を駆け下りる。
「ねぇ、なんでそんなに焦ってるわけさ」
「つくづく坊やだなお前は。周囲との関わりを拒絶してる人間だぞ!?」
「女子から良い様に思われてるわけないじゃないか! そんなのがこんな投票でトップになったら当然……」
 クラスに到着した時、既に事は起こっていた。

 黒い瞳はその一点を見つめていた。
「……何? これ?」
 ふっくらとした唇がゆっくりと言葉を吐き出す。
「……私? なんかした?」
 眠たそうに開く目が周囲を見渡すが、周囲の女子達は殺気立っている。

「完全に、遅かったな」
 須賀はああ怖いと小さく呟くとため息を漏らす。
「……まぁ、こうなるわな」
 僕も須賀と同じくため息を吐く。
 結城は僕の隣で目を見開き、酷いと非難の言葉を呟く。

 水島の机に、丸められた投票結果の紙が押し込まれ、入りきらなかったものは床に散らばっている。
「……」
 チャイムが鳴ると同時に、水島を除く女子達は無言のまま席に着く。雪野と山下は少し戸惑いながら、チラチラと水島を見ている。多分山下は自分もその対象に入ることを恐れて流れで行ったのだろう。水島を見る目に少々の後悔を感じる。
「授業はじめんぞぉ。どうした? 男子達もさっさと座れ」
 五時限目の始まり、状況を知らずに入ってきた世界史の宮田にどれだけ救われただろうか。
 水島は無表情のまま押し込められた紙屑を掴み、すたすたとゴミ箱に歩み寄ると全て投げ入れ、何事も無かったかのように席に着いた。
 その背中に何か、黒いオーラのような何かが見えた気がしたが、気のせいだと思うべきなのだろう。

 軽い恋愛の中にどれだけの「愛」が含まれているというのか。はっきり言って皆無だと思う。
 そんな事を言ったら多分、百人中百人が僕のことを笑うだろう。そんなのは単なる僻みだとか、愛が無くてどうして人を付き合えるんだとか色々な言葉が飛んでくるだろう。
 人というのはどろどろに捏ね繰り回された恋愛を望んでいる。人を愛しながら、その人との関係の脆さにスリルを求めている。
 所詮人間なんて刺激を求める生き物である。

act.1-2

 肌寒い冬の風をしこたま浴びつつ、僕はマフラーを首に巻きなおす。顔に皹が入っているのでは、と不安になる位に顔が痺れる。今年の冬は暖冬じゃ無かったのかとか色々文句を言ってやりたいわけであるが、そんな事を言ったとして突然気温が上がるわけでもない。
「うぁ、寒い……」
 隣で須賀が裸の両手を擦り合わせ、生暖かい息を吐き掛けている。朝のテレビであれ程「今日はマフラー及び手袋が必須となるでしょう」と注意されていた中、手袋、マフラーはおろかブレザーさえ着てこないとは、一体どんな脳みそなのだろうか。殴ればビー球的な何かがカラカラと音を立てて飛び跳ねるんだろうな。
「……杉原、何か変な想像したろ?」
 鋭い。
「するわけ無いだろう? 人の悪口を言うのはあまり好きではないんでね」
 正確に言えば口に出すのは、だけれども。
「まぁいいか。それよりさ、この一週間の水島苛め、すごいことになってるよな」
 須賀が手をポケットに突っ込み、僕の首のマフラーを物欲しそうに見ながら呟く。
「確かにね」
 僕は手袋を外し、須賀に黙って差し出す。さっすがと呟きながら彼はうきうきと手袋を両手に嵌める。それだけ寒いならまずブレザーを着ろ。
「最初の机に紙突っ込み事件から始まって、最近じゃあ黒板消し当てだもんな」
「といっても、最近じゃ特定の人物しかやらなくなってるよな」
 須川に視線を向けると、そこには手袋で幸せそうに頬を擦る須賀がいた。すぐさま視線を前に向ける。
 その時、ふと気づいた。
「って、あれ水島か?」
 僕が指を指すその先に水島がいた。いつも通りの黒くて艶のある長髪をたなびかせてスタスタと軽い足運びで登校者でごった煮返しの中をすり抜けて消えていった。
「水島、すごいよな。あんだけの苛め受けててまだあの調子だぜ?」
「だよね。女子の苛めって大体精神的に来るものだから、あれだけ元気そうだとなぁ」
 ぬくぬくしている須賀に軽い返答を返し、僕はふと彼女を見て気づいた事を思い出す。
 彼女が右手に提げていた何の変哲も無いスーパーのビニル袋。
 あの中に一体何が入っていたのだろう。
「おはよ!!」
「よぉ結城。相変わらずちびっ子だな」
 ひょこひょことした足取りでやってきた結城が満面の笑みで僕らに手を振る。手袋にコート、ニット帽にマフラーと、須川とは違いこちらは重武装過ぎるといっても過言ではない出で立ちであった。そして低身長と小柄さも相まって、完全に服に埋もれていると言ってもおかしくはない状況である。
「今に見てろよ。俺これから伸びるんだからな!!」
「はいはい子供の戯言戯言」
「あぁもう!!」
 僕が何気なく言ってみた言葉に結城は文字通り頬を膨らませて反応する。まぁこれがいつもの朝の景色であり、多分僕の心が最も休まる時間だ。登校すれば進路がどうたら、テストの準備やらで目が回る。僕にとって朝の登校は、気持ちのいい空気を吸っておくことにある。
「そういえばさ、杉原君」
「何?」
 結城が突然顔を朱に染め、目を逸らしながら声を掛けてきた。しばらく押し黙る結城を見て、僕はははん、と微笑み肩を叩いてみた。
「とうとう結城君も恋をしたのか……」
「うそ!?」
「い、いや違うよ? 俺じゃなくて杉原君宛てだよ!」
 一瞬、周囲の空気に何か重いものが混じった気がした。結城の鞄から取り出された一通の手紙は、丁寧に桃色のハート型のシールで留められている。
「ラブレターって……お前」
「杉原って、そんなにモテたっけ? どちらかといえば友達以上恋人未満に見られる人間だと…」
「いや、俺も誰かからってのは雪野が初めてだし…」
 須賀の恨みの篭った視線を避けつつ結城から手紙を取り上げ、封筒を丁寧に開き、中の二分の一に折り曲げられた紙を取り出し、広げた。
「もう一度、チャンスをください。雪野」
 全身を針で貫かれた気がした。冷たく、黒々とした何かが喉元で膜を作っている。
「ヨリ…戻したいって事かな?」
「自分勝手過ぎないか? 流石に……」
 須賀と結城の言葉が右から左へと流れていく。
「……正直、戻す気無い」
 まぁそうだろうな、と結城と須賀は苦笑いで僕を見つめる。
「振っておいてヨリ戻したいとか、無茶過ぎる」
 僕は手紙を傍のコンビニのゴミ箱に放り込む。その行動に二人は驚いていたようだが、何を聞かれようが返答はしなかった。
 ここまで気持ちの悪い朝は久しぶりな気がした。
 僕は鞄を机に置いてからはぁ、とため息をついた。なぜこんな気持ちの悪い朝を迎えなくてはならないのだろうか。
 そんな事を考えながら机に座った時、ベランダでビー玉を掲げる水島の姿に気づいた。冬の恐ろしい寒さにこれは無理だと誰も出ない中、一人外に出て太陽に向けて掲げている。次の授業の支度をしつつもその彼女の姿をじっと見ていた。
 どうしてここまで彼女が気になるのか。
 恋心、というわけではない。彼女のあの堂々とした姿に憧れを抱いているのだろうか。
 色々と考えては見るけれども、思いつかない。
 どうせなら、彼女にこの状況を打破するチャンスを作ってやろうか。そんな考えが頭の中に突如現れ、僕は席を立つとベランダに通じる窓へと迷い無く進んでいく。どうやら彼女の方もこちらに向かってくる僕に気づいたようで、ビー玉をポケットに入れるとシン、とした冷たい目でこちらを睨みつける。
 窓に手をかけた瞬間、僕のセーターの裾を誰かが引っ張った。
「……君……」
 弱弱しい声が、僕の耳に届かずに消える。
「杉原君……」
 僕は振り返る。するとそこには、俯いたままいる雪野が右手でセーターをちょん、と摘んでいた。
「何?」
 ここまで冷たい声が出せたのかと思うくらい、僕の声は多分凍りついていたと思う。冬の寒さよりもきっと堪えただろう雪野は、少し瞳を潤ませながら僕の目を見つめる。
「ちょっと……」
「……」
 弱々しいオーラを放つ彼女の姿が何故か哀れに思え、僕は雪野の背後を着いて行く。
 多分、一時限目は遅刻になるだろう。そう思うとため息が出た。
 彼女はのったりのったりと進んでいき、階段の隅に二人で身を隠した。誰かに見つかって、変な噂を立てたくないからだ。勿論、その変な噂の中にはしっかりと「寄りを戻したらしい」という言葉も入っている。
「で、何?」
「あのさ、ついこの間別れてって言ったんだけど、さ……」
「確かに言ったね。それで?」
 たどたどしい言葉の彼女を僕は見つめる。辺りの空気が何故かとても重く、深く黒々しく感じた。
「ごめんなさい。また……付き合えないかな?」
「何で?」
 淡々と吐き出された言葉は、僕の体内をも凍りつかせてゆく。勿論、彼女の表情は僕以上に凍り付いている。
「俺とは付き合えないって、あの時言ったよな? それ相応の考えがあって言ったんだろう?」
「……」
 雪野は何も言えず、ただ俯いている。そんな彼女を見ていて、何故か真っ黒い何かが僕の中で蠢いた気がした。
「どうせ他に良い感じになってた奴がいて、そいつと付き合いたいから別れたけど、そいつと別れてどうしようも無くなったんだろ?」
「……」返答は無い。
「ハッキリ言っておくよ。間男になるのはごめんだ。別の奴探せよ」
 冷たく、黒い言葉は僕の心をも傷つける諸刃の剣となって彼女を切り裂いていく。
 正直、これ以上この場にはいられない。
「……じゃあ、授業あるし、戻るから」
「……けて……」
 最後に、雪野から何か聞こえた気がした。がそれに耳を傾けようとは思えなかった。僕の黒い何かがその言葉に反応する事を拒否したからだ。
 僕はゆっくりと教室の戸を開け、一人佇む彼女を置き去りに席に着いた。周囲には何でもないと呟き、後から青ざめた表情で入ってきた彼女を見てざまぁみろと笑みを浮かべながらテレパシーを送った。勿論届く筈はない。

 そんな僕の余裕を打ち砕いたのは、その三日後の夜だった。
 既に彼女を振った事で気持ちに綺麗に片がついたので、雪野早苗に関するあらゆる物を消去している時だった。
「兄ちゃん……」
 制服姿のまま妹の杉原菖蒲は入ってきた。なんだよ、ノックして入れと言っただろうと注意をしつつも、彼女の白くなった表情に疑問を感じた。何があったのか、何を僕に言いに来たのか。多少の興味が沸いていた。
「早苗さんがね……」
「雪野? 雪野がどうかしたのか……?」
「死んだの」
 一瞬のうちに、僕の周囲の空気がズンとのしかかってきた。空調機器で適温になっていた筈の部屋が生ぬるく感じる。
「どういうことだ?」
「自殺……屋上から……飛び降りたんだって」
 菖蒲はめそめそと泣き始める。僕はその妹の姿と、突然のニュースに呆然と立ち尽くしている。
 僕は、彼女を殺してしまったのだろうか。
 
 それから二日後、雪野家でこじんまりとした小さな葬式が開かれた。目の前で笑みを浮かべる雪野早苗の写真を見て泣き出す女子もいれば、ぐっと堪えて座っている男子もいた。須賀もどうやら涙脆いらしく、周囲の涙の流れに連れて行かれてしまった。
 呆然としていたのは僕と結城。一体どんな反応をすればいいのか、それがどうしても分からない。
 彼女の自分勝手な行動に嫌気が差した。嫌いになった。
 それなのに、何故こんなにも、彼女は僕の心を締め付けるのだろうか。
 勝手に振って、勝手に寄りを戻しに来て、勝手に飛び降りた。それだけのはずだ。
 それなのに彼女の身勝手な行動は、何故か僕の心を軋ませる。
――僕のせいではない。
 そう言い聞かせているはずなのに、胸の動悸、眩暈は止まることが無い。目の前が歪む。黒く縁取られた写真立ての中で笑う彼女を見ると、とてつもなく苦しくなる。
――カタチだけの涙を流すよ。別に彼女が死んでしまったとして、僕には別段関係の無いことだ。
 式の始まる前に事情を知っている結城に大丈夫かと声を掛けられた時に吐いた言葉。吐き捨てたはずの言葉を僕はどうやらどこかで拾い上げてしまっていたらしい。脳を這い擦り、巻きつき、締め付ける。
――チィ…ン。
 鐘の金属質な音の響きと共に、住職の経を上げる声が止んだ。涙をすする音だけが周囲に木霊している。周囲の合掌を見つめ、そうしてから僕も後に続いて手を合わせ、目を瞑った。暗黒が僕の目の前に広がる。深く、そして救いようの無い黒がそこにはあった。
 もがけばもがくほど漆黒に染まっていく世界で、真っ白い存在が一人立っている。
――雪野?
 ただじっと立ってこちらを見ている雪野を見て一層もがく。
 こんな黒に呑み込まれるのは嫌だ。
 嫌だ。
 嫌だ嫌だ。
 嫌だ嫌だ嫌だ。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
 彼女はふふ、と微笑むと白装束を翻し、僕に背を向けて歩いていく。待てよ、と言おうとしたとき、ふと僕は気づいた。僕と彼女が逆の立場に立っている。僕が見切りをつけた彼女に未練を感じているかのような、そんな状況。
 死して苦しみから開放された雪野。
 死なれたことで苦しみに身を悶える僕。
 何故こんな関係が生まれなければならない。合わせている手が強く締まる。
「……杉原君?」
 やや高めの声が僕を呼んだ。ハッとして目を開けると、周囲が僕を見つめている。同情を秘めた目とでも言えばいいのだろうか。生ぬるい視線に悪寒を感じ、僕は声の主に目を向ける。
「……大丈夫……?」
 水島の困ったような顔がそこにはあった。隣だということにさえ気づかなかった。僕は一体どれだけ集中していたのだろうか。周りが見えなくなるほどに、何を考えていたのだろうか。今考えてみれば、どうしようもなく罰当たりな考えだらけで申し訳なくなる。
「大丈夫だから」
 はっきりと答え、僕は周囲の空気に溶け込んだ。訝しげに見つめる人物もややいるが、そんなこと気にしない。水島が僕の横で首を傾げているが、僕は手で改めて大丈夫だとサインを送ると彼女は一度小さく頷いて、会場を出て行った。
 冬の風がびゅうと吹く中、僕はポケットに忍ばせていたヘッドフォンを耳に付け、ウォークマンの再生ボタンをカチリと押した。いつも聴いている曲が流れ始めた。
 ふと思っただけだ。彼女が覗き込んだとき。
 感じただけ。
 
 彼女のあの黒く深く染まった瞳が嫌いだと。
2, 1

  


 時というものはとてつもなく早く過ぎるものであり、昨日終わったかのような気さえしていた試験が、新学期初めの一発目として待ち構えている。当然僕はその為の対策を練るが、問題は他だ。
「なぁ、そこそこぉ取れてるぅ杉原さぁん……。ここはぁ一つぅ、俺にぃ、勉強ってモンを教えてはぁくれませんかねぇ?」
「なんかその頼み方、気持ち悪いな」
 弁当を平らげながら単語帳を片手にしていた時、須賀は僕の足を撫でるように掴み、妙に低くて生暖かい言葉を僕に放った。
 試験は一週間後。周囲は完全に勉強体制に入っている中、須賀は見事に勉強前に白旗をあげていた。そのまま赤点をしこたま喰らって涙を滝のように流してしまえと突き放してやりたくなるが、中学時代からの付き合いである須賀に流石にそこまで言うのは酷だろうと思い、僕はにやりと笑うと須賀の耳元に顔を寄せる。
「……良いカンニング方法、教えてやるよ」
「マジか!? お前のテストの出来の裏側に、そんなアンダーグラウンドが潜んでいたなんて!」
 流石は兄貴だ。と色々言ってひたすら興奮する須賀を見て僕は軽くほくそ笑む。そして四本の指で細かく手招きをしてみせると、須賀は飼い犬の如く僕に耳を寄せてくる。
「……テストの範囲の内容や問題の答えをだな」
「うん、うん!」
「……頭の中に叩き込んでおくんだよ」
 おぉ、それはすげぇ。画期的だよ杉原。何で今まで気づかなかったんだろう……。
 僕に満面の笑顔を見せ、そしてとてつもなく画期的なカンニング方法を知った須賀はよっしゃぁと自身に喝を入れ、教室を走り去っていった。多分、図書室にでも行って参考書を取りに言ったのだろう。
 まぁ、これで彼も勉強する気にはなっただろう。スイッチさえ入れてあげれば取れる奴なんだ。そのはずだ。
 僕は単語帳に再び目を落とす。今回の試験範囲は意外と短い。だが、それだけ深く掘り下げてくるだろうと予想している為、ある意味表面的な内容の暗記だけだと辛いものがある。
「……できれば広い範囲にしてほしかったなぁ」
 思わず願望が口から吐き出される。が、それを言ったとして何かが変わるわけでもない。
 ため息しか出ない。
 そんな時、単語帳の一語に目が行く。何気なく見たつもりだった。
「……witness」
 横に打ち付けられた訳は、目撃者。
 一体何故この言葉に目がいったのだろうか。この単語に何とも言いがたい気味の悪さを感じた僕は、大げさに音を立てて単語帳を閉じた。
「……目撃? 一体何を目撃したって言うんだ」
 不意に、視界に水島の姿が飛び込んできた。後列の席で、周囲が勉学に勤しんでいる中、悠々と文庫本を机に積み上げ読み漁っている。まぁ誰にも話しかけてもらえない。虐めでさえ既に飽きられた。こんな状況下じゃあ本でも読むしか学校生活を楽しむことが出来ないんだろうな。と僕は同情の目を彼女に投げかけてみた。
 すると彼女は、その視線を受け止め、僕に深く黒い瞳を返事でもするかのように返してきた。あの全てを吸い込むかのように口を開けている漆黒の瞳だ。端麗で艶やかな黒髪で男子の視線をゲットしているが、その生気を感じさせない光のない目は、同時に恐怖を植えつけていた。妖艶、とでも呼べばいいのだろうか。
 きまりの悪くなった僕は席を立ち、少し外の空気でも吸うべきだろうと廊下へと向かう。彼女の後ろを通るのはあまり気分の良い事ではないが、特に何かをしてくる訳でもない。僕はスッと彼女を横目に通り過ぎようとした。
「……し」
 その小さな声は、僕の足を止めさせた。
「え?」
 まず最初に、自身の口から今まで出たことの無い裏返った声が出たことに驚いた。
 水島はじぃとこちらを見つめ、口をへの字にして黙り込んでいる。
「えぇと、今なんて?」
 聞き取れなかった言葉に対する疑問を彼女に問いかけてみるが、彼女は依然黙り込み、そしてその深い漆黒の瞳をこちらに向けている。
「……ろし」
 小さく開かれた口から、またしても聞き取りにくい小さな声が放出される。当然僕には何を言っているのか分からない。
「まぁ、その……じゃあ俺、行くから」
 僕と水島の間にある、まるで壁のようにどっしりとした重苦しい空気は僕に「でていけ」と訴えかけている。当然僕自身も彼女のだんまりに耐えられるほどの忍耐力は無い。なんだか妙な敗北感があるのが否めないが、とにかくこの場から立ち去ろうと僕は彼女に背を向けた。
 ぞくりとした。
 氷でも押し当てられたのではないかと思うくらいの冷たい何かが僕の背後からやってきた。冷気ではない。かといって実際の氷なんて論外だ。しかし、その精神に直接叩き込まれた怖気は一斉にシグナルを鳴らし、ぞわりと鳥肌を立たせ、背筋を振るわせた。
 上体をひねり、そっと水島の方を覗き込む。
 黒い瞳が、僕の目の前にあった。煙草一本分も無い距離に、彼女の顔は存在していた。動悸が激しくなる。妙に冷えた汗が身体を伝う。
 水島はその潤んだ血のような赤みを帯びた唇の端を吊り上げ微笑んで見せると、唇の形を順々に、五つ作り出し、そしてもう一度微笑んだ。
「……え?」
 一瞬の唇の動きは僕をさらに凍りつかせる。
「……」
 水島は笑みを含んだ状態で踵を返すと、もう一度席についた。その光景を見ていたクラスメイト達はざわめき、そしてどう反応すればいいのかと曖昧な視線を僕と水島に送っている。
――そんな関係じゃない。
 僕はその言葉を聞いて、唇をかみ締める。
――俺の責任じゃ……ない。
 いつしか両の拳は握り締められ、爪が皮膚を圧迫している。
――あれは俺なんかの責任じゃない。
 単語帳の言葉が脳内に思い出される。
―witness―
 目撃者という言葉に何故興味を持ったのか、僕はなんとなく分かった気がした。

「人殺し」

 彼女が確かに放ったその一言は、あの時、あの場所にいた事、そして、会話を聞いていたことになる。つまり、彼女は僕の突き放すように放った言葉を聞いている。
――心のどこかで、引っかかっていた。
 彼女のあの深く黒い瞳の恐怖の意味を。
――彼女は一体、僕に何をしたい?
 彼女の瞳に嫌悪をしていたわけではない。
――水島は、一体それを言って僕に何をさせたい?
 彼女の瞳に映る自分自身に、嫌悪感を感じていたということに、初めて気が付いた。
 責任は無いと言い切る中で、密かに感じていた罪悪感が僕の背後へと、迫っていきていた。

「さぁやって参りました学園祭! 今年の出し物のテーマは……」
 去年と同じく気楽な声が響き渡る。昨年は書記、今年は生徒会長と見事な昇進を果たした渡辺修哉は今年もどうやら元気のようだ。昨年の透き通るような美声はどうやら健在のようで、相変わらず女子生徒の人気に一役買っている。
「渡辺もやるねぇ……」
 結城は机に頬杖を付いたまま、気の無い声をため息と共に吐き出す。
「そういえば結城は去年あいつと一緒のクラスか」
「五月蝿くてしょうがない。あ、渡辺の事じゃなくて周囲の女子の黄色い声がってことね」
 結城は手を左右にひらひらと振りながら苦い顔を見せる。まぁ大体予想できるよ。と僕が返すと結城はのったりと机に突っ伏し、もう一度ため息を吐いた。
「今年が最後なんだよなぁ……文化祭」
「まぁな。この行事と、ここの伝統行事の劇祭終わったら、俺たち受験だ」
 そしたら気楽に馬鹿もやれないよなははは、等と笑っては見せるのだが、内心穏やかではなかった。大学という存在は、やはり高校受験とは圧倒的に緊張感が違う。この三年の中間と期末に手を抜くことは出来ない。
「そういえばさ、この間のテスト……。どうしようもなかったよな……」
「須賀なんて脳みそにこれっぽっちも入ってなかったみたいだな。あの点数は無い」
 出来ない筈なのだが、どこかでまだ心に緊張感が伝わらず、僕と結城と須賀はとんでもない点数を取ってしまった。須賀は校長に直々に呼び出しを喰らうという伝説を作り、僕と結城は模試で判定を「A」までに上げないと入れないとまで言われてしまった。
 内心を頼りにしていた僕らの幻想を打ち砕き、地獄のような現実を見せ付けてくれた中間テストにはお礼を言わなければ。と答案用紙全てをミキサーにかけて土に埋めた僕らは改めてため息を吐くはめになっていた。
「お前、大学どこ狙っているんだっけ?」
 僕の問いかけに結城は目だけを覗かせる。
「東京の大学。さっさとこんな場所からオサラバしたいんだよね……」
「東京? ここもそれなりに良いと思うんだけどなぁ」
「じゃあ杉原はどこなのさ」
 むっとした表情で杉原は僕を睨む。妙に冷たく痛い視線に思わずたじろぐ僕がいた。
「そんなに怒らなくても……」
「まぁ、どちらにしろ、ぎりぎりB判定の僕には無理な大学だから……」
 結城の言葉がプツリと途切れ、スピーカから流れ出る美声が再び僕の耳を刺激する。
「尚、今回の文化祭と劇祭での優秀賞にはそれなりの賞が待っていますので、お楽しみに!」
 そして美声はブツッと乱暴に切られ、同時に教室中に歓声が沸く。その中に勿論、腕を突き上げ叫ぶ結城の姿もある。
「ゆ、結城?」
「まぁ今は楽しもうよ! 最後の文化祭優先!」
 今年は手に入れるぜ優勝商品。うはは、等と笑う生徒達、僕はやはり今年もこの調子に着いて行くことはできず、取り残されてしまった。だが、まぁ今年はそれなりに力を入れてみるか。最後の文化祭だし、と何かが心の内から湧き出てくるのを実感していた。どうせなら馬鹿騒ぎしよう。受験なんて一時的に忘れてしまえ。
 けれども、そんな感情を一気に冷ましてくれたのは、他でもない水島であった。
 一瞬目が合っただけで、彼女が僕を見て何を言おうとしているのかが分かった。端で静かに、艶やかな黒髪から覗く小さな黒い瞳は、僕をじっと見つめている。
――人殺しが、楽しんで良いと思うの?
 胸がとても苦しくなる。彼女は口を動かしてはいない。けれども、僕の心の臓に風穴を開けた鋭い剣を、確かに彼女は僕に突き立てた。口が語らなくとも、彼女の黒い瞳が、全てを語っていた。
 僕を楽しませるつもりは、水島には毛頭ないようだ。

act.1-3

「本当にありがとうね。毎週わざわざ」
「いえ」
 雪野佐代子はくっきりと浮かぶ隈と削ぎ落ちた頬を引きつらせ僕に笑みを見せる。明らかに作り笑いだ。多分僕が来なければ、一週間笑わずの生活になっている。そう思えるくらい彼女はとても白く見えた。
 一瞬でも目を放した隙に彼女は空気に溶けて消えるかもしれない。
 そんな恐ろしい想像をしてしまい、僕はどうしても佐代子さんから目を離すことが出来なかった。
「早苗も喜んでいると思うわ……」
「そんなことは……ないと、思います」
「え?」
 思わず出た言葉に、心臓が高鳴る。
「早苗と、何かあったの?」
「……失礼します」
 いたたまれなくなった僕は佐代子さんから目を逸らすと、上着を抱えて急いで立ち上がった。佐代子さんは不思議そうな顔をしているが、理由をしつこく聞こうとはしない。ただ黙って僕を見据えている。
「また、来週も来ます」
「……ありがとうね」
 背中ごしに受けた言葉は、僕に重くのしかかる。お母さん僕のせいなんです。僕が彼女を振ったから、早苗を冷たくあしらったから飛び降りたんです。僕が殺したも同然なんです。そんな言葉が何度も喉下まで這い上がってきては呑み込んでいた。
 玄関の戸を閉め、佐代子さんの顔が見えなくなった瞬間に、僕は深くお辞儀をした。
 何故責任を感じていない僕がここまでしなくてはならないのか。どうしてここまで罪悪感を感じなければならないのか。
 不満は、雪野家を出るまで押さえ込む。
 僕なりの謝罪だ。
「……はぁ」
 鞄の中で冷えたマフラーを首に巻き付けて一度身震いし、意識を醒ます。
――僕は一体、いつまでこの家に来ることになるのだろう。
 麻痺していく手に息を吹きかける。それといって意味は無いが、暖かくなってまた冷えていく感覚が少し心地よかった。
「開放されたのは雪野、縛られたのは僕……」
 何気なく呟いた一言が、とても今の状況を鮮明に表している気がして、なんだか悔しくなった。自覚している自分に腹が立った。

「杉原さっさと手伝えよ。人手不足なんだよ」
「不足以前にクラスの大半がサボるのはどういう状況だ?」
 ダンボール箱を三つ四つ起用に積んで歩く須賀の後ろを、小道具の入った重たい缶箱を必死に身体に押し付け、僕は歩いていた。廊下は今にも生徒による玉突き事故が起きるのではないかとひやひやする通行状態で、誰かが駆けてくる度に缶箱をうっかり落とさないように両手に力を入れる。握力はもうズタボロで、多分缶箱地獄から開放されたらしばらく何も持てなくなると感じてしまうほど電気が走っている。
「それにしても何故食販を選んだ? それも喫茶店なんて……」
「女子が提案したんだよ。お洒落な感じのものをやりたい~ってな。多数決で即決定」
「じゃあ何故にその決定した女子が何もやらないんだ」
 正直予測はできる。
 力仕事なんて女子にやらせるな。細かい仕事はするからそれまでの事をやっておけ。と命令に近い口調で言われたのだろう。男子は拒否も許されぬまま労働を始めることとなり、呆れ果てた結城を含む男子半数はボイコット。最後の文化祭だから楽しもうと言ったはずの結城がボイコットするのは正直納得できないが、まあ結城を呆れ返させるような口調だったのだろう。
「何でこの世は女性が強いんだ……」
「仕方ないよ。男性は虐げられる生き物と成り果てたんだ……」
 どうしようもない上下関係に絶望し、僕は全身の力をだらんを抜く。
 刹那、両足を叩き切られたかのような痛みが僕を襲った。
「っ!?」
「おい! トンカチ七本位入ってるぞ、その箱」
「どうりで、痛いわけだ……」
 立ち上がれない程の激痛にしゃがみ込む僕。ダンボールを抱えた須賀は当然助けに入ることもできない。
 やっべぇな。とりあえず痛みが引くまでこの体制でしゃがんでいよう。それが一番良い筈だ。しっかしマジでいてぇ、トンカチ七本は無いだろ普通。足折れてるんじゃないか? いや、抉り取れてるかもしれない。そうしたら出血多量で死ぬかもしれない。やべぇ。マジでやべぇ。
 頭にまで響いた激痛は僕の意識を混乱させていく。涙が溢れてくる。
「いてぇ……いてぇ……」
 激痛の中、頭の中に一瞬雪野が横切る。
「マジでいてぇ……」
「おい、本当に大丈夫か?」
「いてぇ……いてぇ……」
 苦笑いを浮かべる佐代子さんの顔が横切る。痛みと共にあふれ出る涙がだんだんと熱を帯びていく。
 その時、潤む世界に一本の白い手が伸びてきた。
「大丈夫?」
 水島だった。真っ黒の瞳をこちらに覗かせながら、困惑した表情をこちらに向けている。
 一瞬、その手を取ろうか迷った自分がいた。彼女の瞳に映る自分を恐れる自分がいる。
「……」
 水島はだんまりを決め込む僕の手を無理やり掴むと、ぐいと僕を持ち上げた。いとも容易く身体を起こされたことに驚き、そして引っ張る彼女の手の暖かさにまた驚いた。
「あ、ありがとう」
「保健室まで、引っ張ってあげるから……」
 差し伸べられ、そして引っ張られる僕。
 繋がっている彼女の手の暖かさに、引き込まれる僕。
 気が付けば、涙は止まっていた。あの涙が痛みに拠るものではないことは分かっていた。
――じゃあ、あの涙は、何の為に流れていたのだろう……。
 僕の思考はまるで深い泥沼に嵌ったかのようにもがきを続けていた。
「……そんなに痛いの?」
「え? いや、なんで?」
 混乱しきった脳で何かを考えるのは無理だった。突然の彼女の問いかけに僕はわたわたと慌てるだけ。
「まぁ、保健室に入りましょう」
「え、あ……うん」
 指摘された涙を拭い取り、僕は顔を下に提げながらも、握られている手をじっと見つめていた。


「ひどい……」
 思わず出てしまった声に、水島は自分で驚いているようだ。だが、声をあげてしまうのも無理は無い位の状態だ。
 肌に赤い一本線が引かれている。出血ではない。しかしそれでも神経はぎりぎりと悲鳴をあげ、両足の怪我の度合いを鮮明に脳に送り届けている。
「動かさなければ痛くないから」
 包帯とアイスノンをスチールのプレートに載せ、赤く染めたセミロングとはちきれんばかりの胸を揺らし、保険教師の市村友里はやってくる。
「なぁに? 一体どんなことしちゃったらこんなおケガするのかな?」
 市村は僕と触れるか触れないか位の距離まで顔を近づけると、ぷっくり膨れた艶のある唇から白い歯を見せた。一体この笑顔でどれだけの人数を殺ってきたのだろうか。
「えぇと、トンカチが大量に入っている缶を足に落としてしまって……」
 そうへらへらと呟きながら、僕は下目でちらちらと水色の開けたシャツから覗くモノを盗み見る。予想を遥かに超えたボリュームのふくらみ二つは引力によってぶら下がり、果物のようにも見えてくる。僕と視線を合わせる為にしゃがみ込む事でその二つの果実は内側に押し込められ、柔らかにぶつかり合うと落ちれば二度と戻ってこれなくなるのではないかと思うくらい立派過ぎる谷間が発生する。
「!?」
 刹那、全身の神経をやすりがけされたかのような痺れと激痛が足元から一気に脳へ突き抜けた。喋ることも出来ないほどの激痛はそのまま僕の精神を削り取って空中へと放出され、消えた。一瞬放心状態となった僕はぼんやりと足元を見つめる。
 水島の踵が、しっかりと僕の右の足を捉えていた。
「……」
「さぁ、嫉妬はそのくらいにして、さっさと治療しちゃいましょお」
 市村が悪戯な笑顔と共に放った爆弾は水島に直撃した。僕があわあわとしている横で、彼女は赤く膨れ、僕の事をおもいきり睨みつけた。別に僕が言ったわけではないのに、何故僕が睨まれなくてはならないのだろう。
「なんでこんな人殺しを……」
 多分すぐ傍にいた僕にしか聞こえない。というよりも僕にだけ聞こえるような声で彼女は呟いた。
「……別に好かれようとも思っていないよ」
 仕返しのつもりで彼女に囁いてみる。予想通りの鋭く細い目が僕に向けられる。
「さっさと行ってくれないか? 連れて来てくれたのには感謝するけど……」
「……少し話したいことがあるの」
 水島は相変わらず鋭い目でこちらを見ている。憤りで顔を歪ませながらも、その端正な顔立ちが崩れないことには驚いた。美しい、というのは全てにおいて完璧だというものなのだろう。喜怒哀楽どれを見ても思わず見とれてしまう。

「治療は済んだけれど、走るのは無理っぽいなぁ」
 ひょこひょこと廊下を歩く姿は、きっと誰が見ても滑稽だろう。ため息が外に出ると同時に白い煙となって散っていった。ここまでの寒さになっているとは思わなかった。先刻まで忙しさに追われていた為気が付かなかった寒気に身が震える。
「で、話って何?」
「人がいないところがいいの」
「え、あ、うん……」
 ほんの少しばかり何かを期待している僕がとてつもなく嫌になる。人殺しと言う彼女がとつぜん校舎の裏で「付き合ってください」等言うわけが無い。どこまで裏表のある性格だと。
 しかし、それなら一体何が目的なのだろうか。
 水島はずんずんと校舎裏の暗がりに呑み込まれていく。
 正直彼女と一緒に暗闇へ入っていくことに躊躇いがある。しかし彼女は影の世界で深い瞳を僕に向けている。僕はその深く黒い瞳に映る自身を見ることが出来ず、目を逸らした。
「今度こそ何の話か教えてくれるんだよな?」
 水島はこくりと頷く。
「雪野さんの自殺についてよ」
「それなら僕が殺したって事で君の中でカタが付いているだろう?」
「あなたも自分の一言で殺したと思ってて、それで満足しているんでしょう?」
「……思ってる?」
 水島の口からため息が吐き出される。
「事情は知らないけれども、あなたのあの言動は人として最悪よ。死の理由にあなたが入っているのも確かだと思う。だから私はあなたの事を人殺しと呼んだわ」
 僕の思考が凍り付いていく。彼女が何を言っているのか分からない。彼女の言う「死の理由」の意味について考える。
「雪野の……死の理由?」
 水島の深く黒い瞳が、より一層深みを増す。
「彼女は、自殺じゃない。殺されたの」
 完全に僕の思考は停止した。
 雪野は殺された。その言葉がどうしても理解できない。僕が冷たく突き放した言葉にショックを受けて彼女は死のうと思った。それが真意であり、僕が人殺しである証拠なのだと思っていた。
「あなたはおかしいと思わないの?」
「何が?」
 水島はもう一度ため息を吐いた。
「あなたは、雪野さんの死についてどこまで知っているの?」
「どこまでって……屋上から飛び降りたとしか……」
「じゃあ例えば、それが『誰か』に呼び出されて突き落とされたんだとしたら?」
 何故、こんなミステリーに近い状況になっているのか。彼女の言っている言葉がどこか違う国の言葉のように聞こえる。
「そんなこと、あるわけが無い……。俺の言葉にショックを……」
「良い事を教えてあげる。雪野さん、あなたにフラれた後、ぴんしゃんしていたわよ?」
「え?」
「そういうものなの、女って。ましてやあれだけ人気のある彼女が、フラれた位で死ぬと思う?」
 さらりと言われた言葉が、心の中に積み上げられた『後悔』という文字を見事に吹き飛ばす。そして同時に、彼女の裏側を知ってしまったことに対する後悔と憤りが生まれる。あの弱弱しい声も、縮こまった姿も、何もかも演技であるということに対する熱い何かが僕の中で燃え滾る。
「……犯人を捜す術は?」
「別に探すつもりはないわよ? あの人と別段親しかったわけではないし、ましてやそんな事に首を突っ込むつもりもないしね」
「じゃあ、なんでこんなことを俺に?」
「気まぐれよ。面白いことにね。この学校、吐き気がするくらいに変なオーラがあるのよ」
「どういうことだ?」
「この殺人は多分始まりね。他にも色々なことが起きると思うわ」
 暗闇から彼女が離れていく。光がゆっくりと彼女にしみこんでいく。
「私は一つだけ予告しておいてあげる」
「?」
 彼女が完全に闇から抜け出し、僕だけが影に佇んでいる状態になる。
「あなたはこの文化祭が終わる前に、人を一人殺すことになるわ」
 そう一言言い残すと、彼女は一度微笑み、校舎裏から去っていった。僕はただ一人ポツンとそこにいた。
「俺が……人を……殺す?」
 最後に言い残された一言が一体何を意味しているのか。文化祭の終わりまで、僕は全く持って理解していなかった。

 多分、この言葉の意味をもっと重く見ていれば、これから先の、水島との不思議な関係も、奇妙な事件に巻き込まれることもなかったのかもしれない……。

act.1 END
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4, 3

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