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第四章

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TVのブラウン管で、福沢朗アナウンサーがニュースを読み上げている。滑舌のよいトークはいつ見ても惚れ惚れする。彼の隣には木村郁美アナウンサーが寄り添って、おっとりした笑顔をテレビカメラに向けている。僕も福沢アナぐらい明朗快活な人物だったら、今頃は女の子にモテまくっているだろうな。番組の背後で途切れなく流れる葉加瀬太郎の演奏曲が心地いい。

僕は、自分が福沢アナになった気分で、女の子にモテまくっている姿を妄想してみる。年末のこの時期だから、妄想の舞台はクリスマスイブである。僕と、誰か・・大学時代の同級生で一度も話せなかったけど、ひそかに好きだったAさんか、いま会社の隣の部署にいる憧れのNさん。より現実に即して妄想すれば、大学時代の同級生に再会する確率は低いが、同じ会社に勤めているNさんとはクリスマスイブまでに恋に落ちる可能性がある。ゆえに、僕は妄想デートの相手としてNさんを選択する。

汐留の高層ビルのレストランで食事をとる僕とNさん。お互いにそろそろ三十路に手が届きそうな年齢だ。「わたしそろそろ疲れちゃったなー」「何がだい?」「もう!決まってるじゃない、ね?」「ふむ、はっきり言ってみたまえ」「もう、バカ!私に言わせる気?」「ハハハ、冗談さ」僕は男気溢れる笑顔で、ポケットから婚約指輪を取り出し、シャンデリアの明かりにかざす。キラキラ光るダイヤモンドにNさんはウットリだ。

僕はNさんの華奢な指に、ごついダイヤモンド付き指輪をそっとはめようとする。だが、そういう時に限って、空気の読めないウェイトレスが近寄ってくる。「お客様、お客様」。ええい、なんて空気の読めない女だ。僕は苛立ち、冷徹な目でウェイトレスを一瞥する。「早々に立ち去れい!」しかしそこに立っているのは、ウェイトレスではなくて、なぜか増田翔子であった。増田翔子は僕に冷たい視線を浴びせて吐き捨てる。「いくじなし」と。

胸が詰まり、我に返った。TV画面では、福沢アナが立て板に水のごとく、コメンテーターたちと丁々発止のやりとりを続けている。・・僕は肩を落とし、ハァーと溜め息をついた。なぜ増田翔子が出てくるんだ。せっかくNさんとの妄想デートを満喫していたのに。妄想の世界でさえ増田翔子に罵られるとは、僕はとんだドMかも知れない。

昨日の昼食時、人ごみを避けて逃げ出した僕に、彼女は「いくじなし」と呟いた。それは僕の幻聴かも知れず、深く気に留めることはしなかった。それを今になって思い出したのは、何故だろう?増田翔子は僕の心におかしな罪悪感を埋め込んだ。彼女の言葉は、秘技3年殺しのようにジワジワと効いて来る。

気落ちしている暇もなく、背後で鍋が吹きこぼれた。僕はあわてて振り向き、ガスコンロの炎を弱火まで下げた。鍋の中の泡立ちが、スープ状に戻っていく。といってもこれはスープではない。玉子酒である。あと1分ほど温めたら出来上がる予定だ。僕は台所に突っ立ったまま、6畳間につけっぱなしのTV画面に視線を戻した。TV画面の左上には、現在の時刻が「11:23」と白抜き文字で表示されている。

祝日でも祭日でもない水曜日の午前11時過ぎだった。本来なら会社で仕事をしている時間帯だ。にもかかわらず、自宅で福沢アナの顔を眺めながら玉子酒を作っている自分。会社にはまだ欠勤する旨の連絡を入れていない。

僕は何事にも参加意識が低いくせに、断る勇気を持てない人間だ。望んでいないのに皆勤賞を達成してしまうタイプ。そんな風に半生を過ごしてくると、いざ会社を欠勤する段になっても、当意即妙な言い訳が思い浮かばない。経験値の不足である。

時間だけは否応なしに過ぎていき、今や午前11時30分を回ろうとしている。連絡しなければと心の中で念じながら、電話には手が伸びない。その代わりに、玉子酒を作ったり、その片手間で「もしも自分が福沢アナだったら」というドリフのコントみたいな妄想を楽しんでいる。ニートの素質十分だ。

だが、一応断っておくと、玉子酒を作っているのは自分が呑むためではないし、会社を欠勤することにしたのも、ちゃんと理由がある。ただ千慮の一失で、会社へ一切連絡をしていないだけの話だ。・・という自己弁護を交えつつ、僕はTVが設置してある6畳間とは別の、もう一方の6畳間をチラリと見た。

そちらの6畳間は、寝具が敷きっぱなしになっている。カーテン越しの鈍い光が、煎餅布団の枕元を照らしている。掛け布団から顔の上半分を出して眠っているのは、サカキ・マナミ。36年後の日本からやってきた未来人。しかし彼女の顔色は蒼白で、頬っぺただけリンゴのように真っ赤だった。額に濡れタオルが乗っかっている。乗っけたのは僕だ。彼女は昨晩遅くから、高熱にうなされている。

昨晩、僕はサカキ・マナミから驚くべき事実の数々を聞かされた。彼女が未来からやってきたことや、そのために使った重力制御装置と時間制御装置のこと。36年後の未来が置かれている状況。そしてノリさんの政治的暗躍に至るまで・・。僕と彼女は、折よく炊き上がった晩ご飯に箸をつけながら、話を続けた。話題の中心は、彼女の父親が逮捕された顛末に流れた。

彼女の父─サカキ・マサヤ氏は、某財閥系企業の主任研究員だったそうだ。国産ジェット機のエンジン設計に携わる傍ら、国立大学で機械工学を講義する日々を送っていた。まさにエリート中のエリートである。Fランク大学文学部をギリギリの単位で卒業して、中堅企業の事務職にありつけたものの、30歳目前で窓際の僕とはえらい違いだ。

ここで一言いわせてもらえば、憲法に保障されている職業選択の自由など、才能に恵まれた一部の人間だけの特権に過ぎないだろう。才能に溢れた人間は、想像の届く範囲が無限に広い。ピリオドの向こう側までイメージできる人種なのだ。僕なんて「自由な職業」と聞けば、漫画家や芸能人ぐらいしか思い浮かばない。その程度のイマジネーションしか持てない人間は、人生の上限もその程度ということなのだ。そんな愚痴はさておきつ。

サカキ・マサヤ氏は、ジェット機の新型エンジンの核となる、ある特殊な装置を開発していた。それは、エンジンの動力源として、重力エネルギーを転用するための装置だった。装置の開発は成功し、実用化のメドも立ったが、彼はその結果に満足しなかった。

ジェット機に限らず、乗り物は、ある地点から別な地点まで、人や物を移動させるための道具だ。移動時間を短くしたいなら、出来るだけ巨大なエネルギーを投入しなければいけない。重力エネルギーは無尽蔵だから、コストを気にせず巨大なエネルギーを投入できる。しかしながら、あまりに巨大なエネルギーは、乗り物本体に過負荷をかけてしまい、本体の物理的破損を引き起こす。つまり、無尽蔵のエネルギーが使えたとしても、移動時間の短縮には限界があるのだ。

そこでサカキ・マサヤ氏は考えた。エネルギーを一切投入せずに、移動時間を短縮すれば良いのではないかと。その発想が科学者として真っ当なのか評価することは、僕の手に余る。サカキ・マナミの話では、同僚の技術者・科学者たちからは例外なく、異端視されたそうだ。だが彼は、平気でそう考え、開発に取り組み、半ばまでそれを実現してしまった。いわゆる時間制御装置である。

半ばまで、というのは、時間制御装置を使うには、やはり巨大なエネルギーが必要だったためである。時間エネルギーを相殺する別エネルギーが与えられなければ、個体には過負荷がかかり、物理的破損が起きる。サカキ・マナミがすでに語ったように、時間エネルギーをまともに体に受けたら、肉体ごと消滅してしまう程の負荷がかかるのだ。まあ、天才科学者にも誤算はつきものと言うべきか。

ともあれ、サカキ・マサヤ氏はとんでもないものを作り上げた。時間制御装置と重力制御装置を組み合わせれば、少なくとも時間エネルギーを重力エネルギーで相殺してしまえるから、実用上は問題がない。事ここに到り、人類の夢、タイムトラベルが可能になったのだ。歴史的偉業と言っても過言ではないだろう。スタンディングオベーションしたい気分である。・・ただし、これは、学会や産業界に発表される事はなかった。横槍が入ったのだ。横槍を入れたのは帝国評議会だった。

タイムトラベルが可能ということは、過去に遡って歴史を改変できるという建前になる。たとえば、歴史を遡って政府の要人を殺害することも可能なのだ。ゆえに、サカキ・マサヤ氏の発明は、原子爆弾に匹敵する第一級兵器として認定された。彼は危険思想の持ち主として帝国評議会直属の秘密警察に逮捕され、牢獄に監禁された。時間制御装置と重力制御装置は、秘密警察に押収された。

自分が逮捕されることを事前に察知していたサカキ・マサヤ氏は、娘を知人宅にあずけ、時間制御装置と重力制御装置の設計図のコピーを彼女に手渡した。恐らく、その設計図が秘密警察の手で焼却されることを恐れたためだろう、と彼女は語った。

父親が逮捕された後、サカキ・マナミも容疑者として手配された。しかし彼女は、父親のつてを頼りながら1年ほど国内を逃げ回った。その間、父親から手渡された設計図のコピーをもとに、時間制御装置と重力制御装置を自分の手で作り上げていったのだという。

設計図さえ持っていれば作れるようなシロモノなのだろうか。僕にはとうてい想像の及ばない世界である。天才の子はやはり天才なのかも知れない。弱冠二十歳にして、未来科学の最先端を理解してしまえる頭脳。生きている世界が違うとしか思えない。

と、まあ、彼女が一通り語り終えた頃には、晩ご飯もあらかた片付いていた。ちなみに晩ご飯のおかずは、彼女がスーパーで買い込んできた野菜コロッケとエビフライだった事を追記しておく。僕は、深刻な話に相槌を打ちながらも、女の子がご飯を食べる姿はカワイイなあ、などと関係ない事を考えていた。僕は基本的に、集中力が無い。

彼女は、一部始終を話し終えると、なんだかホッとした表情を浮かべた。やはりどこか張り詰めていたんだな、と鈍感な僕も気づいた。考えてみれば、二十歳の女の子が1年間も警察に追われる生活を続けたのだ。父親は逮捕されて連絡も取れず、知人に頼ったとしても、指名手配者をどこまで暖かく迎えてくれるかは未知数である。密告されないとも限らない。他人に対する不信の念を絶えず感じながら、毎日を過ごしていたのだろう。

猜疑心は連鎖する。ある一人を信じられなくなったら、その一人と接点を持つ第三者のことも、信じられなくなる。猜疑心の網にかかった魚は、海の底で息を殺して雌伏する以外にない。そうやって彼女は1年を過ごした。海の底からようやく顔を出した場所に、たまたま僕がいた。僕に身の上話を打ち明けたのは、無関係な他人だからなのかも知れない。顔見知りの友人知人より、赤の他人を信じたくなる瞬間が、人には時々訪れる。

食事の後片付けを二人でしている最中、彼女は「クシュン」とクシャミをして、照れくさそうに笑った。その笑顔は屈託のないものだったが、僕はなんだか胸苦しい気持ちになった。笑顔は、ある場合には、他人への恐れを覆い隠すための仮面にもなる。彼女の場合はどっちだろう。

だが考える暇もなく、彼女は「クシュン、クシュン」と続けてクシャミをして、顔を真っ赤に火照らせた。自分の額に手のひらを当てて、数秒考えこむ。「ごめんなさい。ちょっと横になりたいの」と彼女は言った。僕は言われるまま、6畳間に布団を広げて、彼女をそこに寝かせた。「風邪かな?」と僕が尋ねると、彼女は目を閉じて「時間遡行の疲れがまだ残っているみたい。この時代にまだ体がなじんでいないのかも。少し寝れば治ると思います」と言った。ほどなく寝息を立て始めた。

寝入った彼女の額に、恐る恐る手を当てると、ひどい熱だった。僕はあわてたが、病人の看病なんてしたことが無いので、とりあえず濡れタオルを彼女の額にあてがった。毛布と掛け布団もかけた。それで精一杯だった。僕は一晩中タオルを取り替えつつ、彼女を心配していたが、夜中の3時を過ぎた辺りで眠ってしまった。

その翌朝になっても、彼女の熱は下がっていなかった。彼女は相変わらず布団に横たわったまま、眠りこけている。僕は素人考えながら、栄養のつく物を食べさせようと思い立ち、意を決して台所に向かった。炊事場に立つなんて何年ぶりか知れない。自動炊飯器に無洗米を入れて御粥モードのスイッチを入れ、ガスコンロに鍋をかけて玉子酒を作り始めた。その間、手持ち無沙汰なのでTVをつけ、福沢アナの情報番組を見始めたわけだ。

時刻は午前11時30分になろうとしている。そろそろ玉子酒は出来上がりだ。これを飲ませて、御粥も食べさせて、あとは・・ニンニクとかも栄養ありそうだから、スリ卸してみようかなあ、などとボンヤリ考えていた。その時である。

ピリリリリ、ピリリリリ・・・。

携帯電話の着信音だった。6畳間のちゃぶ台に放置してある僕の携帯電話が、明滅を繰り返していた。ここ3ヶ月ほど鳴った覚えが無いので、てっきり壊れているのかと思っていたのだが・・まあ、そうではなかったようだ。良かったような、良くないような。

少しずつ音量を増大させながら、携帯電話は鳴り続ける。
僕はガスコンロの火を止め、携帯電話に出るために6畳間へ歩いていった。
着信音は、気のせいか、不吉な音色であった。
携帯電話の通話ボタンを押すと、スピーカーの向こう側から、透き通った女性の声が問いかけてきた。
「もしもし、大友さんですか?」
「あ、はい・・」
キャッチセールスに違いない、と僕は思った。彼女の次の台詞は「おめでとうございます。海外旅行が当たりました」だろう。そしたら僕は「この間、世界一周旅行をしたばかりなんでね。アディオス」とでも答えてやろう。

だが電話の向こうの女性は、僕の予想を鮮やかに裏切った。
「経理課の増田です。おはようございます」
増田、増田、経理課の増田?・・増田翔子?まさか。なぜ僕の携帯番号を知っている。緊急連絡先として課長にだけは伝えてはあるけども、それ以外に僕の携帯番号を知る者は会社にいないはずだ。同期入社の連中ですら知らないだろう。サラリーマンに友情など無用なのだ。同期会という名の親睦会が年に1度は開催されてる事など、知っていても知らないフリをするのが、呼ばれない者の仁義である。・・まあ、そういうデリケートな話題はさておき、少なくとも僕の携帯番号を増田翔子が知っているはずはなかった。

「増田さん?経理の?」
「そうですよ。他に、同じ苗字の女性に心当たりでもあるんですか?」
「いや、ないですけど・・」
僕は先生に叱られた小学生みたいに口ごもった。増田翔子の言葉はなぜかいつもトゲトゲしい。僕の被害妄想だろうか。先般の「おはようございます」という挨拶にも、どこか責めるような色が滲んでいた気がする。

「今、何時か分かります?」
そう問いかけられて、僕はバカ正直に室内の目覚まし時計を確認した。
「えーと、11時29分、30秒過ぎです」
「・・へえ、そう」
電話の向こうでイラっとした殺気が漂った。彼女の求める返答ではなかったようだ。しかし、具体的にどこが間違っているのかは把握できなかった。もしかして単なる皮肉だったのか。

他人の顔色を窺いながら生きていると、電話越しの応対が不得手になる。声だけでは情報量が少なすぎて、相手の機嫌を的確に判断できないのだ。もし、会話の相手がテレクラ嬢だったら、黙って電話を切られていたに相違ない。幸か不幸か、増田翔子はテレクラ嬢では無いので、通話は途切れなかったが、代わりに嫌な沈黙が訪れた。沈黙に耐えるぐらいなら電話を切られた方がマシである。僕はむしろ増田翔子がテレクラ嬢だったら良かったのに、と勝手なことを思ったりした。



僕が心の内で不埒なボヤキを洩らしていると、増田翔子の方から沈黙を破った。
「昨日、書類を作成してもらったでしょう?覚えてますよね?その書類と似たものを、もう一通、作成する必要が出てきたんです。明日の朝には上長へ提出する必要があるの。それで、あなたの課に訪ねて行ったら、まだ出社していないし、連絡もないって言われてしまったわけ」
「はあ」
「緊張感のない返事ね。いつもそんな調子で仕事してるのね」
彼女はいつも余計な一言をいう。しかも的を射ているだけに、輪をかけて余計である。

「まあいいわ。とにかく、課長にその旨を説明したら、私からあなたに連絡をとるように言われたの。いつ出社するか聞いておいてくれって」
「・・」

つまり、こういうことか。増田翔子は僕に用事があって、僕の課を訪ねてきた。しかし僕は出社していない。欠勤の連絡も入っていない。ここで本来なら、僕の携帯番号を知っている課長あたりが、安否確認の電話を入れるのが筋だろう。しかるに、たまたま増田翔子が訪ねてきたことを利用して、僕への電話役を一任したわけだ。課長以下、誰も僕の安否など気にしていない様子が目に浮かぶ。まあ、実際問題、窓際の僕がいなくても仕事は回っていく。アイツに電話するだけ時間の無駄だ、という気持ちも分からないでもない。と、僕が理解を示すのもどうかとは思うけど。

「で、何時ごろに出社予定なの?」
「・・今日は欠勤します」
「・・えっと、さっき言ったと思うのだけど、明日の朝に提出する書類を、あなたに書いてもらわないといけないの。今日中に。お分かり?じゃあ、もう一度、訊くね。何時ごろ出社するんですか?」

もし僕の携帯電話に録音機能がついていたら、この会話を丸ごと警察に提出してやりたいと思った。脅迫罪で立件されればいいのに。いや、これも被害妄想に違いない。とにかく、僕は落ち着いて自己の主張を繰り返すことに努めた。

「今日は欠勤します。連絡不行き届きでした、ごめんなさい。書類は、明日早めに出勤して書いときます。ということで」
澱みもなく流暢に言葉が出てきた。我ながらビックリだ。先般、福沢朗アナの話術を念入りに観察していた成果が、早くも発揮されたらしい。学ぶとはマネぶであり、何事も人マネから入って我が物とするのが、王道である。たかが欠勤の詫び言をツッカエずに言えただけで、ここまで悟達を得られる自分が空恐ろしい。

増田翔子は押し黙っていた。いつもオドオドしている僕が堂々たる発言をしたことに気圧されたのだろうか。もちろん、そんなことは無かった。透明感のある彼女の声が、少し苛立ちを伴いながら会話を継いだ。
「何が『ということで』なの?」
ああ、最後の一言が余計だったらしい。綸言汗の如し。なぜ僕は揚げ足の取りやすい発言をしてしまうのか。前世で政治家でもやっていたのか。言葉責めされたいM男の本能か。この場に臨んで、そんなこと考えてる場合でもない。後悔の念が押し寄せる。先ほど得たはずの悟達は、雲のように掻き消え、額に脂汗が浮かんできた。翔子サマのお仕置き部屋が扉を開けようとしている。

「ま、それはいいわ」
あっけなく彼女は、抜きかけた刀を鞘へ収めたのだった。剣豪を前にガチガチ震えていた雑兵の僕は、命拾いをした安堵の溜め息を洩らした。ていうか、なんでこんなに彼女を恐れる必要があるのか、僕自身もよく分からないのだけれど。

「急用なの?」
「え?」
「会社に連絡できないぐらいの急用があって、それが長引いてるから欠勤するということではないの?」
「ああ・・」

僕は返答に困った。馬鹿正直に説明すれば、未来からやってきた女性が僕の部屋にいて、昨日から高熱を出して寝込んでいるので、看病するために欠勤します、と言えば過不足ないだろう。だが、恐らく信じてもらえない。「その女の子は、あなたの机の引き出しからやってきたの?」とか「寝込んでいる場所は押入れの中?」とか、皮肉交じりにネチネチ言われるのが目に見えている。悪くすれば、僕自身が特殊な病院へ連れて行かれそうだ。

数瞬、考えを巡らせて、ありふれた嘘をつくことに決めた。と言っても、事実からかけ離れた嘘八百を並べるとアリバイに綻びが生じる。あくまでも未来から来た女性─サカキ・マナミが陥っている実態に即した形で、嘘をつくことにした。

「実は、昨日の夜から風邪をひいてしまったんです。朝も動けなくて、つい欠勤の連絡を怠ってしまったというわけです」
「へえ、ご愁傷様。でも風邪をひいてるような声じゃないけど?」
「あ、それは・・ゴホン、ゴホン」
我ながら、この咳き込みはワザとらしかった。棒読みもいいところだった。しかし、幸いなことに、増田翔子はその点について触れて来なかった。天は我に味方せり。

「分かりました。書類は明日でいいです。ごめんなさいね、病気中に起こしてしまって」

増田翔子はすっかり納得したようだった。先ほどの猿芝居も無駄ではなかったということか。まさに劇団一人。僕は緊張の糸がほどけて、仁王立ちの膝元をつい緩ませた。その拍子にバランスを崩し、グラっと後方へ後ずさった。僕の背後には、サカキ・マナミが寝込んでいる六畳間がある。頭で分かっているが、慣性の法則には逆らえない。僕はバランスを持ち直すことも出来ず、隣の六畳間へ突入し、掛け布団だかシーツだかを踏んづけた。ズルっと滑った。

僕は声にならない悲鳴を上げた。そのまま、サカキ・マナミが寝込んでいる布団の脇へ転倒する。派手な音を立てて、腰骨の辺りを畳に打ちつけた。客観的に見てブザマこの上ない転び方であった。普段からカッコいい転び方を研究している僕だが、正直、イメージトレーニングだけでは限界がある。もともと運動神経が悪い上に、ここ数年、スポーツなんて指相撲ぐらいしかやってない。しかも一人指相撲だ。あ、涙が出てきた。

「・・ゴホッ、ゴホッ、大丈夫ですか?」
サカキ・マナミが、布団から半分顔を出して、腫れぼったい目で僕の方を見つめていた。朝から眠り通しだった彼女だが、今の転倒音で目覚めてしまったようだ。心配そうな表情である。
「ごめんなさい、私、ずっと寝てて・・」
「いや、いいんだ。大丈夫、大丈夫」
「なんだか熱いです・・すごく・・体が・・火照って・・」

彼女は熱にうかされて、トロンとした眼差しで僕を見つめた。病気の女の子は妙に色っぽいと言うが、確かに、彼女の眼差しは僕を一瞬釘付けにする魔力を備えていた。甲斐性のある男なら、この状況を据え膳と見なすだろうが、僕に限ってはそうは行かない。この眼差しだけで胸一杯である。

そういった中学生レベルのトキメキを覚えている自分に対して、脳の一部が危険信号を発していた。僕はその信号を受け止め、地べたに尻餅をつく前の自分が何をしていたのか、すぐに思い出した。呑気にサカキ・マナミと話している場合ではなかった。僕はあわてて、携帯電話を探した。転倒した拍子に、どこかに放り出してしまったのか。

「これですか?」
と、サカキ・マナミは、彼女の枕元に落ちていたシルバーの携帯電話を、目で促した。
「あ・・どうも・・」
僕は頑張って笑顔を浮かべたが、ほっぺたの筋肉は小刻みに震えていた。携帯電話を拾い上げ、ゆっくりと耳に押し当てた。
「もしもし?」
僕は恐る恐る問いかけた。

増田翔子の不機嫌そうな咳払いが耳を打った。あ、なんかマズイ。これ、マズイ空気だよ。
「いま、女の子の声が聴こえたんですけど」
「TVです」
僕は即答した。携帯電話は、サカキ・マナミの枕元に通話状態のままずっと落ちていた。従って、彼女との会話は全て増田翔子に聞かれているはずだった。それでも僕は、ゴマカし通す方に賭けた。人生には3回、死と背中合わせの危機が訪れるという。徳川家康が大敗を喫し、馬上で脱糞したとされる三方ヶ原の戦いしかり。僕も脱糞しそうです。

「TV?でも、明らかに女の子の声と会話してたように聴こえたけど?」
「僕、TVの音声と会話するのが趣味なんです」
「へーえ」
ものすごく冷たい声色だった。
「体が火照ってるとかなんとか聴こえたけど」
「そういう番組なんです」
「色っぽい声で」
「ちょっとお色気路線の入った番組なんです」
僕はドキドキしながら、増田翔子の問い掛けをかわし続けた。脂汗がこめかみに浮かんでは、ツーっと頬っぺたを流れていった。何度も。

その時、増田翔子の背後で、課長の聞こえた。その声に反応して、増田翔子が電話口から離れた。数秒間、彼女は課長と話し込んで、また電話口に戻ってきた。
「欠勤することだけ分かればいいから、無駄な電話はしないように、だそうよ。電話しろって言ったのは課長なのにね。・・ま、いいわ。とにかく明日の朝は早く来て書類を書いてくださいね。じゃあ、・・お大事に」

不本意そうな口ぶりであったが、増田翔子からの電話は静かに切れた。ツーツーという音を5回ぐらい聞いてから、ようやく僕は大きな溜め息をついた。危機を乗り越えたのだった。最後の「お大事に」がいくぶん意味深な気もしたが、気のせいという事にしておこう。

僕は力なく、ヘナヘナと畳に座り込んだ。グッタリした。
顔を上げると、不思議そうに僕を見つめているサカキ・マナミと目が合った。
下手糞な苦笑いでゴマカすのが精一杯であった。
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汗で額に張りついた前髪を、指先で掻きわけ、サカキ・マナミは玉子酒を一口すすった。
喉の辺りが微かに上下する。
少量ですら、飲み下すのに数秒を要した。
「美味しい。ありがとう」
彼女は火照った顔で、笑みを浮かべた。

彼女はどんな時でも、相応の笑顔と謝辞を忘れることがない。きっと、相手の善意に応える術を心得ているのだ。これが育ちの良さというものだろうか。もしくは、不信のどん底に沈んだ境遇が培った、一種の処世術だろうか。なるべくなら前者であって欲しい、と勝手なことを思った。

サカキ・マナミは掛け布団に半身を包んだまま、もう一口、玉子酒をすすった。それを苦心しながら飲み下すと、僕の膝元にプラスチックのコップを置き、身体を布団の上に横たえた。顔の下半分を毛布で覆い、小さな声でボソボソと何か言った。よく聞き取れなかった。そのまま彼女は目を閉じてしまった。「ごちそうさま」とか「おやすみなさい」とか、そんな些細な言葉に違いなかった。

時刻はもう正午を過ぎている。カーテンから差し込む日差しは、強まりつつあった。目を閉じて布団に横たわる彼女と、その隣で胡坐をかいている僕は、6畳間の温もりに包まれていた。隣室のTVでは、午前中から引き続き、福沢アナがホストを務めるワイドショー番組が流れ続けている。番組は特集コーナーに差し掛かり、「ニート・フリーター問題」のVTRが流れ始めた。

社会問題というのは、ファッションと同じく、流行に左右されやすい。流行りの社会問題は、学者の手で精緻に分析・分類されていく。分類が進むと、それだけで問題が解決に向かっている気がしてくるから、不思議だ。実際には何も変わっていないのに。ちょうど、牛の体にタンとかレバーとかホルモンとか名前をつけたって、焼肉の味が変わるわけじゃないのと同じだ。みんな、何も変わらない事を承知で学者の分析に耳を傾けているのだ。変わらなくても誰も困らない。社会問題なんて、誰にとっても他人事に過ぎない。

僕もできるなら、有閑セレブの仲間入りをして、真昼間からワイドショーに興じたいところだ。責任のない範囲で他人事に首を突っ込むのは、暇つぶしとして最適だと思う。しかし残念なことに、僕の隣では風邪にうなされた女の子が苦しそうな顔で寝込んでおり、彼女を介抱できるのは目下、僕しかいない。他人任せに出来ない厄介ごとを抱え込んでしまっているわけだ。

こういう面倒事を避けて通るのが、僕の基本的な生き様ではある。だが、いざこういう事態に巻き込まれてみると、それほど面倒だとも感じられなかったりする。かえって、TV番組の白熱した議論こそ、白々しくて正視に堪えない。人間は、目の前に差し迫った問題が勃発しない限り、何を言っても考えても、暇つぶしにしかならない。「いや、差し迫った問題への対処だって暇つぶしだし、人生そのものが暇つぶしだ」という意見もあり得るだろう。ならば、どうせ暇をつぶすなら張り合いのある方法で暇をつぶしたいものだね、と大人の余裕を見せておこう。

「今日、お仕事だったんですよね?」
サカキ・マナミが、弱々しい口調で言った。目は閉じられたままだった。
僕は彼女の顔を見つめて、答えた。
「うん。でも、大丈夫。有給休暇を取ったし」

実際には、有給休暇には出来そうにない。事前の申請もせず、当日の連絡も怠り、増田翔子からお叱りの電話までかかって来た。もし後付けで有給申請を出そうものなら、申請書が経理部に届いた時点で、また翔子サマからお叱りを受けそうだ。・・というか、病に伏せっているサカキ・マナミに対して「有給だし大丈夫」と言うのは、「お金にならなければ看病なんかしないよ」と酷い事を口走ったようなものだ。まずい言い方だった。気づいた時には後の祭りである。

幸い、サカキ・マナミは特に気にした様子もなく、話を続けた。
「そうですか・・さっきの電話、すごく困ってたように見えたので・・」
「いや、まあ、アハハ」
空笑いでゴマカす。仕事に関する話題は、僕のダメ人間っぷりしか彼女に伝わらない気がする。見栄を張るわけじゃないけれど、僕は話題を変える事にした。
「えーと、しかしまあ、2043年の未来が大変なことになってるのは驚いたけど、とりあえずキミがそこから脱出できたのは良かったと思う。熱がひいて元気になったら、名古屋城でも案内するよ。あと、駅前のツインタワービルとか・・」

自分で話題を振っておきながら、これといった名所が思い浮かばなかった。名古屋の有名どころといえば何だろう。名古屋ドーム。熱田神宮。大須のアメ横。コメダコーヒー。前2者は全国区の知名度だが、後2者は地元民にローカルな知名度しか無い。紹介するのが非常にためらわれる。それに駅前のツインタワービルだって、僕からすれば未来的な建築物だが、本当の未来人であるサカキ・マナミにとっては過去の遺物としか映らないかも知れない。なにしろ、タイムマシンみたいな装置を自力で組み立ててしまう科学知識の持ち主なのだから。

逡巡する僕の気持ちを汲んでくれたのか、彼女はとりわけ明るい口調で答えた。
「ありがとうございます。楽しみにしてます・・でも・・」
最後に言いよどんだ一言が、彼女の朗らかな言葉に、陰を落とした。
その続きを、僕は待った。

「私が時間遡行したのは、父を救うためです。父は今も秘密警察の暗い牢獄につながれて、酷い生活を強いられていると思います。だから、一刻も早く父を救い出したいんです」

そうだった。僕はすっかり忘れていた。昨日の晩にも彼女はそう言明していたはずだ。時間遡行を行なった理由は、秘密警察に逮捕された父親を救うためだ、と。肉親を救うためだからこそ、一歩間違えれば死に至る時間遡行を行なう決心がついたのだろう。

しかし、と僕は不審に思う。

そもそも、彼女の父親は「2043年の日本」で囚われの身になっているのだ。その人物を救うために、なぜ「2007年の日本」にやって来る必要があったのだろうか?僕がもし、彼女の立場だったら、そのまま「2043年の日本」で父親の奪還計画を練るだろう。仮に、ノリさんの築いた帝国が恐ろしいまでの権力機構を張り巡らしていたとしても、「2007年の日本」にやって来ては、余計に手の出しようがない。

いやいや、と僕はさらに考える。
僕が初めてサカキ・マナミに出会った時、彼女は何をしようとしたか?
中日vs日本ハム戦の日本シリーズのチケットを、僕から強奪しようとしたはずだ。
何のために?

これはちょっとした連想ゲームだ。
2043年からやってきたサカキ・マナミにゆかりのある人物で、かつ、日本シリーズにも関係のある人物と言えば・・誰だろう。

考えるまでもない。彼女の生きる時代に日本帝国の皇帝として君臨する、ノリさんをおいて他にいない。つまり、彼女はノリさんに近づくために、日本シリーズのチケットを入手しようとした、と考えられる。一体、何をたくらんでノリさんに近づこうとしたのか?

僕は不吉な予感を抱いた。
「キミは、お父さんを救うために、この時代に来たんだよね?でも、どうやってお父さんを救おうと考えてるの?・・ねえ、僕が読んだことのあるSF小説では、タイムトラベラーが禁じられている行為が一つだけあるんだ。それは何だと思う?」

サカキ・マナミは答えない。
目を閉じているが、眠ってしまったわけじゃない。張り詰めた気配を感じる。
彼女が沈黙で応じるわけは、察しがつく。
多分、僕の予感は当たっている。不吉な予感だけいつも当たるのは、どうにかしてほしいが。
「それは、歴史カイザン─」
「私は、父を救うために、歴史を変えるつもりです」

「私がこの時代へ時間遡行した理由は、ノリ選手を、後のノリ皇帝を殺害するためです。・・2043年の悪夢の帝国を、日本の歴史上から消し去るためです」
重苦しい声で、彼女はそう言い切った。

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