第九章 『ゴーイング・ホーム』
エリートビジネスマンの朝は早い。
新聞配達人のトム爺さんが投げ込んだニューヨークタイムズ紙の一面には、ウォール街で続く金融不祥事の顛末、それに株価の乱高下チャートが賑々しく踊っている。
「アドリアーノの奴め、仕手株をつかませやがって」
シルクのガウンに身を包んだ寝起きの僕は、不機嫌に呟く。イタリア系の証券会社に勤務する友人の紹介で、先週末に10万株ほど買い付けたばかりなのだ。それが早くも買い値を下回っている。だが慌てる事は無い。損失額はほんの15万ドルに過ぎない。来週のマンハッタン出張で南アフリカの金鉱採掘権さえ手に入れれば、どうとでもなる金額だ。
鼻歌を口ずさみながらテレビのスイッチを入れると、朝のニュースショーが始まった。ほんの些細なニュースにもビッグビジネスの手がかりが潜んでいる。僕はスイス製の高級ソファに腰掛け、注意深くニュースショーを見守った。
だが見慣れたはずの早朝ニュースショーは、今日に限って安っぽさ満載の内容だった。趣味の悪いオレンジ色の背景セット。僕が訝しむうちに番組は進行し、女性の出演者が手料理を作り出した。出来上がったデザートを美味しそうに食べる出演者一同。はて、こんなニュースショーは初めて見るぞ?チャンネルを間違えたか?いったい司会者は誰なんだ?
僕が困惑していると、問題の司会者が満面の笑みを浮かべて振り向いた。
「今日も元気に、おもいっきりドン!」
中山ヒデちゃんの甘酸っぱい声を耳にして、僕はようやくこれが夢である事に気付くのだった――。
目覚めた僕は薄汚れた6畳間の片隅に雑魚寝していた。頭痛がする。昨夜ビールを飲みすぎたのだ。なんだか吐き気がして口元に手を添えた。すると口周りの無精ヒゲがチクリと掌を刺した。ああ、早くヒゲを剃らねば、と思った瞬間、今度はゲップが出た。一連の行動が三十路間近のオッサンでしかなかった。夢の中で「ビッグビジネス」とか口走った事が死ぬほど恥ずかしい。
時計を確認すると10時45分だった。
よろしい。どう考えても会社は遅刻だ。昨日は半ば無断欠勤に近い形で会社を休み、今日は完全に遅刻である。エリートビジネスマンにあらず窓際サラリーマンの僕には、あるまじき勤務態度である。こんな事を繰り返していたら、いつ本格的なリストラ候補に選定されてもおかしくない。上島竜平が熱湯風呂の前で「押すなよ?押すなよ?」と口走るのに近い危険行為だ。
しかし昨日会社を休んだのは一応の理由がある。サカキ・マナミを看病するためだ。決して労働意欲の欠如によるズル休みではない。その事実は増田翔子も承知しているから、もし会社で僕の立場が危うくなれば、彼女に事情を説明してもらうのが手っ取り早い。例えばこんな感じに。
「彼は決してズル休みしたんじゃないんです。妹さんを看病するために仕方なく会社を休んだだけなんです。こいつ、仕事では何の役にも立たない男ですけど、今度ばかりは許してあげてください!」
僕の脳内でさえ余計な事を口走る増田翔子だが、ともかく会社における僕の生命線が彼女である事は疑う余地がない。僕が言えば一笑に付される話も、彼女が言えば「そうだよねー」「私も同感!」などと賛意を獲得するのだから、つくづく世間で通るのは理屈にあらず、集団内のカースト位置が全てだと言っていい。ああ世間ってホントに汚らわしい嫌らしい。
だがこの際僕は、カーストの上層部に位置する増田翔子へゴマを摺る事に決めた。今日の遅刻も彼女に話を通しておけば何とかなる気がする。実はすでに増田翔子が会社へ連絡を入れていたりしないかな?
僕は淡い期待を抱いて起き上がった。二日酔いの偏頭痛に耐えて部屋の中をキョロキョロと見回す。だが増田翔子が居ない。どこにも見当たらない。
その代わりジュリアとケビンは居た。二人してテレビの前に座り、情報番組を熱心に見ているようだ。僕は後ろから呼びかけた。
「もしもし、お二人さん?」
「あ、やっと起きたね。おはよー」
ジュリアが張りのある声で僕に挨拶した。続いてケビンも「おはよ」と小声で呟く。昨晩のハジケっぷりが嘘のようにケビンは物静かだった。「余計な事をベラベラ喋るな」とジュリアから釘を刺されたのかも知れない。いずれにせよ、二人ともテレビを見ているだけで、特段変わった様子はない。僕は単刀直入に尋ねた。
「おはよう。えーと、増田さんはどこ行ったのかな?」
「とっくに帰ったわよ」
「えっ!?帰った!?」
僕は素っ頓狂な声を上げた。想定外も甚だしかった。このややこしい状況を放置してサッサと一抜けしたというのか。僕はフツフツと怒りが湧いてきた。
「帰ったって・・」
「うん。帰ったわ」
「キミらを放置して!?」
「まあ、そうね」
「キミらの件が片付くまでは一緒にいるとか言ってたのに!?」
「あー・・えーと・・」
「散々タダメシ食べたりビール飲んだり好き勝手したくせに!?クソ、あの女詐欺師!!」
「嘘ウソ。ごめん冗談だってば。そんなに怒るとは思わなかったわ。ちゃんといるわよ。そこの洗面所で顔を洗ってるんじゃないかな」
「え?いるの・・あ、そう、いるんだ・・」
僕は急転直下、声をひそめてモジモジと唇を噛んだ。しかし後悔先に立たず。
「ねえー、女詐欺師がどうとかって、何のことかなー?こっちに来て詳しく教えてくれないかなー?」
洗面所の方から増田翔子の声が聞こえた。言葉の端々に殺気がみなぎっている。朝っぱらからヤラカしてしまった事を痛感した。ヒョードル戦における永田さんみたいになった自分を想像し、僕はマジ泣き5秒前の顔つきでイヤイヤをした。だがジュリアはあっけらかんと僕を促す。
「翔子ちゃんが呼んでるみたいよ?用事があったんでしょ?」
「あ、そうですね・・」
隠岐の島へ流される後鳥羽上皇のようにガックリと肩を落とし、僕は洗面所へと向かった。5歩ぐらい歩いて廊下を曲がった時、洗面所に佇む増田翔子が視界に入った。
増田翔子は化粧気のない横顔を鏡に向けていた。こめかみに差したヘアピンで前髪を掻き分け、いかにも身づくろい中といった姿だ。セミロングの黒髪は耳の裏側を通って肩まで伸び、襟付きの白いシャツと肩口で接している。彼女の背格好と不釣り合いな長袖の白いシャツに、僕は目を見張った。
「・・んん・・!?」
彼女が着ているのは僕のワイシャツに間違いなかった。部屋のハンガーに掛けておいたものを勝手に着ているのだ。また勝手な事を・・と咎め立てしたい気分だったが、それを上回る今一つの問題が、僕の憤懣を一気に削いだ。
増田翔子は”それしか”身につけていないのだ。つまり、ワイシャツ一枚だけ羽織って鏡の前に立っていた。前ボタンは幾つか留められているが、シャツの裾はダランと投げ出され、その下にはズボンもスカートも履いていない。剥き出しの太ももがシャツの裾から伸びていた。
(こ、これは・・)
衝撃のシチュエーションが、胸元から下半身へとアドレナリンを分泌させる。アルプスの少女ハイジが欣喜雀躍し「フラグが立った!フラグが立った!」と喜び勇むのを、僕は必死に押し留めた。
「こいつは罠だぜ?」
「かも知れない」
「それでも行くのか?」
「男ってそういうもんだろ」
高倉健と池部良の『昭和残侠伝』みたいな会話を脳内で交わし、僕は身震いを覚えた。だが気を抜いてはいけない。こう易々とフラグが立った場合、大抵は死亡フラグである。
「なに珍しそうに見てるの?」
増田翔子は鏡越しに僕をチラリと一瞥した。
「あ、いや、別に・・」
「タダメシ食べたり、ビール飲んだり、好き勝手してごめんね?」
「ああ・・いえいえ、とんでもございません・・」
「それにしても、女詐欺師だなんてヒドイ言い草じゃないかしら?」
「全くおっしゃる通りです・・。どこのどいつでしょうね、そんな事ぬかした豚野郎は・・」
「豚と言うよりウンコね」
「え?ウンコ?・・ええ、もうホントに、最低のウンコ野郎です・・」
自虐発言に胸を痛めながら僕はイエスマンを演じ続けるのだった。その間も視線はソワソワと彷徨い、ワイシャツの裾から太ももが出現する魔の領域へと惹きつけられて行く。やがて増田翔子は身支度を終えて、僕の方を振り向いた。
正面から見る姿は更に危険だった。ワイシャツの第一ボタンと一番下のボタンが見事に外れている。狙いすましたような外れっぷりである。少しでも身動きすると、固定されていない部分の布がチラチラ揺れて、見えそうで見えない夢と魔法のファンタジーゾーンに魂が吸い寄せられるのだ。長年、着エロビデオで鍛錬を積んでいなかったら、今頃は犯罪者である。
「そういえばジュリアさんとケビンさんね、あとは自分達で何とかするから大丈夫だって言ってたわ」
「そ、そうなんだ?じゃあこのまま送り出してお別れだね」
「ええ。ちょっと腑に落ちないけどね。昨夜ケビンさんが言ってた未来の日本がどうのって話はさておき、本当にお金も無くて大丈夫なのかしら」
「それは・・」
僕は言いよどんだ。やはり増田翔子は、昨夜のケビンの話を信じていないのだ。当然と言えば当然ではある。しかしジュリアとケビンが未来人なのは間違いない。その上、彼らが秘密警察であり、サカキ・マナミの逮捕を目論んでいる事も、ほぼ確実と言っていいのだ。だからこそ両者の鉢合わせは回避せねばならない。もしジュリア達が出て行くと言うのなら、僕にとっては願ったり叶ったりである。
「・・本人達が大丈夫って言ってるんだから、大丈夫さ」
「そうかしら。まあいいけど」
そう言いながら、まだしっくり来ていない様子だった。僕は話題を切り替える事にした。むしろこちらの方が個人的には喫緊の課題なのだ。
「それよりさ、いま僕らって会社に遅刻してる状態だよね?もう11時近いし、このままだとマズイよね?会社に連絡を入れた方が・・」
「大丈夫。今朝、会社に連絡しといたから」
「おおっ!」
僕が泥のように眠りこけている間に、さっさと遅刻連絡を済ませていたらしい。期待を裏切らぬ事務処理能力、デキル女はやはり違う。自分で言うのも何だが、僕のような甲斐性なしには無くてはならない存在と言える。あと性格さえ良ければ嫁にしてやっても差し支えない。
「ふー助かったよ。やっぱり無断で遅刻するのはマズイもんね」
「ええ、今日は有給休暇をとるって言っておいたから」
「え?有給?僕は別に休む気は・・」
「私も有給休暇にしたから安心して」
増田翔子はニッコリ微笑んだ。何が「安心して」なのか分からない。ジュリア達を送り出したら、それで面倒事は終わりになる。サカキ・マナミの病状は心配だが、僕一人で対処できるだろう。もともとこれは僕とサカキ・マナミの問題だ。増田翔子に付き合ってもらう必要はない。
「わたし思ったんだけどね」
増田翔子は僕を無視して喋り始めた。
「この部屋、とても不潔じゃない?食器類もヒビの入ったお皿ばっかりだし、マナ板は黄ばんでるし、畳はダニっぽいし、カーテンは埃まみれだし、天井には蜘蛛の巣張ってるし、フスマは破れてるし、壁もひび割れてるし。ずっと住んでたら病気になりそうよ?あなた一人ならどうでもいいけど、妹さんが一緒だと、どうかと思うのよね」
「んーまあ、確かに・・」
「だからせっかく有給休暇で時間がある事だし、食器類を買い換えたり、カーテンを洗濯したり、壁紙を貼り替えたり、天井掃除をしたり、全面的に部屋の模様替えをしたらいいと思うの。どう?」
「ううむ・・でもちょっと面倒くさ・・」
「じゃあ決まりね。で、あなた一人でインテリア用品なんて選べないだろうから、私が一緒に買い物に付き合ってあげるね?」
増田翔子は一方的に宣言した。すがすがしいほど人の話に耳を貸さないワンマントークである。こんなワンマンな人間は『とくダネ!』の小倉智昭ぐらいしか思いつかない。中野美奈子が辟易するのも無理からぬ事だ。そして高島彩は一人で高笑い。
ここで普段の僕なら、否応なく彼女の言いなりになったろう。だが増田翔子と行動してロクな事が起きないのは昨日一日で実証済みなのだ。疫病神とは手を切らねばならない。今がその時である。僕は意を決し、反旗を翻した。
「いやあ、気持ちは嬉しいんだけど、買い物は一人で大丈夫だよ」
「・・ん?」
「全然一人で平気だから」
「・・本当に?」
「もちろん」
「へえ、そう。・・それにしても今日は暑いわねー」
増田翔子は脈絡もなく気だるそうな声を出して、ワイシャツの襟をパタパタ動かし始めた。第一ボタンが外れているので、胸元が大きく開いたり閉じたりする。その隙間から胸の谷間がチラチラと見えそうになるのだった。僕の目は魔法にかけられたように釘付けになった。
「ねえ、本当に一人で大丈夫?」(チラッ)
「あ・・うん・・」
「私が一緒に行ってあげた方がいいんじゃない?」(チラッチラッ)
「えー・・えーと・・」
「じゃあ、一緒に行こっか?」(チラッチラッチラッ)
「そ、そうだね・・」
僕が虚ろな目で呟くと、増田翔子はニンマリと微笑んだ。
「よし、じゃあ決まりね」
「ハッ!!」
悪い魔法が解けた僕は、唇の端に溜まっていた唾をズズッと飲み込んだが、後の祭りであった。奸計にはまった己の不甲斐なさを恥じ、がっくりうな垂れた。すると瞼の裏側に胸チラの残像が残っていたので、それはそれ、急いで長期記憶に保存し直した。
「さてと、グズグズしても仕方ないし、そろそろジュリアさん達を送り出しましょうよ。駅前まで送って行けば、後は彼らなりに何とかするんじゃないかしら。その後でお昼ご飯を食べましょうよ?」
「じゃあそんな感じで・・」
「それから──」
「あ、そうだ、出掛ける前に妹の様子を見てくるよ。風邪の具合が良くなってればいいんだけどなあ」
「もう大丈夫だと思う。一晩温かくして寝たんだし・・」
「でもさ、もしまだ具合が悪いようだったら、病院へ連れて行こうと思うんだ。市販の風邪薬じゃ限界があると思うし。その時は悪いけど、買い物は後回しね?」
「・・了解」
ぎこちない返事の後、妙な間が空いた。そして増田翔子はポツリと言った。
「・・妹さんには、優しいんだね」
「え?」
「何でも。先に準備して玄関で待ってるわね」
目を合わせず早足に去っていく彼女を、僕はポカンとして見送った。
新聞配達人のトム爺さんが投げ込んだニューヨークタイムズ紙の一面には、ウォール街で続く金融不祥事の顛末、それに株価の乱高下チャートが賑々しく踊っている。
「アドリアーノの奴め、仕手株をつかませやがって」
シルクのガウンに身を包んだ寝起きの僕は、不機嫌に呟く。イタリア系の証券会社に勤務する友人の紹介で、先週末に10万株ほど買い付けたばかりなのだ。それが早くも買い値を下回っている。だが慌てる事は無い。損失額はほんの15万ドルに過ぎない。来週のマンハッタン出張で南アフリカの金鉱採掘権さえ手に入れれば、どうとでもなる金額だ。
鼻歌を口ずさみながらテレビのスイッチを入れると、朝のニュースショーが始まった。ほんの些細なニュースにもビッグビジネスの手がかりが潜んでいる。僕はスイス製の高級ソファに腰掛け、注意深くニュースショーを見守った。
だが見慣れたはずの早朝ニュースショーは、今日に限って安っぽさ満載の内容だった。趣味の悪いオレンジ色の背景セット。僕が訝しむうちに番組は進行し、女性の出演者が手料理を作り出した。出来上がったデザートを美味しそうに食べる出演者一同。はて、こんなニュースショーは初めて見るぞ?チャンネルを間違えたか?いったい司会者は誰なんだ?
僕が困惑していると、問題の司会者が満面の笑みを浮かべて振り向いた。
「今日も元気に、おもいっきりドン!」
中山ヒデちゃんの甘酸っぱい声を耳にして、僕はようやくこれが夢である事に気付くのだった――。
目覚めた僕は薄汚れた6畳間の片隅に雑魚寝していた。頭痛がする。昨夜ビールを飲みすぎたのだ。なんだか吐き気がして口元に手を添えた。すると口周りの無精ヒゲがチクリと掌を刺した。ああ、早くヒゲを剃らねば、と思った瞬間、今度はゲップが出た。一連の行動が三十路間近のオッサンでしかなかった。夢の中で「ビッグビジネス」とか口走った事が死ぬほど恥ずかしい。
時計を確認すると10時45分だった。
よろしい。どう考えても会社は遅刻だ。昨日は半ば無断欠勤に近い形で会社を休み、今日は完全に遅刻である。エリートビジネスマンにあらず窓際サラリーマンの僕には、あるまじき勤務態度である。こんな事を繰り返していたら、いつ本格的なリストラ候補に選定されてもおかしくない。上島竜平が熱湯風呂の前で「押すなよ?押すなよ?」と口走るのに近い危険行為だ。
しかし昨日会社を休んだのは一応の理由がある。サカキ・マナミを看病するためだ。決して労働意欲の欠如によるズル休みではない。その事実は増田翔子も承知しているから、もし会社で僕の立場が危うくなれば、彼女に事情を説明してもらうのが手っ取り早い。例えばこんな感じに。
「彼は決してズル休みしたんじゃないんです。妹さんを看病するために仕方なく会社を休んだだけなんです。こいつ、仕事では何の役にも立たない男ですけど、今度ばかりは許してあげてください!」
僕の脳内でさえ余計な事を口走る増田翔子だが、ともかく会社における僕の生命線が彼女である事は疑う余地がない。僕が言えば一笑に付される話も、彼女が言えば「そうだよねー」「私も同感!」などと賛意を獲得するのだから、つくづく世間で通るのは理屈にあらず、集団内のカースト位置が全てだと言っていい。ああ世間ってホントに汚らわしい嫌らしい。
だがこの際僕は、カーストの上層部に位置する増田翔子へゴマを摺る事に決めた。今日の遅刻も彼女に話を通しておけば何とかなる気がする。実はすでに増田翔子が会社へ連絡を入れていたりしないかな?
僕は淡い期待を抱いて起き上がった。二日酔いの偏頭痛に耐えて部屋の中をキョロキョロと見回す。だが増田翔子が居ない。どこにも見当たらない。
その代わりジュリアとケビンは居た。二人してテレビの前に座り、情報番組を熱心に見ているようだ。僕は後ろから呼びかけた。
「もしもし、お二人さん?」
「あ、やっと起きたね。おはよー」
ジュリアが張りのある声で僕に挨拶した。続いてケビンも「おはよ」と小声で呟く。昨晩のハジケっぷりが嘘のようにケビンは物静かだった。「余計な事をベラベラ喋るな」とジュリアから釘を刺されたのかも知れない。いずれにせよ、二人ともテレビを見ているだけで、特段変わった様子はない。僕は単刀直入に尋ねた。
「おはよう。えーと、増田さんはどこ行ったのかな?」
「とっくに帰ったわよ」
「えっ!?帰った!?」
僕は素っ頓狂な声を上げた。想定外も甚だしかった。このややこしい状況を放置してサッサと一抜けしたというのか。僕はフツフツと怒りが湧いてきた。
「帰ったって・・」
「うん。帰ったわ」
「キミらを放置して!?」
「まあ、そうね」
「キミらの件が片付くまでは一緒にいるとか言ってたのに!?」
「あー・・えーと・・」
「散々タダメシ食べたりビール飲んだり好き勝手したくせに!?クソ、あの女詐欺師!!」
「嘘ウソ。ごめん冗談だってば。そんなに怒るとは思わなかったわ。ちゃんといるわよ。そこの洗面所で顔を洗ってるんじゃないかな」
「え?いるの・・あ、そう、いるんだ・・」
僕は急転直下、声をひそめてモジモジと唇を噛んだ。しかし後悔先に立たず。
「ねえー、女詐欺師がどうとかって、何のことかなー?こっちに来て詳しく教えてくれないかなー?」
洗面所の方から増田翔子の声が聞こえた。言葉の端々に殺気がみなぎっている。朝っぱらからヤラカしてしまった事を痛感した。ヒョードル戦における永田さんみたいになった自分を想像し、僕はマジ泣き5秒前の顔つきでイヤイヤをした。だがジュリアはあっけらかんと僕を促す。
「翔子ちゃんが呼んでるみたいよ?用事があったんでしょ?」
「あ、そうですね・・」
隠岐の島へ流される後鳥羽上皇のようにガックリと肩を落とし、僕は洗面所へと向かった。5歩ぐらい歩いて廊下を曲がった時、洗面所に佇む増田翔子が視界に入った。
増田翔子は化粧気のない横顔を鏡に向けていた。こめかみに差したヘアピンで前髪を掻き分け、いかにも身づくろい中といった姿だ。セミロングの黒髪は耳の裏側を通って肩まで伸び、襟付きの白いシャツと肩口で接している。彼女の背格好と不釣り合いな長袖の白いシャツに、僕は目を見張った。
「・・んん・・!?」
彼女が着ているのは僕のワイシャツに間違いなかった。部屋のハンガーに掛けておいたものを勝手に着ているのだ。また勝手な事を・・と咎め立てしたい気分だったが、それを上回る今一つの問題が、僕の憤懣を一気に削いだ。
増田翔子は”それしか”身につけていないのだ。つまり、ワイシャツ一枚だけ羽織って鏡の前に立っていた。前ボタンは幾つか留められているが、シャツの裾はダランと投げ出され、その下にはズボンもスカートも履いていない。剥き出しの太ももがシャツの裾から伸びていた。
(こ、これは・・)
衝撃のシチュエーションが、胸元から下半身へとアドレナリンを分泌させる。アルプスの少女ハイジが欣喜雀躍し「フラグが立った!フラグが立った!」と喜び勇むのを、僕は必死に押し留めた。
「こいつは罠だぜ?」
「かも知れない」
「それでも行くのか?」
「男ってそういうもんだろ」
高倉健と池部良の『昭和残侠伝』みたいな会話を脳内で交わし、僕は身震いを覚えた。だが気を抜いてはいけない。こう易々とフラグが立った場合、大抵は死亡フラグである。
「なに珍しそうに見てるの?」
増田翔子は鏡越しに僕をチラリと一瞥した。
「あ、いや、別に・・」
「タダメシ食べたり、ビール飲んだり、好き勝手してごめんね?」
「ああ・・いえいえ、とんでもございません・・」
「それにしても、女詐欺師だなんてヒドイ言い草じゃないかしら?」
「全くおっしゃる通りです・・。どこのどいつでしょうね、そんな事ぬかした豚野郎は・・」
「豚と言うよりウンコね」
「え?ウンコ?・・ええ、もうホントに、最低のウンコ野郎です・・」
自虐発言に胸を痛めながら僕はイエスマンを演じ続けるのだった。その間も視線はソワソワと彷徨い、ワイシャツの裾から太ももが出現する魔の領域へと惹きつけられて行く。やがて増田翔子は身支度を終えて、僕の方を振り向いた。
正面から見る姿は更に危険だった。ワイシャツの第一ボタンと一番下のボタンが見事に外れている。狙いすましたような外れっぷりである。少しでも身動きすると、固定されていない部分の布がチラチラ揺れて、見えそうで見えない夢と魔法のファンタジーゾーンに魂が吸い寄せられるのだ。長年、着エロビデオで鍛錬を積んでいなかったら、今頃は犯罪者である。
「そういえばジュリアさんとケビンさんね、あとは自分達で何とかするから大丈夫だって言ってたわ」
「そ、そうなんだ?じゃあこのまま送り出してお別れだね」
「ええ。ちょっと腑に落ちないけどね。昨夜ケビンさんが言ってた未来の日本がどうのって話はさておき、本当にお金も無くて大丈夫なのかしら」
「それは・・」
僕は言いよどんだ。やはり増田翔子は、昨夜のケビンの話を信じていないのだ。当然と言えば当然ではある。しかしジュリアとケビンが未来人なのは間違いない。その上、彼らが秘密警察であり、サカキ・マナミの逮捕を目論んでいる事も、ほぼ確実と言っていいのだ。だからこそ両者の鉢合わせは回避せねばならない。もしジュリア達が出て行くと言うのなら、僕にとっては願ったり叶ったりである。
「・・本人達が大丈夫って言ってるんだから、大丈夫さ」
「そうかしら。まあいいけど」
そう言いながら、まだしっくり来ていない様子だった。僕は話題を切り替える事にした。むしろこちらの方が個人的には喫緊の課題なのだ。
「それよりさ、いま僕らって会社に遅刻してる状態だよね?もう11時近いし、このままだとマズイよね?会社に連絡を入れた方が・・」
「大丈夫。今朝、会社に連絡しといたから」
「おおっ!」
僕が泥のように眠りこけている間に、さっさと遅刻連絡を済ませていたらしい。期待を裏切らぬ事務処理能力、デキル女はやはり違う。自分で言うのも何だが、僕のような甲斐性なしには無くてはならない存在と言える。あと性格さえ良ければ嫁にしてやっても差し支えない。
「ふー助かったよ。やっぱり無断で遅刻するのはマズイもんね」
「ええ、今日は有給休暇をとるって言っておいたから」
「え?有給?僕は別に休む気は・・」
「私も有給休暇にしたから安心して」
増田翔子はニッコリ微笑んだ。何が「安心して」なのか分からない。ジュリア達を送り出したら、それで面倒事は終わりになる。サカキ・マナミの病状は心配だが、僕一人で対処できるだろう。もともとこれは僕とサカキ・マナミの問題だ。増田翔子に付き合ってもらう必要はない。
「わたし思ったんだけどね」
増田翔子は僕を無視して喋り始めた。
「この部屋、とても不潔じゃない?食器類もヒビの入ったお皿ばっかりだし、マナ板は黄ばんでるし、畳はダニっぽいし、カーテンは埃まみれだし、天井には蜘蛛の巣張ってるし、フスマは破れてるし、壁もひび割れてるし。ずっと住んでたら病気になりそうよ?あなた一人ならどうでもいいけど、妹さんが一緒だと、どうかと思うのよね」
「んーまあ、確かに・・」
「だからせっかく有給休暇で時間がある事だし、食器類を買い換えたり、カーテンを洗濯したり、壁紙を貼り替えたり、天井掃除をしたり、全面的に部屋の模様替えをしたらいいと思うの。どう?」
「ううむ・・でもちょっと面倒くさ・・」
「じゃあ決まりね。で、あなた一人でインテリア用品なんて選べないだろうから、私が一緒に買い物に付き合ってあげるね?」
増田翔子は一方的に宣言した。すがすがしいほど人の話に耳を貸さないワンマントークである。こんなワンマンな人間は『とくダネ!』の小倉智昭ぐらいしか思いつかない。中野美奈子が辟易するのも無理からぬ事だ。そして高島彩は一人で高笑い。
ここで普段の僕なら、否応なく彼女の言いなりになったろう。だが増田翔子と行動してロクな事が起きないのは昨日一日で実証済みなのだ。疫病神とは手を切らねばならない。今がその時である。僕は意を決し、反旗を翻した。
「いやあ、気持ちは嬉しいんだけど、買い物は一人で大丈夫だよ」
「・・ん?」
「全然一人で平気だから」
「・・本当に?」
「もちろん」
「へえ、そう。・・それにしても今日は暑いわねー」
増田翔子は脈絡もなく気だるそうな声を出して、ワイシャツの襟をパタパタ動かし始めた。第一ボタンが外れているので、胸元が大きく開いたり閉じたりする。その隙間から胸の谷間がチラチラと見えそうになるのだった。僕の目は魔法にかけられたように釘付けになった。
「ねえ、本当に一人で大丈夫?」(チラッ)
「あ・・うん・・」
「私が一緒に行ってあげた方がいいんじゃない?」(チラッチラッ)
「えー・・えーと・・」
「じゃあ、一緒に行こっか?」(チラッチラッチラッ)
「そ、そうだね・・」
僕が虚ろな目で呟くと、増田翔子はニンマリと微笑んだ。
「よし、じゃあ決まりね」
「ハッ!!」
悪い魔法が解けた僕は、唇の端に溜まっていた唾をズズッと飲み込んだが、後の祭りであった。奸計にはまった己の不甲斐なさを恥じ、がっくりうな垂れた。すると瞼の裏側に胸チラの残像が残っていたので、それはそれ、急いで長期記憶に保存し直した。
「さてと、グズグズしても仕方ないし、そろそろジュリアさん達を送り出しましょうよ。駅前まで送って行けば、後は彼らなりに何とかするんじゃないかしら。その後でお昼ご飯を食べましょうよ?」
「じゃあそんな感じで・・」
「それから──」
「あ、そうだ、出掛ける前に妹の様子を見てくるよ。風邪の具合が良くなってればいいんだけどなあ」
「もう大丈夫だと思う。一晩温かくして寝たんだし・・」
「でもさ、もしまだ具合が悪いようだったら、病院へ連れて行こうと思うんだ。市販の風邪薬じゃ限界があると思うし。その時は悪いけど、買い物は後回しね?」
「・・了解」
ぎこちない返事の後、妙な間が空いた。そして増田翔子はポツリと言った。
「・・妹さんには、優しいんだね」
「え?」
「何でも。先に準備して玄関で待ってるわね」
目を合わせず早足に去っていく彼女を、僕はポカンとして見送った。
閉め切られた畳部屋の襖を軽くノックした。サカキ・マナミの返事はなかった。まだ眠っているのかも知れない、と僕は考えた。深呼吸してゆっくりと襖を開けた。明かりの落ちた室内は薄い闇に覆われていた。ただ一箇所だけ、縦長の光が畳の上を走っていた。カーテンの隙間から光が洩れているのだ。その光の源を遡ると、窓辺にサカキ・マナミの姿があった。背中を丸めて畳の上に座り込んでいる。軽く立てた膝の上で指先を結び合わせ、瞳を閉じていた。
僕が入室した事に気づくと、彼女は目を見開き、ゆっくりと僕を振り返った。緩慢な動作には疲労の陰が刻まれていた。それでも僕と目を合わせると、はにかんだ笑顔を彼女は浮かべた。僕は痛々しさを感じ取りながら、静かに襖を閉め切った。
「起きてて大丈夫?まだ寝てた方が――」
「すっかり元気です。ほら、この通り」
握りこぶしを固めてガッツポーズを作って見せる。しかし自分でオカしかったのか、すぐに照れ笑いを浮かべた。僕もつられて口元をほころばせた。その遣り取りを合図に、シンとした薄闇を横切って、彼女の傍へと近付いた。僕は掌をそっと彼女の額へ押し当てた。
「あ・・」
「熱は下がったみたいだね」
「・・はい」
目を伏せて彼女は頷いた。その声は少し掠れていた。室内の暗さゆえ、顔色を窺い知る事は出来ない。だが熱に浮かされている様子もなく、口調はいたって平静に感じられた。身体的には回復したと見て間違いない。僕は胸のつかえがようやく降りた気がした。
ただし、気力が戻るにはもう少し時間を要するはずだった。彼女が空元気を演じたとしても、病み上がりの身に無理はさせられない。数日間は安静にさせて、その間は僕が世話を焼くのもやむを得ないだろう。柄にもなくそんな事を考えた。
だが、その数日を過ぎた後にこそ、本当の問題は待ち構えている。気力を取り戻した彼女は例の血生臭い目的と向き合う事になる。彼女が現代へ時間遡航した目的は、歴史改竄のためのテロ行為なのだ。とすれば話が振り出しに戻るだけだ。・・いや違う。もはや振り出しではない。彼女が恐れる秘密警察が目と鼻の先へ迫っているのだから。その事実をいま彼女に伝えるべきか?
ジュリアとケビン――秘密警察の二人は、もうじきこの部屋を出て行く。彼らが立ち去れば差し当たっての危険は回避される。いまサカキ・マナミにそれを知らせても、要らざる不安を煽るだけだ。ならば沈黙を守るのが望ましい。
僕は心中を気取られぬよう、畳の上に落ちた陽光を見つめた。淡い日差しの中で、古びた畳の目が一様にささくれ立っている。少し落ち着かない気持ちになり、次の言葉を捜した。先に口を開いたのはサカキ・マナミの方だった。
「彼らはもう、ここへ来ていたんですね。ケビンという名前でしたっけ?昨夜の彼の話、私もずっと聞いていました」
僕はハッと息を呑んだ。だが彼女は訥々と話し続けた。
「まさかこんな場所で彼らと遭遇するなんて思ってもみませんでした。彼らだって、襖一枚向こう側で私が寝ているとは思わなかったでしょうし。こんな事もあるんですね」
「・・申し訳ない。僕もケビンの話を聞くまで、まさか彼らが秘密警察だなんて想像もしなかったんだ。部屋まで連れて来たのは不注意だった・・」
僕はうなだれたが、彼女はゆっくりと首を振った。
「いえ、いいんです。いずれ遭遇せざるを得ないんです。時間制御装置を使って時間遡航すれば、放出されたエネルギーは時空上に一定期間、航跡を残すんです。先行者が残した航跡を辿れば、同じ時代の同じ場所へ時間遡航する事はとても容易な事なんです」
「彼らはキミが残したその”航跡”を辿ってこの時代へやって来たという事?」
「恐らくは。だから私がこの時代のこの場所に留まっている限り、いずれ彼らと遭遇する事は必然なんです」
「そうなのか・・」
時間遡航すると”足跡”のような物が残るらしい。そのため簡単に追跡されてしまうのだ。ならば、それを承知でサカキ・マナミが時間遡航を行ったのは、破滅的な賭けではないのか。追っ手に先んじて目的を遂行せねばならないし、運良く目的を達成してもいずれ逮捕は免れえない。彼女は最初から命を捨てる覚悟なのか・・。
悲壮な決意に胸が痛んだ。だが今置かれている状況は、彼女の賭けを不利に運ぼうとしている。
「キミがこの時代にやって来た目的は前にも聞かせてもらった。未来の日本で権力者となるノリ選手を歴史から”消し去る”積もりだと・・。でもそれを実行するには徒手空拳では不可能だ。ノリ選手のような有名人に近づくには、特殊な手段を用いるしかない。そこでキミは重力制御装置や時間制御装置を利用してノリ選手に近づこうと考えている・・この想像は正しい?」
「・・はい」
「しかしケビンの話によれば、彼らは重力エネルギー測定器という機械を持っている。キミが重力制御装置を作動させた途端、彼らはキミを捕えにやってくるだろう。それも瞬間移動に近いスピードで。ならば、どう足掻いてもキミの目的は――」
僕はそこで言葉を切った。それ以上の言葉は不要だった。黙って目を伏せた彼女に「キミの目的は確実に阻止される」と告げた所で、彼女自身よく分かっている事だろう。そしてこの状況は、ケビンたちがこの時代に留まる限り変わらない。
残酷な言い方をするなら、彼女は賭けに負けたのだ。
彼女の計算が狂った原因は僕にもある。線路に転落して電車に轢かれる寸前だった僕を彼女は助けてくれた。だがその代償として体力を消耗しこの二日間ほど寝込んでしまった。もしこのロスタイムが無ければ、早々に目的は達成されていたかも知れない。僕という間抜けな存在が彼女の足を引っ張ったのだ。
しかしだからこそ、彼女はまだ殺人を犯さずに済んでいる、とも言える。願わくばこのまま血塗られた道から引き返して欲しい。二十歳そこそこの女の子が歩むにはあまりに酷な生き方だ。僕はいたたまれない気持ちで口を開いた。
「キミがお父さんを救いたい気持ちは分かる。そのために歴史改竄を企てた事も重々承知してる。けど客観的に見てこの状況で動いたらダメって事も確かなんだ。だから・・」
彼女は黙り込んだまま答えない。僕とてこの状況を受け入れさせるのは辛い。受け入れた所で彼女の抱える問題は何も解決しない。それどころか重力制御装置が使えなければ、未来社会へ戻る事さえ出来なくなる。目的を失ったこの現代の日本で、秘密警察に怯えながら生き続けるしか選択肢がないのだ。これほど残酷な仕打ちがあるだろうか。
僕はひどく腹立たしかった。彼女が背負う運命にも腹が立つし、彼女に何もしてあげられない自分にも腹が立った。不甲斐ない自分を蹴飛ばしてやりたかった。僕は強い気持ちに突き上げられて言った。
「よし分かった。これからケビン達を送り出して来る。しばらくしたら戻るから、その後でゆっくりご飯でも食べよう。食欲はある?」
「・・あ、はい」
「オーケー。空腹のままじゃ頭が回らないからまずは胃袋を満たそう。そしたらじっくり腰を落ち着けて考えよう。どんな問題だってきっと解決方法があるはずだ」
「・・はい」
「それに時間はいくらでもある。明日だって明後日だって僕はずっと考えるし、1週間でも1ヶ月でも1年でも、解決方法が見つかるまで、ずっと考え続けたらいいんだ」
サカキ・マナミはきょとんとした顔を浮かべた。
「1ヶ月でも・・1年でも?」
「そう。だからその間、キミはずっとここに居てくれればいい。心配しなくていい。生活費ならキミ一人分ぐらい増えたって困りはしない。会社では窓際族だけど、やりくりすれば二人で暮らせる位の給料はある」
「でも、私は・・」
「このアパートは古くて汚いから、もっと綺麗なマンションに引っ越そうか?オートロック付きの方が安心だし。できればこんな田舎じゃなくて、名古屋市内に住もう。未来の日本には負けるかも知れないけど面白い場所は一杯あるんだ。きっと気に入るよ。ああ勿論、炊事洗濯は僕がやる積もりだけど、たまにお弁当を作って貰えたら嬉しいな。そこは応相談という事で。それと・・」
僕は取り留めもなく喋り続けた。重苦しい現実に対して解決にならない事は分かっている。ただ彼女には、自分は決して孤独ではない、と思って欲しかった。彼女がこのまま目的を失い、帰る場所を失っても、僕が彼女の居場所を用意する。僕がいま出来る事はこれぐらいしか無い。だからこそ、本気だった。
最初は呆気に取られていたサカキ・マナミは、僕が喋り続ける内に、少しずつ穏やかな表情を取り戻して行った。目を細め、困ったように微笑みながら、じっと耳を傾ける。一方的に喋っている僕は滑稽に映ったかも知れない。しかし彼女に明るさが戻るなら、それで構わないと思った。
「それから・・えーと・・」
あてもなく喋り続ける内に、筋道のない話は方向を見失って、僕は言葉を詰まらせた。あたふたと考えあぐね、仕方なく苦笑いを浮かべる。サカキ・マナミも口元をほころばせた。
次の瞬間、その笑顔に寂しげな陰がよぎった。沈黙の隙間をぬって彼女の両手はふわりと僕の右手を握りしめた。突然の出来事に僕は再度、言葉を詰まらせた。掌からは暖かな温もりが直に伝わって来る。彼女は僕の瞳を覗き込んで、そっと囁いた。
「ありがとう」
彼女の瞳は不思議な光を宿していた。微笑んでいるのに、泣いているようにも見える。得体の知れぬ力に魅入られて、僕は身動き出来なかった。気付けば彼女の手は僕から離れ、変わらぬ微笑だけが僕に向けられていた。その微笑みは嵐が過ぎた後の凪に似ていたが、次に来る嵐をなぜか予感せずにはいられなかった。
僕はおもむろに踵を返した。そろそろ行かなければいけない。掌に残る彼女の温もりがどこか夢のように感じられた。――すぐに消え去ってしまう儚い夢のように。
「行ってらっしゃい」
僕を送り出す彼女の声は穏やかで、曇り無く透き通っていた。
僕が入室した事に気づくと、彼女は目を見開き、ゆっくりと僕を振り返った。緩慢な動作には疲労の陰が刻まれていた。それでも僕と目を合わせると、はにかんだ笑顔を彼女は浮かべた。僕は痛々しさを感じ取りながら、静かに襖を閉め切った。
「起きてて大丈夫?まだ寝てた方が――」
「すっかり元気です。ほら、この通り」
握りこぶしを固めてガッツポーズを作って見せる。しかし自分でオカしかったのか、すぐに照れ笑いを浮かべた。僕もつられて口元をほころばせた。その遣り取りを合図に、シンとした薄闇を横切って、彼女の傍へと近付いた。僕は掌をそっと彼女の額へ押し当てた。
「あ・・」
「熱は下がったみたいだね」
「・・はい」
目を伏せて彼女は頷いた。その声は少し掠れていた。室内の暗さゆえ、顔色を窺い知る事は出来ない。だが熱に浮かされている様子もなく、口調はいたって平静に感じられた。身体的には回復したと見て間違いない。僕は胸のつかえがようやく降りた気がした。
ただし、気力が戻るにはもう少し時間を要するはずだった。彼女が空元気を演じたとしても、病み上がりの身に無理はさせられない。数日間は安静にさせて、その間は僕が世話を焼くのもやむを得ないだろう。柄にもなくそんな事を考えた。
だが、その数日を過ぎた後にこそ、本当の問題は待ち構えている。気力を取り戻した彼女は例の血生臭い目的と向き合う事になる。彼女が現代へ時間遡航した目的は、歴史改竄のためのテロ行為なのだ。とすれば話が振り出しに戻るだけだ。・・いや違う。もはや振り出しではない。彼女が恐れる秘密警察が目と鼻の先へ迫っているのだから。その事実をいま彼女に伝えるべきか?
ジュリアとケビン――秘密警察の二人は、もうじきこの部屋を出て行く。彼らが立ち去れば差し当たっての危険は回避される。いまサカキ・マナミにそれを知らせても、要らざる不安を煽るだけだ。ならば沈黙を守るのが望ましい。
僕は心中を気取られぬよう、畳の上に落ちた陽光を見つめた。淡い日差しの中で、古びた畳の目が一様にささくれ立っている。少し落ち着かない気持ちになり、次の言葉を捜した。先に口を開いたのはサカキ・マナミの方だった。
「彼らはもう、ここへ来ていたんですね。ケビンという名前でしたっけ?昨夜の彼の話、私もずっと聞いていました」
僕はハッと息を呑んだ。だが彼女は訥々と話し続けた。
「まさかこんな場所で彼らと遭遇するなんて思ってもみませんでした。彼らだって、襖一枚向こう側で私が寝ているとは思わなかったでしょうし。こんな事もあるんですね」
「・・申し訳ない。僕もケビンの話を聞くまで、まさか彼らが秘密警察だなんて想像もしなかったんだ。部屋まで連れて来たのは不注意だった・・」
僕はうなだれたが、彼女はゆっくりと首を振った。
「いえ、いいんです。いずれ遭遇せざるを得ないんです。時間制御装置を使って時間遡航すれば、放出されたエネルギーは時空上に一定期間、航跡を残すんです。先行者が残した航跡を辿れば、同じ時代の同じ場所へ時間遡航する事はとても容易な事なんです」
「彼らはキミが残したその”航跡”を辿ってこの時代へやって来たという事?」
「恐らくは。だから私がこの時代のこの場所に留まっている限り、いずれ彼らと遭遇する事は必然なんです」
「そうなのか・・」
時間遡航すると”足跡”のような物が残るらしい。そのため簡単に追跡されてしまうのだ。ならば、それを承知でサカキ・マナミが時間遡航を行ったのは、破滅的な賭けではないのか。追っ手に先んじて目的を遂行せねばならないし、運良く目的を達成してもいずれ逮捕は免れえない。彼女は最初から命を捨てる覚悟なのか・・。
悲壮な決意に胸が痛んだ。だが今置かれている状況は、彼女の賭けを不利に運ぼうとしている。
「キミがこの時代にやって来た目的は前にも聞かせてもらった。未来の日本で権力者となるノリ選手を歴史から”消し去る”積もりだと・・。でもそれを実行するには徒手空拳では不可能だ。ノリ選手のような有名人に近づくには、特殊な手段を用いるしかない。そこでキミは重力制御装置や時間制御装置を利用してノリ選手に近づこうと考えている・・この想像は正しい?」
「・・はい」
「しかしケビンの話によれば、彼らは重力エネルギー測定器という機械を持っている。キミが重力制御装置を作動させた途端、彼らはキミを捕えにやってくるだろう。それも瞬間移動に近いスピードで。ならば、どう足掻いてもキミの目的は――」
僕はそこで言葉を切った。それ以上の言葉は不要だった。黙って目を伏せた彼女に「キミの目的は確実に阻止される」と告げた所で、彼女自身よく分かっている事だろう。そしてこの状況は、ケビンたちがこの時代に留まる限り変わらない。
残酷な言い方をするなら、彼女は賭けに負けたのだ。
彼女の計算が狂った原因は僕にもある。線路に転落して電車に轢かれる寸前だった僕を彼女は助けてくれた。だがその代償として体力を消耗しこの二日間ほど寝込んでしまった。もしこのロスタイムが無ければ、早々に目的は達成されていたかも知れない。僕という間抜けな存在が彼女の足を引っ張ったのだ。
しかしだからこそ、彼女はまだ殺人を犯さずに済んでいる、とも言える。願わくばこのまま血塗られた道から引き返して欲しい。二十歳そこそこの女の子が歩むにはあまりに酷な生き方だ。僕はいたたまれない気持ちで口を開いた。
「キミがお父さんを救いたい気持ちは分かる。そのために歴史改竄を企てた事も重々承知してる。けど客観的に見てこの状況で動いたらダメって事も確かなんだ。だから・・」
彼女は黙り込んだまま答えない。僕とてこの状況を受け入れさせるのは辛い。受け入れた所で彼女の抱える問題は何も解決しない。それどころか重力制御装置が使えなければ、未来社会へ戻る事さえ出来なくなる。目的を失ったこの現代の日本で、秘密警察に怯えながら生き続けるしか選択肢がないのだ。これほど残酷な仕打ちがあるだろうか。
僕はひどく腹立たしかった。彼女が背負う運命にも腹が立つし、彼女に何もしてあげられない自分にも腹が立った。不甲斐ない自分を蹴飛ばしてやりたかった。僕は強い気持ちに突き上げられて言った。
「よし分かった。これからケビン達を送り出して来る。しばらくしたら戻るから、その後でゆっくりご飯でも食べよう。食欲はある?」
「・・あ、はい」
「オーケー。空腹のままじゃ頭が回らないからまずは胃袋を満たそう。そしたらじっくり腰を落ち着けて考えよう。どんな問題だってきっと解決方法があるはずだ」
「・・はい」
「それに時間はいくらでもある。明日だって明後日だって僕はずっと考えるし、1週間でも1ヶ月でも1年でも、解決方法が見つかるまで、ずっと考え続けたらいいんだ」
サカキ・マナミはきょとんとした顔を浮かべた。
「1ヶ月でも・・1年でも?」
「そう。だからその間、キミはずっとここに居てくれればいい。心配しなくていい。生活費ならキミ一人分ぐらい増えたって困りはしない。会社では窓際族だけど、やりくりすれば二人で暮らせる位の給料はある」
「でも、私は・・」
「このアパートは古くて汚いから、もっと綺麗なマンションに引っ越そうか?オートロック付きの方が安心だし。できればこんな田舎じゃなくて、名古屋市内に住もう。未来の日本には負けるかも知れないけど面白い場所は一杯あるんだ。きっと気に入るよ。ああ勿論、炊事洗濯は僕がやる積もりだけど、たまにお弁当を作って貰えたら嬉しいな。そこは応相談という事で。それと・・」
僕は取り留めもなく喋り続けた。重苦しい現実に対して解決にならない事は分かっている。ただ彼女には、自分は決して孤独ではない、と思って欲しかった。彼女がこのまま目的を失い、帰る場所を失っても、僕が彼女の居場所を用意する。僕がいま出来る事はこれぐらいしか無い。だからこそ、本気だった。
最初は呆気に取られていたサカキ・マナミは、僕が喋り続ける内に、少しずつ穏やかな表情を取り戻して行った。目を細め、困ったように微笑みながら、じっと耳を傾ける。一方的に喋っている僕は滑稽に映ったかも知れない。しかし彼女に明るさが戻るなら、それで構わないと思った。
「それから・・えーと・・」
あてもなく喋り続ける内に、筋道のない話は方向を見失って、僕は言葉を詰まらせた。あたふたと考えあぐね、仕方なく苦笑いを浮かべる。サカキ・マナミも口元をほころばせた。
次の瞬間、その笑顔に寂しげな陰がよぎった。沈黙の隙間をぬって彼女の両手はふわりと僕の右手を握りしめた。突然の出来事に僕は再度、言葉を詰まらせた。掌からは暖かな温もりが直に伝わって来る。彼女は僕の瞳を覗き込んで、そっと囁いた。
「ありがとう」
彼女の瞳は不思議な光を宿していた。微笑んでいるのに、泣いているようにも見える。得体の知れぬ力に魅入られて、僕は身動き出来なかった。気付けば彼女の手は僕から離れ、変わらぬ微笑だけが僕に向けられていた。その微笑みは嵐が過ぎた後の凪に似ていたが、次に来る嵐をなぜか予感せずにはいられなかった。
僕はおもむろに踵を返した。そろそろ行かなければいけない。掌に残る彼女の温もりがどこか夢のように感じられた。――すぐに消え去ってしまう儚い夢のように。
「行ってらっしゃい」
僕を送り出す彼女の声は穏やかで、曇り無く透き通っていた。
薄い雲が垂れ込める田舎道を、僕たち四人はさしたる会話もなく歩いた。
点在する人家を除けば、見渡す限り田んぼと畑だけの殺風景が延々続く。増田翔子は遠くにそびえる鉄塔やカラフルな建物を見つけては「あれは何?」と僕に尋ねた。地元民とはいえ近所をまるで出歩かない僕に答えられる筈もなく、九割九分は生返事を返さざるを得ない。すると「あっそ」と増田翔子は受け流し、別の対象へと興味を移すだけだった。
ジュリアとケビンも時々言葉を交わしたが、その会話も二言三言で途切れた。薄曇りの下をそぞろに歩く僕たち四人は、めいめいの思惑に流されているようだった。そして駅前の繁華街が視界に入った時、僕はふと遥か後方を振り返った。
距離が隔たったとは言え、見通しの良い殺風景のどん詰まりには、僕の住むアパートがまだ目視できる。道半ばまで歩いて来たというのに、気がかりな思いが消えなかった。
あの時、サカキ・マナミが「ありがとう」と告げたのは何故だろう?僕が勢いに任せて喋った言葉を理解し、受け入れてくれたのだろうか?だとすれば気がかりなど無い筈だ。彼女は危険な目的を放棄し、別の道を探す気になったという事だから。
だがあの時、僕を見つめた瞳には二律背反の光が宿っていた。今になって気になり始めている。彼女が本当に下した結論は何だったのか?
「何か忘れ物?」
増田翔子が不思議そうに訊ねた。後ろを振り返っていた僕は、小さく首を振る。
「何でもないよ」
「マナミちゃんの事が気になるの?もう風邪は治ってたんでしょう?」
「熱は下がってた。もう二三日は様子を見た方がいいけど」
「シスコンね」
「違うって」
にべもない断定に僕はムッと言い返した。真実を打ち明ける訳にも行かないが、サカキ・マナミは本当は妹ではない。だが仮に妹であろうと、病人を心配するのは当然の事だ。昨日は増田翔子だって散々世話を焼いていたではないか。今日になって突っかかられるのは納得が行かない。
「本当、可愛くて出来のいい妹さんだもの。溺愛する気持ちも分かるわ。私だってあんな子が妹なら抱きしめたくなるもの」
「え?増田さんにそんな性癖が・・ウグゥ」
増田翔子の回し蹴りが太ももの裏にヒットした。地味にダメージが残る攻撃方法には執念深い悪意を感じる。本気で僕を弱らそうとしている証かも知れない。
「馬鹿ね。可愛いからこそ自分がしっかりしなきゃいけないって言ってるの」
「そんな事分かってる」
「あの妹さんなら黙ってても男性が寄って来るから、すぐ彼氏が出来るでしょうね。そしたらあなたみたいなショボクレた兄貴はあっさり捨てられるわよ」
「いやだから、分かってるって・・」
「その光景がアリアリと目に浮かぶわ。ああ可哀想。ああ悲惨。妹に見捨てられ、身寄りのない独身一人暮らし。会社では相変わらず窓際族。朝夕に野良猫と目が合うのが唯一のコミュニケーション。休日はアパートに引きこもりっぱなし。ニコニコ動画と2chだけが生き甲斐。たまに外出すれば道行く若い女の子を視姦。近隣住民からは犯罪者予備軍扱い。地元警察が頻繁にアパートを巡回警戒。・・ねえ、もっと外に目を向けた方がいいんじゃないの?彼女の一人でも作るように努力したら?」
「うぅ・・余計なお世話」
「あっそ」
増田翔子は「余計なお世話、ね」と投げやりに呟き、路上の石ころを蹴飛ばした。石ころは地面すれすれを飛び跳ねて田んぼの中へ落ちて行った。乾いた音がカランと鳴った。
突然、それとは別種の電子音がけたたましく鳴り響いた。ほんの五秒ほどで鳴り止む。
僕と増田翔子は互いの顔を見つめたが、もちろん何の音だが分からない。
するとケビンが服の内ポケットから携帯電話に似た機械を取り出した。それは昨夜、彼が酔っ払いながら見せつけた「重力エネルギー測定器」に他ならなかった。険しい顔をしたジュリアがその機器を覗き込み、ケビンに一言二言耳打ちする。
間髪容れず増田翔子が食いつく。
「あら?それって昨夜ケビンさんが見せてくれた機械よね?確か、重力エネルギーを測定する機械って聞いたけど、今の音はそれ?もしかして何か機械に反応があったの?」
直接的な質問を受けて、ケビンは気まずそうな顔をした。ジュリアも困ったような表情を浮かべ、アイコンタクトでケビンを促す。ケビンはおずおずと口を開いた。
「えー、お察しの通り、今の音はこの機械が出したものだけど、別に重力エネルギーとかではなくて、単なる無線電波の・・」
「どれどれ?」
ケビンの説明を差し置いて、増田翔子は機械を覗き込んだ。僕もそれとなく身を乗り出す。機械には『35°??′N』『136°??′E』『Not reached』とだけ表示されていた。どういう意味だろうか。
「北緯35度、東経136度、各々の分数は不明、位置を正確には特定できなかった、という感じね」
何の迷いもなく増田翔子は言い放った。ケビンとジュリアは驚きの表情で増田翔子を見つめた。恐らくその読み方で正しいのだろう。恐るべき直観力である。
「そんなに驚く事はないと思うけど。カーナビでよく見かける表示だし。ちなみにこの緯度経度って、名古屋市近辺よね。この辺りも含まれると思うけど。その付近で何かが反応したという事?」
「え?そ、その通り。えっと・・この付近なのは間違いないけど、反応がすぐに消えて位置特定には至らなかったというか。ああ勿論、重力エネルギーとかじゃなくてね・・」
いちいち的確に言い当てる増田翔子に、ケビンは必死の誤魔化しを続ける。堅固な論理ほど怖いものはない。事実の積み重ねだけで増田翔子は真相に迫っているのだ。何でもズケズケ放言する上にピンポイントで的を射てしまう所に増田翔子の恐ろしさがある。つくづく敵に回したくない存在である。
だが、ひとえに感心ばかりもしていられない。
重力エネルギー測定器が反応したという事は、サカキ・マナミが重力制御装置を作動させたという事だ。恐らく作動時間が短かったために、位置までは特定されずに済んだのだろう。
しかし慎重な彼女が、一時の思いつきや手違いで重力制御装置を動かしたとも思えない。それがどれだけ危険な事態を引き起こすか、よく理解している筈だ。ならば「確信的に」動かしたと考える方が理に適っている。何のために?
僕は酷い胸騒ぎを覚えた。彼女の「ありがとう」という言葉の意味・・。
「・・ちょっとごめん、忘れ物を思い出した」
「え?忘れ物?何を?」
増田翔子の問いに僕は答えなかった。黙ってその場に立ち止まり、今来た道を振り返る。曇り空の下に建つアパートを遠くに望み、胸騒ぎが大きくなった。
駆け出す僕に増田翔子が何か叫んだが、もはや僕の耳には入らなかった。
点在する人家を除けば、見渡す限り田んぼと畑だけの殺風景が延々続く。増田翔子は遠くにそびえる鉄塔やカラフルな建物を見つけては「あれは何?」と僕に尋ねた。地元民とはいえ近所をまるで出歩かない僕に答えられる筈もなく、九割九分は生返事を返さざるを得ない。すると「あっそ」と増田翔子は受け流し、別の対象へと興味を移すだけだった。
ジュリアとケビンも時々言葉を交わしたが、その会話も二言三言で途切れた。薄曇りの下をそぞろに歩く僕たち四人は、めいめいの思惑に流されているようだった。そして駅前の繁華街が視界に入った時、僕はふと遥か後方を振り返った。
距離が隔たったとは言え、見通しの良い殺風景のどん詰まりには、僕の住むアパートがまだ目視できる。道半ばまで歩いて来たというのに、気がかりな思いが消えなかった。
あの時、サカキ・マナミが「ありがとう」と告げたのは何故だろう?僕が勢いに任せて喋った言葉を理解し、受け入れてくれたのだろうか?だとすれば気がかりなど無い筈だ。彼女は危険な目的を放棄し、別の道を探す気になったという事だから。
だがあの時、僕を見つめた瞳には二律背反の光が宿っていた。今になって気になり始めている。彼女が本当に下した結論は何だったのか?
「何か忘れ物?」
増田翔子が不思議そうに訊ねた。後ろを振り返っていた僕は、小さく首を振る。
「何でもないよ」
「マナミちゃんの事が気になるの?もう風邪は治ってたんでしょう?」
「熱は下がってた。もう二三日は様子を見た方がいいけど」
「シスコンね」
「違うって」
にべもない断定に僕はムッと言い返した。真実を打ち明ける訳にも行かないが、サカキ・マナミは本当は妹ではない。だが仮に妹であろうと、病人を心配するのは当然の事だ。昨日は増田翔子だって散々世話を焼いていたではないか。今日になって突っかかられるのは納得が行かない。
「本当、可愛くて出来のいい妹さんだもの。溺愛する気持ちも分かるわ。私だってあんな子が妹なら抱きしめたくなるもの」
「え?増田さんにそんな性癖が・・ウグゥ」
増田翔子の回し蹴りが太ももの裏にヒットした。地味にダメージが残る攻撃方法には執念深い悪意を感じる。本気で僕を弱らそうとしている証かも知れない。
「馬鹿ね。可愛いからこそ自分がしっかりしなきゃいけないって言ってるの」
「そんな事分かってる」
「あの妹さんなら黙ってても男性が寄って来るから、すぐ彼氏が出来るでしょうね。そしたらあなたみたいなショボクレた兄貴はあっさり捨てられるわよ」
「いやだから、分かってるって・・」
「その光景がアリアリと目に浮かぶわ。ああ可哀想。ああ悲惨。妹に見捨てられ、身寄りのない独身一人暮らし。会社では相変わらず窓際族。朝夕に野良猫と目が合うのが唯一のコミュニケーション。休日はアパートに引きこもりっぱなし。ニコニコ動画と2chだけが生き甲斐。たまに外出すれば道行く若い女の子を視姦。近隣住民からは犯罪者予備軍扱い。地元警察が頻繁にアパートを巡回警戒。・・ねえ、もっと外に目を向けた方がいいんじゃないの?彼女の一人でも作るように努力したら?」
「うぅ・・余計なお世話」
「あっそ」
増田翔子は「余計なお世話、ね」と投げやりに呟き、路上の石ころを蹴飛ばした。石ころは地面すれすれを飛び跳ねて田んぼの中へ落ちて行った。乾いた音がカランと鳴った。
突然、それとは別種の電子音がけたたましく鳴り響いた。ほんの五秒ほどで鳴り止む。
僕と増田翔子は互いの顔を見つめたが、もちろん何の音だが分からない。
するとケビンが服の内ポケットから携帯電話に似た機械を取り出した。それは昨夜、彼が酔っ払いながら見せつけた「重力エネルギー測定器」に他ならなかった。険しい顔をしたジュリアがその機器を覗き込み、ケビンに一言二言耳打ちする。
間髪容れず増田翔子が食いつく。
「あら?それって昨夜ケビンさんが見せてくれた機械よね?確か、重力エネルギーを測定する機械って聞いたけど、今の音はそれ?もしかして何か機械に反応があったの?」
直接的な質問を受けて、ケビンは気まずそうな顔をした。ジュリアも困ったような表情を浮かべ、アイコンタクトでケビンを促す。ケビンはおずおずと口を開いた。
「えー、お察しの通り、今の音はこの機械が出したものだけど、別に重力エネルギーとかではなくて、単なる無線電波の・・」
「どれどれ?」
ケビンの説明を差し置いて、増田翔子は機械を覗き込んだ。僕もそれとなく身を乗り出す。機械には『35°??′N』『136°??′E』『Not reached』とだけ表示されていた。どういう意味だろうか。
「北緯35度、東経136度、各々の分数は不明、位置を正確には特定できなかった、という感じね」
何の迷いもなく増田翔子は言い放った。ケビンとジュリアは驚きの表情で増田翔子を見つめた。恐らくその読み方で正しいのだろう。恐るべき直観力である。
「そんなに驚く事はないと思うけど。カーナビでよく見かける表示だし。ちなみにこの緯度経度って、名古屋市近辺よね。この辺りも含まれると思うけど。その付近で何かが反応したという事?」
「え?そ、その通り。えっと・・この付近なのは間違いないけど、反応がすぐに消えて位置特定には至らなかったというか。ああ勿論、重力エネルギーとかじゃなくてね・・」
いちいち的確に言い当てる増田翔子に、ケビンは必死の誤魔化しを続ける。堅固な論理ほど怖いものはない。事実の積み重ねだけで増田翔子は真相に迫っているのだ。何でもズケズケ放言する上にピンポイントで的を射てしまう所に増田翔子の恐ろしさがある。つくづく敵に回したくない存在である。
だが、ひとえに感心ばかりもしていられない。
重力エネルギー測定器が反応したという事は、サカキ・マナミが重力制御装置を作動させたという事だ。恐らく作動時間が短かったために、位置までは特定されずに済んだのだろう。
しかし慎重な彼女が、一時の思いつきや手違いで重力制御装置を動かしたとも思えない。それがどれだけ危険な事態を引き起こすか、よく理解している筈だ。ならば「確信的に」動かしたと考える方が理に適っている。何のために?
僕は酷い胸騒ぎを覚えた。彼女の「ありがとう」という言葉の意味・・。
「・・ちょっとごめん、忘れ物を思い出した」
「え?忘れ物?何を?」
増田翔子の問いに僕は答えなかった。黙ってその場に立ち止まり、今来た道を振り返る。曇り空の下に建つアパートを遠くに望み、胸騒ぎが大きくなった。
駆け出す僕に増田翔子が何か叫んだが、もはや僕の耳には入らなかった。
アパートの階段を駆け上がり玄関ドアを乱暴に開けた。
息を切らして靴を脱ぎ捨て、台所を早足で通り抜ける。畳部屋の前に立つと人の気配が感じられなかった。まさか。僕は勢い任せに襖を開けた。
部屋の真ん中にサカキ・マナミが立っていた。左右の腕を交差させTシャツを首の辺りまでたくし上げている。どう見ても着替えの最中だった。
「あっ!ごめん!」
僕は咄嗟に回れ右をして彼女に背を向けた。すぐに部屋を出ようとしたが、あえてそれを止めた。助平心からではない。
「忘れ物ですか?すぐ着替え終わるので、ちょっと待っていてもらえますか?」
冷静に話すサカキ・マナミは不自然だった。着替え中に闖入者が現れれば、もっと慌てるなり不快感を示すなり、もしくは恥ずかしがるなり、相応のリアクションがある筈だ。まるで僕の存在など一個のオブジェに過ぎないごとく、話しかける言葉にも感情が籠もっていない。つい数分前に交わした感情の昂ぶりとは相容れない態度だった。
それは僕の悪い予感と呼応しているように思えた。黙って見過ごす訳には行かない。
「・・こんな状況だけど、一つ訊いてもいいかな?」
「どうぞ」
背中越しに即答が返ってきた。あくまで落ち着き払っている。意図的に感情をシャットアウトされている気がした。
「失礼な話だけど、さっき、Tシャツの下に着てるものがチラと見えた」
「気にしてません」
「ありがとう。でも僕は気になるんだ。Tシャツの下にキミが着込んでたのは重力制御装置だよね?」
「・・そうです」
付け入る隙を押し戻そうとする、毅然とした口調だった。しかし否定しないのなら、僕も引き下がる積もりはない。
「つい数分前の事だけど、ケビンの重力エネルギー測定器が反応を示した。キミが使ったのを検知されたんだ。幸い短時間だったため、居場所は特定されていない」
「動作確認をしただけです。数秒の起動なら、彼らも正確に検知できないと予想していました」
「動作確認?何のために?」
「2065年の日本へ帰るためです」
寝耳に水だった。僕はてっきり、彼女がノリ選手を”抹消”するための行動に出る、と考えていた。悪い予想は外れた。一応、喜ぶべき事ではある。だが2065年へ帰るために重力制御装置を稼働させれば、やはりケビンたちに見つかる事は免れない。これも等しく無謀な行為なのだ。
「どうしてそんな事を?危険なのは分かってるはずじゃ?」
「承知の上です。でも、ずっとここに居る事は出来ないんです」
「何故?」
サカキ・マナミは答えない。
「キミがずっとここに居ても僕は迷惑じゃない。そりゃ僕みたいな奴との同居は願い下げかも知れないけど、それなら安い部屋を二つ借りて別々に住むとか、増田さんに話を打ち明けてキミを住まわせてもらうとか、やりようは幾らでもあるんだ。キミの意志は尊重するよ。だから性急な考えは・・」
「もう、止めて下さい!」
抑えていた感情を爆発させてサカキ・マナミは怒鳴った。突然の変化に僕は呆気に取られた。彼女は申し訳なさそうに小声で言い直した。
「・・ごめんなさい。でも、もう、私に親切にしないで下さい」
「迷惑・・なのか?」
彼女は横に首を振った。違うらしい。迷惑でないと言うなら一体何なのか?僕にはさっぱり彼女の思惑が飲み込めない。
「嬉しいです。すごく。とても。・・でも、だからこそ、あなたのような人にこれ以上ご迷惑をお掛けする訳には行かないんです」
「・・」
「あなたのように優しい人は、私がどんな目に遭ってもきっと助けてくれると思います。私が逃亡生活を始めてから出会った中で、あなたぐらい優しい人はいませんでした。出来ればずっと近くに居て欲しいです。心からそう思います」
「それなら・・」
サカキ・マナミは再び首を横に振った。
「私がこの時代に居続ける限り、あなたは私を助けようとする。それは詰まり、あなたまで命を失いかねない、という事です」
「でも僕は・・」
「あなただけじゃない。私の行動がこの時代の人々に対して影響を及ぼし、不幸にするかも知れない」
「・・」
「私は最初、それでも構わないと思っていました。目的の為なら少しぐらいの犠牲はやむを得ないのだと。・・でも、あなたと知り合って、それがどれだけ身勝手な考えかという事に、今更ながら気付かされたんです。私一人の都合で、あなたのように罪もない優しい人間を、歴史改竄の巻き添えにしてはいけない」
訥々と心の内を吐き出すような喋り方だった。彼女がそこまで僕に信頼を寄せていた事は驚きでもあった。説得を試みたのも無駄ではなかったのだ。ただその結論は、僕の望む方向には向かなかった――。
「これは私が生まれた時代の問題です。2065年へ戻り、そこで決着を付けます」
ブン、という起動音が聞こえた。僕は慌てて後ろを振り返った。サカキ・マナミの服が風に煽られたように揺れていた。重力制御装置を起動したのだ。
息を切らして靴を脱ぎ捨て、台所を早足で通り抜ける。畳部屋の前に立つと人の気配が感じられなかった。まさか。僕は勢い任せに襖を開けた。
部屋の真ん中にサカキ・マナミが立っていた。左右の腕を交差させTシャツを首の辺りまでたくし上げている。どう見ても着替えの最中だった。
「あっ!ごめん!」
僕は咄嗟に回れ右をして彼女に背を向けた。すぐに部屋を出ようとしたが、あえてそれを止めた。助平心からではない。
「忘れ物ですか?すぐ着替え終わるので、ちょっと待っていてもらえますか?」
冷静に話すサカキ・マナミは不自然だった。着替え中に闖入者が現れれば、もっと慌てるなり不快感を示すなり、もしくは恥ずかしがるなり、相応のリアクションがある筈だ。まるで僕の存在など一個のオブジェに過ぎないごとく、話しかける言葉にも感情が籠もっていない。つい数分前に交わした感情の昂ぶりとは相容れない態度だった。
それは僕の悪い予感と呼応しているように思えた。黙って見過ごす訳には行かない。
「・・こんな状況だけど、一つ訊いてもいいかな?」
「どうぞ」
背中越しに即答が返ってきた。あくまで落ち着き払っている。意図的に感情をシャットアウトされている気がした。
「失礼な話だけど、さっき、Tシャツの下に着てるものがチラと見えた」
「気にしてません」
「ありがとう。でも僕は気になるんだ。Tシャツの下にキミが着込んでたのは重力制御装置だよね?」
「・・そうです」
付け入る隙を押し戻そうとする、毅然とした口調だった。しかし否定しないのなら、僕も引き下がる積もりはない。
「つい数分前の事だけど、ケビンの重力エネルギー測定器が反応を示した。キミが使ったのを検知されたんだ。幸い短時間だったため、居場所は特定されていない」
「動作確認をしただけです。数秒の起動なら、彼らも正確に検知できないと予想していました」
「動作確認?何のために?」
「2065年の日本へ帰るためです」
寝耳に水だった。僕はてっきり、彼女がノリ選手を”抹消”するための行動に出る、と考えていた。悪い予想は外れた。一応、喜ぶべき事ではある。だが2065年へ帰るために重力制御装置を稼働させれば、やはりケビンたちに見つかる事は免れない。これも等しく無謀な行為なのだ。
「どうしてそんな事を?危険なのは分かってるはずじゃ?」
「承知の上です。でも、ずっとここに居る事は出来ないんです」
「何故?」
サカキ・マナミは答えない。
「キミがずっとここに居ても僕は迷惑じゃない。そりゃ僕みたいな奴との同居は願い下げかも知れないけど、それなら安い部屋を二つ借りて別々に住むとか、増田さんに話を打ち明けてキミを住まわせてもらうとか、やりようは幾らでもあるんだ。キミの意志は尊重するよ。だから性急な考えは・・」
「もう、止めて下さい!」
抑えていた感情を爆発させてサカキ・マナミは怒鳴った。突然の変化に僕は呆気に取られた。彼女は申し訳なさそうに小声で言い直した。
「・・ごめんなさい。でも、もう、私に親切にしないで下さい」
「迷惑・・なのか?」
彼女は横に首を振った。違うらしい。迷惑でないと言うなら一体何なのか?僕にはさっぱり彼女の思惑が飲み込めない。
「嬉しいです。すごく。とても。・・でも、だからこそ、あなたのような人にこれ以上ご迷惑をお掛けする訳には行かないんです」
「・・」
「あなたのように優しい人は、私がどんな目に遭ってもきっと助けてくれると思います。私が逃亡生活を始めてから出会った中で、あなたぐらい優しい人はいませんでした。出来ればずっと近くに居て欲しいです。心からそう思います」
「それなら・・」
サカキ・マナミは再び首を横に振った。
「私がこの時代に居続ける限り、あなたは私を助けようとする。それは詰まり、あなたまで命を失いかねない、という事です」
「でも僕は・・」
「あなただけじゃない。私の行動がこの時代の人々に対して影響を及ぼし、不幸にするかも知れない」
「・・」
「私は最初、それでも構わないと思っていました。目的の為なら少しぐらいの犠牲はやむを得ないのだと。・・でも、あなたと知り合って、それがどれだけ身勝手な考えかという事に、今更ながら気付かされたんです。私一人の都合で、あなたのように罪もない優しい人間を、歴史改竄の巻き添えにしてはいけない」
訥々と心の内を吐き出すような喋り方だった。彼女がそこまで僕に信頼を寄せていた事は驚きでもあった。説得を試みたのも無駄ではなかったのだ。ただその結論は、僕の望む方向には向かなかった――。
「これは私が生まれた時代の問題です。2065年へ戻り、そこで決着を付けます」
ブン、という起動音が聞こえた。僕は慌てて後ろを振り返った。サカキ・マナミの服が風に煽られたように揺れていた。重力制御装置を起動したのだ。
「さようなら」
重力制御装置が発する小さなうねりが室内を伝播して行く。その不可思議なエネルギー波に晒され、僕は呆然とサカキ・マナミの言葉を聞いた。強く握りしめた拳、頑とした口調、にもかかわらず寂しげな眼差し。そのどれもが最後の別れを告げていた。
だが彼女一人で「決着を付ける」事など不可能に決まっている。だからこそ現代へ時間遡航して歴史改竄を企てたのではないか?このまま2065年へ戻れば、即座に拘留され一方的な政治裁判にかけられるだろう。自ら死地に赴くも同然だ。反攻計画があるにせよ、命懸けの行為に変わりはない。いずれにしても僕には賛同など出来ない。
引き留めなければならない。でもどうやって?いま引き留めても手遅れだ。重力エネルギーはこの瞬間にも放出され続けている。どうする。どうする。どうする・・。
「どうする」の結論が出る前に僕は動いていた。
彼女に向かって駆けだしたのだ。自分でも不思議としか言いようがない。虚を突かれたような彼女の表情。その瞳を見据える内、僕の中に一つの答えが当たり前のように生まれた。火のような確信が全身を駆け巡った。
僕はサカキ・マナミににじり寄り、細い腕を握りしめた。
「僕も一緒に行く。僕も2065年へ連れて行ってくれ」
彼女は信じられないものを見る目で絶句した。
「これは僕自身が望む事だ。この先、僕に何が起ころうと、キミが責任を感じる必要はない。勝手に一人で決めて、一人で責任を背負わないでくれ。そんなの迷惑だ。僕は僕の意志でキミを守る事に決めたんだ。だから連れて行ってくれ」
自分の喋っている事が自分で信じられなかった。普段の僕なら決して言うはずのない台詞だ。常に傍観者を決め込み、確実な結果を見定めて行動するはずの僕が、不確実性の中に身を投げ込もうとしている。常日頃の僕を知る人間が見れば、錯乱したとしか思えないだろう。全くの無謀な行動・・。
しかし行動とは、そもそも何だろう。
予測通りの結果を実現するだけなら、そこに行動というものは無い。分かりきった結果を実現するだけなら、わざわざ行う必要など無いではないか。ただ時計の針が進んだという事実が、さも「行動した」ような気分にさせる。それだけだ。そんなものは行動ではない。行動とは、予測できる結果を覆すために行うものだ。覆してこそ、わざわざ行う事の意味がある。
僕はいま、最悪の結果しか予測できない境遇へ身を投じようとしている。そのまま最悪の結果を出す為ではない。予定調和を突き破り、このどうにもならない予測を覆すためだ。僕はいま、本当の意味で行動している。
僕は力を込めて彼女の腕を握り直した。決心の強さを伝えるためだ。
サカキ・マナミの唇は震えていた。首を横に振ってみたり、考え込むように俯いたり、明後日の方角を見つめたり・・せわしない感情の揺れを経た後で、ついに覚悟を決めた表情が浮かんだ。彼女は服の胸元に右手を差し入れた。カチリという音が聞こえた。
やおら僕の身体は軽くなった。エレベーターが動き出した時の無重力感に似ていた。
「重力制御装置の補足範囲を拡大しました。今まで一人分の空間範囲でしか作動させた事はないですが、恐らく二人でも問題ないと思います」
事実だけを淡々と呟いて、彼女は僕の腕を握りしめた。彼女の声に僕は頷く。僕を一緒に連れて行くと決断してくれたのが、何より嬉しかった。
心地よい無重力感に包まれて僕は静かに眼を閉じた。
「5秒後に時間制御装置を起動します。そこから一気にGが増幅します。気をつけて」
ついに初めての時間旅行が始まる・・そう思った矢先だった。
突如として騒々しい足音が聞こえ、僕は不審気に眼を開けた。人影が部屋に飛び込んできた。念入りに確認するまでもない。鋭く殺気立った眼差しは、増田翔子その人に他ならなかった。息を切らしている所を見ると、僕の後を走って追いかけて来たようだ。重力制御装置の放つ緩やかなうねりに髪をなびかせ、彼女は叫んだ。
「変だと思って戻って来てみれば・・これはどういう事!?」
土壇場の状況で返す言葉が見つからなかった。脳裏に浮かんだのは増田翔子との買い物の約束だった。今日の午後、一緒に出掛ける予定だったのだ。こんな場面で暢気に思い出す事でもない。けれども、もはや永遠に守れなくなった約束に対して、一言謝らなくてはならない。
「ごめん、僕は・・」
「間もなく時間制御装置、起動します」
「ねえ、どういう事なの!!」
三人三様の言葉が重なり合う。――そして、増田翔子は予想外の行動に出た。
目にも留まらぬ速さで僕たちの所まで駆け寄り、僕の胸ぐらを掴んだのだ。当然そこは重力制御装置の影響範囲内だ。息を詰まらせる僕をよそに、増田翔子は不思議そうな顔つきで周りを振り返った。身体が不自然に軽くなった事を訝しんだに違いない。だがそれを説明する時間も、彼女を突き放すタイミングも残されていなかった。
「起動!」
その宣言と同時にサカキ・マナミは、僕と増田翔子の肩に腕を回した。僕も咄嗟に増田翔子の肩へ腕を回して、自分の方へ引き寄せた。何が何だか分かっていない増田翔子は抵抗しなかった。
目に映る全ての物体が歪み、溶け去り、形を失い、星のような光の渦と化した。高速回転するプラネタリウムの夜空のようだった。光の渦は一方向へ向かって猛烈なスピードで吸い込まれていく。これが時間の流れなのか・・。
「ここが重力エネルギーの発生現場!?さっきまで私たちが居た場所じゃない!」
「知るもんか、確かに反応したんだ!・・おい、あっちの部屋!」
ケビンとジュリアの喚き声が耳を突いた。どうやら彼らも僕の部屋へ戻って来たらしい。
「マズイ!もう動き出してる!」
「時間制御装置まで使ってる!?またどこかにタイムトリップする気!?待ちなさい!サカキ・マナミ!」
ジュリアの叫び声を最後に、もう何も聞こえなくなった。
僕たち三人は加速した時間の流れに呑み込まれ、2065年の未来へ向けて舵を切った。
重力制御装置が発する小さなうねりが室内を伝播して行く。その不可思議なエネルギー波に晒され、僕は呆然とサカキ・マナミの言葉を聞いた。強く握りしめた拳、頑とした口調、にもかかわらず寂しげな眼差し。そのどれもが最後の別れを告げていた。
だが彼女一人で「決着を付ける」事など不可能に決まっている。だからこそ現代へ時間遡航して歴史改竄を企てたのではないか?このまま2065年へ戻れば、即座に拘留され一方的な政治裁判にかけられるだろう。自ら死地に赴くも同然だ。反攻計画があるにせよ、命懸けの行為に変わりはない。いずれにしても僕には賛同など出来ない。
引き留めなければならない。でもどうやって?いま引き留めても手遅れだ。重力エネルギーはこの瞬間にも放出され続けている。どうする。どうする。どうする・・。
「どうする」の結論が出る前に僕は動いていた。
彼女に向かって駆けだしたのだ。自分でも不思議としか言いようがない。虚を突かれたような彼女の表情。その瞳を見据える内、僕の中に一つの答えが当たり前のように生まれた。火のような確信が全身を駆け巡った。
僕はサカキ・マナミににじり寄り、細い腕を握りしめた。
「僕も一緒に行く。僕も2065年へ連れて行ってくれ」
彼女は信じられないものを見る目で絶句した。
「これは僕自身が望む事だ。この先、僕に何が起ころうと、キミが責任を感じる必要はない。勝手に一人で決めて、一人で責任を背負わないでくれ。そんなの迷惑だ。僕は僕の意志でキミを守る事に決めたんだ。だから連れて行ってくれ」
自分の喋っている事が自分で信じられなかった。普段の僕なら決して言うはずのない台詞だ。常に傍観者を決め込み、確実な結果を見定めて行動するはずの僕が、不確実性の中に身を投げ込もうとしている。常日頃の僕を知る人間が見れば、錯乱したとしか思えないだろう。全くの無謀な行動・・。
しかし行動とは、そもそも何だろう。
予測通りの結果を実現するだけなら、そこに行動というものは無い。分かりきった結果を実現するだけなら、わざわざ行う必要など無いではないか。ただ時計の針が進んだという事実が、さも「行動した」ような気分にさせる。それだけだ。そんなものは行動ではない。行動とは、予測できる結果を覆すために行うものだ。覆してこそ、わざわざ行う事の意味がある。
僕はいま、最悪の結果しか予測できない境遇へ身を投じようとしている。そのまま最悪の結果を出す為ではない。予定調和を突き破り、このどうにもならない予測を覆すためだ。僕はいま、本当の意味で行動している。
僕は力を込めて彼女の腕を握り直した。決心の強さを伝えるためだ。
サカキ・マナミの唇は震えていた。首を横に振ってみたり、考え込むように俯いたり、明後日の方角を見つめたり・・せわしない感情の揺れを経た後で、ついに覚悟を決めた表情が浮かんだ。彼女は服の胸元に右手を差し入れた。カチリという音が聞こえた。
やおら僕の身体は軽くなった。エレベーターが動き出した時の無重力感に似ていた。
「重力制御装置の補足範囲を拡大しました。今まで一人分の空間範囲でしか作動させた事はないですが、恐らく二人でも問題ないと思います」
事実だけを淡々と呟いて、彼女は僕の腕を握りしめた。彼女の声に僕は頷く。僕を一緒に連れて行くと決断してくれたのが、何より嬉しかった。
心地よい無重力感に包まれて僕は静かに眼を閉じた。
「5秒後に時間制御装置を起動します。そこから一気にGが増幅します。気をつけて」
ついに初めての時間旅行が始まる・・そう思った矢先だった。
突如として騒々しい足音が聞こえ、僕は不審気に眼を開けた。人影が部屋に飛び込んできた。念入りに確認するまでもない。鋭く殺気立った眼差しは、増田翔子その人に他ならなかった。息を切らしている所を見ると、僕の後を走って追いかけて来たようだ。重力制御装置の放つ緩やかなうねりに髪をなびかせ、彼女は叫んだ。
「変だと思って戻って来てみれば・・これはどういう事!?」
土壇場の状況で返す言葉が見つからなかった。脳裏に浮かんだのは増田翔子との買い物の約束だった。今日の午後、一緒に出掛ける予定だったのだ。こんな場面で暢気に思い出す事でもない。けれども、もはや永遠に守れなくなった約束に対して、一言謝らなくてはならない。
「ごめん、僕は・・」
「間もなく時間制御装置、起動します」
「ねえ、どういう事なの!!」
三人三様の言葉が重なり合う。――そして、増田翔子は予想外の行動に出た。
目にも留まらぬ速さで僕たちの所まで駆け寄り、僕の胸ぐらを掴んだのだ。当然そこは重力制御装置の影響範囲内だ。息を詰まらせる僕をよそに、増田翔子は不思議そうな顔つきで周りを振り返った。身体が不自然に軽くなった事を訝しんだに違いない。だがそれを説明する時間も、彼女を突き放すタイミングも残されていなかった。
「起動!」
その宣言と同時にサカキ・マナミは、僕と増田翔子の肩に腕を回した。僕も咄嗟に増田翔子の肩へ腕を回して、自分の方へ引き寄せた。何が何だか分かっていない増田翔子は抵抗しなかった。
目に映る全ての物体が歪み、溶け去り、形を失い、星のような光の渦と化した。高速回転するプラネタリウムの夜空のようだった。光の渦は一方向へ向かって猛烈なスピードで吸い込まれていく。これが時間の流れなのか・・。
「ここが重力エネルギーの発生現場!?さっきまで私たちが居た場所じゃない!」
「知るもんか、確かに反応したんだ!・・おい、あっちの部屋!」
ケビンとジュリアの喚き声が耳を突いた。どうやら彼らも僕の部屋へ戻って来たらしい。
「マズイ!もう動き出してる!」
「時間制御装置まで使ってる!?またどこかにタイムトリップする気!?待ちなさい!サカキ・マナミ!」
ジュリアの叫び声を最後に、もう何も聞こえなくなった。
僕たち三人は加速した時間の流れに呑み込まれ、2065年の未来へ向けて舵を切った。