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第二章

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おだやかな陽の光が、オフィスの窓から差し込んでいる。
その光がわずかに反射する壁掛けのアナログ時計は、もうすぐ午後2時になろうとしていた。

オフィス街の一角を拠点にする企業は、たいていの場合、正午きっかりには昼食をとらない。混雑を避けるために昼食時間を正午の前後にずらすのが習わしになっている。それを逆手にとって、あえて正午きっかりに昼食をとる会社もある。

僕の勤める会社の場合、部署単位で昼食時間がずらされている。僕の所属する部署はこのフロアの一番奥にあるのだが、フロア内では一番遅い昼食をとることが暗黙の了解になっている。その時刻というのが午後の2時だ。だが午後2時くんだりに社内の売店に行ったところで、売れ残りの惣菜パンしか手に入らない。だから散歩がてら遠くのコンビニまで足を運ぶことも多い。

間もなく午後2時というこの時間、いつもの僕なら、眠気と空腹に翻弄されて仕事が手に付かない。しかし今日の僕は違って、眠気も空腹も感じていなかった。全ては集中力の問題なのだと思う。僕は昨日から我が身に起きた不可解な出来事を、あーでもないこーでもないと考えるのに忙しく、「腹が減った」だとか「眠い」だとかいう生理的欲求を気にする暇がなかった。そしてまた、仕事する暇もなかった。つまり、いつも以上にウワの空だった。

昨日の夜、プラットホームから転落して危うく轢死しかけた僕は、正体不明の女性に救われた。だがその救われ方は、あまりに現実離れしたものだった。空を飛んだし、時間まで停まっていた。ジュブナイル風SFか徳間書店の5次元文庫といったところだ。非常識きわまりない。その上、命の恩人であり不審者でもある女性は、疲労困憊だったらしく、「おやすみ」と言い残して安らかな眠りについた。非常階段の踊り場という微妙な場所で。

取り残された僕は、次にとるべき行動を考えあぐねていた。いま思えば考えるまでもない。彼女など置き去りにしてさっさと帰宅すれば良かった。そうしなかったのは、僕が何かにつけて罪悪感を感じる後ろめたさの固まりみたいな人間だからに他ならない。カヨワイ女性を一人で夜の非常階段に置き去りにしたらどうなるか。翌日の新聞に「身元不明の女性、変質者に暴行されて死亡」などと記事が載ってしまったら、僕は一生、後悔の念に苛まれるだろう。だから、僕のとりうる選択肢は、二つしか有り得なかった。一、このまま彼女が目覚めるまで待つ。二、眠る彼女を連れて帰宅。さあ、どっち?

10分後、道端で拾ったタクシーの後部シートに彼女を乗せて、僕は自宅への道のりを急いでいた。バックミラー越しに、眠り続ける彼女を盗み見ると、睡眠薬を飲ませて誘拐したシチュエーションが思い浮かび、なぜか微妙に興奮した。タクシーの運転手は、黙って僕の指示通りに、夜の田舎道を走っていた。あの運転手、後で警察に垂れ込んだりしてないだろうか。「あの男は絶対怪しい。薬飲ませて拉致したに違いない」とか言って。気になるという事は、僕自身にやましい気持ちがあるのだろうか。深く考えない事にする。

20分後には、僕が一人暮らしを営む名古屋郊外の安アパートへ到着した。あいかわらず目覚めない彼女をおんぶして、そろそろと階段を上り、「206号室」と札のついた部屋のカギを開けた。6畳間が二つある部屋だ。寝るための6畳間とTVを見るための6畳間。僕の生活は至ってシンプルだ。

「寝るための6畳間」には煎餅布団が敷きっぱなしになっており、そこに彼女を降ろした。そのまま放置して風邪をひかれて後で文句を言われても困るので、毛布をかけた。僕はもう一つの6畳間へ移動し、がっくり腰を下ろした。人を背負って歩くのは思ったよりしんどい作業だった。いつもの癖でTVの電源を入れ、リモコンの数字ボタンを1から順番に押していく。途中、名古屋ドームの中日vs日本ハム戦の実況生中継が映った。3回表まで進んでいる。本来ならこの時間、僕はドーム球場の外野席に陣取り、ノリさんに声援を送っているはずだった。

しばらくTVを眺めていたが、試合にのめり込めなかった。名古屋ドームの歓声が、よそよそしい。試合を生で見られなかった落胆?そうではなさそうだった。いつも一人で野球中継を見ている時、僕はTVと一体化した時間を過ごす。試合中継の間はひどく熱狂するが、試合が終わると一人取り残された気分になる。虚しさに身が冷えるような感じ。TVに夢中になることは、裏返せば、この虚しさを忘れるための手段でもある。だから必要以上の熱狂が、僕には必要になのかも知れない。自分で自分を熱狂へ追い込む。

だが今はどうだろう?正体不明の女性を背負ってほうほうの体で帰宅した。目の前で見るはずだった試合をTVで鑑賞するハメになった。踏んだり蹴ったりだが、少なくとも、虚しさを感じている暇はない。あちらの6畳間で安らかに眠っている闖入者を、どう扱ったものか、善後策を講じねばならない。苦あればこそ、楽ありだ。手ごたえのある現実は、手ごたえのないTV中継を、単なる娯楽の一つへと後退させる。TVをよそよそしく感じるのは、現実がよそよそしくない事の裏返しなのだ。きっと。

とは言うものの、TVを見る以外に差し当たってすることの無い僕は、冷蔵庫から350ミリリットルの缶ビールを取り出して、一気に半分ぐらいまで飲み干した。すると頭がボーッとして瞼が熱くなり、ついつい畳の上に寝そべった。本当は寝てる場合ではない。善後策を講じねばならない。善後策、善後策・・。

TVのアナウンサーが何か叫んだ。ワーッという歓声。ノリさんがヒットを打ったのか?今の体勢ではTV画面がよく見えないので、それ以上気にしない事にした。地上を這いつくばる虫のように、僕の視線は畳の目に沿って匍匐前進していった。その先には、隣の6畳間で毛布をかぶって眠る女性の姿があった。遠い歓声、近い寝息。おだやかな時間の流れ。クシャミが伝染するように眠気も伝染するのだろうか?僕は睡魔に誘われて、TVをつけっぱなしのままで意識を遠のかせた。

気がつくともう翌朝だった。畳に顔面をこすりつけたうつ伏せの状態で、僕は目を覚ましたのだった。10分遅れの目覚まし時計は、8時15分を指していた。自宅から会社までドアツードアで30分はかかるから、このアンニュイな朝と戯れている暇はなさそうだった。幸いな事にYシャツのまま眠っていたので、着替える手間はなかった。リハビリ患者よろしく壁伝いに立ち上がり、洗面所までたどり着いて、電気ヒゲソリを顎に這わせた。洗面所の前にゴミみたいに脱ぎ捨ててあったスーツの上着と、ビジネス鞄を拾い、玄関に降りて踵のヨレた靴を履いた。そして部屋のドアノブを回そうとした時だ。背中越しに「行ってらっしゃい」と、不意打ちの挨拶をくらった。

驚いて振り向くと、髪のほつれた女性が、玄関脇の柱に寄り添い佇んでいた。なんだか艶かしくしなだれた感じだが、昨日からずっと眠り続けていたあの女性に間違いなかった。僕より先に起きていたのか?朝起きて自分が見知らぬ部屋で寝ていたことに疑問を抱かなかったのか?なぜこんな所に呑気に立っているのか?僕の出勤を見送って、その後、どうするつもりなのか?

それらの疑問が一気に湧きあがってきたが、僕の律儀さがそれを邪魔する。問い詰める前に、彼女を僕の部屋へ連れてきた経緯を説明せねばならないと思った。物事には順序というものがあるのだから。説明責任といおうか。しかしそんな事をしている時間が無いのも事実。遅刻せず会社へ出社するのと、個人の説明責任を果たすのとは、どちらがより優先されるべき事項であるか。

などと、詰まらない事を考え始めた僕をよそに、彼女は小さなプラスチックケースを黙って差し出した。見覚えのあるプラスチックケースだった。その昔、夢のような一人暮らしを思い描いていた頃、会社に弁当を持参するために買い求めた弁当箱に違いなかった。結局一度も弁当を作ったことはなく、自分の中では無かった事にしていた記憶。それがいま、他人の手によって掘り起こされた不思議。

「かくまってくれて、ありがとう」彼女は玄関脇の柱に身をもたせかけて言った。「これ、お礼です」
僕はぎこちなく、その弁当箱に向かって手を差し出した。「かくまって」とはどういう意味か。受け取って良いものなのか。しかし考える前に現実は進行していく。手から手へ弁当箱が受け渡される。僕が受け取ったのを見て、彼女の目元に安堵感が浮かんだ。理由はともあれ、この場は受け取って正解だったと思った。
「何時に帰って来ますか?」
少し上目遣いで彼女が尋ねる。不謹慎ながら、新婚夫婦というシチュエーションを思い浮かべた。
「8時・・いや、7時30分には・・」

僕が馬鹿正直に返答したら、彼女は納得を表すように小さく頷いた。かすかに笑みを浮かべていた。どうやら意思疎通は完了したらしい。分かるようでさっぱり分からない会話は無事終了。これ以上ここに留まるのは意味もなさそうなので、急いで弁当箱をビジネス鞄にしまいこみ、ドアノブを回した。・・思えば、実家を離れたのは10年も前のことだ。それ以来、絶えて口にしたことのない言葉であっても、こんな時にはちゃんと思い出すのだから、不思議なものだ。僕の口はごく自然に「行って来ます」と呟いていた。

就業時刻10分オーバーで会社に到着し、タイムカードを押すと、赤いインクで出社時刻が刻印された。誤魔化しようのない遅刻の印だ。残業でもしなければ、給料が何千円か差っぴかれる事になる。だが今日に限っては、給料から何千円引かれようが悲嘆をあてこむ気は起きなかったし、それゆえ残業する気もなければ、業務時間中の仕事にさえ身が入らず─これはいつもの事だが─腑抜けた顔で窓の外をぼんやり見ていた。太陽が徐々に高く昇るのを、天文学者でもないのに、ずっと眺めていた。


今日帰宅したら、彼女はまだ部屋にいるだろうか?いずれにせよ、ずっとあの部屋にいる必要性は無いのだから、折をみて勝手に出て行くだろう。僕が今朝部屋を出た後で、すぐに彼女も出て行ったかも知れない。あるいは、僕の帰宅時間を尋ねたのは、僕が帰宅する前に出て行こうという腹だったのかも知れない。「かくまってくれて」と彼女は言ったが、僕には「かくまう」意図など何もなかった。夜の街に女の子を放置することの罪悪感に負けて連れて帰っただけの話だ。いったい何から、誰から、「かくまう」必要があるのか?誰かに追われている?狙われていたりするのか?カタギの人間ではないかも知れないが、そんなヤバイ人種とも思えない。それに・・弁当箱。外見は弁当箱だが、中身が食べ物だという保証は無い。彼女がナニモノかに付け狙われるような人物で、例えば某国のスパイとかだったりして、自分に関わった人間は消すように命令されていたりして、例えば、弁当箱に見せかけたプラスチック爆弾を用意し、蓋を開けた瞬間に爆死させたりとか・・。

僕の妄想はどんどん膨らみ、時刻はどんどん昼休憩の14時に近づいて行った。時々ビジネス鞄の中を覗きこんで、そこに弁当箱がある事を確認した。捨てるべきか?どこに?どこに捨てても、プラスチック爆弾が起爆すれば、このオフィス街では大惨事が発生することは間違いない。僕はソワソワして、しきりに壁時計を見ていた。

「この書類、記入をお願いします」


僕と壁時計の間を邪魔するように、人影が立ちふさがった。首からぶら下げている社員証カードに「増田翔子」と印字されている。僕はその名前に反応して、ビクッと身体を震わせた。僕と同じ部署で経理を担当している増田翔子は、長い髪を指先でもてあそびながら切れ長の瞳を細めて僕を見た。とてもクールな口調で続けて言った。

「そんなに時計が気になるんですか?お仕事に身が入っていないみたいですね」
僕は言われるまま黙っていた。増田翔子は、僕の鞄の中を覗きこんだ。
「お弁当?自作なんですか?」
問いかける口調だったが、僕は返事をしなかった。
「この書類、昼休憩の前に済ませたいの。記入が終わったら、私のデスクまで持参して」
そういい残してさっさと立ち去った。

途中まで丁寧だった口調は、最後に命令口調に変わったが、僕は別に驚かない。いつもの事だから。


他の社員にとっての増田翔子は、20代後半で仕事をソツなくこなす有能な経理担当者だ。物静かで神秘的な雰囲気を漂わせ、切れ長で力のある瞳が、強く訴えかける光を放っている。他人を惹きつける魅力を二つも三つも兼ね備えた、典型的な美人タイプ。大勢の中にいて必ず人目を引く、陽の当たる世界に属する人間といおうか。僕のように居るか居ないか分からない空気人間とでは、生きている世界が根本的に違う。

だから僕は、彼女の刺々しい態度を理解しようと思っていない。生きている世界が違う者同士が近づけば、不条理な事故が起きるのは仕方ない事だ。理由もなく事故は起きるものだ。事故が起きた後にそれらしい理由をでっち上げるのは、人が死んだ後に「いい人でした」と言っておきたくなる疚しさみたいなものだ。こういう投げやりな態度を見透かされて、余計に彼女の癪にさわっているのかも知れないが。兎も角、僕がチラチラと時計を気にしていた事が、どこかで彼女の癪にさわったのだ。恐らくこの書類を持参したら、そこでもまた彼女の不機嫌を増長させてしまうに違いない。

午後2時の昼食を前にして、弁当箱爆弾の処分方法に頭を悩ませつつ、僕は増田翔子から手渡された事務手続きの書類に記入を始めた。爆弾を処理することと人間関係を処理することは、どっちの方がマシな厄介事なんだろうかと詰まらない事を考えながら。
増田翔子から渡された書類は、社会保険事務所へ提出するための、何やらややこしい書式だった。僕は初めて見るその書式を四苦八苦しながら埋めていった。途中、どう記入してよいか分からない欄が、いくつかあった。

誰かに尋ねてみようか。基本的に周囲とは孤絶した会社生活を送っているので、こういう時に気軽に話しかけられる相手がいない。僕は視野に入る120度角の圏内を見回した。

窓際に座る一人の中年男性が目に付いた。50代前半にして係長である彼は、さえない顔つきでパソコンの画面を眺めていた。デスクトップ上には何もソフトが立ち上がっていない様子。壁紙に猫の写真が設定されている。ペットの飼い猫だろうか。その壁紙を無表情に見ていた。

彼のあだ名は「窓際3号」だ。その名の通りの窓際人事で、出世から見放されて、窓に一番近いこの席に1年前から座っている。1号と2号もいたが、すでに退職した。3号氏も、いずれやめてしまうのかも知れない。そうしたら僕が4号と呼ばれるに違いない。というか、既に呼ばれている気もするのだが。

同族的な匂いを感じるため、僕はこの3号氏に多少の親近感を持っていた。挨拶程度にしか言葉を交わした覚えはないが、差し当たって暇そうに見える。職場でのキャリアは当然、僕よりずっと長いのだから、書類の書き方も心得ているだろう。意を決して、僕は抜き足差し足で3号氏の背後から近づいた。

「あの・・」
「はいはい何ですか?」
予想に反して軽快な口調で答えが返ってきた。
面倒くさそうな顔をされて、緩慢な動作で対応されるんだろうと思っていたので、意外だった。ただ、視線はパソコンの壁紙から一寸たりとも動かさない。僕の方はちっとも見ようとしない。しかし僕は構わず話を続けた。
「えーと、この書類なんですけど、すぐに提出しろと増田さんに言われたんですが・・」
「記入方法が分からないということ?」
3号氏はあさっての方向を向いたまま受け答えする。
僕は3号氏に書きかけの書類を差し出して、未記入のままだった欄を指で指し示した。
「この部分なんですけど、よく意味が分からなくて・・」
「ふんふん、ああ、ここね」

3号氏はようやく視線をパソコンから書類へ移した。ふんふん、と何度も一人ごちて納得している。その仕草は、たとえ窓際とは言えども、ベテランの雰囲気が滲み出ていた。
「えーとこれね、分かんない。適当でいいんじゃない」
あっさりと彼は言った。ものすごく軽い返事だった。
「え、適当って・・」
「ああ、適当っていうか、書かなくてもいいと思うよ」
「でも、欄外に赤文字で『必須』と書いてありますけども・・」
「ははあ、なるほど」
3号氏はこの時、初めて僕の方を振り返った。50代にしては肌ツヤもよく重苦しさの無い顔つきだ。よく言えば若々しく、悪く言えば年相応の貫禄が無い。かも知れない。

「『必須』と書かれているから何か記入せねばならない、と君は思うんだな。そこが迷いの第一歩だ。間違いの第一歩だ。何も書かなくたって何とかなるものさ。わざわざ頭を使って独自の答えを書いてしまった日には、それをネタに脅される破目に陥るよ。お前は自分でそう書いたんだろう、と。だから、分からなければ黙っていればいい、何も書かなくていい、何も言わなくていい、口をつぐんで人の言いなりになればいい。オーケー?」

分かるような分からないような話だった。何がオーケーなのか。
「・・ではこの欄は、無記入で問題ないという事でしょうか?」

「いいや。問題はあるだろう。けど、書いたら書いたで別の問題が起きると言っているんだ。だから、書いても書かなくても結果的には大差ない。迷ったら放置すること、これが基本にして最大の人間の叡智というものだ。私はそう思う。・・『必須』という注意書きを付け加えた人間にとって、この欄は誰でも必ず埋められるだろう、という傲慢な思い込みがある。例えば、朝出社したら同僚に向かって『おはよう』と挨拶するぐらいに、誰もが簡単に為しうる行為だと思っている。だからこんな風に目障りな赤い文字で『必須』などと印字して恥じない。だが、人は一人一人、生きている前提が違う。『おはよう』という挨拶さえ難しくて手に負えないと感じる人だって、世の中には沢山いるさ。100人のうち99人が笑顔で『おはよう』と挨拶できたって、1人だけは挨拶もロクに出来ない馬鹿者だっている。いま馬鹿者と言ったけれど、99人にとってはただの馬鹿者だが、本人にとっては切実で艱難辛苦を極める問題かも知れないよ。三蔵法師が天竺へ向かう旅のように長く苦しい辛さが、『おはよう』という一語にこめられている。そう感じて日々生きている人は、99人から見れば馬鹿者に相違ない。また、その馬鹿者とて、人間である以上、別な場所、別な局面においては清々しい笑顔で『おはよう』と挨拶する相手がいるかも知れない。ただ99人と出会うような場所では、その場所においては、馬鹿者にならざるを得ないだけかも知れない。99人にとって当たり前な場所で馬鹿者になるなら、それはやはり単なる馬鹿者なんだろうか?・・そうかも知れない。本当の馬鹿者には理解者なんて居ないだろう。よく流行の歌に『自分は孤独だ』なんて歌詞があるけれど、あれは99人にとっての孤独なんだよ。たった1人の馬鹿者にとっての孤独とは関係がない。辛いときには誰だって、自分を救うナニモノかにしがみ付きたくなるよね?恋人、家族、仕事、友達。99人にとっての孤独とは、しがみ付くものがある上での孤独ということだ。分かるかな?何かにしがみついて、それでも不安だから『自分は孤独だ』と愚痴を洩らす。単なる愚痴を孤独と言い換えているだけさ。孤独がそんなものなら、馬鹿者にとっては、羨ましくて堪らない好待遇だ。なにしろ、馬鹿者にとっての孤独とは、何かにしがみ付こうとする端から、それに見捨てられることだからだ。何にもしがみ付くことが出来ずに、ズルズルと底なしに落ちていくのさ。この世には底なんて無いんだよ。永遠に落ち続けるんだ。摩擦係数のない世界を実感できるか?落ち続けながら笑顔で『おはよう』と誰が言えるだろうかね?愛する人から愛されず、嘲笑され嫌悪され軽蔑され、お情けで生かしてもらいながら、しかし何からも見捨てられて、期待や希望も捨てざるを得ず、それでもなお生きている。これが孤独というものじゃないかな。だから・・『必須』であっても、空欄でいいのさ」

3号氏は、話し終わると、パソコンの画面に顔を向き直った。僕は書類について尋ねることを断念した。その代わりに、パソコンの壁紙について尋ねた。
「その猫、飼ってるんですか?」
「近所の公園の野良猫だよ。食べ残しの食事を分けてやった事が一度ある。野良猫は、誰にも何も期待せず生きてるね。立派だ。ただ、もう会う事はないだろうよ。先週、保健所の職員が、野良の犬猫を片っ端からつかまえて連れて行ったからね」
彼はじっと壁紙の猫の写真を見つめていた。

僕は、書類の空欄を埋めることを諦めて、3号氏のデスクを後にした。どうやっても埋められないものもある。僕もその意見に賛成だ。でも、そういう言い草が、増田翔子に通じるかというと、また別問題でもある。まあいいや。僕は未完成の書類を手にして、経理班のデスクが集う一角へ歩いていった。
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未完成の書類を手に、増田翔子のデスクを目指した。

経理担当者のデスクが集う一角は、すでに昼休憩に入ったのか、人影がうかがえなかった。しかし、その一番奥の小奇麗に整頓されたデスクにだけは、女性が着席しており、パソコンに向かって軽快なキータッチで何かを打ち込んでいた。その女性・・増田翔子の横顔は、物静かな海のように穏やかだった。ゆっくりとした呼吸で、キーボードの音だけを無人の空間にカチャカチャと鳴らしていた。

僕と彼女との間は、まだデスク5つ分ほど距離があった。僕は話しかけるタイミングをつかむために、彼女の呼吸のリズムを読みながら、そろりそろりと近づいて行った。
「書類は書きあがったんですか?」
増田翔子が不意に口を開いた。キーボードを打つ手は休めず、顔もパソコンに向けたままだが、その言葉が僕に対して投げかけられたのは明らかだった。なにしろ、僕の他には誰も周囲にいない。

「遅かったですね。福島係長に何か質問しに行ったみたいですけど、あの人に訊いても役に立つ答えなんて返ってこないですよ」
「はあ」
福島係長とは窓際3号氏のことだ。彼女の言い草は容赦ない。

「記入内容をチェックしたいので、そちらの空いてる椅子に座って待っててもらえますか?」
「あ、はい、すいません」
僕は必要もないのに謝って、彼女の隣のデスクから椅子を引っ張り出して座った。思わず謝ってしまったのは、相手の機嫌を損ねたくない臆病さの所産だ。彼女の事を、自分とは無縁な世界の住人だと考えつつも、割り切れていないのかも知れない。

彼女はパソコンを打つ手を休めて、僕の方に向き直った。僕は恐る恐る、書類を差し出した。彼女は書類を受け取って、目を通し始めた。お互いに椅子を向き合わせた状態で、沈黙が訪れた。彼女はときどき「ン」と喉を鳴らし、足を組み、組んだ足を組み替えたりしながら、書類に没頭しているようだった。

「昨日、ドラゴンズ、優勝しましたね」
突然、彼女が言った。
顔は書類に隠れたままで見えない。ふと思い出したので言ってみた、という程度のことだろう。しかし僕は「あ」と馬鹿みたいに呟く以外に、リアクションが取れなかった。

今日は遅刻しそうだったから、TVニュースも見ていないし新聞も読んでいない。昨日のTV中継はつけっぱなしのまま寝てしまって、試合結果を確認しなかった。なんてことだろう。この中部地方の濃尾平野を支配する文化圏の中心地、名古屋において、歴史的な夜だったはずの昨晩から一夜明けた今日のこの時間帯まで、僕はすっかりその事を忘れ去っていたのだった。そうか、ドラゴンズは昨日優勝を決めたのか。まさかこの僕が、ドラゴンズとノリさんが三度のメシより大好きなこの僕が、他人に話題を振られるまで、ドラゴンズが日本一になった事実に気づかなかったとは。

僕は自分の不甲斐なさに衝撃を受けた。普段の僕なら、たとえ昨晩の試合結果を見逃したとしても、「昨日は勝ったのかなー負けたのかなー」と一日中気になって仕方が無かったはずだ。昼休みになったら走ってコンビニに行き、中日スポーツを購入していたはずだ。いやその前に、今朝の通勤電車にはドラゴンズ優勝に関する祝勝広告がどこかに出ていたのではないか?電車内のサラリーマン、OL、高校生たちは、ドラゴンズ優勝の話題で持ちきりだったのではないか?にもかかわらず僕は、いま増田翔子から話題を振られるまで、ドラゴンズについて一切を失念していたのだった。

昨日から起きている出来事に振り回されているうちに、僕はドラゴンズの事を考える余裕を失っていた。僕は昨日から、普段の僕ではなくなっていた。大袈裟な言い方をすれば、パラレルワールドに足を突っ込んだようなものだ。なにしろ、ドラゴンズの事を考えない自分など、今までは想像もできなかったのだから。

しかし、実際問題、いま僕が一番気にしているのは、ドラゴンズの優勝よりも、昨日出会った正体不明の女性と、彼女から手渡された弁当箱だというのも事実なのだ。そう、弁当箱。忘れてはいけない。早くあの弁当箱─の形をした爆弾─を処理しなければならないのだった。

僕が自分の脳内世界から現実に戻ってきたとき、タイミングよく増田翔子は話を続けた。
「大友さん、昨日、名古屋ドームへ行ったんですよね?」
「・・あ、えーと、行くつもりだったんですけど・・事情があって行けなかったんです。だから、試合は見てないっていうか・・」
「そう」
彼女は、僕の返答には何の興味も無いといった反応だった。だったら訊くなよ、と心の中で突っ込みを入れた。

やがて彼女は、長らく見つめていた書類を、膝上あたりまで降ろした。チェックが終わったらしい。彼女は膝上の書類を一瞥して言った。
「いろいろ不明瞭な記入が多すぎます。これでは書類不備もいいところです。書き直してください」
まあ、どうせこんな事になるだろうと予想はしていたので、僕はあまり気にせず、
「分かりました」
と答えて、増田翔子の手に握られた書類へ手を伸ばした。しかし増田翔子は、書類を僕の手に渡さず、僕の目の前の空きデスク上へさっと移動させた。

「時間がないので、ここで書いて下さい。分からないことがあれば訊いてください。午後にはすぐに上長へ提出したいので」
すっと立ち上がり、早足でどこかへ歩いていった。30秒もしないうちに戻ってきた彼女の右手には、なぜか僕のビジネス鞄が提げられていた。そして、何の断りもなく、鞄の中から僕の弁当箱を取り出した。僕が朝からずっと気にして止まない、あの弁当箱だ。弁当箱の形をした爆弾かも知れない、弁当箱。

「お昼食べながら、書いてください」
彼女は、僕の弁当箱を書類の隣に並べた。断る隙もなかった。有無を言わせずセッティングされた書類と弁当箱を、僕は阿呆面さげてポカーンと見ていた。
僕の反応をよそに、彼女は彼女で、自分の鞄から小じんまりした弁当箱を取り出して、昼食を摂り始めた。

おかしな事になってしまった。
僕と増田翔子は、人影の絶えた経理スペースに隣り合って、昼休憩のひと時を過ごしていた。一時も早く接触を絶ちたいと願う相手と、よりによって二人きりだ。彼女は何を考えているのだろうか。横顔をちらりと見ると、パソコンのディスプレイを眺めながら、淡々と弁当に箸を運んで白米を頬張っていた。仕事人間なんだな、と僕はすぐに結論付けた。自分の昼休みを犠牲にしてまで、たった一枚の書類を仕上げたいという心意気。僕には真似できない。というか解放して欲しい。

「早く書いてくださいね」
抑揚の無い声で彼女が言った。僕はあわてて視線をデスク上の書類に戻した。
書類の紙面には、彼女が鉛筆で走り書きした注意事項が溢れるほど並んでいた。さきほど簡単に書類をチェックしている間に、これだけの言葉を書き込んでいたのだ。今の今までまったく気づかなかった。彼女が有能と賞賛される理由が分かったし、僕が無能なのもよーく分かった気がした。

その注意書きを読みながら、僕はあらためて、一つずつ記入欄を埋めていった。注意書きの意味が分からない部分を増田翔子に尋ねると、彼女は過不足なく適切な答えを述べて、最後に弁当を一口頬張る。その繰り返しが10回以上続いた。

僕はふと、彼女はいつもこうなのだろうか、と疑問を抱いた。正直なところ、僕が増田翔子に対して抱いているイメージは、第一印象に毛が生えた程度のものでしかない。この会社で、このフロアで、経理担当者として、どう見えるかというだけのこと。僕の過去の経験に照らし合わせて、こういう女性はこういう性格に違いない、と当て推量している部分も大きい。それで外れることはあまりない。けれども増田翔子は、それだけでは掴み切れないように感じた。

彼女はまるで、昼休みに一人で弁当を食べながら仕事を続けることが、当たり前のように振舞っている。いつも昼休みはこんな感じなんだろうか?それとも、今日はたまたま、僕の書類を提出するためにスタンバっていたのか?いや、待てよ?そもそも、増田翔子が誰かと雑談している姿なんて、僕は社内で見かけた事がない。僕の目に入っていないだけか?

「お弁当、食べないの?」
僕はドキリとして顔を上げた。彼女と目が合った。
彼女の視線は、ゆっくりと、デスク上に放置されたままだった僕の弁当箱へ移動していった。
「大友さんはいつも外食なのに、今日はお弁当なのね。どうして?」
「・・」
「朝からずっとそわそわしてたのは、お弁当を持って来たから?遠足に来た小学生みたいね。いまどき小学生でもそんな子はいないと思うけど」
冗談なのか、嫌味なのか、よく分からない。
僕は精一杯の勇気を振り絞って、ちょっとだけ反抗的な口調で答えた。
「・・そわそわなんかしてないですよ・・」
「朝からずっとウワの空っていう感じだったわ。いつもそうだけど。今日は輪をかけて何も考えて無い感じ。仕事やる気ないでしょう?」
僕は圧迫面接を受けた学生みたいに押し黙った。しかし彼女は、まだ話を続ける。
「そのお弁当、大友さんが自分で作ったんじゃないよね?そんな行動力とか甲斐性、なさそうだもの。誰かに作ってもらったの?誰に?」
問い詰めながら、彼女は僕の弁当箱へと手を伸ばした。
まずい、と思って僕は、その弁当箱を自分の側へ引き寄せた。
彼女は手を伸ばした姿勢で固まり、むっとした表情を浮かべた。
いじめっ子と、いじめられっ子。まさにそんな構図だ。
社会人になってまでこんな目に会うとは、僕はよっぽどいじめ甲斐のあるタイプなのか。そういう意味では甲斐性があるとも言える。まあ、威張れた話ではない。

しかしながら、この弁当箱は、どうあっても渡すわけにはいかないのだった。
「正直に言いますよ。これ、実は、爆弾かも知れないんです」
ヤケッパチで僕は言った。一瞬の沈黙。僕はヤケクソで畳み掛けた。
「だから、蓋を開けたら、死にますよ」

増田翔子は生真面目な眼差しで弁当箱を見つめていた。
「・・からかってるの?」
「違いますって。これには色々と深い訳がありまして」

「訳って?」
彼女が身を乗り出してきた。僕は自分のペースで話が進められそうな感触を得た。臆してはいけない。荒唐無稽と思われようと、昨日の出来事を話して了解を得るべきだ。僕はここぞとばかりに椅子に座りなおし、気合を入れた。

「訳というのはですね・・あっ」
僕が一瞬、気を抜いた隙の出来事だった。増田翔子は、抜く手も見せず、僕の弁当箱を引っつかんで奪い去り、自分のデスク上に移動させた。なんだか勝ち誇ったような表情を浮かべていた。僕を見て言った。
「それで、訳って、なに?」
「・・あの・・えっと・・」

僕はうろたえて、シドロモドロになった。僕のペースで進みそうだった流れは、彼女の強引なやり口によって、一瞬で引っくり返されたのだった。強者と弱者、という言葉が脳裏に浮かんだ。

「これ、爆弾なの?」
「・・そうです」
「じゃあ、本当に、蓋を開けたら爆発するのね?」
「その可能性があります」
僕は勤めて慎重に言った。増田翔子は、弁当箱の蓋の上にペタリと手のひらを乗せた。危ない、と思ったが、口には出せなかった。
「爆発したら、私は死んじゃう?」
「少なくとも半径5メートルぐらいの範囲は吹き飛ぶと思いますよ」
「じゃ、大友さんも一緒に死ぬんだね」
なぜか彼女は、あっけらかんと微笑んだ。手のひらを広げて弁当箱の蓋を掴み、おもむろに蓋を開けた。あまりにも気楽に為されたその行為に、僕は心の中で悲鳴をあげた。

「そぼろご飯ね」
と増田翔子は言った。爆風どころか、そよとした風さえも吹かなかった。
弁当箱の中身は、三色そぼろで色分けされた、お手本のような手作り弁当だった。三分の二がご飯で、三分の一がオカズ。オカズの中身は、野菜と揚げ物が中心だった。揚げ物の中に、一つだけ入っていたタコ型ウィンナーを、増田翔子は箸で摘んで自分の弁当箱へ移動させた。
「嘘ついた罰ね」
彼女は嬉しそうに笑った。強者と弱者。またその言葉が頭をよぎった。

その時、昼休憩に出ていた経理担当者の一団が、雑談をしながら入ってきた。外食を早々に切り上げて戻ってきたようだった。増田翔子はその空気の変化に眉一つ動かさずに、僕の方を見ていた。僕は、しかし、こういう空気の変化には泰然自若としていられないタチである。この場所は、彼ら一団の占有物であって、僕がここで弁当を広げるのは場違いな行為だ。僕は瞬時にそのように感じた。

それで僕は、手元の書類を一通り見直すと、ぶっきらぼうに増田翔子のデスク上に置き去りにした。急いで弁当箱をかたして、席を立った。ちょうど、経理担当者の一団が各々のデスクへ着席するのと入れ違うタイミングだった。見知らぬ集団の中から逃げ出すことに成功して、僕はほっと胸を撫で下ろした。

その時、背後で「いくじなし」と増田翔子の声が聞こえた気がした。振り返ると、彼女は黙ってパソコンの画面を見つめていた。先ほど嬉しそうに笑った影は、跡形もなかった。気のせいだろうか。周囲の雑音は何事もなかったように僕の疑問をかきけした。それきりだった。
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