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第三章の前半

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仕事帰りの夜、野犬の遠吠えに耳を澄ませながら、田舎道を歩いた。
今日一日の出来事を振り返りつつ、三色そぼろ弁当の味を思い出していた。

数年にわたるコンビニ食生活の果てに、僕の味覚中枢は麻痺もしくは崩壊の危機に直面していた。それを自覚しつつも、決して自炊の道を採ろうとしなかった自堕落な独身者。その愚か者にきざした一筋の光明がすなわち、三色そぼろ弁当であった。簡単に言うと、美味しい弁当だった。ガングロで高校3年間を過ごした女子高生が、卒業間近のある日「やっぱ美白じゃね?」と気づくぐらいの勢いで、味覚における晴天の霹靂を味わった。

だがしかし。美味の感涙にむせびながらも、弁当の存在に対して、疑惑を差し挟まなかったわけではない。蓋を開けたら爆発しなかったが、爆弾ではないと断言はできない。白米に数センチ箸先を埋没させた瞬間に起爆しないと、誰が保証できるだろうか。狩人は獲物を逃がすフリをして追い詰めるものだと、某落合信彦先生の本に書いてあった。

僕は慎重な手つきでご飯をほじくり、指差し安全確認を実施した後、口元へ運んだ。地雷除去作業に従事する国連職員も真っ青の徹底ぶりだっただろう。半端な忍耐力では為しえない仕事だ。業務時間中に集中力の続かない僕が、こういう場面ではいかんなく集中力を発揮できるから困る。その困難な作業の末に・・白米の一粒、オカズの一品も残すことなく、弁当を完食した。

その後、実はそぼろの中に、下剤もしくは致死性毒物が混入されているのではないか、という可能性に直面した。そして午後はまるまる、突然襲い来るであろう腹下しの猛威に怯えて過ごした。けれども、僕の胃腸は何らの変調も訴えなかった。終業のチャイムが鳴った時、僕は最終的な結論を下した。あの弁当は、ただの弁当だったのだと。

チャイムが鳴り終わらぬ内に帰り支度を済ませ、「お先に失礼します」と小声で呟き、会社を退出した。帰路の電車に揺られ、自宅が近づくにつれて、今朝僕を送り出してくれた女性の事が気になり出した。「かくまってくれたお礼」と称してわざわざ手作り弁当を用意し、「行ってらっしゃい」と僕を送り出してくれたあの女性・・名前すら聞かなかったが、彼女はもう出て行ってしまったのだろうか?

そのような考えに耽りながら、僕は自宅近くの田舎道までさしかかった。野犬の遠吠えは止まない。暗闇にポツンと建つアパートが見えてきた。

周囲に高い建物が無いため、遠くからでも視認できる。僕の住んでいる古臭いアパートだ。2階の僕の部屋には電気がついていなかった。やはり彼女は、日中に出て行ってしまったのだ。せめて、あの不思議な出来事・・空を飛んだり、時間を止めたりした方法について尋ねたかったのだが、やむを得ない。

これで良かったのだ。一件落着だ。そう自分に言い聞かせた。常識的に考えて、どこの馬の骨とも知れない人物に、好奇心だけで関わるべきではないだろう。さっさと出て行ってもらって正解だし、自分から追い出すぐらいの姿勢が必要ですらあった。あらぬ野次馬根性で、見知らぬ世界に首を突っ込むと、やれ新興宗教だ、政治運動だ、キャッチセールスだと、厄介事に巻き込まれかねないのだから。僕は、足元に伸びる短い影をうつむきながら追って、そそくさと歩いた。

アパートに到着して階段を上り、206号室のドアノブに手をかけた。すると、ドアノブはそのまま180度回転した。カギがかかっていなかった。考えてみれば、当たり前だった。あの女性にカギは渡していないのだから、僕が不在の間に出て行かれたら、カギは開けっ放しになるに決まっている。今日一日、この部屋は、泥棒に入り放題だったわけか。いや待てよ。そもそも、あの女性が泥棒でないとは言い切れない。しおらしく弁当を作って安心させ、僕が外出した隙を見計らい、室内の物品を持ち去った可能性だってある。

僕はあわててドアを開け、暗闇の室内に駆け込んだ。
裸電球からぶら下がっている点灯用の紐を、しゃにむに引っ張った。

明かりのついた部屋をぐるりと見渡すと、いつもと様子が違っていた。しかし、物品は何も消失していないようだ。衣装ケースの引き出しにしまっておいた預金通帳も、そのまま残っていた。違和感を感じた理由はすぐに判明した。つまり・・自分の部屋とは思えないほど、キレイに整理整頓されていたのだった。

畳一枚分のスペースに、必ず2~3枚は落ちていたコンビニ袋は、大きな紙袋に放り込まれて、壁際に立てかけられていた。万年床だった煎餅布団は、三つ折にされ、やはり壁際まで退避されていた。これだけで、室内スペースに格段の広がりを感じる。他人の部屋にいるみたいだった。劇的ビフォア・アフターである。さらに、部屋の中央には、どこかで見覚えのある雑誌類がキチンと整頓されて、積み上げられていた。惜しむらくは、青少年育成の観点からは好ましくない類の図書と申すべき雑誌類であったことだ。自分ですら隠し場所を忘れかけていたワイセツ出版物との再会。しかも、これ見よがしに室内で一番目に付く場所に晒されている。絶対、嫌がらせだろ、これ。

「ヨイショっと」

息を弾ませた声と、ビニール袋のこすれ合う音がした。
僕は、積み上げられたエロ本の前に佇んだまま、背後を振り返った。

玄関で靴を脱いでいるのは、見紛うことなき、あの女性だった。すでにこの部屋を出て行き、二度と会うことの無いはずの彼女。スーパーのビニール袋を両手に提げて、息を切らして立っている。今しがた買い物を終えて帰ってきた若妻風だった。喩え方がオッサン臭いのは勘弁して欲しい。

「あ、お帰りなさい。早かったですね。帰宅は7時30分になるって聞いてたので、まだ余裕があるかなと思ってたんですけど」

「え、ごめんなさい・・仕事が早く終わって・・」
なぜか言い訳モードに入った僕に、「ハイハイ」という感じで笑みを浮かべながら、彼女は台所へ移動した。スーパーのビニール袋から食材を取り出して、冷蔵庫へ詰め替え始める。この光景を第三者が見たら、彼女のことを僕の恋人だと思うに違いない。かどうかは分からない。

冷蔵庫への詰め替えを終えた彼女は、炊飯器に無洗米と水を注ぎ、早炊きモードのスイッチを入れた。炊飯開始の電子音がピピっと鳴る。
「これでよしっと」
やおら彼女は僕の方を振り向いた。目が合ってしまった。

僕は反射的に目をそらしたが、そらした視線の先にはワイセツ出版物の山があった。あわてて地べたにしゃがみ、スーツの上着を脱いでお見苦しい雑誌類を覆った。後ろ手で壁際に厄介払いしながら、苦しい笑みを彼女に投げかける。この場に置いた張本人が彼女なのだから、いまさら隠しても意味はないのだが。隠さずにはいられないのが男の見栄というものだ。

そうこうする内に、彼女は僕の顔を見つめながら、ゆっくり近づいてきた。野生の猫が忍び足で獲物に近づくみたいだった。僕がネズミなら一瞬で、「窮鼠猫を噛む」暇もなく、お陀仏だったろう。なにしろ足音もしないし、床も軋まない。あまりに無音なので彼女の足元をチラと見たら、足先が地面から数センチぐらい離れていた。

紛れもなく彼女は空中に浮かんでいた。どうりで足音がしないわけだ。ドラえもんかよ、と突っ込みたかったが、別な意味で解釈されたらセクハラで訴えられる危険性があるため、黙っていた。女性上位社会に生きる男の悲しい性だ。もっとも、彼女はいたってスリムな体型ではあるが。・・それにしても、昨日の夜、僕が彼女に抱きかかえられて空を飛んだことは、気のせいではなかったのだ。今それを、目の前で彼女が再現して見せているわけだ。

空中を移動してきた彼女は、僕の目と鼻の先で畳の上に着地し、地べたにペタンと座り込んだ。いわゆる女の子座りだ。二人で向き合う形になった。彼女はやおら、自分の上着の裾から手を入れて、胸の辺りをごそごそ動かし始めた。ちょうど、学校の体育の時間に、制服を上に羽織ったまま内側だけ体操服に着替えたり脱いだりする時の仕草に似ていた。まさか。何かを脱いでいるのか。僕のヨコシマな妄想がわくわくと広がっていく。やがて上着の裾から、白い布状の凹凸のある物体が引き出されてきた。ブラジャーか?ブラジャー以外のものか?もしくは、やっぱりブラジャーなのかな?なぜここで脱ぐ必要がある?展開に無理があるよ?でも脱ぎたいなら脱げばいいさ。その時の僕は、ストリップ小屋で俎板ショーに声援を送るオッサンと大差なかったと思う。


「これが、重力制御装置です」
取り出した布状の物体を両手で広げて、彼女は言った。じゅうりょくせいぎょそうち、だって。カタカナ5文字ぐらいの別の品名を期待していた僕は、予想に反した重厚な名称の意味を、すぐに把握できなかった。しばらく頭の中で「じゅうりょくせいぎょそうち」という平仮名を反芻しつづけて、ようやく「重力制御装置」という漢字変換に成功した。漢字の意味を理解した瞬間、僕のエロゲ的妄想は急速に吹き飛んだ。


引力とは、物体同士が引き合う力だ。引き合う物体の片方が、地球という惑星に限定されたら、引力ではなく重力と呼ぶようになる。決まりごとだ。だから重力とは、地球が他の物体をひきつける力のことをいう。ちなみに重力のことを英語ではグラビティと言う。週刊誌のグラビア写真とは似て非なるものだ。さて、物体が質量を持っているのは、重力のしわざである。もし重力を自由にコントロールできたら、物の重さを自在に変えることが出来る。100キロの巨石を片手で持ち運ぶことも可能になる。逆に1グラムの羽毛で人間を押しつぶすことだって可能だ。人間の体重を空気程度の軽さにしてしまえれば、宙に浮かんだって不思議じゃない。

ざっと、文系脳の僕にはこの程度の考察が限界なのだが、理屈はこの際おいておく。事実、彼女は僕の目の前で宙に浮いたんだから。

興味深そうに見入っている僕へ、その布状の物体(つまり重力制御装置)が手渡された。受け取ってみると、想像よりはるかに軽かった。見た目と同様、布が折り重なった程度の重さしか感じない。

「腕に巻いてみて」
そう彼女が促した。僕は手にしている布状の物体を、右腕に巻きつけた。ケガをして包帯を巻いているようにしか見えない。
「頭の中で、何か動くことをイメージして」
彼女は矢継ぎ早に指示を出してくる。僕は言われた通りに、イメージを開始した。今しゃがみ込んでいる自分が立ち上がる、という単純なイメージ。

すると右腕に巻いた布が、血圧計のように収縮しはじめた。次の瞬間には、全身の疲れが吹き飛んだみたいに体が軽くなり、エレベータで一気に下降する時のような浮遊感を得た。

突然、彼女が身を乗り出してきて、僕の額を人差し指で小突いた。
「あっ」と叫ぶ間もなく、僕は1メートルほど後方へ押し流された。
指先で軽く突かれただけなのに、なぜ抵抗も出来ず押し流されたのか?理由は簡単だ。僕の体が無重力状態で、宙に浮いていたからだった。先ほど得た浮遊感は、ただの錯覚ではなかった。僕の身体は実際に空中へ浮き上がっていたのだ。

僕は後方1メートルほどの場所で畳の上に着地した。右腕の布は、もう血圧計のような締め付けを失い、爽快な体の軽さも失われていた。僕にとっての無重力初体験は、あっさりと幕を閉じた。

「重力制御装置は、それを身体に巻きつけた人の全細胞を走査するの。細胞の数をカウントして、それをもとに人体の質量を割り出し、その質量が限りなくゼロになるよう、重力を弱めるんです。その結果、空中に浮かぶことが出来るというわけ」
彼女が簡潔に説明した。
僕は「なるほど」と頷いたが、まったく理解できていない。いわゆる生返事というやつだ。とはいえ、彼女も、僕に対して深い理解など要求していないだろう。僕は素人の思いつきをそのまま尋ねてみることにした。

「・・じゃあ、この装置を身につけてる人だけが空を飛べるの?1人用ということ?でもこの間、キミは僕を抱えて空を飛んだけど」
「体が密着すれば、重力制御装置は、それを同一個体として認識してくれるんです。それを想定して開発されたわけではないけれど、装置の認識誤差だと思います」
「へー」
何を言われているのかサッパリなのが辛いところだ。ゆとり教育の弊害は、国家的損失以前に、個人的な共感の損失なのかも知れない。

僕は腕に巻いていた布状の装置をはずして、彼女に差し出した。
「ありがとう。ねえ、もしかして、時間制御装置というのもあるの?つまり、キミがこの間、僕を助けてくれたときに、時間が停止したのも・・」
「ええ、同じような装置を使いました。ここでデモンストレーションしてもいいんだけど・・ものすごく体力を消耗するので、あまり使いたくはないかな」
そう言って、彼女はチラリと下腹部の辺りに目をやった。重力制御装置を胸部に装着していたように、時間制御装置も下着みたいに身につけているのだろうか。僕はまた不遜な妄想にとりつかれそうになった。

「使ってしまうと、何時間もぶっ通しで眠るぐらい疲れるものなんだ?」
「時間制御装置は、特に疲労度が高いですよ。でも、重力制御装置で空を飛ぶのだって、長時間続ければ、身体に害があります。何ヶ月も宇宙空間で暮らす宇宙飛行士みたいに、体が無重力に慣れてしまうと、元の重力に耐えられなくなるので。時間を止める行為も、通常の時間の流れを無理に押し留めるのだから、元の時間の流れに戻った時に、全身の細胞が適応障害を起こして傷みます」

「なるほど・・でも、すごいなあ。そんな機械がこの世に存在するなんて。夢みたいな話だなあ」
僕は素直な喜びを口にした。家族で科学万博を訪れて、パビリオンに歓喜する小学生みたいだった。男の子は誰だって夢想家だ。僕の場合、「男の子」という年齢でもないが。
しかし彼女の方は、話の途中から段々と、神妙な面持ちに変化していった。何か別な考え事をしているようだった。その様子に僕も薄々気づいてきて、はしゃぐのを一時中断した。

「・・この重力制御装置や時間制御装置を作ったのは、私の父なの」
目を伏せて、彼女は言った。
意外、でもなかった。彼女がこれらの装置を当たり前のように所持していたり、その仕組みに熟知している様子からすれば、彼女自身、この装置に因縁を持っていて不思議じゃない。開発者の娘なら、まあ納得だ。
「キミのお父さんはすごい人だねえ。こんな製品を作り上げるなんて。大学の研究者みたいな人?国の研究機関で働いてるとか?」
「今は、監獄にいるわ。秘密警察に逮捕されたの」

沈黙が訪れた。
彼女は台所の炊飯器を振り返り、タイマー時刻を確認した。

弱い笑みを浮かべて僕の目を見た。
「ご飯が炊き上がるまであと30分ね。もう少し、お話しましょう?」
彼女の瞳に、部屋の裸電球の明かりが反射して、黒曜石のような暗い光を放っていた。
僕はゴクリと息を飲み込んだ。
秘密警察、と彼女は言った。

僕の些少なる歴史知識をひもとけば、第二次世界大戦時のドイツにそういった組織があったはずだ。今はなきソビエト連邦にも似たような組織があったかも知れない。日本にも、特高警察という同系統の組織があったと記憶している。どの組織にも共通なのは、国家にとって不利益な団体や個人を問答無用で処罰する血なまぐさいイメージ。だが、現代の日本には、少なくとも表向き、そんな組織があると聞いた事はない。

彼女は上着の内ポケットから革の財布を取り出し、一枚のカードを抜きとって僕に見せた。彼女の顔写真が貼られている。恐らくは運転免許証。「恐らく」と言うのは、僕自身、運転免許証を所持していないため、本物を識別できないからだ。9割9分、運転免許証に相違ないそのカードには、彼女の氏名と生年月日が記されていた。

「サカキ・マナミ。2043年12月8日生まれ」
僕は音読し、しばらく固まった。落ち着いて考えよう。今年は2007年だから、彼女の年齢は2007-2043=-36歳ということになる。・・計算がなんだか変だ。僕が生まれたのが1980年だから、僕と彼女との年齢差は2043-1980=63歳か。なるほど。やっぱり変だ。・・ちょっと待て、2043年生まれ?

爬虫類並の鈍感さを誇る僕の脳髄も、見過ごせない事態だとようやく認識したらしい。
僕の混乱をよそに、彼女─サカキ・マナミは、免許証を財布に戻した。

「そういうことなの」
「いや、そういうことって・・どういうこと?印刷ミス?偽物?それとも・・子供銀行券っぽいやつ?」
人間は混乱に陥ると、自分にとっての合理的な解釈を探し出そうとする。僕にとっての合理性とは、子供銀行券であるらしい。スケールの小ささをヒシヒシと感じる。

一方のサカキ・マナミは、僕の動揺に感化されることなく、落ち着いて首を横に振った。
「私は本当に2043年に生まれたんです。今は22歳です」
僕は眉間に人差し指をあてて、TVドラマの刑事よろしく、思考の整理を試みた。
「2043年に生まれた子がいま22歳ということは、今年が2065年じゃないと辻褄が合わないわけで・・でも今年はどう考えても2007年なわけで・・」
「2065年の日本から2007年の日本へやってきたんです」
「つまり、それって・・」
「時間遡行です」

耳慣れない言葉に、僕が眉間の皺を一段と深くしたのを察知して、彼女は言いなおした。
「未来の世界から時間を遡ってやって来たということです」
彼女の生年月日を信じる限り、そういう結論しかありえなかった。

彼女は今から36年後の未来から時間を遡りやって来た。なるほど。こういう話を真顔で力説する人物と出会ったら、速効で警察か病院に連絡して引き取ってもらうのが筋である。話があまりにも荒唐無稽だ。時間を遡るだなんて、SF小説の題材でしかお目にかかれない代物である。もし僕が、昨日・・いや一昨日までの僕だったなら、触らぬ神に祟り無しとばかり、彼女をなだめつつ黄色い救急車を呼びに奔走していただろう。

しかし、今の僕には、彼女の話が与太・ホラ話の類とは思えない。昨日の一連の出来事、先ほど体験した重力制御装置の経験、そしてもう一つ、彼女が装着しているはずの時間制御装置・・。それらの存在がすでに、常識の枠を逸脱している。僕は科学者ではないから、現代科学の水準を知る由も無いが、少なくとも現代において、重力や時間を自在に操る装置なんて存在していないと考える方が適切な気がする。一方、未来においては、現代を遥かに凌駕する技術が存在しても不思議ではない。もし彼女が36年後の未来からやって来たのだとしたら、重力制御装置や時間制御装置を当たり前のように操るのも、おかしな話ではない。

これも一つの合理的な結論と言えなくもない、か。僕はそのような方向性で、自分を納得させる事にした。そうしてみると、先ほど話題に出てきた時間制御装置というのが、カギになる気がしてくる。

「もしかして、さっき話に出てきた時間制御装置というのは、時間を止める事だけが目的ではなくて・・」
僕の言葉を途中で引きとり、彼女が続けた。
「装置を装着した人の時間と、それ以外の人たちの時間という、二つの時間軸を作り出すことが、時間制御装置の目的なんです。その二つの時間を相対的にズラせば、時間を遡ることも未来へ行くことも、もちろん一時的に時間を止めることも可能になるんです」
彼女が笑みを浮かべて言った。僕が彼女の説明を拒絶せず、受け入れようとしていることに、安堵したのだろう。しかし僕には、さらに聞いてみたい点があった。

「その時間制御装置は、とても体力を消耗する代物だと言っていたけれど、ほんの数秒時間を止めただけで、キミは泥のように眠っていたでしょう?もし36年の時間を遡ったりしたら、それとは比較にならない位、身体に負担がかかるように思えるんだけど・・」
「その通りです。だから、身体に負担をかける時間エネルギーの緩衝材として、重力エネルギーが必要になるんです。時間が生み出すエネルギーを、重力が生み出すエネルギーによって相殺しているの。もしも、時間遡行によって生じた時間エネルギーをまともに受けとめたら、細胞が傷つくどころか、肉体ごとが消滅してしまいます。だから、重力制御装置によって重力エネルギーを発生させ、身体を保護しながら、時間制御装置で過去へ遡ったんです」

彼女の解説は、相変わらず僕の手に余る難解さだった。ともあれ、重力と時間と二つの装置を同時に使えば、時間移動が可能らしい。未来科学の進歩には頭が下がる思いだ。
「36年後なら僕もまだ生きているだろうから、時間旅行も夢ではないわけか・・」
「いえ・・」
彼女は言いづらそうに口ごもったが、話を続けた。
「これは試作品で、まだ実用レベルではないんです。安全性に問題があって・・」
「え?」

僕は耳を疑った。先ほどの彼女の話からすれば、時間を遡ることは、失敗すれば肉体ごと消滅する危険な行為のはずだ。もし時間を移動している最中に、重力制御装置が故障でもした日には、彼女の肉体がこの世から消滅してしまう。彼女自身が説明したことだから、よもや自覚していないはずはない。安全性に問題がある試作品を使って時間を遡るなんて、想像するだけで恐ろしい。自殺行為とまでは言わなくても、銃弾が一つだけ装填された拳銃でロシアンルーレットをやるぐらいの怖さはあるに違いない。

僕は問わずにはいられなかった。
「なぜ?」
「・・」
「どうして、そんな危険を冒してまで、36年の時間を遡る必要があるの?」
僕の問い掛けに、彼女は目を閉じて答えた。
「父を救うためです」
彼女の─サカキ・マサミの口元は悲しそうに結ばれていた。
9, 8

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