●黒い鳥
割と都会なこの町の、人気の少ない暗い路地裏を歩く、バイト帰りの午後十二時。
「まただよ」
と、隣で林田が呟いた。
「なにが」
「あいつ、あの女」
突然立ち止まった林田の見上げる先には、このへんでもまあまあ高いビルの屋上があって、そこには立ち尽くす女のシルエットがあった。
「…なにやってんだろうな」
「知らん。だけどな、ここ通るといつもああしてるんだよ、あの女」
女はかっちりとしたコートを羽織り、長くて真っすぐな黒髪を風になびかせていた。それは、思わずみとれるほどにとても美しかった。しかし、月明かりに白く浮かび上がる顔は、どこか悲しげだった。
――全ていつもと同じ。日常の中に浮き上がる非日常そのもの。
「いつ飛び降りるかとおもってヒヤヒヤしてたんだけどさ、どうやらそのつもりはないらしい」
「ふーん…」
俺、橋本拓は、そんなこと全て知っていた。悪いけどな林田、お前よりずーっと先に気付いてたんだよ。ばーか。
「じゃ、明日は開校記念日で学校ねえから、またバイトでな」
「おー」
「遅れんなよ!」
「わーかってるよ」
軽く手を振る林田の背中が見えなくなると、俺は来た道に向き直り、また路地裏に向かって歩き出した。
ビルのロビーから少しふるさびたエレベーターに乗り込む。チンと音がしてドアが左右に割れるように開く。夜風と星空。そして彼女の後ろ姿。
「遅かったね」
と、振り返らずに言う。相変わらずの透き通った声である。
「バイト先の店長が出張でな、人手が足りなくてなかなか抜けられないんだ」
「居酒屋のバイトって大変?」
「よっぱらいの相手やら色々やらされる」
吹き出しながらこちらに向き直る。
「なにそれ」
腰のあたりまでしかない柵にもたれかかりながら笑う彼女は今日も美しかった。
「ねえ、私決めたよ」
「何を」
「今日で、もうここにはこないことにする」
「…え」
「あなたがここに来てくれるようになって二ヶ月だし、もうあなたが私を忘れることは絶対ないでしょ?」
「はあ…」
「それに、私が今ここから飛び降りたら忘れたくても忘れられないでしょ」
彼女は毎日ここから世界を見下ろし、この世界からいなくなるタイミングをうかがっていた。俺のような自分のことを一生忘れない奴を求めながら。独り身なんだそうだ。はやくに両親もなにもかもなくして、愛した人や友達にまで迫害されて、――消えてやろうとおもったらしい。だが、誰にも覚えていてもらえないでいなくなるのは嫌なんだそうで――だがここ最近、俺という存在がみつかった以上もういついなくなってもいいのだと漏らしていたのを覚えている。
「今?飛び降りる?」
「うん、見てもらおうとおもって」
俺が?見る?俺に見せる?
「だめ?」
「そんなこと、言われましても」
「だって」
ふわっとコートをひるがえし、軽快なステップを踏みながら彼女は俺に近づいてきた。そしてすっと俺の額に右人差し指を突き立てる。
「非日常が欲しいんでしょ?」
にっと笑う彼女。
その通りだった。初めて屋上に立つ彼女を見たとき、これこそが俺の求めていたものだとおもった。ずっと求めていたもの。非日常。
「あげるよ、非日常」
思わず唾を飲んでしまう。
すたすたと柵に近づき、軽々しく柵を越え、むこうに立つ。
「じゃあね、拓」
倒れこむようにしてたちまち彼女の体は空中に放り出された。最後の言葉に、一瞬ぼんやりと、(俺いつ名前教えたっけ)と考えてから、柵の向こうに見えなくなった彼女の姿に驚き、慌てて柵に駆け寄った。バサッ、と音が聞こえて、目をこらすとビルの下には彼女の羽織っていたコートがあった。しかし肝心の彼女は見えない。どうして?なにが起こった?理解できないまま立ち尽くす俺の目の前を、何かが横切る。
――黒い、鳥。カラスである。
ああなんだ、最高の非日常じゃないか、と俺はおもった。