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ケロイド

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●ケロイド

 僕は朝の私鉄の電車の中でいつも文庫本に目を落としている彼女がすきだった。名前も何も知らないけれど、感情も何もないようにただ静かに文庫本の文字を視線でなぞる彼女のことがすきだった。真っ直ぐな髪の毛の一本一本が光にあたって肩から零れ、真っ白な肌を包みこんでいて、長い睫毛も桃色の唇も、女子高校の制服のスカートから伸びる白い足も、全てが愛しかった。大勢の人間の中で、彼女だけが輝いていた。僕の乗る駅から二つめの駅で電車に乗り、僕の降りる七つ前の駅で降りる、そんな彼女をただみつめるだけの毎日。でもそれ以上は望まない。僕はそれだけで幸せだった。
 その日も制服の上に紺色のダッフルコートを身にまとった彼女に視線を這わせる。しかし。
「…ぜ、ぜぇ、ヒュウ」
 目の前が暗くなって息苦しくなるこの感覚。数年ぶりの過呼吸の症状であった。よりによってこんなときに―なにしろ、本当に久しぶりだったのだ。ビニール袋は鞄の内ポケットに常備してあるものの、取り出そうとしても指先が痺れて思うように動かない。もどかしさと息苦しさ―。
 はっと気がつくと目の前に彼女がいた。僕の顔を覗き込むようにしてかがんでいる。いつものあの静かな視線はなく、少し彼女も息が上がっている。
「大丈夫ですか、おさまりましたか」
 初めて聞くその涼やかな声。
 よくみると彼女の手にはビニール袋が握られており、どうやら彼女が僕の口にビニール袋を押し当ててくれたようである。どうりで今呼吸が楽なわけだ。夢中で呼吸をしていて気がつかなかった。そして彼女が背中をさすっていてくれたことに気付く。―理解した途端、僕はどうしようもない恥ずかしさとかそういうものに襲われた。顔がトマトのように真っ赤だったとおもう。
「あ、…ありがとう、ございました」
「いえ」
彼女はにこりと笑って、
「私、天井こよりっていいます」
 と言った。

 以来、彼女は電車で僕をみつけると、笑顔で僕の隣に座ってくるようになった。彼女との会話は授業の進み具合だとか週刊誌の新連載だとかほとんどが他愛ないもので―なんだか僕は外に出ることを許された鳥篭のなかの小鳥のような感覚でその話に耳を傾けていて―、一秒一秒が愛おしく感じられた。僕が知っていたのは、彼女が天井こよりということ、女子高校に通っていること、隣家に犬が三匹いるということ、それから小さいころ過呼吸の発作が頻繁に起こったことがあるということだけであった。どこで生まれ育ったのかも、誕生日も、実質僕はこよりのことをなにも知らなかった。
「あ、今日は『ill』の新刊の発売日だよ」
「ライトノベルだっけ?」
「そうそう、葛城くんもライトノベルとか読むんだ?」
 葛城とは僕の名字である。
「結構読む、かも」
「あたしもすきだよー、ライトノベル。あ、これ今読んでるんだけど」
 こよりの表情は笑ったり真顔になったりとリズムがあって、全く飽きがこない。むしろ見ていて面白いくらいである。
「ちょ、ちょっとー、聞いてるー?」
「ごめん、聞いてる聞いてる」
「ひどいよ葛城くん、人の話はちゃんと聞かないと―あ、着いちゃった」
 見るとこよりの降りる駅である。
「じゃあね、また明日の朝にっ」
 顔の横に手をビッと当てると、軽やかなステップを踏みながら電車を降りるこより。
なんだか毎日の電車に乗っている時間が、以前に比べて更に早く感じられていた。彼女が電車を降りた後の隣の座席は、なんだかとても寂しく感じられた。そうして僕は徐々に彼女に依存していったのだった。

 しかし、二週間程経ったある日を境に、こよりは電車に乗ってこなくなった。ぱったりと姿を現さなくなったのだ。こよりの乗ってくる駅で電車の扉が開いて、いつものようにこよりの姿が見当たらないことに、大勢の人のどこにもこよりが見当たらないことに、僕はもどかしさと切なさを覚えた。こよりの連絡先も何も知らなかった僕は、ただ毎朝同じ電車でこよりを探すことしかできなかった。
 ―だから嫌だったのだ。遠くからみつめるだけで十分だったのに。こうなることは過呼吸の発作が起こったあの日からなんとなく予想はしていた。依存してしまうと。こより無しでは生きていけなくなると―。
 と、その時である。目の前が暗くなり、息苦しくなる、あまり久しくないこの感覚。
「ヒュ…ヒュー、ぜぇ、ぜぇ」
過呼吸。フラッシュバックする記憶。押し当てられたビニール袋。こよりの瞳。
 でも今は―こよりはどこにもいない。
「ぜえ、ぜえ…」
 呼吸は激しさを増す。同時に体の痺れと息苦しさも勢いを増す。
 ビニール袋。二つの瞳。息苦しさ。背中をさする手。天井こより。電車の揺れ。差し込む光。息苦しさ。天井こより。ああ駄目だ、と思った。こよりがいない、と思った。こよりが僕の隣にいない。
 こんなことになるなら、僕ら出会わなければ良かったのに。



 ―記憶が途切れる。
5

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