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夢の堕落

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●夢の堕落

 わたしの名前はナンバー零七三。上半身は人間(耳の近くにえらがある)で下半身は魚である。幼いころ、研究所の人間によって魚と合成された成功例で、研究所の人間にナンバー零七三と呼ばれている。だから、それがわたしの名前である。
 わたしは正方形に水が天井まで入った部屋で幼いころから今まで生きてきた。白く光って見える部屋のなかには水草と無機質な色の砂が敷かれていて、壁をつたうひとすじの管がちいさな泡をいくつも出している。水はいつも澄んで綺麗だ。
 部屋は硝子張りで、ただこのなかだけが明るい。外は真っ暗である。毎日、暗闇から研究所の人間が何人も浮かび上がって部屋を取り囲み、わたしを観察し、メモする。暗闇はどこと繋がっているのだろう。暗闇の向こうに目をこらしてもなにも見えないから、わたしは切なさに涙を流す。

 世界にわたしは死ぬまでひとりぼっち。

 それは違った。
 今まで気付かなかったけれど、いつもわたしの側にいるひとがいた。彼女は上半身は人間(耳の近くにえらがある)で下半身は魚で、わたしと同じだった。彼女はわたしが笑うと笑い、わたしが泣くと同じように泣いた。わたしが側にいるとわたしから離れず、わたしが遠ざかると彼女も遠ざかった。なにからなにまで彼女はわたしの真似をした。わたしが食事を残しても、わたしが水草にからまっても、同じようにした。
 でも、彼女はわたしと一切会話をしようとしなかった。彼女に名前を聞くと、彼女は笑ってばかりでなにも答えず、わたしがなにを言ってもなにも返そうとしなかった。それで一度喧嘩をして、しばらく彼女に近づかず、あるとき彼女を見ると、彼女もわたしと同じような顔をしていて、それ以来彼女に会話を求めることをやめた。言葉なんてなくてもわたしたちは分かち合えることに気付いたからだ。

 わたしには彼女がいた。逆にいうと、彼女しかいなかった。

 あるときを境目に、研究所の人間が部屋の回りに現れなくなった。同時に食事も与えられなくなり、小さな泡を出していた管も動かなくなってしまった。わたしはしばらく水草を口に含んで空腹を紛らわそうとしたが、そのうちに体に力が入らなくなり、とうとう動けなくなってしまった。ああ、このままどうなるのだろう。ふと横を見ると、彼女がいた。彼女は穏やかな顔でわたしを見ていた。初めて見るわたしと違う表情。
 わたしは力を振り絞って言った。
「…わ、たし、…どうなるのかし…ら」
『ここではない世界へ行くのよ』
 彼女と初めて会話をした。澄んだ高い声。
「ここでは、ない…世、界…?」
『そう、ここではない世界。あなたの知らない世界。闇につつまれた世界』
「…闇」
 寒気がした。闇。わたしの憧れた部屋のむこう。
『そう、闇。あなたの知りたい世界。…でもごめんなさい、わたしはあなたと一緒には行けない』
「っ…ど…し、て」
『存在することを許されないの』
「…解、らな、い」
『今度こそ世界であなたはひとりぼっちになるわ』
 世界でひとりぼっち。わたしが一番恐れていたことが。
「い…や、いや…あなたと、一、緒」
『無理よ。わたしは存在することを許されない』
 もう一度繰り返すと彼女は静かに微笑んだ。
『あなたは憧れの世界へ行けるのよ』
「あなたの、いない、世、界なん、て…考え、られな、い」
『大丈夫、わたしのことなんて忘れるわ』
「嫌よ…そんな…」
 目尻から涙が出、水中に消える。
『泣かないで、大丈夫、あなたは自由になれるの。怖くなんかないわ、ナンバー073』
「嫌、嫌、よ、一緒、一、緒に、」
 彼女は起き上がるとわたしにおおいかぶさり、唇に唇を押し付けた。細い腕に抱きしめられる。
『もう時間よ』
「い、嫌…だめ、一、緒、に…」
『今までありがと。愛してるわ、ナンバー零七三』

 部屋の光がふっと消え、あたりは闇に支配される。彼女はもうどこにも見当たらない。

 わたしは今までとは違う世界にひとり放り出された。

 それから物音ひとつしない世界で、彼女のことを考えて、意識が永遠になくなるまで泣き続けた。
9

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