残党編-10【アッシュ】
葛藤。 後悔。 遺憾。 忸怩。
取り返しのつかない事をしてしまった後特有の、病的な気だるさ。
突然、無気力になってしまった。
昨日までの、活力に溢れた俺が嘘のようだ。
俺は、駅ビルの立体駐車場の柱の影から、空を覗いていた。
ここはこんなに薄暗くてかび臭いのに、一歩外に足を踏み出すと、眩しいほどに太陽が燦々と輝いている。
俺は、マイルドセブンの箱を懐から取り出すと、一本を取り出して口に咥えた。
普段から喫煙癖がある訳ではない。
煙草の煙を燻らせれば嫌な事も一緒に出て行くのではないか、というあらぬ信仰からいつも持ち歩いているだけだ。
だが、今俺はそんな血迷った幻想にでもすがりたい気分だった。
出来る事ならば、俺は今、この世から塵も残さず消滅してしまいたかった。
俺が仮に吸血鬼とかいうブラム・ストーカーの生み出した人外魔性であったのなら、あの太陽の下に足を踏み出しただけでその願いは成就したのだ。
何故、俺はあんな致命的なミスを―――――――
俺は、つい数十分前、この地下十何メートルか下で起こった事件について思いを馳せた。
確かに、出だし俺は緊張していた。
一度は帰りたいとさえ思った。
しかし、ユゲやトーヤの演奏で自分を取り戻し、狂った歯車は再び噛み合った。
あのまま、身体の覚えたフレーズに身を委ねていれば、何も問題はなかったはずなのだ。
だが、アキラが視界に入った瞬間、俺は何か訳が分からなくなってしまった。
自信が、ぐらついた。
その一瞬の怯みが、一週間で築いた張りぼての自信に一筋の亀裂を生み出し、後はそこから崩れるように瓦解して行ったのだ。
一度曲が止まってしまった後、もう一度最初から曲をやり直したが、結果は惨憺たるものだった。
アクシデント。 イップス。 スランプ。
いや、その言い訳は適切ではない。
俺はそもそも何も順調に行っていなかったのだから、そんなのは理由にすらならない。
結局、俺はなるべくして失敗したのだ。
俺は、ライターを着火すると、煙草に火を点けた。
慣れていない肺胞に、急激に紫煙を吸い込んだ俺は一気にむせた。
煙草の味なんか分からなかった。
ただ、煙草を吸うという行為そのものでストレスが発散されるような気がした。
頭がぐらぐらする。
ここにアルコールでも入れば最悪な気分になるだろう。
すでに自暴自棄になっていた俺はそれでもいいと思った。
自傷しなければ気が済まない。
糞。 糞。
これは俺だけの問題ではないのだ。
俺のミス。 ドラムのミスというのはバンド全体のミスという事だ。
ギターが止まっても演奏には支障がない。
ヴォーカルが止まろうが、ベースが止まろうが、曲が止まる事は無い。
だが、ドラムは止まっては駄目なのだ。
ドラムが止まるという事は、曲が止まるという事なのだ。
もし、パートの誰かが自分を見失った時、拠りかかる事の出来る最期の砦。
バンドの大黒柱。 精神的支柱。 リズムの起点。
それが、ドラムなのだ。
大黒柱が潰れたらどうなるか。
曲が崩壊する。 バンドが崩壊する。
ドラムというのは、それだけ責任の伴なうパートだ。
ドラムが無ければ、バンドは練習さえままならない。
何故俺は。 何故。 何故。
悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれない。
時間は、逆さまには戻らない。
だから、過去は永遠に過去として残るのだ。
このまま、この場から消えてしまおうか。
そうしたら、どうなるか。
その先の想像には、至らなかった。
それ以上先を想像する事を、俺の理性が許さなかった。
さほど頭を働かせなくとも、その先には最悪の未来が待ち受けているに違いないからだ。
自己防衛本能による、思考の停止。
なんというクズ。
自省にさえ俺は躊躇を見せると言うのか。
――――――背後に、ふと気配を感じた。
当たり前か。
ここは駅ビルの駐車場だ。
人などいて当たり前なのだ。
だが、その視線は見知らぬ第三者のものではなかった。
病的な痩身と、猛禽類を思わせる鋭い眼光。
千葉彰人。 我らがヴォーカル。
そいつが、意外にも無表情でこちらを見下ろしていた。
あるいは、呆れ過ぎて声も出ないか。
だが、それさえ俺には気に留める気になれなかった。
まだ罵倒された方が気が楽だ。
ああ、そうだ。
それで気が済むのなら、好きなだけ罵倒して欲しい。
今の俺に必要なのは贖罪なんだ。 断罪なんだ。
終止符を打ってくれ。 くだらない葛藤ごと介錯してくれ。
お前なんか要らないって。 お前なんか、バンドには不必要だって。
自分が無価値だと諦めた方が、今の俺には楽なんだ。
やっぱり、俺には無理だったんだ。
出来る筈無かったんだ。
何かになれるなんていうのは、幻想だった。
僅かばかりの努力を過大評価して、何かになれた気でいただけだった。
オンリーワンだって?
自分でも、気づいていたじゃないか。
一介の人間が、そうそうオンリーワンなんかになれっこないって。
俺は、黙ってチバの言葉を待った。
「だせーな、お前」
吐き出された、第一声が、それだった。
「リハでミスったら、駐車場でこそこそヤニ吸って不貞腐れるって……中坊みたいじゃん。 マジ終わってんな」
「ああ……そうだな」
淡々と、チバは言葉を続けた。
何故か妙に落ち着いて見える。
俺には、チバの意図が読めなかった。
プライドの高いコイツの事、見せ場を潰されてもっと激昂しているかと思っていた。
「で、もう済んだか」
「あ?」
「打ちひしがれんのはもう済んだかって言ってんだ」
何……を言ってるんだ、こいつは?
「そいつを吸い終わったら戻るぞ。 俺達はトッパーなんだ」
「おい、待て……よ」
俺は、つい言葉に出してしまった。
最期の一線を、踏み越える言葉を。
「もう………辞めないか?」
ああ―――――――言ってしまった。
「ああ?」
「もう、無理だ。 出来っこない。 ハナから、無理な話だったんだよ。 俺達に、プロのライブなんて」
「何言ってんだ、お前? 自分の言ってる意味、分かってんのか?」
「ああ、分かってる。 分かってるよ。 俺には、無理だった。 俺にドラムなんて無理だったんだよ。 俺の身の丈は、俺が一番良く知ってる。」
「お前――――――」
「俺は、怖いんだ。 怖くてたまらないんだよ。 自分の役割を果たせない事が。 バンドのビートを支えられない事が。 分かるだろう? ドラムのミスは、バンドのミスだ。 ドラムが止まれば、曲が止まる。 俺の右腕に、バンドの音が、命運が乗っかってるんだ。 それが、俺には重圧なんだよ。 そう思うと、とても怖くなるんだ。 臆病なんだよ」
自分の内心を吐き出すように、俺が言った時だった。
唐突に、チバの右の拳が、俺の顎を捉えていた。
衝撃。
俺は、口に咥えた煙草ごと、アスファルトの床に叩きつけられていた。
「馬っ鹿野郎。 このチキン野郎が。 チキン・オブ・チキンが」
ああ――――――――そうだ。
そうしてくれ。
そうして、救いようの無い俺に、見切りをつけてくれ。
起き上がる気配のない俺の襟首を掴んで、チバが俺を無理矢理引き起こす。
「痛い自分に酔ってんじゃねぇよ、クズ」
今度は左の拳だった。
もろに鳩尾に入る。
一瞬、呼吸が詰まって、息を吐き出す事が出来なくなった。
「まだ自分が信じられねぇのかよ」
チバは、俺の髪をひっつかんで、俺の目を見据えた。
打撃の威力自体は、俺の方が体格があるのだから大した事はなかった。
それよりも、チバの言葉の方が、今の俺には痛かった。
「俺の目も節穴じゃねぇ。 赤井のムスメに弟子入りして練習してたことくらい知ってる」
なんだ―――――――見透かされていたのか。
結局、チバも、アキラも知っていたという事か。
とんだ道化だ。
そして、そこまでして努力しても、結局、並のドラマー以下だった。
ああ、そりゃそうか。
技術は練習で強化出来ても、精神力は持って生まれたものだ。
俺は気づいてしまったのだ。
心が強くなければ、そもそも“ドラマー”にすらなれないという事に。
「逃げ出す事をまず決めてから逃げる理由を考えてんじゃねぇよ! 何かになろうと思ったら、まず目的を先に選ぶんだ! そこからそれになろうと努力するんだろう! 俺達一人の力なんて、たかが知れてる。 そいつを基準に選んじまったら、何も出来やしねぇだろが。 無茶なんて、最初から承知なんだよ。 だけど、その無茶を通さなきゃ、俺達は永遠に残党だ! 永遠にだ!!」
そういえば、そうだったな。
チバの行動原理は、いつもそうだった。
『ZAN党』を作った時も。
このライブを決めた時も。
オリジナルをやろうとした時も。
いつもこの男は、目的を先に決めていた。
たとえそれが荒唐無稽に見える目標でも、常にそれに向けて、最大の努力をしていた。
今にして思えば、今までの学園祭ライブでの奇行も、やつなりにライブを盛り上げようとした苦肉の策なのだろう。
目的を見定めたら、それに向けて恥も外聞も捨て去って成就させようと努力する。
それが、このチバという人間の行動哲学なのだ。
それが、俺という人間との違いだ。
俺はまず、物事に諦観から入ってしまう。 すぐに、俺自身の力の限界を定めて、見限ろうとする。
限界の一歩手前の範囲でしか、努力しない。
ああ、そうか。
だから、俺は、残党だったんだ。
何にもなろうとしなかったから、何にもなれなかった。
何もやろうとしなかったから、何もやれなかった。
子供でも分かる、単純な結論だ。
目頭が熱くなるのを感じた。
涙が涙腺を昇ってくるのを感じた。
逃げ出すのか?
俺は、また―――――――――ここから逃げ出すのか?
「自分を賭ける物が、見つかったんだろうが! 今ここでやらなきゃ、お前は一生、何にもなれねぇぞ! ――――――――いや、違うな。 それも、俺の建前だ。」
チバは、そこでふと明後日の方向を向き直した。
「本当は、お前の事なんかどうでもいいんだろうな、俺は。 いや、お前だけじゃない。 ユゲや、トーヤの事だってきっとどうでもいいと思ってる。 自己中だからな、俺は」
「―――――――――」
急に、何を言い出すんだこいつは?
俺にはチバの意図が、理解できなかった。
「本音を、一度だけ言ってやるよ」
チバの手が、俺から離れた。
何をしようとしてるんだ、こいつは。
チバの影が、すっと俺よりも小さくなった。
チバが、地面に向かって膝を着き、首を垂れていた。
「俺から音楽を取ったら、もう何も残らねぇ――――――――」
土下……座………?
「お願いです。 俺に音楽をさせてください。 お願いします」
それはおそらく、今までの人生で、いやおそらく、これから先にも二度と聞く事の無いであろう、チバの懇願だった。
チバのこんな姿を、俺は想像しただろうか?
あのチバが、俺に頭を下げている。
文字通り、恥も外聞も金繰り棄てて。
俺に音楽をさせてください――――――
それはきっと、チバの、人目も何も気にしない心の底からの本音なのだろう。
チバは音楽に全てを賭けているのだ。
チバはもう来年には社会人になる。
大学に行って自分探しなど悠長を事をしている余暇は無い。
第一、この先の人生で音楽以上に自分を賭けるに足るものに出会える保証など何処にもないのだ。
チバは全てを投げ打っていた。
チバはいつでも全力疾走だった。
人生を長いスパンでなど考えない、常に短距離走のペースで駆け抜ける。
ああ、凄いわ、こいつ。 感動的だ――――――――
俺は今、心が動くのを感じていた。
言葉が、初めて心に届いた。
いつかカナメが言ってたな。
“必ずしも語彙は必要なものじゃない。 シンプルな言葉の方が、人の心に届く事も多い。”
チバは、まるで素のままの8ビートのような男だ。
飾る事を知らない。
真意を掴み難い。
だが、その生き方はずぶりと他人の心を抉ってやまない。
「くだらねぇ事を言ったな」
チバは、表情を隠して頭を上げた。
膝についた、砂利を払う。
「本番開始は、遅くても三十分後だ。 それ以上伸ばしたら、演奏中止になるらしい」
「あ―――――――」
「お前を、待ってる」
チバは、そう言い残すと、小走りに駐車場を去っていった。
俺は、黙ってその背中を見送る。
俺は、言い様のない罰の悪さを感じながら、その場に立ち尽くしていた。
俺は、まだ迷っていた。
チバの言い分に、心が動いたのは確かだ。
だが、現実としてあのステージの上に立つ事に恐怖感があるのだ。
これが完全に身内のライブであれば、話は別だったのかもしれない。
だが、本番にはあそこに一般の観客までも詰め掛けるのだ。
また俺は諦観に走ろうとしている。
逃げようとしている。
心に、保険を掛けようとしているのだ。
何故、俺がこういう思考の方程式を持っているのか、自分でも分かっていた。
つまり、俺は、自分に自信が無いのだ。
自分自身を、信じきれないのだ。
自分というものが、肝心の時に信用出来ないと思っている。
土壇場になると力が発揮出来ないと思っているのだ。
堂々巡りだ。
勿論、俺だってあのステージに立ちたい。
出来る事なら、スポットライトの中で、観客の喝采を浴びたい。
だが、さっきのリハで、その中でミスをする自分のイメージが頭に焼きついて離れないのだ。
うう―――――――――
自分の髪を掴み、駐車場の階下に目をやる。
ちょうどそこからは、駅ビルの入り口が見渡せる位置にあった。
その時、ふと、俺の視界に、フラフラと酔っ払いのように左右しながら歩いてくるギターケースが目に入った。
あれは――――――――
俺はその時、後先考えずに走り出していた。
立体駐車場を下って、駅ビルのエスカレーターへ。
歩行者用のエスカレーター線を駆け下りて、一階を目指した。
入り口の立体交差点の辺りに着くと、俺はすぐさまその姿を発見する事が出来た。
見まごう筈がない。
あのイカれたファッションは見間違えようもない。
―――――――――なぁ、ユラ。
「き、ぐゥ~~~~~~~~だね。 昨日会ったばかりなのに」
相変わらず、変な口調で出会い頭の言葉を突きつけてきた。
俺ははぁはぁと息を切らしながら、応、と答えた。
………あれ?
そもそも俺はなんでこいつに会いに来たんだっけ。
ふと、奇抜なファッションのこいつを階下に見かけたのにビックリして、後先考えない行動に出てしまった。
何をやってんだ俺は、こんな時に。
「あのさ」
「うん?」
「何で君、泣いてんの?」
ユラの言葉に、はっとして俺は目元を拭った。
いや、涙はもう乾いている。
しかし、目頭が赤くなっているのは生理反応だから誤魔化しようがない。
かすかな目の潤いを、ユラは見逃さなかったのだ。
「あー、なんか頬っぺたも腫れてるよ。 あ、そっか、いじめられたんだ」
「いや、全然違うけど……まぁ、完全に違ってもいないか」
「悩み事がある時はねー、ソープに行くといいよ。 北方謙三先生が言ってた」
「誰だよ、それ。 てゆーか、俺高校生だから行けねーよ」
馬鹿な会話だったが、平静さを欠いていた今の俺にこいつの飄々さがありがたかった。
また俺は一人で悲観的になるところだった。
「また今日も、『妄想ハニー』の活動か?」
「あーうん、そうだね。 ジャニスも飽きたから次は和田アキコにしようと思うんだ」
「………またそれは大胆な路線変更で」
「小林サチコの方が受けがいいかな?」
「………いや、アッコさんでいいんじゃないか」
「だよねだよね。 やっぱり日本の歌手の女王と言えばアッコさんだよね」
路上で和田アキコを歌って受けるかどうかはかなり謎だったが、こいつに社会的通念を求めるのがそもそもの間違いだ。
それにしても、こいつはこの夏場の真昼間からメイクして熱くないのだろうか。
その時、俺は、ふとある疑問をこいつに投げかけてみたくなった。
それは、昨日頭の片隅で思いつきながら、オナニー通りの住人にはしてはいけないかもと思い直して、ついぞ聞きそびれた疑問でもあった。
「なぁ」
「んん?」
「何で、お前は音楽をやってるんだ?」
根本的な問いかけ。
オナニー通りの住人は、音楽をやりたいけど、聴かせる相手がいないから路上に出る。
しかし、それは俺の先入観ではなかったか。
他のバンドマンがそうして揶揄しているから、俺もそう思い込んでいただけではないか。
きょとんとしているユラに、しかし俺は答えを促すでもなく答えを待った。
「だって、楽しいじゃないか」
「え」
「音楽は、一人だけだったら、ただの音なんだよ。 誰かとその音を共有する事で、初めて音楽になるんだ。 静寂は心を荒ませる。 だから、僕は音楽をやるんだよ。」
「たとえ誰も聴いてくれなくても?」
「聴いてくれなくてもいいんじゃない。 聴こえてさえいれば、それでちょっと心が潤う」
「――――――――」
「タカヒロ、音楽に技術なんて要らないんだよ。 技術をひけらかすのは科学者の仕事だ。 幸せな時間を共有させるのが、音楽人の仕事だよ」
ああ。
なんだ。
簡単な事だったじゃないか。
俺は、アナボリック・ステロイドの演奏を技術のひけらかしと言っておきながら。
気づいたら俺も同じ事をしていたんだ。
音楽を、自分を認めさせる手段に転化していた。
そんなもの、一時の優越感に過ぎないのに。
何かが、吹っ切れたような気分だった。
ユラ。
この、男かも女かも分からない、得体の知れないコイツが答えをくれた。
「なぁ、この後、予定あるか?」
「うん? 地下のグルメ街で、菜飯田楽を食べよっかなーって。 ここの田楽、絶品なんだよ」
「お前、その格好でグルメ街とかいい度胸してるよ……」
「なんで?」
「いや、なんでもない。 これ、よかったら、来いよ」
そう言って俺は、チケットを押し付けた。
「何だい、これ?」
「ライブのチケットだよ。 このすぐ後に、『イスカンダル』で演るんだ」
「ふーん? 田楽が早く出てきたら行くよ」
こいつ、音楽人のくせにライブより菜飯田楽の方が大事なのか……。
まぁいい。
開演まで時間はあと15分ある。
「じゃ、待ってるからな!」
俺はそう言って、ユラを後にすると、ライブハウスに向けて走り出した。
音はそれだけでは音楽にならない。
誰かと共有する事で音楽になる。
チバは言った。
俺に“音楽”をさせてくれと。
わかったよ、チバ。
共有しよう。 音楽という、幸せな時間と空間を。
それが、音楽という現象の全てなのだ。
技術は、あくまでその装飾に過ぎない。
自爆マシーンも女郎花も、ステロイドもマジック・マッシュルームも関係ない。
俺達は、俺達の音楽を演ろう。
恥も外聞もない、残党達の音楽を。
それで、何処かの誰かがちょっとだけ幸せになれるのを祈って。
あれ、ところで―――――――
俺、自分の名前、ユラに言ったっけ?
赤井カナメは、腕時計を見ながら焦燥感を感じていた。
もう、開演時間を10分も押している。
チケットは完売しており、観客も満員御礼なのだ。
多少時間が押すのはいつもの事だが、オープニング・アクトの『ZAN党』のメンバーが捕まらない。
セッティングは逆リハーサルのおかげで既に整っているものの、遅延時間にも限界がある。
あと5分時間が押したら、『ZAN党』のブッキングをキャンセルし、『自爆マシーン』の出番を繰り上げる事も考慮しなければならない。
『自爆マシーン』のセッティングにかかる時間も考えたら、決断は早め早めにしなければならないのだ。
今回のイベントは、『マジック・マッシュルーム』の事務所の人間も観客として観に来ている。
事務所の人間は、『マジック・マッシュルーム』のセルフ・プロデュース力を今回のイベントで計っているのだ。
セルフ・プロデュースの力が『マジック・マッシュルーム』にあると認めて貰えれば、今後のイベントにもバンド側の発言力はかなり大きくなるし、より自由なイベント展開が可能になる。
その為に、アマチュア界の実力派である後輩バンドの『アナボリック・ステロイド』や、元『ニトロ・グリセリン』の相沢雄一がヴォーカルを務める『自爆マシーン』、県外から遠征に来ているコア・ヴィジュアル系バンド『女郎花』など、コネクションを総動員してイベントを立ち上げたのだ。
唯一の計算外が『ZAN党』だった。
元々は地元の大学生のやっているメロコア・バンドがオープニング・アクトを務めるはずだったのだが、機材車の事故でバンドメンバーが入院する事になってしまい、やむなくキャンセルとなったのだ。
急なドタキャンだった為に、埋め合わせのバンドが上手く見つからず、『ステロイド』に頼みこんだ結果がこれなのだ。
他は実力派バンドで固めているので、一つぐらい初心者バンドがあっても問題ないが、初心者バンドにありがちなのがああいった演奏事故だ。
想定していた最悪のシナリオが現実になりつつある。
もはや、これ以上引き伸ばすのも限界だろう。
赤井カナメが見切りをつけようとしたその時だった。
控え室に、騒がしい来訪者が一つあった。
彼は全力疾走してきたのか、全身汗だくになって、ぜぃぜぃと肩で息をしていた。
それはこの一週間、飽きるほど見た、飽きるほどドラムを叩いていた、あの少年に他ならなかった。
高梁、貴弘。
その、無骨で不恰好なドラムを叩く初心者ドラマーの目が、先の死んだ魚のようだった沈んだ目とは打って変わって煌々としている。
“赤井のムスメ”ではなく、『マジック・マッシュルーム』の赤井カナメになった彼女は、ギリギリまで時間を押させたその『ZAN党』のドラマーに質問を投げかける。
「今まで、どこで時間を食っていたの?」
それはいつものどこか惚けた彼女とは違う、問い詰めるような厳しい口調だった。
「俺が、何でドラムを叩くのか、それを知りに行って来ました」
カナメはその回答に意表を付かれたのか、顔の険がふっと抜けた。
「答えは、見つかった?」
「ええ、まぁ。 道端歩いてた変なヤツが、教えてくれましたよ」
「へぇ? 何それ。」
「んーと………『妄想ハニー』、ですかね?」