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与党編-03【リリィ】

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雨宮春輝、通称・ハルキにまつわる逸話については、枚挙に暇が無い。
ハルキは帰国子女で、中学の頃に米国から日本に来たらしい。
正確なギター暦は不明だが、物心ついた頃にはもう触っていたというから相当なものだろう。
この軽音楽部に入部する時、彼女はいきなりエリック・クラプトンの名曲『愛しのレイラ』を華麗に弾いてみせて、先輩部員達の度肝を抜いた。
とりわけ、彼女が崇拝するギタリストは、イングヴェイ・マルムスティーンやエドワード・ヴァン・ヘイレンと云った、『ハードロック』というジャンルに分類されるアーティストばかりだった。
彼女がストラトキャスターを愛器にしているのも、それらのアーティストの影響だ。
その為、彼女のギターの属性も、自然と“速弾き”というジャンルに特化したものとなっていった。
高校レベルで速弾きに特化したギタリストを探すのは難しい。
そんな稀有な存在だった彼女は自然と先輩達に可愛がられ、いくつもバンドを掛け持ちして、様々なジャンルの音楽性をその内に取り入れた。
それに伴なって彼女のギターの腕も飛躍的に進化を遂げた。
三年になる頃には、彼女の腕はジャガーと双璧を為す軽音の二大ギタリストとしての地位を得るようになっていた。
コードを知らず、子供の頃から耳で捉えた音を頼りに感覚的にギターを弾いてきた彼女のギタープレイは、野性的と言っても過言ではないスタイルのものだ。
その卓越した技術力はどのバンドでも存在感を醸し出し、バンドの核となる為に、同輩や後輩からの信頼も厚い。
アキラ達の代は楽器の経験者が多く、先輩達から『黄金時代』とまで呼ばれたものの、協調性の無い問題児揃いであった為、ハルキが部長の座に収まったのはほぼ必然だったと言えた。






「はーい、いいですか、みなさーん! 黒板に注目ー!!」
ハルキは、ぱんぱんと手を叩くと、部員全員が自分の方を向いている事を確かめる。
PA卓のスイッチを入れ、司会用のマイクが入っている事を確認すると、部室全員に聞こえる様に声を張った。
「ご存知の通り、二学期には軽音楽部最大のイベント、学園祭ライブがあります! しかぁしっ! バンド数の多い軽音楽部の事、全てのバンドが出られる訳ではありません!!」
部員達が、息を呑んで次の言葉を待つ。
「学園祭ライブの出場枠は、大別して二種類あります! まず、一般の生徒から有志演奏を募る一般枠! 軽音楽部のバンドが出られる軽音部枠!! 去年まではこの比率が半々という事で、軽音楽部には六枠しか与えられませんでしたが、何と!! 今年は学園祭執行部の方に掛け合って、軽音部枠を二枠増やす事に成功しました!!」
ここで部員達から、おおっと歓声が上がった。
「しかし、元よりバンド数の多い軽音の事、枠が増えたとは云え、全てのバンドが出るには少々心許ないのが現状です! そこで! エントリーしたバンドの中から、八枠の出場枠を賭けて選考会を行ってもらいます!! 今年のエントリーバンド数は全部で十二バンド!! 出場枠は八枠! つまり、誠に遺憾ながら、四つのバンドが選考会にてふるい落とされる事になります! それでは今から、選考会にエントリーした十二バンドを発表します!!」
ハルキはそう言って、クリアファイルに挟んだ書類をパラパラとめくり始めた。
「まずは一番手! ハイロウズのコピーバンド、『なまけタイガー』!
 青春パンクの雄! サンボマスターのコピーバンド、『ファットマン・リトルボーイ』!
 エヴァネッセンスのコピーバンド、『デッドフィッシュ・シンドローム』! 涼先生の許可も取ってあるぞ!
 メンバーが全員一年生の新鋭! アークティック・モンキーズのコピーバンド、『悪猿』! 
 ノートのコピーバンド、『ソウル・アップ・スタイル』! インディーズの頃からコピーしてる筋金入りのコピバンだー!
 二年生が誇る究極のナルシスト軍団! ラルク・アン・シエルのコピーバンド、『ブラッド・サッカー』!
 椎名林檎と東京事変のコピーバンド、『動脈インジェクション』! 一年ドラムのツジコに期待だ!
 売れ線押さえたガチバンド! エルレ・ガーデンのコピーバンド、『ハイ・ジャック』!
 アンチェインのコピーバンド、『ビスケット・オリバ』! ホントにコピー出来たのか!?
 アタシが所属するディープ・パープルのコピーバンド、『ディープ・インパクト』!!
 ニルヴァーナのコピーバンド、『スカトロ』! 誰だ、このバンド名考えた奴!?
 最後に、大本命のオリジナルバンド、『アナボリック・ステロイド』!!」
マイク・パフォーマンスめいた野次を交えながら、ハルキは全部のバンドを紹介し終える。
この辺のアドリブ力は、ライブのMCで培ったものだろう。
伊達に場数を踏んでいる訳ではない。
「以上、十二バンドに学園祭の出場権を賭けて戦って貰います」
部員の誰からという訳でもなく、拍手が上がった。
軽音楽部、年に一度のバトル・ロイヤルイベント。
否が応にも盛り上がらざるを得ない。
特に、三年生にとっては最後の学園祭の出場権を賭けた戦いでもある。
まぁ大抵は三年も楽器をやっていればそれなりのレベルにはなるので、一、二年生にそうそう遅れを取るという事はないが、物事には万が一というものがある。
現に、例年も一人か二人の三年生は、バンドに恵まれなかったり、番狂わせの犠牲になったりして学園祭ライヴの出場権を逃している。
そういう意味で、軽音楽部から出場するというのは、『ZAN党』のように一般枠から出るよりも敷居が高いと言える。
この辺が、リュウジや、ちょっと前のエノケンのような選民意識を抱かせる由縁だろう。
要するに、「お前達はただ申し込むだけで立つ事が出来る学園祭の舞台も、俺達は過酷な戦いをした上で枠を勝ち取って立っているんだぞ」という、一種のエリート意識だ。
こうした思想の横行も、軽音楽部と有志演奏組の間に軋轢を作る要因の一つだ。
「選考会は投票制です。 自分の所属してるバンドは投票できませんのでご注意を。 それでは、選考会は二週間後です。 各自、悔いの無い様しっかり練習してきてくださーい。 それじゃ、総会はこれで終了。 三年生はこの後、謝恩会と来年度の責任者について会議するんで、視聴覚室に集まってねー」
そう言って、ハルキは総会を締め括った。
この部にも一応顧問の教師はいるのだが、軽音楽に詳しくない為、いつの間にやら名義のみの存在と成り果てている。
音楽教師は、ブラスバンド部の顧問に持っていかれてるので当然と言えば当然だろう。
そうした環境が、この軽音楽部を半ば生徒達の自治区としていた。







総会が終わるとまばらに集まってた男子達が、一斉に部室の片隅に集まって群れを為す。
その中心にいるのは、エノケンだった。
毎年恒例のトトカルチョが始まるのだ。
無論、軽音の公式イベントではないが、二年以下の部員がやると色々軋轢が起こる為、毎年力のある三年部員が仕切りをやる事に勝手になっている。
今年は、後輩にも同輩にも信頼の厚いエノケンが、前の仕切りの先輩から胴元の役を任されたのだ。
要するに、軽音の裏番長である。
通過バンドの発表のされ方は、投票数一位から三位までのバンドを順番に発表した後、残りの五バンドは順位を明かされずに発表される。
バンドメンバーの心情を考慮した発表のされ方だった。
それ故、一位から三位までのバンドを単勝賭け、もしくは連番で賭けるのがこのトトカルチョのルールだ。
とは云え、今年は連番の方はあまり倍率を期待出来なかった。
圧倒的に抜きん出たバンドが二つ存在するからだ。
「今年は連番は儲からないっすね、エノケン先輩。 『ステロイド』の一位通過はほぼ確定だし、ハルキ先輩も念願のディーブ・パープルやれて相当気合入ってますからね。 ハルキ先輩が本気出したら誰も叶わねぇっスわ」
と、二年ベーシストのシュンスケが言う。
シュンスケは、ラルクのコピーバンド『ブラッド・サッカー』と、アンチェインのコピーバンド『ビスケット・オリバ』でエントリーしている。
髪にエクステを付けまくったチャラい奴だが、三人いる二年ベーシストの中では頭一つ抜きん出たテクの持ち主だ。
プレイ・スタイルもエノケンに似ているので、エノケンの内弟子のようになっている。
「そうだなぁ。 自分で言うのもなんだけど、『ステロイド』‐『ディープ・インパクト』の連番、ほぼ倍率一倍だから、賭けても全然儲からねぇよな。 やっぱ、儲けるなら、三位通過バンドの単勝狙いだろ。 誰かギャンブラーいねぇのかぁ?」
エノケンが、賭けあぐねてる男子一同を煽る。
しかし、正直なところ、この二バンド以外はどのバンドもほぼ団子状態なのだ。
結局みんな、景気付けに自分の所属するバンドに単勝賭けしていく程度だった。
もしくは、『ステロイド』、『ディープ・インパクト』への単勝賭けだ。
こういうギャンブルにおいては、圧倒的な存在がいると場が成立しにくい。
かつての競馬界においても、ディープ・インパクトが三歳クラシックを席巻していた当時は、単勝賭け1.1倍という状況になり、競馬が成立しなかったという。
群雄割拠の環境の方がギャンブルには向いているのだ。
「ノートと東京事変は、個人的に好きだから期待してんだけど、一年が多いからなぁ。 三位は難しいかもしれねーな。 でも、通った時のキャッシュバックはきっとすげーぞ。 オラオラ、張った張った」
その時、男どもを煽るエノケンの耳が、横からみじりとつねりあげられた。
「コラァ、榎本!! 三年は視聴覚室に集合っつったでしょ! くだらない事してんなー!!」
ハルキだった。
「痛ってぇ! ちょっ、分っかったって! シュンスケ、後は頼んだ!」
と言って、エノケンの巨体がハルキにずるずると引きずられていく。
やがて二人は廊下の向こうに消えていき、部室のドアがぴしゃりと閉められた。
集まった男子部員達が、その光景にごくりと唾を飲む。
「……すげぇ。 あのおっかないエノケン先輩にあんな真似出来んの、ハルキ先輩ぐらいだぜ」







視聴覚室に、軽音楽部三年生部員、総勢十二人が集まる。
会議の内容は、来年度の部長についてと、学園祭後に控えている軽音楽部現役最後のイベント、『謝恩会』についてだった。
『謝恩会』では、毎年駅前のライブハウスを一つ借りて、三年生がみんな一つバンドを組んで、三年間の集大成のようなライブを演る。
学園祭の打ち上げを兼ねた、内輪のコンサート・パーティーのようなものだ。
毎年、三年間の集大成を見せるとあって、エックスやザ・バンド・アパート、リンキン・パークといった超絶技巧バンドのコピーが多く、演奏レベルとしては学園祭よりも高いかもしれない。
各自、それに向けて自分の出るバンドを考えてくるように、というのがハルキ部長のお達しだった。
そんな感じで、二学期最初の三年会議は散会となった。






エノケンがトトカルチョの続きをしに部室に戻ると言うので、アキラもそれに付き合う事にした。
視聴覚室を出て、廊下をダラダラと歩く。
「エノケン、謝恩会のバンド、どうする?」
「そうだなぁ、ジャガー誘ってレッチリでもやるか? でもそれだと『ステロイド』と面子が被りまくってて面白くないな。 アキラは何がやりたいんだ?」
「最後に何か一つ、か。 去年は先輩にメタリカとか演らされたから、今年はもっと軽いのがいいな。 ファジー・コントロールとかどう?」
「ファジコンか、悪くないな。 いや、思い切ってここはネタ的なのを全力で演るってのもアリかもしれねぇぞ。 『もってけ!セーラーふく』をバンドで再現するとかな。 あの曲、チューニングの違うベースが二本要るから、シュンスケと最初で最後のツイン・ベース組むってのも可能だぞ」
「っていうか、何でお前そんな曲知ってるんだよ……」
そんな会話をしていると、後ろからハルキがぱたぱたと音を立てて駆け寄ってきた。
ハルキは、二人に追いつくと、がっちりとその肩を掴む。
「アキラッ! エノケンッ! あんた達、もう謝恩会のバンドは決めた?」
「……いや、まだこれからどうしようか考えてるとこ」
「もし、まだ決まってないんだったら、バンドのチョイス、あたしに任せてみない?」
――――――嫌な予感がした。
前述したように、このハルキという女の音楽の嗜好はハードロック、とりわけメタル寄りに特化したジャンルなのだ。
ハードロックやメタルは、演奏に要求される技術力がそこいらのJ-POPの比では無い。
二人は、過去にもハルキとバンドを組んだ事があるが、いずれも極めて難解なハードロックで、苦渋を舐めさせられた覚えがある。
「あー、いや、まぁ、演るバンドにもよるけど」
「いやさぁ、あたしも、この学年にこれだけ経験者が集まったのは、運命だと思う訳よ。 ヴォーカル以外の全パートに、楽器暦六年以上の猛者が揃ってんのよ? 高校レベルでこんな奴らに巡り合える機会なんて、滅多に無いよ。 だから。 今まで先輩達が何度も挑んできて、破れなかった壁に挑もうと思うの」
「壁?」
「うん、そう」
「それって、まさか――――――」
「まぁ、まだ、メンバー集めてる最中だけどね。 決まったら、また連絡するよ」
言いたい事だけ言って、ハルキはとっとと部室の方に走って行ってしまった。
アキラ達は、その後ろ姿を為す術なく見送る。
アキラは、エノケンと顔を見合わせて、今のハルキの意味深な発言について思いを巡らせた。
「先輩達が挑んで破れなかった壁って………」
「あのバンドしかねぇだろ。 嫌な予感が的中しそうだな。 あの女、厄介事ばっか押し付けやがって……」
「まぁ、いいんじゃないの。 問題児揃いのこの学年をまとめてきたんだ。 卒業前に一回ぐらいハルキのワガママ聞いてやっても」
「一回ぐらい、かなぁ……。 あいつには相当振り回されたような気がするが」
二人は、三年間のハルキとの思い出に思いを馳せると、やっぱり振り回された思い出しか浮かんで来ず、はぁっと溜め息をついた。









エノケンの用が済むと、久しぶりに赤井楽器に顔を出した。
『ステロイド』のライヴが近いので、本番用のスティックを買いにきたのだ。
奥のドラム・コーナーに行くと、また例によって赤井カナメが、女子中学生に向かってスティック選びのウンチクを垂れていた。
あのウンチク癖さえなければいい人なんだけどなぁ、とアキラは苦笑する。
やがて女子中学生がスティックを買い終えると、今度はアキラの方に向き直った。
「やぁ、ごめんごめん、お待たせ~。 今日はどんな用事で?」
「スティックを買いにきたんですけど」
「ああ、スティックね。 オーケイ、オーケイ。 いつものでいいの? それともちょっと冒険してみる?」
「いつものでいいですよ」
「了解。 あ、コーヒー出すからちょっと待っててね」
「あー、いや、別にコーヒーは……」
「いいからいいから。 実はね、新しくコーヒー・ミルを買ったのよ。 こいつがまた貴重な品でね」
よく見ると、ドラム・コーナーの端に勝手に作られたティータイム・スペースの棚の上に、ちょっと大掛かりなコーヒー挽きが置かれていた。
隣には、ウェッジ・ウッドのティー・ポットが。 食器棚には同じウェッジ・ウッドのティー・カップが並んでいる。
夏休みの間に、カナメのドラム喫茶スペースは更なる進化を遂げたらしい。
アキラは観念して、コーヒーを片手にカナメのウンチク話に耳を傾ける覚悟を決めた。
カナメは、焙煎したコーヒー豆をコーヒー・ミルに注ぐと、ゆっくりとそのハンドルを回した。
すると、ハンドルの動きに合わせて、コーヒー・ミルから何とも物哀しいオルゴールの音色が流れ出す。
哀愁漂うそのメロディーは、一瞬ここが英国かどこかの喫茶店であるかのような錯覚を引き起こさせた。
「昔、『大泥棒ホッツェンプロッツ』っていうドイツの童話があってね。 私はそれが大好きだったの。 その話の中で、カスパールとゼッペルっていう二人の男の子が、おばあさんに、ハンドルを回すとオルゴールを奏でるコーヒー挽きをプレゼントするんだけど、私は子供の頃からずっとそれが欲しくて欲しくて。 その描写のとこだけ、手垢でボロボロになるくらい何度も読み返したわ。 で、私もこうして社会人になった訳だし、ちょっと背伸びして、こうしてオルゴール付きのコーヒー・ミルを買ってみたって訳。 この音色、素敵でしょ?」
「ええ、凄くいい曲ですよね。 確か、ホテルとかでよく流れてる……」
「バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』って曲よ。 タカヒロくんも、気に入ってたわ」
「タカヒロも今日来たんですか?」
「うん。 本格的にドラム・レッスン始めるみたい。 こないだのライヴが、いい刺激になったんじゃない?」
「そっか。 そうなんだ。 うん。 タカヒロなら、ちゃんと習えば絶対いいドラマーになりますよ」
カナメは、豆を挽き終えると、コーヒー・ドリップに詰めて水を注ぐ。
間も無く、フラスコ容器の中に、ぐつぐつと煮立ったコーヒーの滴が垂れてきた。
香ばしいコーヒーの匂いが、ドラム・コーナーに溢れ返る。
「私も、そう思う。 今度の学園祭は、オリジナルをメインで行くみたいよ。 構成の作り方について、今日相談されたもの」
「へぇ、楽しみだな。 こないだのライヴで聴いたオリジナル、結構良かったしなぁ。」
「『ステロイド』もうかうかしてられないんじゃないの? あ、でもこないだのライヴ、事務所の人に結構反響あったらしいよ。 技術的には水準以上だって、マネージャーの高木さんが言ってた」
「ほ、ホントですか?」
「まぁ、すぐにデビューって訳じゃないだろうけど、目に留まったのは確かよ。 まめに活動してけば、メジャーからも話が来るかもね」
「あ、ありがとうございます! うわぁ、夢みたいだ!」
アキラは、飛び上がらんばかりに喜んで見せた。
音楽で食べていくのは、バンドマンの夢だ。
その夢が、夢でなくなるかもしれない。
夢が、現実のものとして顕現しようとしているのだ。
これで喜ばずして、いつ喜べというのか。
コーヒーの抽出が終わった。
クリームを入れると豆の個性が失われるので、砂糖だけで飲む事を勧められる。
香りのないインスタント・コーヒーならば生クリームはその粗雑な飲み口を和らげるのに一役買うが、淹れ立てのコーヒーの場合、その清新な風味を味わう邪魔者にしかならない。
……というのが、カナメの主張だ。
コーヒー・ミルが変わっただけで、別に豆の種類が変わったという事はない筈だが、その日のコーヒーは格別美味く感じた。




そうして、気分良くアキラは赤井楽器を後にした。
胸が温かいのは、きっとホット・コーヒーのせいだけではない。
いよいよ『アナボリック・ステロイド』にも、将来の展望が見えてきたのだ。
結構な頻度でライヴハウス巡りはしてきたつもりだが、それでもオリジナルバンドとしての活動期間は一年と短い。
こんな短期間でデビューの話が巡ってきたのは、正に僥倖と言う他無いだろう。
自分達の音楽が世に出る。
たとえそれが自分の本意ではない音楽であったとしても、そのフレーズは間違いなく自分の血肉から出でた物だ。
この世界に生きる大半の人間が自己実現の方法を知らぬ中で、こんなにも明確な形で自分という人間の爪痕を世界に刻む事が出来るというのは誰にでも訪れる機会ではない。
人間は、何故生きるのか。
いつか必ず死んで無に還るのに、何を以て、何を目指して生きなければならないのか。
そんな思春期特有の哲学的な悩みをアキラも抱いた事がある。
その深遠な問いかけの答えの一つとして、アキラが辿り着いたものは、“自分の生きた証をこの世に残す為”だった。
自分が死んだ後、自分という存在がこの世に存在した証をいつまでも残す事。
例えば、世界の発明王、トーマス・エジソンは、世界で初めて電球をいうものを発明した。
その発明が今日に及ぼした影響は、身の回りを生活用品を鑑みれば明らかだろう。
トーマス・エジソンが亡くなった時、アメリカ合衆国は一分間、国中のありとあらゆる電灯を消してエジソンの喪に服したと言う。
エジソンが生まれていなければ、電球はこの世に存在しなかった。
それはつまり、電球という存在そのものが、エジソンがこの世に存在した証であるという事だ。
たとえ、本人が亡くなっていたといても、その名と、生み出した存在は後の世にも残り続ける。
それは、輪廻とはまた違う一種の不死性だ。
人類が存在する限り、彼の名は残り続けるのだ。
世界の発明王の例は極論であるかもしれないが、それは他の分野においても言える事だ。
世界の人間は『運命』の序章を聴けば、亡くなったベートーヴェンを思い出す。
ビートルズの『ヘルプ』を聴けば、亡くなったジョン・レノンを思い出す。
その生み出した音楽と共に、彼らの存在は永遠となる。
それが、音楽の分野で不死性を得るという事だ。
無論、全ての音楽を演る人間がそんな意識を持っている訳では無い。
しかし、アキラにとって、音楽を演るというのはそういう事なのだ。
自分が灰に帰した後にまで、音楽という存在としてこの世に在り続ける。
音楽というものを通して、この世界における不死性を得る。
それがアキラと言う人間が生きてゆく上での夢であり、目的であり、行動哲学なのだ。
だからアキラは、夜中、ふと“死”というもののリアリティに気づき、震えるという事は無い。
最も恐ろしいのは、何かを為す前に死ぬ、という事だけなのだから。


カナメのまったく実にならないウンチク話を長々と聞いていたせいで、すっかり遅くなってしまった。
日はすでにどっぷりと暮れて、夜空の風体を見せている。
赤井楽器に寄ると、家まで結構な距離を歩かなければならない。
こんな時、車があれば便利だと思うが、推薦入試を控えた今の状態で車校に行く余裕は無い。
バンドの方も今が大事な時期なので、勉学との両立が難しくなってきているのだ。
最近は親からの圧迫も大分厳しくなってきている。
まともな親からすれば、自分の息子が『ミュージシャンになる』とか言い出したら気が気じゃないだろう。
少なくとも、自分が親の立場だったら絶対に止める。
なので、バンドで食べていこうとしている事はまだ親には告げていない。
しかし、このままデビュー話が形になってきたらいつかは話さなければならないだろう。
その日に親と繰り広げるだろう大喧嘩を想像したら、気が重くなってくる。
とりあえず、それまでは親を納得させるだけの最低限の成績はキープしておかなければ体裁がつかない。
そんな事を考えながら、駅前の通りに差し掛かったその時だった。
奇妙な人影が、ロータリーの前を通った市電の線路の脇で、じっと空を眺めているのが見えた。
何が奇妙か。
その人影は、明らかにウィッグと分かる赤い原色の髪の毛に、ペンキをぶち撒けたようなゴシック・ファッションだったからだ。
何より興味を惹いたのは、その脇に、そいつの身体ほどもある大きなギターケースを持っていた事だった。
全身原色のその風体は、いつ職務質問を受けてもおかしくない程の不審人物ぶりを醸し出している。
アキラがそいつに気を取られていると、その視線に気づいたのか、そいつはアイシャドウを塗りたくった目をぎょろりとこちらに向けた。

「今日は澄んだ夜空だね。 もう、この駅前じゃ、星は見えないと思ってたのに」
「は?」
そいつの妙な物言いに、アキラが呆けたような返事を返す。
聞いていないのか、最初から聞く気がないのか、そいつは何事も無かったかのように続ける。
「星座も、もう秋の星座だ。 秋の星座は、空一面にドラマがあって好きなんだ。 古代エチオピアの、美しいアンドロメダ姫とペルセウスの物語。 知ってるだろ? ペガサスに跨ったぺルセウスは、メデューサの首を狩って、アンドロメダ姫を食べようとした一角鯨を石にしてしまう…」
「あ、ああ…」
「でも哀しいよね。 その神話の登場人物は、アンドロメダ姫の両親まで含めて、全員星にされてしまうんだ。 そうして彼らは、永遠に天に鎖で繋がれ続けている。 ペルセウスもメデューサも、鯨もペガサスも、アンドロメダ姫と両親のカシオペヤ妃とケフェウス王でさえ。 哀しいとは思わないか? 死んで無に帰す権利すら、彼らには与えられていない。 永劫に続く、神様の陵辱だ」
「それは神話だろう。 絵空事だよ。 実際は、ただの星の集合体だ」
「たとえ、それが先人の妄想の産物でも―――――」
そいつは、漆黒のルージュを塗った唇をにぃと歪ませた。
「妄想は、口にしたその瞬間からこの世に“在り”続ける。 その物語は、現実としてこの世に顕現するんだ。 例えば、君は世界史の何処から何処までが史実か神話か区別がついているか? エイブラハム・リンカーンは存在したか? フランス革命は史実か? 三国志は? イエス・キリストは存在したか?」
「それは言葉遊びだ。 史実は史実、神話は神話だろう」
「だが、どうやってそれを証明する? どちらも、結局は情報としてキミの脳内に存在するに過ぎない。 言うなれば、全ては情報という名の妄想に過ぎないんだ」
そいつは、気づいたら、アキラの方に向き直っていた。
奇妙な感覚だった。
肌がちりちりと灼けるような、圧迫感。
それは、こいつの浮世離れした風体のせいだけではない気がした。
「永遠の存在なんて在り得ない。 あるのは、永劫の妄想だけなんだよ、鷲頭晃クン」
そう言って、そいつは笑った。
「――――――!? 何で、俺の名前を……」
「こないだの、イスカンダルのライヴを観たんだ。 キミの事は、高梁貴弘に聞いてたからね」
「タカヒロの、知り合いなのか?」
「まぁ、ね」
風が、吹いてきた。
蒸し暑い夏風とは違う、秋の季節風。
そいつの真っ赤な髪が、風にたなびいた。
「僕の名前はユラ。 いつも、この裏通りでギターを弾いてる―――――」


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