与党編-16【スモーキン・ビリー】
待っていた。
榎本健太は、ずっと待っていた。
あれから一週間、アキラは一度も学校に来ていない。
電話も通じない。
ライブの日だけが、刻々と近づいてくる。
練習は毎日のようにあった。
アキラの代わりに加入したスタジオドラマーのトシミツは、技術の面では申し分のないものを持っている。
ドラムが変われば、必然その技術の引き出しも違う。
時には『ステロイド』の面々を唸らせるような超絶技巧もトシミツは披露して見せた。
学園祭にリンプ・ビズキットのコピーバンドとして出る『ステロイド』の方の練習は全く進んでいない。
ドラムのアキラが姿を見せないのだから当然だ。
最初は違和感を感じたその光景も、回数を重ねるごとに目に馴染んでゆく。
予定調和の様に、時間だけが刻々と過ぎ去ってゆく。
リュウジもジャガーも、アキラについての話題には触れないようにしているようだった。
元々リュウジはアキラと不仲だったし、ジャガーについては特に関心もないように見えた。
不思議な感覚だった。
スタジオで合わせるその曲のフレーズは確かにアキラの作ったものなのに、そこにアキラはいない。
回を重ねるごとに、曲の完成度はさらに高まっていった。
アキラを置いてけぼりにして、『ステロイド』だけが疾走を始める。
そして、ライヴはもう、明日に迫ってきていた。
その日、エノケンは朝六時に目覚めた。
リハーサルは午後一時からの予定だ。
秋の朝はもう肌寒い。 早起きし過ぎた。
エノケンはふと思い立ち、ジャージに着替えて外に出る。
柔軟体操で身体をほぐすと、エノケンはそのままジョギングに出かける事にした。
朝運動をすると、血液の廻りがよくなって、体調が安定するのだ。
エノケンが野球部にいた頃からの習慣だ。
何か大事な事がある日の朝は、そうして体調を万全にして事に臨む。
朝の道路は人通りが少ない。
スニーカー越しに伝わるアスファルトの温度はまだ冷たくて、空気も息を白く染める。
走り込みをする内に、次第に心も据わって来た。
明鏡止水の心境を通り越して、テンションが上がってくる。
人目のない通りの中で、エノケンは無意味にシャドーボクシングなどを始めた。
ジャブ。 フック。 ストレート。 リバーブロー。 ガゼルパンチ。 デンプシーロール。
デンプシー破り破り破り破りにまで至った所で、ふと虚しくなって我に帰った。
ああ。
いよいよ、今日だ。
今日、運命が決まる。
『ステロイド』の運命と、アキラと自分の運命が。
今朝もアキラに電話をかけた。
いつもの通り、留守番電話。
忸怩たる思いが心の片隅に引っかかる。
しかし、それでも数時間後にはライヴが始まる。
おそらく、自分の人生においても重要な意味を秘めたライヴが。
思いを馳せる。
自分がベースを始めた由縁。
自分がバンドを始めた由縁。
人の運命とは、たとえば、複雑に絡んだ糸のようなものだ。
もし、自分がベースをやっていなかったらどうなっていたか。
考えるまでもない。
適当に野球をこなして、仲間と馬鹿をやって、勉強もまぁ留年しない程度に頑張って……
そうだ、自分は『与党』なのだ。
ベースをやっていようがやってなかろうが、何一つ変わりない。
たとえやっていなくても、クラスの中心で、部活の中心でみんなに慕われていただろう。
(何一つ………変わりない?)
―――――いや。
それは嘘だ。
そこに、アキラがいない。
自分をベースという道に導いてくれた、アキラがいない。
今日の『イスカンダル』の音響は一段と素晴らしかった。
返しから来る音の響き方。
PAの音作りの完成度。
どれも言う事はない。
トシミツのツーバスは一段と音の粒立ちがいい。
ジャガーのチョーキングも一段と冴え渡っている。
リュウジのラップも一段と精彩を見せている。
エノケンとて、今日はこれ以上ないほどのベスト・コンディションだ。
指の滑り、ベースの音作り、身体に染みわたるグルーヴ感――――――パーフェクトだ。
今日という日がプロの道への試金石だというのなら、間違いなく今日は最高の日だった。
リハーサルは逆リハだ。
トリはAMCレコードの擁する大御所バンド、『シスター・アイリッシュ』。
長らくアンダーグラウンドの音楽シーンを席巻し続けた、沖縄出身のミクスチャー・バンドだ。
本来ならば、デビュー前の『ステロイド』が対バン出来る相手ではない。
圧倒的なパフォーマンスと存在感。
そして卓越した技術力。
その全てが高次元なレベルで均衡を保っていた。
これがプロフェッショナルなのだ。
これが音楽を糧とする事なのだ。
この業界で食べてゆく為には、そうしたバンドも全て蹴落とし、のし上がっていかなければならない。
音楽とは、その世界においては生存競争だ。
弱者は踏みにじられ、強者に喰われるしかない。
ライオンになるか、ジャッカルとなるか、それともウサギとなるか。
無論、被食者となるつもりはさらさら無い。
喰う側にならなければ生き残れないのであれば、喰う側に回るしかない。
それが、この世界の不文律なのだ。
その他のバンドも、軒並み演奏レベルが高かった。
どのバンドも各地で精力的に活動を続ける、デビュー前の眠れる獅子達だ。
もうすでにこの時点で生存競争は始まっている。
全てのバンドがデビューできるのならこれほど幸せな事はない。
だがしかし。
現実にその枠を手にする事が出来るのは、一握りの、そのまたさらに一握りに過ぎない。
「いい感じじゃねぇか」
リュウジは控え室で言った。
リハーサルの出来は満点に近い。
あとは本番でそれをどこまで発揮するかだ。
「このメンバーになってから期間が短かったんでどうなるかと思ったが、何とか間に合ったな。 むしろ、アキラの時よりも演奏のレベルは上がったんじゃねぇか? やっぱ、リズム隊が違うだけで否が応でもレベルは底上げされるもんだな」
リュウジはいつになく上機嫌だった。
ドラムのトシミツは、それを聞いて含み笑いをする。
トシミツにしても、今回の話は降って湧いたような美味しい話だった。
トシミツはリュウジ達より三個上の歳だった。
プロを目指す為に高校を中退し、上京したまではよかったが、バンドメンバーの音楽性の違いからすぐにバンドを解散してしまっていた。
そして地元に舞い戻って楽器店でドラムの講師をやっていたところを、リュウジと知り合ってバンドに誘われたのだ。
一度潰えた夢が、幸運から再び目の前に蘇ったのだ。
これが嬉しくない筈がない。
「おい、榎本はどうした?」
リュウジは、控え室に姿の見えないエノケンを訝しんで、ジャガーに尋ねる。
「さぁ? 便所にでも言ってんじゃないの?」
ジャガーはチューニングしながら、面倒くさそうに答えた。
こんな時でも、ジャガーは自分のペースを崩さない。
まるで、自分の事以外は全て他人事だとでもいうかのように。
「何やってんだ、あいつは。 でっけー図体の割に、案外ノミの心臓だな」
「まぁ、演奏さえちゃんとしてくれれば、俺は何でもいいよ」
試し弾きしながら、ジャガーはその指盤に目を走らせる。
「………多分、あいつはまだ待ってるんだよ」
独り言のように、ジャガーは呟いた。
「あ? なんか言ったか?」
「……いや、別に」
ジャガーは、何事もなかったかのように弦を爪弾き続ける。
ドアの向こうで音が鳴りだした。
次のバンドのリハーサルが始まったようだった。
雨が降りそうだった。
空はどんよりと曇っている。
窓の外の風景は、まるでエノケンの心象風景を表しているようだった。
ライヴハウスの前にはすでに人だかりが出来ていた。
そのほとんどは、おそらく『シスター・アイリッシュ』目当ての客だろう。
何せ、全国区に知名度のあるメジャーバンドだ。
その集客力は、たかだか地方レベルのネーム・バリューしか持たない『ステロイド』の比ではない。
エノケンは探していた。
その人だかりの中に、彼の姿がないかどうか。
人。 人。 人。
かきわけてかきわけて探すも、一向に探し人は見つかる気配がない。
何処にいる? 何処にいるんだ?
エノケンは、すがる様な想いで探し続けた。
だが、見つからない。
いや。
おそらく見つからないであろう事は、心の片隅で気づいていた。
だが、あるいは。 もしかしたらという希望が捨てきれなかった。
もしもその可能性が0.1パーセントでもあるのなら、それを見逃してはならないと思った。
段々と、焦燥が募ってゆく。
その時、エノケンの方がぽんと叩かれた。
「! アキ―――――」
「よっ、元気してっか、小坊主ゥ」
振り返った先には二人の女性が――――――『マジック・マッシュルーム』のアイカとミナコが立っていた。
どちらも私服姿だ。
後輩達の晴れ姿を見に来た、という事らしい。
「ははっ、人ごみかき分けながらきょろきょろして、超挙動不審だよアンタ。 何? さすがのアンタも今日ばかりはテンパってんの?」
「い、いや、そんな事は―――――」
「…………アキラか?」
正鵠を射ぬかれ、エノケンはびくりと目を見開かせる。
「噂じゃあ聞いてたんだよね、アキラが『ステロイド』を脱退したって。 あんたのその様子じゃ、どうやらマジみたいだね」
「あ―――――」
どうやら人の口は戸に立てられぬようだ。
もう上の代にも知れ渡ってしまっている。
その事情を知ってか知らずか、ミナコは続けた。
「甘ったれんなよ」
「―――――――」
ミナコの予想外の叱咤に、エノケンは思わず言葉を失う。
それは、いつもの飄々としたミナコではなく、一人のプロ・ミュージシャンの叱責だった。
「プロの世界っつーのはシビアなもんさ。 そいつで金を貰うんだ、当然だろう? メンバーの脱退なんて珍しい事じゃないさ。 それよりも、そんなフ抜けた状態でステージに立って生き残れるほどこっちの世界は甘くないよ。 客だって馬鹿じゃないんだ、気の入ってない演奏はすぐに見抜かれちまう。 やるならやるで、性根すえてやんないと痛い目見るよ?」
痛打だった。
エノケンにとって、もっとも親しい人間の一人の口から放たれただけに、その叱咤はエノケンの心をえぐった。
エノケンの心の動揺も、焦燥も、ミナコには見抜かれているようだった。
リハーサルが全て終了する。
アキラの姿は、とうとう見つからなかった。
代わりに、クラスメイト達や軽音楽部の面々が『ステロイド』の雄姿を見届ける為にライブハウスの前に集っている。
事情を知らない彼らは、『ステロイド』の面子に顔を合わせる度、各々激励の言葉を口にした。
徐々に実感が湧いてくる。
いよいよこれから、イベントの幕が開けるのだと。
低音を強調されたSEが流れ始めた。
音響の調整が終わり次第、ライヴは開始される。
エノケンはその状況とは裏腹に、妙に腹の底が冷えているのを感じていた。
まるで目の前で起こっている現実が、違う世界の出来事のようだった。
これから起こるライヴが、まるで他人事であるかのように現実味がないのだ。
エノケンは思った。
要するに、自分は今、このライヴに対して感情移入しきれていないのだ。
この人生の岐路の一つとなるであろうライヴが。
楽屋でセットリストを確認する。
新曲をラスト前に持ってきて、トリに最も知名度のあるナンバーを。
チューニングは特に念入りに調整する。
この試練の場で万に一つも間違いがあってはならないのだ。
「緊張してんのか?」
と、長身の男が話しかけてきた。
トシミツだった。
わずか三週間弱の付き合いだが、その卓越した技量には幾度も唸らされた。
エノケン達より三歳年上とはいえ、それでもかなりの若さだ。
その年齢でスタジオ・ドラマーを務めているというのだから、そのポテンシャルはかなりのものだ。
実際、ドラマーとしての能力で見たら、彼の総合力はアキラを上回るだろう。
彼ならあるいは、この『ステロイド』というバンドをメジャーの世界に導くのかもしれない。
「………いや、不思議と落ち着いたもんっスよ。 なんなんすかね…緊張しすぎて逆に身体の芯が冷えてるっつーか、開き直れたってゆーか」
「へぇ、随分と腹が据わってるな。 高校生とは思えないぜ」
言いながらトシミツは煙草を取り出した。
ドルチェのジッポ・ライターで火を点すと、トシミツはその紫煙を深く深く吸い込む。
「トシミツさんこそ、不安はないんスか? なんだかんだで合わせ始めてまだ一ヶ月も経ってない。 そいつでもうこんなライヴをやろうってんだ」
「サポート・ドラマーのスケジュールはいつだってタイトなんだ。 本番三日前にいきなりヘルプを頼まれた事もある。 それに比べりゃまだ余裕のある方だ」
「大変なんスね、スタジオ・ドラマーってのも。 俺は曲覚えんの苦手だから務まりそうもねぇっス」
「何言ってんだよ。 お前ぐらい弾ける高校生なんて、海外ならともかく日本じゃ見た事ないぜ」
「過大評価っス。 俺以上の腕の奴なんてインディーズ見渡したってゴロゴロしてる。 それに音楽は技術よりも感性でしょ?」
「違いない。 腕はあっても上に昇ってけなかった奴を今まで何十人も見てきた。 あっちはそういう因果な世界だ。 単純に実力さえあれば昇って行ける訳じゃない。 感性だとか、コネクションだとか、運だとか、まぁギャンブルさ。 対して上手くもないバンドが好機に恵まれてトントンなんて事もざらにある。 ただ一つ言えるのは、昇ってくのは昇ってく気がある奴だけさ。 貪欲さ――――――バイタリティ。 少なくとも、そいつがなきゃ昇って行けない」
トシミツは、ゆっくりと煙を燻らせる。
「リュウジは、少なくとも、そいつは確実に持ってる。 どうやっても上に昇ってこうっていう、頑迷なまでの自己顕示欲。 そいつはプロフェッショナルには絶対に必要なものだ。 あいつの人間性はともかく、俺はそこだけは評価してるよ」
「――――――――」
トシミツは第三者であるがゆえに、客観的な視点を持っていた。
リュウジの傲慢さは、裏を返せば音楽に対する真摯さでもあるのだろう。
そうしなければ届かないから。
そうしなければ手に入らないから。
その為に万全を期し、最善手を打つ。
それは、高みを目指す者として当然の事だ。
少なくとも、同じ志を抱いた事のあるトシミツにとっては、リュウジの考え方の方が共感できるものなのだろう。
「トッパーが始まるみたいだぜ」
ジャガーがこちらに歩み寄ってくる。
相変わらず、飄々としてジャガリコをくわえながら。
本番前だというのにいささかも気負いは感じられない。
思えば、こいつも不思議な存在だった。
何事にも興味がないようでありながら、ギタープレイにおいては傲岸不遜なまでの自我を発揮してくる。
トム・モレロを彷彿させる変態的なスクラッチ・プレイ。
曲に対するアプローチの仕方が、他のギタリストには類を見ないほどに独創的で異質なのだ。
しかし、それが妙に『ステロイド』の音楽性とマッチしていた。
不協和音ギリギリの音のせめぎ合い。
そのギリギリのラインを見切る才にジャガーは長けていた。
ギターはバンドの個性だ。
ギタリストの発する性質こそがバンドの属性となる。
そういう意味で、『ステロイド』を『ステロイド』たらしめていたのはジャガーだと言える。
張りつめた空気の中で、リュウジが立ち上がった。
両手を伸ばし、背を反らせて身体をほぐす。
ゆっくりと深呼吸を繰り返し、筋細胞の隅々まで空気を浸透させる。
柔軟体操はそれだけで身体機能を格段にアップさせる。
空手経験者であるリュウジはその事をよく心得ていた。
「今更ジタバタしたってしょうがねぇ。 なるようになるだけだ」
リュウジは言った。
「このメンバーは最強だ。 間違いなく言える。 非の打ち所なんか、何処にもありゃしねぇ。 ギターも、ベースも、ドラムも。 これ以上の布陣が、考えられるかよ?」
その言葉に、エノケンは表情を曇らせる。
一瞬、『あいつ』の顔が脳裏をよぎったのだ。
だが、その残滓を振り払うように、エノケンは首を振った。
邪念を抱いて臨むライヴではない。
気持ちを切り替えて、べストの力を出し尽くさなくては。
そのエノケンの様子を見て、リュウジははたと気付いたようだった。
彼が何を思い描いたのか。
「なんだ、榎本。 まだ、アキラの事が気になるのか?」
「いや、そんな事は――――――」
「あいつの事は、もう忘れな。 分かってんだろうが。 上に行く為にメンバーを切り捨てるなんざ、よくある事だろうが」
・
・
・
・
・
・
・
「……………………………え………?」
全ての音が、エノケンの中から途切れた。
空気が、白く凍りついた。
体温が身体から消え失せ、ぷつぷつと鳥肌が立つ。
……今………何て、言った…………?
『 切 リ 捨 テル 』 ?
何かが。 何かが違っていた。
自分が今、何か致命的な思い違いをしているような気がした。
待てよ。 待てよ。 待てよ。
どういう事だ? どういう事だ?
肌が、震えた。 身体の奥底から、冷たいものが昇ってくる。
ともすれば歯の根の合わなくなるような圧倒的な冷気をなんとか抑え込んで、エノケンはようやく言葉を紡いだ。
「切り捨てた……?」
愕然と。
オウム返しの様に、その言葉を反芻する。
「待てよ……アキラは…自分から辞めたんじゃ――――――」
リュウジも、ようやくエノケンの様子がおかしい事に気づいたようだった。
ふと頭を巡らせ、やがて二人の認識の間に齟齬がある事に気づく。
その、致命的なまでの齟齬に。
「なんだよ、アキラから聞いてなかったのか?」
リュウジは言った。
「あいつは、クビだよ。 元々合わなかったんだよ、音楽性が。 同じミクスチャーでも、奴はファンク志向の人間だ。 『ステロイド』でやるには、音が軽すぎた。 馬鹿な奴だぜ。 ちっとは俺達に合わせる努力をすれば、『ステロイド』に置いてやったのによ。 本当に馬鹿な奴だ」
ああ―――――
そうか――――――
そうだったんだ――――――――
エノケンの中で、全ての疑問が氷解してゆくような気がした。
心に巣食っていた黒いものが、ゆっくり晴れてゆくようだった。
ゆっくりと。 ゆっくりと。
今、ようやく見えなかったアキラの姿に届いた気がした。
理解した。
何故、アキラの態度が豹変したのか。
何故、アキラが自分を突き放すような事を言ったのか。
きっと、アキラは残したくなかったのだ。
『ステロイド』への未練を。
エノケンの、アキラへの未練を。
それらを断ち切って、『ステロイド』を―――――新しい『アナボリック・ステロイド』を前に送り出したかったのだ。
自分のいない、生まれ変わった『アナボリック・ステロイド』として。
ああ―――――
そうか――――――
そうだったんだ――――――――
「は……はははっ」
自然と、エノケンの口元に笑いがこみあげてきた。
リュウジが、ジャガーが、トシミツが。
不意に笑いだしたエノケンを怪訝そうに見つめる。
あるいは、緊張の糸が切れたのかと思ったのかもしれない。
「ははっ、馬鹿な奴だよ。 あいつは馬鹿な奴だ。 本当に馬鹿な――――――」
エノケンは立ち上がった。
ハードケースの中から、ベースを取り出す。
高校に入って、バイトして始めて買ったアイバニーズの五弦ベース。
「だってそうだろ? メジャーデビューだぞ? 音楽を志す連中、全ての夢。 目標。 そいつを放り出してまで自分の音楽性にこだわろうってんだ。 正気の沙汰とは思えない。 本当に――――――本当に馬鹿な奴だぜ」
衆人環視の中、エノケンはネックを持ち、ゆっくりとベースを振り上げた。
「…………でも、俺は、馬鹿な方に行く事にするよ」
誰もが。
その場にいた誰もが、目を疑った。
何をしようとしたのか理解したトシミツが、その行為を止めようとしたが手遅れだった。
「やめ―――――」
叫ぶ前に、その行為は完了を見ていた。
凄まじい破砕音が楽屋に響き渡る。
誰もが、その常軌を逸した行為に目を見張る。
凄まじい力で床に叩きつけられたベースは、無残な姿になってリノリウムの床に転がった。
ネックは完全に折れ曲がり、金属弦でわずかにつながってるだけだった。
もはやそれは楽器ではない。
機能を失った、ただの醜悪なオブジェだった。
「ば……っ!? 馬鹿か、てめぇえええええええええええ!!!!!!!!?」
リュウジが叫んだ。
トシミツも、あのジャガーでさえも瞳孔を引き絞り、目を見開いている。
目の前で起こった出来事が、理解出来ない。
「なんて事してんだ、オメェは!? 本番前だぞ!? リハも終わってんだぞ!? ベースぶっ壊してどうすんだ!! 自分が何やってんのか、わかってんのか、コラァ!!!?」
リュウジは血相を変えてエノケンの胸倉につかみかかる。
だが、不思議とエノケンは心が晴れやかだった。
まるで、悪い憑きものが落ちたかのようだった。
「ベース破壊………か。 初めてやったけど、いいもんだな。 シド・ヴィシャスがなんで好んでやったのか、よく分かったぜ」
「ああ!?」
「なぁ、リュウジ。 アキラは、クビにされたなんて一言も言わなかったぜ……」
「―――――――」
リュウジが虚を突かれた一瞬、エノケンは胸倉をつかんだリュウジの腕をつかむ。
そいつを力任せに引き剥がすと、返す右の拳でその頬を一気に殴りつけた。
鈍い音を立ててリュウジがのけ反る。
その様子に、楽屋全体がざわつき始めた。
「………なぁ、リュウジ。 正直、お前は気にくわねぇ奴だ。 傲慢だし、自己中だし、それに何より―――――――歌が下手だ。 ハッキリ言って、才能って言えるほど才能はねぇよ。 ヴォーカルっていうのもおこがましい」
「てめぇ……殺すぞ……!」
「だけどな、俺も、ジャガーも、アキラも。 他でバンド組もうと思えばいくらでも組めたのに、そうしなかった。 何でか、分かるか?」
「――――――――」
「お前が一番、その事を知ってたからだよ。 自分にヴォーカルの才能がねぇって事を。 知っててお前はそいつを埋めようとしてた。 お前が陰でヴォイス・トレーニングに通ってた事も、それでも埋まらない差をラップで埋めようとしてた事も、俺達はみんな知ってた。 だから、最後までつきあったんだ。 お前とだったら、きっと上に行けると思ったから」
「――――――――」
「……アキラも同じだった。 指の障害のせいで弦楽器が出来ず、それでも音楽がやりたくてドラムを始めたあいつを――――なんでお前は理解してやれなかった? お前も、虐げられる事の辛さを、知ってる筈なのに―――――」
「――――――――」
リュウジは言葉を失った。
全てを見透かされていたという事実に。
あの偉大なアーティストの後ろ姿を志して音楽を始めた自分が間もなく痛感したのは、自分が誰よりも凡才であるという事実だった。
そこが自分の原点だった。
それを覆い隠す為に陰なる努力で作り上げた虚勢の自分が、全て筒抜けだったというのか?
リュウジのプライドが。
リュウジのアイデンティティーが音を立てて崩れ去ろうとしていた。
今エノケンの目の前に立っているのは、虎の張りぼてを剥がされた、矮小な狐の姿でしかなかった。
エノケンは、折れたベースのネックを拾い上げると、楽屋の面々に背を向ける。
去り際に一度だけメンバーの方を振り返ると、申し訳なさそうに、笑みを浮かべて言った。
「悪りぃ、トシミツさん。 ジャガー。 メジャーデビューの機会は、また今度にしてくれ」
さすがのトシミツも、ジャガーも、返す言葉がなかった。
こんな、常軌を逸した行為にどんな言葉を返せというのか。
怒りだとか、呆れるとかを通り越して、茫然自失とするしかない。
その中で、リュウジだけはかろうじて我に返り、呪詛の言葉を吐いた。
「ふざけるなよ………ふざけるなよ!!」
エノケンは、ひたと足を止める。
「ふざけるんじゃねぇ! だったら何で最後まで付きあわねぇ!? デビューだぞ!? 俺についてこればデビューが約束されてたんだ!! 今更あのアキラについてく価値が何処にある!? 『ステロイド』がなくなっちまえば、あいつは何処にでもいる“人よりちょっと上手い”程度のドラマーだろうが!?」
口の端から血を滴らせながら、リュウジは叫んだ。
おそらくリュウジの全身全霊を絞った呪詛が。
―――――少しだけ。
少しだけエノケンは考えた。
その問いの答えを。
そのリュウジへの返答を。
だが、答えは決まっていた。
ずっと昔から。
そう、アキラに会ったあの日から。
「だって、仕方ねぇだろ? 俺はあの日、あの音楽室で、あいつの『スモーク・オン・ザ・ウォーター』を聴いちまったんだからよ……」
雨が降っていた。
天気予報はあてにならない。
今日は日がな曇りの予定だったのに。
雨に濡れるのは好きじゃない。
誰だってそうだ。
靴の中もぐちゃぐちゃになるし、服の中も不愉快な感触に悩まされる事になる。
何故傘を忘れてしまったんだろう。
今日はツジコはバンド練習の日だ。
学園祭の出場は消えてもバンド自体は続いている。
自分は軽音楽部の部室には行けない。
行って誰かにあっても、どんな顔をすればいいのか分からない。
せめて、雨が降り出すのが学校にいる内だったら誰かに傘を借りる事も出来たのに。
アキラはそんな事を考えながら、公園のベンチで雨宿りをしていた。
灰色の雲を見ると憂鬱になる。
あれが全て水滴の集まりだなんて信じられない。
早く、雨なんて上がればいいのに。
i-Podを取り出す。
イヤホンを耳にはめると、物静かなピアノのナンバーが流れてきた。
アンジェラ・アキの『手紙』だ。
最近は、段々とバンドサウンドから遠ざかっているような気がする。
ドラムを聴いてしまうと、身体の奥底にある欲望が沸々としてくるからだ。
やがて、徐々に音楽の世界に自分を溶化させる。
そうする事で、アーティストの心に触れるような気がするのだ。
―――――――――
不意に、音が途切れた。
後ろから、イヤホンが引き抜かれたのだ。
音に陶酔しきっていた為、後ろにそいつが立っていた事に気付かなかった。
ぬっと、まるで熊のようにその巨漢は立っていた。
そいつが誰だか気づくのに、アキラはわずかに時間がかかった。
何故なら、そいつは今この時間、ここにいる筈のない人間だったからだ。
「――――――――――エノケン?」
驚いて、思わずアキラは声を上げた。
今日は確か、『ステロイド』のデビューを賭けたライヴだった筈だ。
「……随分久しぶりにお前を見た気がするな。 少し痩せたんじゃねぇのか?」
エノケンは言った。
「何で……お前がここにいるんだよ……。 だって…今日は………」
エノケンは、黙って手に握った黒い物を見せる。
アキラは訝しげにそれを見た。
最初、アキラはそれが何か分からなかった。
だが、やがてそれが変わり果てた五弦ベースのネックだと気付き、アキラは目を見開いた。
「な……、何だよ、これ!? お前、だって、このベースは………お前がバイトしてようやく買った……!」
「惜しくないって言えば嘘になる……けど、俺にはまだお前にもらったプレシジョン・ベースがある。 それで充分だ」
「そういう事を言ってんじゃない! ライヴは……ライヴはどうしたんだよ!?」
「ああ、投げた」
「投げたって………!」
「ドラムがどうしてもソリが合わなくてな、やっぱ俺の相棒はお前しかいねーわ」
エノケンは、そう言って笑った。
その屈託のない笑顔に、アキラは一瞬言葉を失う。
「意味ねーよ、お前のいないバンドなんて」
アキラは、その言葉の意味を飲み込む内に。
徐々に。 徐々に表情を崩していき。
ゆっくりと、涙をこぼした。
肩を震わせながら嗚咽する。
声に涙を混じらせながら。
アキラは言う。
「俺がいたら……俺がいたら、お前は、いつまでたっても上に行けないだろ……! お前は……だってお前は―――――」
癇癪。
アキラの内に、張りつめていたものが決壊する。
剥き出しの感情が。
剥き出しの本音が吐露される。
「なぁ、アキラ」
アキラの顔を起こして、エノケンは呟く。
「もしさ、フリーとチャド・スミスの二人が出会ってなかったら、レッチリはレッチリだったか?」
「え………?」
「それでもレッチリはレッチリには違いない。 だけど、二人が出会ってなかったら今のレッチリは絶対になかった。 フリーにはチャドしかいない。 チャドにはフリーしかいない。 この二人が揃う事で、二人の力は倍になるんだ。 それは、他の誰にも真似出来ない。 この二人でしかあり得ないんだ」
「何を言って――――――」
「理解出来ねぇか?」
エノケンはぐいとアキラを掴み寄せる。
「あの日、お前の『スモーク・オン・ザ・ウォーター』を聴いた日に、俺の運命は決まったんだ……」
そして。
ようやく。
ずっと。
ずっとずっと言いたかった言葉を。
「お前が! お前が俺のチャド・スミスなんだよ!! 他に代わりなんかいねぇ、お前しかいねぇんだ!! お前のドラムがあるから、俺は自分を信じられるんだ! 俺を音楽の世界に引き込んだのはお前だ、途中で降りるなんて許さねぇ!!」
雨が―――――
いつの間にか、雨がやんでいた。
灰色の雲の隙間から、淡い陽光が差し込む。
雨雲が、次第に次第に北へと流れ出していた。
「なぁ……やり直そうぜ。 もう一度最初から。 だって、俺達は、最初は何も持ってなかったんだ。 だから、きっと、もう一度やり直せる」
目の前の光景がゆがんだ。
目の前にある水滴が景色を歪める。
そうだ、もう一度やり直そう。
最初は一人だった。
だけど、今度は二人だ。
頼もしいベーシストがついている。
だから、きっと、もう一度――――――――――