つかの間の晴れ
■つかの間の晴れ
朝7時10分前。いつも4つめの目覚ましが鳴ってやっと起きる僕にとって、1つめが鳴る前に起きたのは実に3年ぶりになる快挙だった。
「不思議なこともあるもんだ」
セットしていた目覚ましを止め、素早く起き上がる。力いっぱい伸びをすると固まっていた骨がパキパキ鳴った。
とりあえず着替えることにする。僕が朝起きて最初にやることは、歯磨きでも洗顔でもなく着替えだ。これは寝間着のまま自分の部屋を出ないという僕のポリシーからくるものだった。自分の領土以外の空間ではそれなりの格好をしないと失礼だという美学だ。僕はこの美学を結構気に入っている。
「……ふぅ」
制服に着替え終えて一息つくと、急に周りが静かになる。さっきまで気付かなかった雨の音が静寂の中で際立っていた。土日中降り続けていただけあって、昨日よりは大人しくなったようだ。
カーテンを開く。薄く曇った窓を手で拭くと、灰色な光を浴びた町が顔を出した。今日は寒くなりそうだ。
「……あ」
窓の外、アスファルトの十字路の真ん中に佇む傘が一つ。この前伊達さんが立っていた場所と寸分たがわぬ位置にいる、水色の傘。
頭の中に飛鳥との会話が蘇る。
ということは、あれはもしかしなくても……。
「伊達さん?」
急いで階段を駆け降り、サンダルを突っかけ玄関の扉を開いた。すぐに伊達さんと目が合う。ずっと扉を見ていたのだろうか?
伊達さんは少し驚いたように目を見開くと、あからさまに視線を逸らして歩き始めた。
「ちょ、伊達さんっ!」
思わず呼び止める。伊達さんは悪戯を咎められた子供のように一瞬驚いて立ち止まり、再び歩みを進めた。
「ちょっと、待ってよ!」
駆け寄り腕を掴んで振り向かせる。雨で学ランが濡れているが気にしてられなかった。
「……あ、渉くん。おはよう。こんなところで会うなんて偶然ね」
伊達さんはまるで何事もなかったかのように、自然に挨拶を返してきた。普段から無表情だからか、こういう時にポーカーフェイスが上手い。
だけど騙されちゃいけない。本人は動揺している。普段より雄弁なのがなによりの証拠だ。
「いや偶然じゃないよ。僕の家の玄関ずっと見てたでしょ?」
「……ううん、そんなことない。今来たところ。そしてこれから登校するところ」
「なんでそんなすぐバレるような嘘付くの? 今7時10分だよ!?」
ストーカーは最低な奴のやることだ。相手の気持ちを考えず、私利私欲に任せて一方通行の愛を貫き通す。僕が伊達さんを今まで注意しなかったのは、クラスメイトをそんな最低野郎だと思いたくなかったからだ。しかし、もう我慢の限界だ。
「……そんなことより、渉くん、濡れてる」
伊達さんが傘を僕の方に少し傾けてくれた。
「あ、ありがとう……。じゃなくて! 話逸らすなよっ」
「……渉くんと私、相合い傘…………」
人の話をまるで聞いていない。それどころか無表情のまま頬を赤く染めている。器用だ。
「じゃなくて! 伊達さん僕の話聞いてる?」
「……聞いてるよ」
「じゃあ僕の家の前で張ってるのとか止めてくれない? 伊達さんが僕のことを好いてくれる気持ちは嬉しいけど、そこまでストーカー紛いのことされると迷惑なんだよね」
言いながら、先日直樹に指摘されたことを、驚くほどすんなりとこちらから言えたことに戸惑った。
「…………」
伊達さんは視線を逸らして俯いた。小さい声で「……ごめんなさい」と聞こえた気がした。
「とにかく金輪際こういうことはしないで。これは前も言ったけど、伊達さんの気持ちには僕、応えられないから。あとこれは今初めて言うけど、僕は他に好きな人いるから」
勢いに任せて一気に言い切る。伊達さんの目が驚きで見開かれる。近くで見ると伊達さんのつり目がちの三白眼がよく分かる。
「だから、僕のことはもう諦めて」
「…………誰?」
「へ?」
予想外の切り返しに、思わず情けない声を出してしまう。
「……渉くんの思い人、誰?」
「お、思い人?」
好きな人のことだろうか。表現が古い。そして目が真剣だ。元々の目付きも相俟って(あいまって)、睨まれてるような、詰め寄られているような気分になる。本人に自覚はないのだろうが。
「そりゃ言えないよ」
「…………教えてくれたら、もうこんなことしない」
「…………」
うーん、困った。交換条件ときたか。
「…………渉くんのことも、すぐには無理だけど、頑張って諦める」
「う……ッ!」
やばい。今の台詞を不覚にも可愛いと思ってしまった。伊達さん自体も見た目は良い方だし、僕って結構幸せ者?
「えーっと」
「…………おねがい」
「……えぇー、っとぉ」
「…………渉くん。おねがい」
「……瀬川憩(せがわけい)」
押しに負けて、つい言ってしまった。
伊達さんは聞くや否や、僕を取り残して学校へ走っていってしまった。蹴り上げられた水でスラックスがびしょびしょになる。今まで伊達さんの傘の下にいたから気がつかなかったが、いつの間にか雨は止んでいた。
◆
◆
人は好意を寄せられると、その人のことを意識してしまう。そんな一節を、昔何かの本で読んだ気がする。なんでも、自分が好きな子を思う時間より自分に好意を寄せてくれている相手のことを考える時間が多くなったとき、その気持ちは転換するんだとか。特に恋愛経験の浅い人なんかは、多少の好感を抱いている程度の相手でも好きになってしまうらしい。相手を傷つけずに断ろうと悩んだ末「付き合っちゃえば相手が傷つかないのでは?」という結論に帰結するのだそうだ。
本当かよ? と、思う。
なんの根拠もなく、ただ作者の経験だけで物を言っているような気がしてならない。
だって僕は伊達さんに言い寄られてるのに、伊達さんを好きになるなんて全く考えられないからだ。確かにアクティブに生きる人はネガティブに生きる人より好感がもてる。そういう意味では「好きです」とはっきり言ってくれる方が恋愛が成就する可能性が高いと言えなくもないが、逆に伊達さんのようにアクティブ過ぎるのも考えものだ。あまりに度を超えているところが目立ち過ぎる。伊達さんのことで頭を悩ませている時間は瀬川を思うそれより遥かに長いが、この本に書いてあるように、その気持ちが転換することはないだろう。ただ、僕が伊達さんのことを考える時間が増えた点だけを見れば、伊達さんの思惑は確かに成功しているわけで、これからの経過次第では、いつか僕の気持ちが伊達さんに向くと言えなくもない。先のことが分からない以上、この本が間違っている証明にはならないが、それでもやはり疑問を唱えてしまう。
しかし、この本の大部分が納得できない中にも僕が共感できる一節があった。それは『人を好きになるにはそれ相応の理由がいる』ということだ。
あまりにも当然過ぎることではあるが、これは真理であるようにも思う。僕が瀬川に恋心を抱いている理由はもちろんあるし、伊達さんだって僕に惚れた某(なにがし)かの理由は持ち合わせているだろう。それが何かは分からないわけだけど。
午後1時間前。本日3度目の休み時間が訪れ、クラスの大半が他愛もない話に花を咲かせているというのに、僕は自分の席を一歩も動くことが出来なかった。
原因は僕の席から3個前、僕の思い人であるところの瀬川憩の席だった。天頂近くまで昇った日の光りを、艶やかな髪が優しく反射し、渓流のせせらぎを彷彿とさせる。 思わず見とれてしまうその後ろ姿の横に、伊達さんがいたからだった。
何かを話しているようだが、声が小さくて聞き取れない。伊達さんは朝からずっと、休み時間の度にああやって瀬川の席に行っては持ち前のボソボソ声で何か喋っている。稀に瀬川が笑う。どうやら会話は弾んでいるようだが、見ているこっちは気が気じゃない。
しかも二人してチラチラこちらを見てくる。机に身体を突っ伏して一見眠っているように見せているが、内心冷や汗ものだ。
やはり伊達さんに言ったのは間違いだったのだろうか? というか二人は何を話しているんだろう? 伊達さんと僕以外の人が話す光景を、僕は初めて見た。会話が成り立つこと自体に驚きを隠せない。
だけどそんなことより、重大かつ強大な危機に僕は直面していた。
トイレに行きたい。休み時間の度にこれなので行くに行けず、僕の膀胱は決壊寸前だった。
「どうしよ……」
結果として寝たふりをしているような形になってしまったからか、盗み見をしているという後ろめたさからかは分からない。ただ、何となくきっかけがないと動きづらい。突然起き上がってトイレに行くのも不自然な気がするし……。
「よぉ兄弟」
その時、肩に誰かの手が触れた気がした。この声と馴れ馴れしい台詞は直樹しかいない。
「こんな時に寝てていいのか? お前のフィアンセ候補と愛人が仲良く落ち合ってる最中なんだぞ?」
「…………この場合どっちがフィアンセだよ?」
「そりゃお前もちろん……って、なんだよ起きてたのかよ」
「そんなことよりトイレに行こうぜ!」
正に渡りに船。僕は直樹を振り返らずに一目散にトイレに駆け込んだ。
「で、なんで憩さんとお前のストーカーが楽しくお喋りしてるのか、教えてくれるな、渉?」
洗面台で髪形を整えながら、鏡ごしに直樹が言った。僕も手を洗いながら鏡の直樹を見る。
「知らないよ。別にクラスメイトと話すなんて普通のことでしょ?」
「普通か? 伊達だぞ?」
「う……ッ」
確かに。伊達さんと入学式に出会ってからの中学生活も2度目の梅雨を迎えたというのに、僕以外の人と話しているのを見るのは今日が初めてだ。これはちょっとした事件かもしれない。
「ただクラスメイトと仲良くしようとしてるだけじゃないの? 良い傾向だよ」
直樹は髪を触る手を止めると、物凄い形相でこちらに詰め寄ってきた。
「お前、それマジで言ってる?」
「う、うん……」
思わずたじろいてしまった。
「学校にいる間中、片時も離さずお前のことばかりを見ていたあの伊達だぞ?」
「片時もって……、言い過ぎでしょ。」
「クラスで気付いてないのお前だけだぞ。常に死角から伊達はお前を見つめている」
そうだったのか……。よく目が合うとは思っていたが、まさかそこまでとは……。
「もちろん今も見られてるぞ」
「え、嘘っ!?」
慌てて辺りを見渡す。僕らが入ってからトイレの入口を通過した人は誰もいない。
「見回したって見つからねぇよ」
直樹が、やれやれといった感じで溜息をつく。
「嘘でしょ? だってここトイレだよ?」
「お前には見ることができないんだよ渉。宿命なんだ。俺はこれを『志村、後ろ後ろ病』と名付けた」
「なんだそれ……」
本当に僕だけは伊達さんを見ることができなそうな病名だ。
「まぁ、なんにしろ、よ」
直樹は僕に向けていた視線を戻すと、再び髪形を整え始める。
「伊達が迷惑なんだったら、本人にきちんと言った方がいいんじゃねぇの? もしくは憩にとっとと想いを伝えちゃうとかさ」
最後に鏡の中の自分にニッ、と微笑むと、化粧台に出していたヘアワックスをポケットにしまい、僕の肩を叩いた。
「まぁ、言えるわきゃねぇか! 相手はあの憩だしな」
「……うるせぇ。仕方ないだろ好きなんだから」
「あははは! まぁ頑張れよ。応援してるからさ」
俺はいつでもお前の味方だぜ。そう言って直樹はトイレを出て行った。
一人残されて、鏡の中の自分と目が合う。
「ちぇ。なんだよ、直樹の奴」
その後2、3度トイレを見回してみたけど、遂に伊達さんを見つけることは出来なかった。
◆
朝7時10分前。いつも4つめの目覚ましが鳴ってやっと起きる僕にとって、1つめが鳴る前に起きたのは実に3年ぶりになる快挙だった。
「不思議なこともあるもんだ」
セットしていた目覚ましを止め、素早く起き上がる。力いっぱい伸びをすると固まっていた骨がパキパキ鳴った。
とりあえず着替えることにする。僕が朝起きて最初にやることは、歯磨きでも洗顔でもなく着替えだ。これは寝間着のまま自分の部屋を出ないという僕のポリシーからくるものだった。自分の領土以外の空間ではそれなりの格好をしないと失礼だという美学だ。僕はこの美学を結構気に入っている。
「……ふぅ」
制服に着替え終えて一息つくと、急に周りが静かになる。さっきまで気付かなかった雨の音が静寂の中で際立っていた。土日中降り続けていただけあって、昨日よりは大人しくなったようだ。
カーテンを開く。薄く曇った窓を手で拭くと、灰色な光を浴びた町が顔を出した。今日は寒くなりそうだ。
「……あ」
窓の外、アスファルトの十字路の真ん中に佇む傘が一つ。この前伊達さんが立っていた場所と寸分たがわぬ位置にいる、水色の傘。
頭の中に飛鳥との会話が蘇る。
ということは、あれはもしかしなくても……。
「伊達さん?」
急いで階段を駆け降り、サンダルを突っかけ玄関の扉を開いた。すぐに伊達さんと目が合う。ずっと扉を見ていたのだろうか?
伊達さんは少し驚いたように目を見開くと、あからさまに視線を逸らして歩き始めた。
「ちょ、伊達さんっ!」
思わず呼び止める。伊達さんは悪戯を咎められた子供のように一瞬驚いて立ち止まり、再び歩みを進めた。
「ちょっと、待ってよ!」
駆け寄り腕を掴んで振り向かせる。雨で学ランが濡れているが気にしてられなかった。
「……あ、渉くん。おはよう。こんなところで会うなんて偶然ね」
伊達さんはまるで何事もなかったかのように、自然に挨拶を返してきた。普段から無表情だからか、こういう時にポーカーフェイスが上手い。
だけど騙されちゃいけない。本人は動揺している。普段より雄弁なのがなによりの証拠だ。
「いや偶然じゃないよ。僕の家の玄関ずっと見てたでしょ?」
「……ううん、そんなことない。今来たところ。そしてこれから登校するところ」
「なんでそんなすぐバレるような嘘付くの? 今7時10分だよ!?」
ストーカーは最低な奴のやることだ。相手の気持ちを考えず、私利私欲に任せて一方通行の愛を貫き通す。僕が伊達さんを今まで注意しなかったのは、クラスメイトをそんな最低野郎だと思いたくなかったからだ。しかし、もう我慢の限界だ。
「……そんなことより、渉くん、濡れてる」
伊達さんが傘を僕の方に少し傾けてくれた。
「あ、ありがとう……。じゃなくて! 話逸らすなよっ」
「……渉くんと私、相合い傘…………」
人の話をまるで聞いていない。それどころか無表情のまま頬を赤く染めている。器用だ。
「じゃなくて! 伊達さん僕の話聞いてる?」
「……聞いてるよ」
「じゃあ僕の家の前で張ってるのとか止めてくれない? 伊達さんが僕のことを好いてくれる気持ちは嬉しいけど、そこまでストーカー紛いのことされると迷惑なんだよね」
言いながら、先日直樹に指摘されたことを、驚くほどすんなりとこちらから言えたことに戸惑った。
「…………」
伊達さんは視線を逸らして俯いた。小さい声で「……ごめんなさい」と聞こえた気がした。
「とにかく金輪際こういうことはしないで。これは前も言ったけど、伊達さんの気持ちには僕、応えられないから。あとこれは今初めて言うけど、僕は他に好きな人いるから」
勢いに任せて一気に言い切る。伊達さんの目が驚きで見開かれる。近くで見ると伊達さんのつり目がちの三白眼がよく分かる。
「だから、僕のことはもう諦めて」
「…………誰?」
「へ?」
予想外の切り返しに、思わず情けない声を出してしまう。
「……渉くんの思い人、誰?」
「お、思い人?」
好きな人のことだろうか。表現が古い。そして目が真剣だ。元々の目付きも相俟って(あいまって)、睨まれてるような、詰め寄られているような気分になる。本人に自覚はないのだろうが。
「そりゃ言えないよ」
「…………教えてくれたら、もうこんなことしない」
「…………」
うーん、困った。交換条件ときたか。
「…………渉くんのことも、すぐには無理だけど、頑張って諦める」
「う……ッ!」
やばい。今の台詞を不覚にも可愛いと思ってしまった。伊達さん自体も見た目は良い方だし、僕って結構幸せ者?
「えーっと」
「…………おねがい」
「……えぇー、っとぉ」
「…………渉くん。おねがい」
「……瀬川憩(せがわけい)」
押しに負けて、つい言ってしまった。
伊達さんは聞くや否や、僕を取り残して学校へ走っていってしまった。蹴り上げられた水でスラックスがびしょびしょになる。今まで伊達さんの傘の下にいたから気がつかなかったが、いつの間にか雨は止んでいた。
◆
◆
人は好意を寄せられると、その人のことを意識してしまう。そんな一節を、昔何かの本で読んだ気がする。なんでも、自分が好きな子を思う時間より自分に好意を寄せてくれている相手のことを考える時間が多くなったとき、その気持ちは転換するんだとか。特に恋愛経験の浅い人なんかは、多少の好感を抱いている程度の相手でも好きになってしまうらしい。相手を傷つけずに断ろうと悩んだ末「付き合っちゃえば相手が傷つかないのでは?」という結論に帰結するのだそうだ。
本当かよ? と、思う。
なんの根拠もなく、ただ作者の経験だけで物を言っているような気がしてならない。
だって僕は伊達さんに言い寄られてるのに、伊達さんを好きになるなんて全く考えられないからだ。確かにアクティブに生きる人はネガティブに生きる人より好感がもてる。そういう意味では「好きです」とはっきり言ってくれる方が恋愛が成就する可能性が高いと言えなくもないが、逆に伊達さんのようにアクティブ過ぎるのも考えものだ。あまりに度を超えているところが目立ち過ぎる。伊達さんのことで頭を悩ませている時間は瀬川を思うそれより遥かに長いが、この本に書いてあるように、その気持ちが転換することはないだろう。ただ、僕が伊達さんのことを考える時間が増えた点だけを見れば、伊達さんの思惑は確かに成功しているわけで、これからの経過次第では、いつか僕の気持ちが伊達さんに向くと言えなくもない。先のことが分からない以上、この本が間違っている証明にはならないが、それでもやはり疑問を唱えてしまう。
しかし、この本の大部分が納得できない中にも僕が共感できる一節があった。それは『人を好きになるにはそれ相応の理由がいる』ということだ。
あまりにも当然過ぎることではあるが、これは真理であるようにも思う。僕が瀬川に恋心を抱いている理由はもちろんあるし、伊達さんだって僕に惚れた某(なにがし)かの理由は持ち合わせているだろう。それが何かは分からないわけだけど。
午後1時間前。本日3度目の休み時間が訪れ、クラスの大半が他愛もない話に花を咲かせているというのに、僕は自分の席を一歩も動くことが出来なかった。
原因は僕の席から3個前、僕の思い人であるところの瀬川憩の席だった。天頂近くまで昇った日の光りを、艶やかな髪が優しく反射し、渓流のせせらぎを彷彿とさせる。 思わず見とれてしまうその後ろ姿の横に、伊達さんがいたからだった。
何かを話しているようだが、声が小さくて聞き取れない。伊達さんは朝からずっと、休み時間の度にああやって瀬川の席に行っては持ち前のボソボソ声で何か喋っている。稀に瀬川が笑う。どうやら会話は弾んでいるようだが、見ているこっちは気が気じゃない。
しかも二人してチラチラこちらを見てくる。机に身体を突っ伏して一見眠っているように見せているが、内心冷や汗ものだ。
やはり伊達さんに言ったのは間違いだったのだろうか? というか二人は何を話しているんだろう? 伊達さんと僕以外の人が話す光景を、僕は初めて見た。会話が成り立つこと自体に驚きを隠せない。
だけどそんなことより、重大かつ強大な危機に僕は直面していた。
トイレに行きたい。休み時間の度にこれなので行くに行けず、僕の膀胱は決壊寸前だった。
「どうしよ……」
結果として寝たふりをしているような形になってしまったからか、盗み見をしているという後ろめたさからかは分からない。ただ、何となくきっかけがないと動きづらい。突然起き上がってトイレに行くのも不自然な気がするし……。
「よぉ兄弟」
その時、肩に誰かの手が触れた気がした。この声と馴れ馴れしい台詞は直樹しかいない。
「こんな時に寝てていいのか? お前のフィアンセ候補と愛人が仲良く落ち合ってる最中なんだぞ?」
「…………この場合どっちがフィアンセだよ?」
「そりゃお前もちろん……って、なんだよ起きてたのかよ」
「そんなことよりトイレに行こうぜ!」
正に渡りに船。僕は直樹を振り返らずに一目散にトイレに駆け込んだ。
「で、なんで憩さんとお前のストーカーが楽しくお喋りしてるのか、教えてくれるな、渉?」
洗面台で髪形を整えながら、鏡ごしに直樹が言った。僕も手を洗いながら鏡の直樹を見る。
「知らないよ。別にクラスメイトと話すなんて普通のことでしょ?」
「普通か? 伊達だぞ?」
「う……ッ」
確かに。伊達さんと入学式に出会ってからの中学生活も2度目の梅雨を迎えたというのに、僕以外の人と話しているのを見るのは今日が初めてだ。これはちょっとした事件かもしれない。
「ただクラスメイトと仲良くしようとしてるだけじゃないの? 良い傾向だよ」
直樹は髪を触る手を止めると、物凄い形相でこちらに詰め寄ってきた。
「お前、それマジで言ってる?」
「う、うん……」
思わずたじろいてしまった。
「学校にいる間中、片時も離さずお前のことばかりを見ていたあの伊達だぞ?」
「片時もって……、言い過ぎでしょ。」
「クラスで気付いてないのお前だけだぞ。常に死角から伊達はお前を見つめている」
そうだったのか……。よく目が合うとは思っていたが、まさかそこまでとは……。
「もちろん今も見られてるぞ」
「え、嘘っ!?」
慌てて辺りを見渡す。僕らが入ってからトイレの入口を通過した人は誰もいない。
「見回したって見つからねぇよ」
直樹が、やれやれといった感じで溜息をつく。
「嘘でしょ? だってここトイレだよ?」
「お前には見ることができないんだよ渉。宿命なんだ。俺はこれを『志村、後ろ後ろ病』と名付けた」
「なんだそれ……」
本当に僕だけは伊達さんを見ることができなそうな病名だ。
「まぁ、なんにしろ、よ」
直樹は僕に向けていた視線を戻すと、再び髪形を整え始める。
「伊達が迷惑なんだったら、本人にきちんと言った方がいいんじゃねぇの? もしくは憩にとっとと想いを伝えちゃうとかさ」
最後に鏡の中の自分にニッ、と微笑むと、化粧台に出していたヘアワックスをポケットにしまい、僕の肩を叩いた。
「まぁ、言えるわきゃねぇか! 相手はあの憩だしな」
「……うるせぇ。仕方ないだろ好きなんだから」
「あははは! まぁ頑張れよ。応援してるからさ」
俺はいつでもお前の味方だぜ。そう言って直樹はトイレを出て行った。
一人残されて、鏡の中の自分と目が合う。
「ちぇ。なんだよ、直樹の奴」
その後2、3度トイレを見回してみたけど、遂に伊達さんを見つけることは出来なかった。
◆
◆
気付かない振りをしても駄目。それはいつでも頭の一番上にあって、いつでも心の一番目立つところに巣くっているのだ。きっかけなんてなくても構わない。どんなに好きなことに没頭していようと、どんなに試験前の勉強で焦っていようと、その気持ちは目に見えて肥大化していく。それが、昼休み前最後の授業ともなれば尚更だ。ただでさえ思考がトリップしやすいこの時間にそれが頭を過ぎらないわけがなく、ご多分に漏れず僕の頭の中も瀬川のことで埋め尽くされていた。
トイレから戻ってきた僕は、3つ前の席に見える瀬川の後ろ頭を見ながら自然と溜め息をついていた。とにかく瀬川のことが気になって気になって仕方がない。一体伊達さんと何を話していたのだろう。いや、伊達さんに一体何を吹き込まれたのだろう。いくら考えても答えが出ないことは分かっているのに、それでも考えずにはいられなかった。
「伊達が迷惑なんだったら、本人にきちんと言った方がいいんじゃねぇの?」
直樹の言葉が思い出される。確かに今までは軽く警告する程度で黙認してきたし、今日の朝だってあまり過度な愛情表現は止めてくれと忠告はした。しかし、流石に瀬川にまで介入してくると迷惑だ。今まで誰とも話したことない伊達さんが、僕の好きな人を知った途端、急に瀬川と仲良くするなんて何か企んでいるとしか思えない。これを機に伊達さんにしっかり伝えた方がいいかもしれない。僕にも瀬川にも金輪際関わるな、と。
「でもなぁ……」
伊達さんの方を見る。相変わらず何を考えているのかわからない無表情で黒板を見ている。
「可愛いんだよなぁ、実際」
伊達さんには隠れファンが多い。興味のベクトルが全て僕へ向いているということが共通認識になっているからこそ人気が低いように見られがちだが、伊達さんは元々寡黙で美人、しかもストーカー予備軍という、クラスで目立つには十分過ぎる要素を持ち合わせている。伊達さんにストーカーされたい人を募ればクラス中の男子が両手を上げて立候補することだろう。
正直なところ、そんな伊達さんの愛情を独占できるのは気分が良かった。人に好かれれば誰だって気分がいい。それがクラス中の人気者なら尚更だ。なんとなく鼻が高くなる。それが心地良かった。
「やっぱり惜しいよなぁ……」
認めたくない、醜い自分。瀬川のことを好きでありながら、伊達さんのことも完全に捨てきれない身勝手な自分。目を逸らさずに自分を見つめれば、こんなにもクッキリと醜悪な心が見える。
「それをはっきりしろって言ってるんだよな、直樹は」
そんな身勝手な想いだって、瀬川に対する想いには敵わない。瀬川への恋の障害となるなら、きちんと話を着けなければならないだろう。どんなに好かれることが気持ち良くても、人を想う気持ちには勝てない。結局のところ、惚れた側の負けなのだ。
よし、言おう。伊達さんに、はっきりと。
「……まぁ、それは会話の内容が分かってからでも遅くはないか」
まずは探りを入れてから。そんな逃げ腰の結論で、結局問題を先延ばしにするのだった。
◆
◆
長雨が去り久しぶりに訪れた、つかの間の晴れ。気象的には雲が空を8割方覆っていても晴れだと言うのだから、今日の天気も晴れにカウントしていいはずだ。天気予報によると、あと2、3日もするとまた降り出してくるらしい。梅雨はまだ長い。だったらせめて今の間だけでも、たとえ薄く伸びた雲が太陽を覆ってしまっていても、今日の天気を晴れだと信じたいのが人情というものじゃないだろうか。
昨日は結局、何か釈然としない気持ちを引きずったまま一夜を明かしてしまった。伊達さんは一体、瀬川に何を吹き込んだのだろう。それだけがずっと頭をぐるぐると回っていた。あの後、帰り道で伊達さんにそれとなく聞いてみても上手くはぐらかされてしまった。
もうこうなったら瀬川に聞くしかない。そう僕は思った。直接本人に聞いて確かめるしかない。でなければこのモヤモヤした気分は払拭できないだろう。かといって瀬川と僕の間柄を考えると、学校にみんながいる中話し掛けるのも気が引ける。 そう考えた僕は、早朝を狙うことにした。
朝7時。まだ部活の朝練をする連中も来ていないような早朝。校舎内はひっそりと静まり返っていて、人気のない廊下で自分の足音がやけに響いた。
瀬川はもう来ているだろうか? 恐らく来ているとは思う。瀬川の家は両親を規準に生活スタイルが組まれているので、父親の出勤時間に合わせて家族全員が家を出る。 そのため、瀬川はいつも始業時刻の1時間前には学校に到着しているのだという話を以前聞いたことがあった。
教室に入ると、やはりと言うべきか、瀬川はすでに席に着き勉強をしていた。少しだけ安堵する。まだ僕には気付いていないようで、扉を閉めた音にも反応せず、黙々と何かを書き写していた。
普通一人で教室にいれば、誰か入って来たら振り向きそうなものだけど。相変わらず鈍い。それとも、誰が入ってこようと興味がないのか。
「瀬川」
僕は鞄を机に置くと、早速瀬川に声を掛けた。
瀬川は僕の声に全く反応を見せず、ただ黙々と机に向かっていた。もしかして気付かなかったのだろうか? とてもじゃないけど考えられない。
「瀬川、おい瀬川」
「ん? あぁ、『瀬川』って私ですか」
肩まで叩かれてやっと気付いたようで、瀬川は手を止めると体ごとこちらを振り向いた。
咄嗟に、目線がぶつかる。僕を見上げる瀬川の瞳は、上目使いの状態でも下に白い部分が見えないくらい大きい。大粒の黒真珠を彷彿とさせる黒目がちの瞳だ。
伊達さんとはまた違った、目力(めちから)のある瞳だと思う。
「はれ? ワタルさん、いついらっしゃったんですか?」
「ついさっき」
「そうだったんですか……。気が付きませんでした」
……ホントに気付いてなかったのかよ。信じられない事実だった。
「そんなことよりワタルさん」
瀬川は急に柔らかそうな頬を膨らませると、眉を吊り上げてこちらを睨んだ。
少しドキッとしてしまう。僕はMなのかもしれない。
「ワタルさん。『瀬川』は止めてって言ったじゃないですか。『憩』って呼んでくださいよ」
「あ、ごめん」
「『あ、ごめん』じゃないですよ。苗字で呼ばれるの、嫌いなんですから」
瀬川は人と話す時、決して目線を外そうとしない。吸い込まれそうな瞳を見つめ続けることが出来ず、僕は知らずに目線を逸らしていた。
「いいじゃん、瀬川憩。名前にぴったりの苗字だと思うけど」
「いやです! 嫌いなものは嫌いなんですっ!」
瀬川はすっかり機嫌を悪くしてしまったようで、膨れっ面のままそっぽを向いてしまった。ただ苗字で呼んだだけなのに、理不尽なことこの上ない。
「わかった。以後気をつけるよ。そんなことよりさ、話したいことあるんだけど」
「え、そうなんですか?」
瀬川は再びこちらに向き直ると、小首を傾げて見つめてきた。
「ワタルさんから私に話なんて珍しいですね。なんですか?」
前髪がふわりと揺れる。期待を込めた眼差しは少し潤んでいて、僕を緊張させた。
どうやら怒りはもう収まったようだ。そんなこと呼ばわりしたのも特に気にはしていないらしい。相変わらず感情の振れ幅が激し過ぎる。まぁ、そんな所も含めて大好きなんだけど。
「今日の昼休み、一緒に食べながらとかでいいんだけど、どう?」
「『お昼を一緒に』ですか。んー…………」
瀬川は大袈裟に驚くと、顎に手を当て、考え込むように唸った。徐々に眉が寄っていく。唇も尖っていく。物凄く熟慮しているようだ。
「いや、そんなに真剣に悩まなくても……」
「それはお昼じゃないとダメですか?」
「いや、別に話すだけならいつでもいいんだけどさ。ただ……」
「? ただ、なんですか?」
ただ、ついでにお昼をご一緒出来ないかなー……なんて。
言えるわけない。
「いや、なんでもない」
「ふぅん?」
瀬川は気になるようだったが、僕がそれ以上語る意思がないことを悟ると、すぐに表情を切り替えた。
「なら、うん、決まりましたッ!」
瀬川は右手で拳を作り左手の平をポンッ、と叩いた。何か閃いた時に使うジェスチャーだ。少なくとも今このタイミングで使うのは間違っている。
「ワタルさん、今ならお話を伺うことが出来るのですが、それでいいですか?」
「ん、あ、あぁ……いいけど」
「よかったです」
瀬川は下唇を隠すように軽く噛むと、柔らかく微笑んだ。癖なのだろうか? しかしその仕種が堪らなく可愛い。まさに極上のスマイル。
「では行きましょう、ワタルさん」
瀬川は急に立ち上がると、僕の手を取った。
「行くって、どこへ……?」
「決まってるじゃないですか。『屋上』ですよ」
「え、なんで?」
今教室には誰もいない。わざわざ場所を移す必要なんてないのに。
「いいからいいから。せっかく久しぶりに晴れましたし、行きましょうよっ!」
「…………まぁ、いいけど」
そのまま手を引かれるままに、僕らは屋上に向かった。
◆
気付かない振りをしても駄目。それはいつでも頭の一番上にあって、いつでも心の一番目立つところに巣くっているのだ。きっかけなんてなくても構わない。どんなに好きなことに没頭していようと、どんなに試験前の勉強で焦っていようと、その気持ちは目に見えて肥大化していく。それが、昼休み前最後の授業ともなれば尚更だ。ただでさえ思考がトリップしやすいこの時間にそれが頭を過ぎらないわけがなく、ご多分に漏れず僕の頭の中も瀬川のことで埋め尽くされていた。
トイレから戻ってきた僕は、3つ前の席に見える瀬川の後ろ頭を見ながら自然と溜め息をついていた。とにかく瀬川のことが気になって気になって仕方がない。一体伊達さんと何を話していたのだろう。いや、伊達さんに一体何を吹き込まれたのだろう。いくら考えても答えが出ないことは分かっているのに、それでも考えずにはいられなかった。
「伊達が迷惑なんだったら、本人にきちんと言った方がいいんじゃねぇの?」
直樹の言葉が思い出される。確かに今までは軽く警告する程度で黙認してきたし、今日の朝だってあまり過度な愛情表現は止めてくれと忠告はした。しかし、流石に瀬川にまで介入してくると迷惑だ。今まで誰とも話したことない伊達さんが、僕の好きな人を知った途端、急に瀬川と仲良くするなんて何か企んでいるとしか思えない。これを機に伊達さんにしっかり伝えた方がいいかもしれない。僕にも瀬川にも金輪際関わるな、と。
「でもなぁ……」
伊達さんの方を見る。相変わらず何を考えているのかわからない無表情で黒板を見ている。
「可愛いんだよなぁ、実際」
伊達さんには隠れファンが多い。興味のベクトルが全て僕へ向いているということが共通認識になっているからこそ人気が低いように見られがちだが、伊達さんは元々寡黙で美人、しかもストーカー予備軍という、クラスで目立つには十分過ぎる要素を持ち合わせている。伊達さんにストーカーされたい人を募ればクラス中の男子が両手を上げて立候補することだろう。
正直なところ、そんな伊達さんの愛情を独占できるのは気分が良かった。人に好かれれば誰だって気分がいい。それがクラス中の人気者なら尚更だ。なんとなく鼻が高くなる。それが心地良かった。
「やっぱり惜しいよなぁ……」
認めたくない、醜い自分。瀬川のことを好きでありながら、伊達さんのことも完全に捨てきれない身勝手な自分。目を逸らさずに自分を見つめれば、こんなにもクッキリと醜悪な心が見える。
「それをはっきりしろって言ってるんだよな、直樹は」
そんな身勝手な想いだって、瀬川に対する想いには敵わない。瀬川への恋の障害となるなら、きちんと話を着けなければならないだろう。どんなに好かれることが気持ち良くても、人を想う気持ちには勝てない。結局のところ、惚れた側の負けなのだ。
よし、言おう。伊達さんに、はっきりと。
「……まぁ、それは会話の内容が分かってからでも遅くはないか」
まずは探りを入れてから。そんな逃げ腰の結論で、結局問題を先延ばしにするのだった。
◆
◆
長雨が去り久しぶりに訪れた、つかの間の晴れ。気象的には雲が空を8割方覆っていても晴れだと言うのだから、今日の天気も晴れにカウントしていいはずだ。天気予報によると、あと2、3日もするとまた降り出してくるらしい。梅雨はまだ長い。だったらせめて今の間だけでも、たとえ薄く伸びた雲が太陽を覆ってしまっていても、今日の天気を晴れだと信じたいのが人情というものじゃないだろうか。
昨日は結局、何か釈然としない気持ちを引きずったまま一夜を明かしてしまった。伊達さんは一体、瀬川に何を吹き込んだのだろう。それだけがずっと頭をぐるぐると回っていた。あの後、帰り道で伊達さんにそれとなく聞いてみても上手くはぐらかされてしまった。
もうこうなったら瀬川に聞くしかない。そう僕は思った。直接本人に聞いて確かめるしかない。でなければこのモヤモヤした気分は払拭できないだろう。かといって瀬川と僕の間柄を考えると、学校にみんながいる中話し掛けるのも気が引ける。 そう考えた僕は、早朝を狙うことにした。
朝7時。まだ部活の朝練をする連中も来ていないような早朝。校舎内はひっそりと静まり返っていて、人気のない廊下で自分の足音がやけに響いた。
瀬川はもう来ているだろうか? 恐らく来ているとは思う。瀬川の家は両親を規準に生活スタイルが組まれているので、父親の出勤時間に合わせて家族全員が家を出る。 そのため、瀬川はいつも始業時刻の1時間前には学校に到着しているのだという話を以前聞いたことがあった。
教室に入ると、やはりと言うべきか、瀬川はすでに席に着き勉強をしていた。少しだけ安堵する。まだ僕には気付いていないようで、扉を閉めた音にも反応せず、黙々と何かを書き写していた。
普通一人で教室にいれば、誰か入って来たら振り向きそうなものだけど。相変わらず鈍い。それとも、誰が入ってこようと興味がないのか。
「瀬川」
僕は鞄を机に置くと、早速瀬川に声を掛けた。
瀬川は僕の声に全く反応を見せず、ただ黙々と机に向かっていた。もしかして気付かなかったのだろうか? とてもじゃないけど考えられない。
「瀬川、おい瀬川」
「ん? あぁ、『瀬川』って私ですか」
肩まで叩かれてやっと気付いたようで、瀬川は手を止めると体ごとこちらを振り向いた。
咄嗟に、目線がぶつかる。僕を見上げる瀬川の瞳は、上目使いの状態でも下に白い部分が見えないくらい大きい。大粒の黒真珠を彷彿とさせる黒目がちの瞳だ。
伊達さんとはまた違った、目力(めちから)のある瞳だと思う。
「はれ? ワタルさん、いついらっしゃったんですか?」
「ついさっき」
「そうだったんですか……。気が付きませんでした」
……ホントに気付いてなかったのかよ。信じられない事実だった。
「そんなことよりワタルさん」
瀬川は急に柔らかそうな頬を膨らませると、眉を吊り上げてこちらを睨んだ。
少しドキッとしてしまう。僕はMなのかもしれない。
「ワタルさん。『瀬川』は止めてって言ったじゃないですか。『憩』って呼んでくださいよ」
「あ、ごめん」
「『あ、ごめん』じゃないですよ。苗字で呼ばれるの、嫌いなんですから」
瀬川は人と話す時、決して目線を外そうとしない。吸い込まれそうな瞳を見つめ続けることが出来ず、僕は知らずに目線を逸らしていた。
「いいじゃん、瀬川憩。名前にぴったりの苗字だと思うけど」
「いやです! 嫌いなものは嫌いなんですっ!」
瀬川はすっかり機嫌を悪くしてしまったようで、膨れっ面のままそっぽを向いてしまった。ただ苗字で呼んだだけなのに、理不尽なことこの上ない。
「わかった。以後気をつけるよ。そんなことよりさ、話したいことあるんだけど」
「え、そうなんですか?」
瀬川は再びこちらに向き直ると、小首を傾げて見つめてきた。
「ワタルさんから私に話なんて珍しいですね。なんですか?」
前髪がふわりと揺れる。期待を込めた眼差しは少し潤んでいて、僕を緊張させた。
どうやら怒りはもう収まったようだ。そんなこと呼ばわりしたのも特に気にはしていないらしい。相変わらず感情の振れ幅が激し過ぎる。まぁ、そんな所も含めて大好きなんだけど。
「今日の昼休み、一緒に食べながらとかでいいんだけど、どう?」
「『お昼を一緒に』ですか。んー…………」
瀬川は大袈裟に驚くと、顎に手を当て、考え込むように唸った。徐々に眉が寄っていく。唇も尖っていく。物凄く熟慮しているようだ。
「いや、そんなに真剣に悩まなくても……」
「それはお昼じゃないとダメですか?」
「いや、別に話すだけならいつでもいいんだけどさ。ただ……」
「? ただ、なんですか?」
ただ、ついでにお昼をご一緒出来ないかなー……なんて。
言えるわけない。
「いや、なんでもない」
「ふぅん?」
瀬川は気になるようだったが、僕がそれ以上語る意思がないことを悟ると、すぐに表情を切り替えた。
「なら、うん、決まりましたッ!」
瀬川は右手で拳を作り左手の平をポンッ、と叩いた。何か閃いた時に使うジェスチャーだ。少なくとも今このタイミングで使うのは間違っている。
「ワタルさん、今ならお話を伺うことが出来るのですが、それでいいですか?」
「ん、あ、あぁ……いいけど」
「よかったです」
瀬川は下唇を隠すように軽く噛むと、柔らかく微笑んだ。癖なのだろうか? しかしその仕種が堪らなく可愛い。まさに極上のスマイル。
「では行きましょう、ワタルさん」
瀬川は急に立ち上がると、僕の手を取った。
「行くって、どこへ……?」
「決まってるじゃないですか。『屋上』ですよ」
「え、なんで?」
今教室には誰もいない。わざわざ場所を移す必要なんてないのに。
「いいからいいから。せっかく久しぶりに晴れましたし、行きましょうよっ!」
「…………まぁ、いいけど」
そのまま手を引かれるままに、僕らは屋上に向かった。
◆
◆
大小様々な水溜まりを踏み付けながら歩く。朝の露をまとった夏草のように水滴をつけたフェンスに手を掛けると、振動で水滴がたくさん落ちた。
「どんよりですね……」
久方ぶりの太陽を期待していたのだろう。分厚い雲に覆われた空を見て膨れっ面をする瀬川は、やっぱり可愛かった。
「お話って、なんですか?」
足元の水溜まりを爪先で蹴飛ばす瀬川。水しぶきが放物線を描いた。もうすっかり履きなれた革靴が斑に濡れる。そういえば瀬川は入学当初からずっと同じ革靴を履いている。茶色い、少し先が尖った革靴。物持ちがいいのかもしれない。
「あのさ、瀬川。話す前に一つ、お願いがあるんだけど」
「? なんですか?」
袖から指先だけ出した手を後ろに組み、体ごと首を傾げる瀬川。
ダメだ。話しているだけなのに緊張してくる。
「その、その……」
「…………?」
緊張を取っ払うため、腹に力を込める。
「その、俺にだけ敬語で話すのやめてくれない?」
瀬川の笑顔が凍る。瀬川は僕に背中を向けると、足元の水溜まりを爪先で突いた。
「……私の勝手じゃないですか」
「なんか他人行儀じゃん」
「他人じゃないですか」
「うっ……」
取り付く島もない。
「いやまぁそうなんだけどさ……。でも別に知らない仲ってわけでもないじゃん? 俺とお前はさ」
「だったらなんでワタルさんは私のこと『瀬川』って呼ぶんですか?」
バシャ。水しぶきが宙を舞う。
「……別に。普通に苗字で呼んでるだけだけど」
「みんなみたいに『憩』って呼んでくれればいいじゃないですか」
……一々変なところに突っ掛かってくる奴だなぁ。
「そこはまぁ……なんて言うの? ケジメ? みたいな?」
バシャ。水しぶきが宙を舞う。
「だったら私の敬語もケジメです」
「『だったら』って何だよ。まるで俺と距離置きたがってるみたいじゃん」
「みたいじゃなくて、置きたがってるんです」
「ちょ、なんだよそれ! お前だってあの頃……」
バシャ。
水しぶきが宙を舞う。
それはキラキラ放物線を描いて、僕の身体に掛かった。
「……つめてー」
驚いて顔を拭い前を見ると、いつの間にかこちらに向き直った瀬川がいた。袖から出た指でスカートの裾をぎゅっと掴み、こちらを鋭く睨んでいる。
「『あの頃に戻りたいくせに』って、言おうとしたんですか?」
言葉に詰まる。瀬川がこんな表情を見せるのは久しぶりだった。
「そんな話をするために私に声を掛けたのなら、私は教室に戻ります」
「…………ごめん」
どうかしていた。何を感情的になっているんだろう。別にいいじゃないか敬語で話されても。僕にだけ敬語、大いに結構じゃないか。普段たいした話もしないただのクラスメイトだ。敬語で何が悪い?
「僕が悪かった。許してほしい」
僕は全身全霊を込めて謝罪した。頭を深々と下げる。
「…………」
「…………」
「……別にいいですけど」
顔を上げると、既に瀬川は先程のように後ろを向いて足で水溜まりをいじっていた。
「で、話って何ですか?」
バシャ。水しぶきが宙を舞う。
そうだ。話すことがあって来たんだ。伊達さん、そう、伊達さんのことだ。
「あのさ、伊達さんのことなんだけど」
「伊達さん……ですか?」
首だけでこちらを振り返り、眉を潜める瀬川。それほどに意外な人物だったのだろうか?
「伊達さんって、あの?」
「そう。あの伊達さん。同じクラスの伊達悠さん」
「ユウちゃんが、どうしたんですか?」
「昨日、伊達さんと話してたでしょ?」
「昨日、ですか? んー…………」
「おいおいおい」
いくらなんでも昨日のことは流石に忘れないだろう。
「あ、思い出しましたっ!」
またもや何か閃いた時に使うジェスチャーが飛び出た。微妙に使い所がおかしいが、訂正はしないでおく。
「確かに話しました。休み時間の度に。2回くらい話しましたよ」
「そっか。よかった思い出してくれて」
話した回数は3回だけど、そこも訂正はしないでおく。
「それがどうかしたんですか?」
「いや、あの時何話してたのかなと思ってさ」
「あれ? あれれれれ~?」
瀬川は急に顔を歪ませると、ニヤニヤしながらこちらに近付いて来た。
「な、なんだよ」
「ひょっとしてワタルさん、ユウちゃんのこと気になっちゃってますぅ?」
「…………へ?」
どうしてそうなるのだろう。
「またまたぁ、照れなくてもいいですよぅ~」
肘で僕の腕を小突かれる。
「別にそういう意味じゃっ……」
「否定するところが怪しいですね~」
「…………」
何を言っても無駄みたいだ。
「で、伊達さんと何話してたの」
「別に。特に『何を話していた』っていうのはないですよ」
「例えば?」
「……やけに食いつきますね」
「まぁいいから。伊達さんから話し掛けて来たんでしょ? 何て言われた?」
「えっとぉ、ですね……」
眉を寄せて考えるポーズ。本日3度目。
記憶力なさすぎ。
「『さっきの授業でわからないところあるんだけど』とか、『今朝のニュース見た?』とか、それくらいですかね」
「あ、そう、なの……?」
「はい。そんな感じでしたけど」
どうかしましたか? とでも言いたげに、首を傾げてこちらを見つめる瀬川。
「……そっか」
参った。まさか本当に他愛のない話だったとは。
「もういいですか? お話が終わったのなら、私教室に戻りますけど」
「あ、うん。ごめん、あと一つだけ」
瀬川はあからさまに嫌そうな顔を見せた。早く教室に戻りたいらしい。そういえばいつの間にか校庭から野球部のランニングをする音が聞こえてきた。校庭はまだぬかるんでいるというのに、熱心なことだ。瀬川もそれに気付いているのだろう。朝練が始まったということは、クラスメイトがいつ登校してもおかしくないということだ。誰かが教室に来た時、僕と瀬川の荷物だけが置かれている光景を見られるのを避けたいのだろう。結局昔のことを気にしているのは瀬川も同じだった。
でも瀬川には最後に一つ、どうしても聞いておかなければ腑に落ちないことがある。不機嫌そうな顔をされようと、これだけは聞いておかなくちゃならない。
「あのさ、瀬川」
「……なんですか?」
「伊達さんに突然話し掛けられて、驚かなかった?」
「…………へ?」
「いや、だって、あの伊達さんだよ?」
僕相手以外には決して口を開かないあの伊達さんだ。驚かないはずがない。
「そりゃ、お話しするの初めてでしたから、少し意外だなとは思いましたけど……。でも、話してみるといい人でしたよ」
「そうなんだ……」
意外だ。伊達さん、僕以外の人とならちゃんと喋れるのだろうか?
「はい。お友達になっちゃいました」
「あ、そう」
お友達になったらしい。
伊達さんと瀬川がお友達。
僕の好きな人と、僕を好いてくれている人がお友達。見事な三角関係だった。
◆
◆
久方の光を逃すはずもなく、ぬかるみの中、陸上部の部活は行われた。帰りがけにグラウンドを少し覗くと、周りの男子の中でも一際大きな直樹と、特徴的なポニーテールの飛鳥が目に付いた。どうやら直樹がスタートの仕方を教えているらしく、屈んだ体勢の直樹を飛鳥が見つめている。遠目なので表情まではわからないが、いい上下関係が築けているようだ。部活をやっておらず、仲のいい友達ともほとんどクラス替えで別れてしまった僕は、今日も一人で帰る。
所々にある水溜りを避けながら、アスファルトの輝きを追うように下を向いて帰るのも馴れたが、時々ふと悲しくなるときがある。周りの友達連れで帰っている人たちを見ると、なんとなく自分が寂しい人間のように思えて、大したことではないのにどんどん思考が落ち込んでいく。大抵は「思春期だからかな」と自分を納得させるのだが、自分の感情にコントロールが利かないのは歯痒い。
気付くと周りの人通りもまばらになっていた。西釘沼に行く人は西へ、東釘沼に行く人は東へ。それぞれ帰宅する方向への分岐点は気付かぬまま過ぎていたらしい。寄り道をしないで帰ろうとする人は少ないらしく、同じ中学の制服を着た人は僕だけになっていた。そりゃそうだろう。折角の晴れの日に、わざわざ家にこもる必要はない。
いや、もう一人。僕の視界に入らない位置にいるはずだ。
僕は回れ右をした。伊達さんが驚いて肩を強張らせる。そのまま目を逸らすことなく伊達さんに近寄っていった。
「やぁ伊達さん」
なんでそんなことをしたのかはわからない。ただ、本能に任せて行動してみたらこんな言葉が口を突いて出た。
「……ご、ごめんなさい。この前あんなこと言われたのに」
伊達さんは慌てて謝ると、もの凄い勢いで頭を下げた。
「いや、そういうつもりで声掛けたわけじゃないんだ。それに伊達さんが帰る方向はこっちなんだから、何も悪くないよ」
伊達さんはゆっくりと頭を起こすと、今度はじっと僕の目をみつめてきた。朝とあまりにも違う僕の態度に驚いたようだ。
僕は伊達さんの隣に並ぶ。伊達さんはそんな僕を首だけで追っていた。
「一緒に帰ろうよ。折角方向が一緒なんだし」
今度こそ伊達さんは、誰が見ても分かるほど露骨に表情を崩した。目を大きく見開き、口はにやけているような半開きになっている。
「……い、いいの?」
「もちろん。さ、行こ」
僕は伊達さんを顎で促すようと、進行方向に足を進めた。伊達さんも慌ててそれについてくる。僕の歩く速度が伊達さんには少々早かったようで、若干小走り気味だった。
「……突然、どうして?」
伊達さんは僕の言動を理解できないようで、注意深く僕を観察しながら聞いてきた。睨んでいるように見えなくもないが、それは瞼まで垂れ下がった髪と御自慢の三白眼のせいだろう。
「どうして、と言われても」
僕としても答えようがない。僕自身、なぜ自分がこのような行動を取ったかが全く分からないからだ。しいて言うなら、そう。
「一緒に帰りたかったから、かな」
としか答えようがない。
伊達さんは僕の発言が信用できないのか、納得していないような顔で「……そうですか」と呟いていた。
そりゃそうだよな。納得できるはずがない。この前「僕のことは諦めてくれ」と言われたばかりの相手に、一緒に下校しようと誘われたのだ。誰だって最初は疑うだろう。
「まぁ、信じなくてもいいけどね」
「……そんなこと、ないです。信じます」
「そう」
「……はい」
「…………」
「…………」
まずい。一人で帰る寂しさを紛らわそうと思って誘ったのに、逆に話題がなくて気まずくなってる。何か話す話題はないだろうか。
あった。
「あのさぁ伊達さん」
「……はい?」
「この前、瀬川となに話してたの?」
折角だからこの機会に伊達さんにも聞いてみればいい。瀬川自身にもう聞いているとはいえ、心に引っ掛かったままなわけだし。というか、それ以外に話題がないし。
「……あ、憩ちゃんのことですか」
伊達さんはそう呟くと、手を顎に当てて首を傾げた。無表情のままやっているのがかなり不気味だ。
……あれ、伊達さんってこんな反応したことあったっけ?
「……別に、これといって大した話はしてないですけど」
それが何か? とでも言いたげに、小首を傾げて僕の方を向いた。
なんか、伊達さんがおかしい。
「あ、あのさぁ、それなに?」
「……『それ』って、なんのことですか?」
今度は今度は眉根を寄せて、小首を傾げる。
「その首を傾げる仕草とか、眉根を寄せる表情とか、どうしたの? 普段の伊達さんは、なんていうか、もっと無表情じゃん」
無味乾燥な態度。注意深く見ないと分からない微弱な変化。それが、伊達さんだったはずだ。
「……あぁ、これですか」
伊達さんはまたいつもの無表情に戻ると、今度は魂のない機械のように口だけ動かして喋りだした。
「……これは、憩ちゃんの真似です。まだうまく出来ないんですけど。……変、ですか?」
「んー、まぁどちらかと言うと、変」
というか、もの凄い違和感。
伊達さんはいつかのようにまた小声で「……しっぱい」と呟くと、それきり僕に興味をなくしてしまったかのように、まっすぐ前を向いた。
……傷つけてしまったのだろうか。
「笑顔が足りないんじゃない?」
一応フォローしておく。
伊達さんは何か悟ったのか、突然ハッと驚くと、僕の方を向いて頭を下げた。
「……ありがとう。憩ちゃんにも同じこと言われたの、忘れてた」
「いや、別にいいけど」
「…………」
伊達さんはそのまま動こうとしない。
「あの、伊達さん?」
「…………」
参ったな。制服姿の中学生の女の子が、道端で同じ学校の男の子に頭を下げる。誰かに見られたら間違いなく誤解される光景だ。
困って辺りを見渡すと、いつの間にか十字路に来ていた。伊達さんとの話に思いのほかのめりこんでしまって気付かなかったが、もう自分の家まで数メートルもない。
「じゃあ、僕の家こっちだから」
このまま待っていても埒が明かないので、僕はここで解散することにした。
「……待って」
家に向かって歩き始めようとしたとき、何かに左手首を掴まれる。驚いて振り向くと、頭を下げたままの伊達さんの両手だった。鞄はいつの間にか地面に投げ出されている。
「……どうして、渉くんはそんなに優しいの?」
腰を直角に曲げたまま、伊達さんは話し出した。下から耳に届くボソボソ声が不気味だった。
「優しい、かな?」
「……何度も振られてる私ともちゃんと喋ってくれるし。……この前怒られたばかりの私とも一緒に帰ってくれるし」
途中から、伊達さんの声に僅かな変化が現れた。擦れているような、聞き取りにくい声。時折嗚咽のような吐息も混じり始めた。
「……そうやって優しくされると、私だって勘違いしちゃう。もしかして、まだいけるんじゃって、思っちゃう。努力すれば、渉くんの好きな憩ちゃんに少しでも近づけば、もしかしたら……って、思っちゃうよ」
伊達さんは勢いよく顔を上げた。僕は自分の目を疑う。伊達さんの瞳からは大粒の涙が零れていた。眉根を寄せて、口を真一文字に食いしばって、鼻をすすって。そこには、今まで僕が一度も見たことのない、人間味の溢れる伊達さんがいた。
「渉くんの優しさは残酷だよ、人を傷つける優しさだよ! もう、もう……これ以上、期待させないで。優しくしないで……」
それは、伊達さんの心から出た叫びであるように感じた。感情を封殺し、上手く人に思いを伝えられない伊達さん。そんな彼女の、初めて見せる心の奥底であるように思われた。
心臓を握りつぶされたように、鋭い痛みが胸を走る。
伊達さんは僕の手を離すと、鞄を拾い上げ、そのまま走って行ってしまった。僕は呆然と立ち尽くしながらその後姿を見つめる。十字路をまっすぐ駆け抜けていった後姿は、すぐに消えて見えなくなってしまった。
大小様々な水溜まりを踏み付けながら歩く。朝の露をまとった夏草のように水滴をつけたフェンスに手を掛けると、振動で水滴がたくさん落ちた。
「どんよりですね……」
久方ぶりの太陽を期待していたのだろう。分厚い雲に覆われた空を見て膨れっ面をする瀬川は、やっぱり可愛かった。
「お話って、なんですか?」
足元の水溜まりを爪先で蹴飛ばす瀬川。水しぶきが放物線を描いた。もうすっかり履きなれた革靴が斑に濡れる。そういえば瀬川は入学当初からずっと同じ革靴を履いている。茶色い、少し先が尖った革靴。物持ちがいいのかもしれない。
「あのさ、瀬川。話す前に一つ、お願いがあるんだけど」
「? なんですか?」
袖から指先だけ出した手を後ろに組み、体ごと首を傾げる瀬川。
ダメだ。話しているだけなのに緊張してくる。
「その、その……」
「…………?」
緊張を取っ払うため、腹に力を込める。
「その、俺にだけ敬語で話すのやめてくれない?」
瀬川の笑顔が凍る。瀬川は僕に背中を向けると、足元の水溜まりを爪先で突いた。
「……私の勝手じゃないですか」
「なんか他人行儀じゃん」
「他人じゃないですか」
「うっ……」
取り付く島もない。
「いやまぁそうなんだけどさ……。でも別に知らない仲ってわけでもないじゃん? 俺とお前はさ」
「だったらなんでワタルさんは私のこと『瀬川』って呼ぶんですか?」
バシャ。水しぶきが宙を舞う。
「……別に。普通に苗字で呼んでるだけだけど」
「みんなみたいに『憩』って呼んでくれればいいじゃないですか」
……一々変なところに突っ掛かってくる奴だなぁ。
「そこはまぁ……なんて言うの? ケジメ? みたいな?」
バシャ。水しぶきが宙を舞う。
「だったら私の敬語もケジメです」
「『だったら』って何だよ。まるで俺と距離置きたがってるみたいじゃん」
「みたいじゃなくて、置きたがってるんです」
「ちょ、なんだよそれ! お前だってあの頃……」
バシャ。
水しぶきが宙を舞う。
それはキラキラ放物線を描いて、僕の身体に掛かった。
「……つめてー」
驚いて顔を拭い前を見ると、いつの間にかこちらに向き直った瀬川がいた。袖から出た指でスカートの裾をぎゅっと掴み、こちらを鋭く睨んでいる。
「『あの頃に戻りたいくせに』って、言おうとしたんですか?」
言葉に詰まる。瀬川がこんな表情を見せるのは久しぶりだった。
「そんな話をするために私に声を掛けたのなら、私は教室に戻ります」
「…………ごめん」
どうかしていた。何を感情的になっているんだろう。別にいいじゃないか敬語で話されても。僕にだけ敬語、大いに結構じゃないか。普段たいした話もしないただのクラスメイトだ。敬語で何が悪い?
「僕が悪かった。許してほしい」
僕は全身全霊を込めて謝罪した。頭を深々と下げる。
「…………」
「…………」
「……別にいいですけど」
顔を上げると、既に瀬川は先程のように後ろを向いて足で水溜まりをいじっていた。
「で、話って何ですか?」
バシャ。水しぶきが宙を舞う。
そうだ。話すことがあって来たんだ。伊達さん、そう、伊達さんのことだ。
「あのさ、伊達さんのことなんだけど」
「伊達さん……ですか?」
首だけでこちらを振り返り、眉を潜める瀬川。それほどに意外な人物だったのだろうか?
「伊達さんって、あの?」
「そう。あの伊達さん。同じクラスの伊達悠さん」
「ユウちゃんが、どうしたんですか?」
「昨日、伊達さんと話してたでしょ?」
「昨日、ですか? んー…………」
「おいおいおい」
いくらなんでも昨日のことは流石に忘れないだろう。
「あ、思い出しましたっ!」
またもや何か閃いた時に使うジェスチャーが飛び出た。微妙に使い所がおかしいが、訂正はしないでおく。
「確かに話しました。休み時間の度に。2回くらい話しましたよ」
「そっか。よかった思い出してくれて」
話した回数は3回だけど、そこも訂正はしないでおく。
「それがどうかしたんですか?」
「いや、あの時何話してたのかなと思ってさ」
「あれ? あれれれれ~?」
瀬川は急に顔を歪ませると、ニヤニヤしながらこちらに近付いて来た。
「な、なんだよ」
「ひょっとしてワタルさん、ユウちゃんのこと気になっちゃってますぅ?」
「…………へ?」
どうしてそうなるのだろう。
「またまたぁ、照れなくてもいいですよぅ~」
肘で僕の腕を小突かれる。
「別にそういう意味じゃっ……」
「否定するところが怪しいですね~」
「…………」
何を言っても無駄みたいだ。
「で、伊達さんと何話してたの」
「別に。特に『何を話していた』っていうのはないですよ」
「例えば?」
「……やけに食いつきますね」
「まぁいいから。伊達さんから話し掛けて来たんでしょ? 何て言われた?」
「えっとぉ、ですね……」
眉を寄せて考えるポーズ。本日3度目。
記憶力なさすぎ。
「『さっきの授業でわからないところあるんだけど』とか、『今朝のニュース見た?』とか、それくらいですかね」
「あ、そう、なの……?」
「はい。そんな感じでしたけど」
どうかしましたか? とでも言いたげに、首を傾げてこちらを見つめる瀬川。
「……そっか」
参った。まさか本当に他愛のない話だったとは。
「もういいですか? お話が終わったのなら、私教室に戻りますけど」
「あ、うん。ごめん、あと一つだけ」
瀬川はあからさまに嫌そうな顔を見せた。早く教室に戻りたいらしい。そういえばいつの間にか校庭から野球部のランニングをする音が聞こえてきた。校庭はまだぬかるんでいるというのに、熱心なことだ。瀬川もそれに気付いているのだろう。朝練が始まったということは、クラスメイトがいつ登校してもおかしくないということだ。誰かが教室に来た時、僕と瀬川の荷物だけが置かれている光景を見られるのを避けたいのだろう。結局昔のことを気にしているのは瀬川も同じだった。
でも瀬川には最後に一つ、どうしても聞いておかなければ腑に落ちないことがある。不機嫌そうな顔をされようと、これだけは聞いておかなくちゃならない。
「あのさ、瀬川」
「……なんですか?」
「伊達さんに突然話し掛けられて、驚かなかった?」
「…………へ?」
「いや、だって、あの伊達さんだよ?」
僕相手以外には決して口を開かないあの伊達さんだ。驚かないはずがない。
「そりゃ、お話しするの初めてでしたから、少し意外だなとは思いましたけど……。でも、話してみるといい人でしたよ」
「そうなんだ……」
意外だ。伊達さん、僕以外の人とならちゃんと喋れるのだろうか?
「はい。お友達になっちゃいました」
「あ、そう」
お友達になったらしい。
伊達さんと瀬川がお友達。
僕の好きな人と、僕を好いてくれている人がお友達。見事な三角関係だった。
◆
◆
久方の光を逃すはずもなく、ぬかるみの中、陸上部の部活は行われた。帰りがけにグラウンドを少し覗くと、周りの男子の中でも一際大きな直樹と、特徴的なポニーテールの飛鳥が目に付いた。どうやら直樹がスタートの仕方を教えているらしく、屈んだ体勢の直樹を飛鳥が見つめている。遠目なので表情まではわからないが、いい上下関係が築けているようだ。部活をやっておらず、仲のいい友達ともほとんどクラス替えで別れてしまった僕は、今日も一人で帰る。
所々にある水溜りを避けながら、アスファルトの輝きを追うように下を向いて帰るのも馴れたが、時々ふと悲しくなるときがある。周りの友達連れで帰っている人たちを見ると、なんとなく自分が寂しい人間のように思えて、大したことではないのにどんどん思考が落ち込んでいく。大抵は「思春期だからかな」と自分を納得させるのだが、自分の感情にコントロールが利かないのは歯痒い。
気付くと周りの人通りもまばらになっていた。西釘沼に行く人は西へ、東釘沼に行く人は東へ。それぞれ帰宅する方向への分岐点は気付かぬまま過ぎていたらしい。寄り道をしないで帰ろうとする人は少ないらしく、同じ中学の制服を着た人は僕だけになっていた。そりゃそうだろう。折角の晴れの日に、わざわざ家にこもる必要はない。
いや、もう一人。僕の視界に入らない位置にいるはずだ。
僕は回れ右をした。伊達さんが驚いて肩を強張らせる。そのまま目を逸らすことなく伊達さんに近寄っていった。
「やぁ伊達さん」
なんでそんなことをしたのかはわからない。ただ、本能に任せて行動してみたらこんな言葉が口を突いて出た。
「……ご、ごめんなさい。この前あんなこと言われたのに」
伊達さんは慌てて謝ると、もの凄い勢いで頭を下げた。
「いや、そういうつもりで声掛けたわけじゃないんだ。それに伊達さんが帰る方向はこっちなんだから、何も悪くないよ」
伊達さんはゆっくりと頭を起こすと、今度はじっと僕の目をみつめてきた。朝とあまりにも違う僕の態度に驚いたようだ。
僕は伊達さんの隣に並ぶ。伊達さんはそんな僕を首だけで追っていた。
「一緒に帰ろうよ。折角方向が一緒なんだし」
今度こそ伊達さんは、誰が見ても分かるほど露骨に表情を崩した。目を大きく見開き、口はにやけているような半開きになっている。
「……い、いいの?」
「もちろん。さ、行こ」
僕は伊達さんを顎で促すようと、進行方向に足を進めた。伊達さんも慌ててそれについてくる。僕の歩く速度が伊達さんには少々早かったようで、若干小走り気味だった。
「……突然、どうして?」
伊達さんは僕の言動を理解できないようで、注意深く僕を観察しながら聞いてきた。睨んでいるように見えなくもないが、それは瞼まで垂れ下がった髪と御自慢の三白眼のせいだろう。
「どうして、と言われても」
僕としても答えようがない。僕自身、なぜ自分がこのような行動を取ったかが全く分からないからだ。しいて言うなら、そう。
「一緒に帰りたかったから、かな」
としか答えようがない。
伊達さんは僕の発言が信用できないのか、納得していないような顔で「……そうですか」と呟いていた。
そりゃそうだよな。納得できるはずがない。この前「僕のことは諦めてくれ」と言われたばかりの相手に、一緒に下校しようと誘われたのだ。誰だって最初は疑うだろう。
「まぁ、信じなくてもいいけどね」
「……そんなこと、ないです。信じます」
「そう」
「……はい」
「…………」
「…………」
まずい。一人で帰る寂しさを紛らわそうと思って誘ったのに、逆に話題がなくて気まずくなってる。何か話す話題はないだろうか。
あった。
「あのさぁ伊達さん」
「……はい?」
「この前、瀬川となに話してたの?」
折角だからこの機会に伊達さんにも聞いてみればいい。瀬川自身にもう聞いているとはいえ、心に引っ掛かったままなわけだし。というか、それ以外に話題がないし。
「……あ、憩ちゃんのことですか」
伊達さんはそう呟くと、手を顎に当てて首を傾げた。無表情のままやっているのがかなり不気味だ。
……あれ、伊達さんってこんな反応したことあったっけ?
「……別に、これといって大した話はしてないですけど」
それが何か? とでも言いたげに、小首を傾げて僕の方を向いた。
なんか、伊達さんがおかしい。
「あ、あのさぁ、それなに?」
「……『それ』って、なんのことですか?」
今度は今度は眉根を寄せて、小首を傾げる。
「その首を傾げる仕草とか、眉根を寄せる表情とか、どうしたの? 普段の伊達さんは、なんていうか、もっと無表情じゃん」
無味乾燥な態度。注意深く見ないと分からない微弱な変化。それが、伊達さんだったはずだ。
「……あぁ、これですか」
伊達さんはまたいつもの無表情に戻ると、今度は魂のない機械のように口だけ動かして喋りだした。
「……これは、憩ちゃんの真似です。まだうまく出来ないんですけど。……変、ですか?」
「んー、まぁどちらかと言うと、変」
というか、もの凄い違和感。
伊達さんはいつかのようにまた小声で「……しっぱい」と呟くと、それきり僕に興味をなくしてしまったかのように、まっすぐ前を向いた。
……傷つけてしまったのだろうか。
「笑顔が足りないんじゃない?」
一応フォローしておく。
伊達さんは何か悟ったのか、突然ハッと驚くと、僕の方を向いて頭を下げた。
「……ありがとう。憩ちゃんにも同じこと言われたの、忘れてた」
「いや、別にいいけど」
「…………」
伊達さんはそのまま動こうとしない。
「あの、伊達さん?」
「…………」
参ったな。制服姿の中学生の女の子が、道端で同じ学校の男の子に頭を下げる。誰かに見られたら間違いなく誤解される光景だ。
困って辺りを見渡すと、いつの間にか十字路に来ていた。伊達さんとの話に思いのほかのめりこんでしまって気付かなかったが、もう自分の家まで数メートルもない。
「じゃあ、僕の家こっちだから」
このまま待っていても埒が明かないので、僕はここで解散することにした。
「……待って」
家に向かって歩き始めようとしたとき、何かに左手首を掴まれる。驚いて振り向くと、頭を下げたままの伊達さんの両手だった。鞄はいつの間にか地面に投げ出されている。
「……どうして、渉くんはそんなに優しいの?」
腰を直角に曲げたまま、伊達さんは話し出した。下から耳に届くボソボソ声が不気味だった。
「優しい、かな?」
「……何度も振られてる私ともちゃんと喋ってくれるし。……この前怒られたばかりの私とも一緒に帰ってくれるし」
途中から、伊達さんの声に僅かな変化が現れた。擦れているような、聞き取りにくい声。時折嗚咽のような吐息も混じり始めた。
「……そうやって優しくされると、私だって勘違いしちゃう。もしかして、まだいけるんじゃって、思っちゃう。努力すれば、渉くんの好きな憩ちゃんに少しでも近づけば、もしかしたら……って、思っちゃうよ」
伊達さんは勢いよく顔を上げた。僕は自分の目を疑う。伊達さんの瞳からは大粒の涙が零れていた。眉根を寄せて、口を真一文字に食いしばって、鼻をすすって。そこには、今まで僕が一度も見たことのない、人間味の溢れる伊達さんがいた。
「渉くんの優しさは残酷だよ、人を傷つける優しさだよ! もう、もう……これ以上、期待させないで。優しくしないで……」
それは、伊達さんの心から出た叫びであるように感じた。感情を封殺し、上手く人に思いを伝えられない伊達さん。そんな彼女の、初めて見せる心の奥底であるように思われた。
心臓を握りつぶされたように、鋭い痛みが胸を走る。
伊達さんは僕の手を離すと、鞄を拾い上げ、そのまま走って行ってしまった。僕は呆然と立ち尽くしながらその後姿を見つめる。十字路をまっすぐ駆け抜けていった後姿は、すぐに消えて見えなくなってしまった。