■訪れる夏
「なぁ、伊達ってさ、結構可愛くね?」
直樹がこんなことを言い出したのは、長い梅雨も明け、本格的に夏が始まろうとしていた7月の半ばのことだった。クラスは間近に迫った夏休みの話で持ちきりで、最後のテストを前に浮き足立っていた。僕らも夏の予定を決めようと、直樹は部活メンバーでの昼食を断って僕の机まで来ていた。
「あいつ普通に笑ったり驚いたり出来るのな。話してみると結構面白いし、声も可愛いし」
あの日以来、僕が伊達さんと接触をすることはなかった。正直な話、伊達さんの突然の豹変ぶりに狼狽している自分がいた。僕は伊達さんを傷つけてしまったのだろうか。利己的な優越感のためだけに伊達さんの心を弄んでいたのではないだろうか。そんな自己嫌悪と自己批判の中でもがき、苦しみ続けて、他のことはほとんど手につかないありさまだった。
「あいつ変わったよな。ちょっと前までは無口で無感情なロボットみたいなやつだと思ってたのに、今は天真爛漫って感じ。明るくなったよな」
直樹の言うように、伊達さんは変わった。長かった前髪をヘアピンで横に流し、見た目の暗いイメージはなくなった。それだけではなく、表情に明るさが増した。今までの伊達さんは別人だったかのように、よく笑い、よく驚き、よく照れる。くるくる表情が変化し、男が見たら放っておかないような子になった。ボソボソ話す声も今では朗々と喋るようになり、僕や瀬川だけでなく誰とでも気さくに話すようになっていた。元々の美形な顔立ちも相俟って、伊達さんは一躍注目の的となった。
「ついこの間までは帰り道が同じっていうだけで嫌がっていたのに、すごい変わりようだね」
「前は一度も話したことなんかなかったからな。それになんか根暗で気持ち悪かったし。でもそんなことねぇってわかったんだよ。最近なんかよく話すんだ」
直樹は伊達さんをベタ誉めだった。今では口を開けば伊達さんの名前が出てくるようになった。直樹は僕と違って部活繋がりの友達が多い。学校生活で僕と直樹が話すことは今まで少なかったが、直樹の口から『伊達』という単語が出るのに比例してよく話すようになった。
「見た目のイメージで気持ち悪がってたんだ」
直樹の話を聞いていると、心にもない憎まれ口を叩いてしまう。いや、心にあるから無意識に口を突いて出るのだろうか。深層心理の中で、伊達さんが人気者になったのを受け入れたくない自分がいるんだろうか。
「お前は前から伊達の魅力に気付いてたんだもんな。だから伊達もお前に惚れたんだろうし。俺はお前が羨ましいよ」
しかし、直樹は嫌な顔一つせず、僕を立てるかのように笑顔を見せるのだった。
僕が自分を心底許せなくなるのはこんなときだ。世間を分かっているかのように大人ぶっていても、結局のところは子供なのだ。直樹の方がずっと大人だ。僕は自分の感情も制御できずに、軽率な発言をして相手を傷つける。今直樹に言ったことだって、昔瀬川に言ったことだって。そして、この前伊達さんに言ったことだって。
思春期だから仕方ない。また、そんな都合のいい理屈で自分をごまかしてしまう。
「どうしたんだ白崎。なんかお前、ボーっとしてるぞ?」
「えっ、あぁ、ごめん」
目の前の直樹を置き去りにして、自分の世界にトリップしてしまっていた。
「大丈夫かよお前……」
仕方ないな、と苦笑いを浮かべる直樹。こいつはこんな些細なことでも僕を心配してくれたのか。憎まれ口を叩いた自分が恥ずかしくなる。
「あのさぁ白崎、お前伊達と付き合った方がいいよ。絶対勿体ないって」
直樹は顎で伊達さんのいる方を指し示した。伊達さんはニコニコ笑顔を振りまきながら友達同士で机を囲み弁当を食べている。
隣にはもちろん、今やすっかり大の仲良しになった瀬川憩の姿があった。
「だから僕には好きな人がいるんだって。直樹だって分かってるじゃないか」
「憩だろ? 確かにアイツも可愛いけどなー」
直樹は視線だけ動かして瀬川を少し見ると、すぐ伊達さんに戻した。
「でも正直望み薄いじゃん」
「そりゃ確かに望みは薄いけど……。でも瀬川って決めてるから。望みがなんだろうが好きな人は瀬川なんだし、それは変わらないよ」
「おっ、カッコイイこと言ってくれるねぇ!」
直樹は手を叩いて大げさに驚いた。そしてまたすぐに伊達さんの方へ視線を戻すと、弁当の卵焼きを一切れ口に入れながら、目つきを鋭くした。
「でもさぁ、昔付き合ってたんだろ? それで振られたんだから、素直に諦めた方がいいと思うけどなぁ」
「んまぁ……そうなんだけど」
さりげなく痛いところを突いてくる。しかも直樹の場合、無自覚でやってるから何も言い返せない。
「でも、瀬川が僕を振ったのには理由があるんだよ、きっと」
「お前のことを嫌いになった理由ってことか?」
「いや、そういう意味じゃなくて、もっとどうしようもないような理由。別れざるを得なかった理由。だって、瀬川が僕を嫌いになるわけがないもん」
そうだ。僕が愛想を尽かすならまだしも、瀬川が僕を嫌いになるなんてことはありえないのだ。絶対に。
「おいおい、すげぇ自信満々だなぁ」
直樹は乾いた笑いを浮かべながら僕の胸を小突いた。
「直樹、信じてないだろ……」
「まぁな」
直樹はニヒルに笑うと、突然窓の外を見つめながら、頬杖を付いた。そして手に持っていた箸を机に置くと、空いた手で前髪を軽く引っ張りだした。
「じゃあさ、渉」
そしてゆっくりと口を開く。僕を見ようとせず、心なしか声のトーンを落として。
「お前は伊達に告白されても断るわけだな?」
「もちろん。何度も言ってるけど、僕には瀬川以外見えない。それに、既に4回も告白されてるけど、その度に断ってるし」
「じゃあ……」
直樹はそこで一拍置くと、手でつまんでいる前髪を軽く捻って手を離した。サラサラに流された直樹の前髪の中に一つ、変なCカールを描く束ができる。
「俺が、伊達と付き合ったらどうする?」
「…………」
予想外の発言に、一瞬言葉に詰まる。直樹が何か心に大きな決意を抱えて話しているのはすぐにわかった。頬杖を突いた僕より一回りも大きな拳が、血管を浮き上がらせていた。直樹は決してこちらを見ようとはしない。
僕はペットボトルに入ったお茶を一口飲むと、姿勢を正して答えた。
「そのときは、もちろん祝福するよ」
直樹は僕の方を向くと、目尻の下がった瞳で僕を見つめてきた。そのままお互いに視線をぶつけ合う。だんだんと直樹の口角が上がってきた。照れ笑いをかみ殺しているような、にやけ顔になる。
「いや、ごめんごめんっ! 今のなしっ! 急に変なこと言って悪かったな」
沈黙に耐えられなくなったのか、慌てて手を振った。
「直樹、ひょっとして伊達さんのこと……好きになっちゃったの?」
「まだそこまでじゃ……ってあぁー! だから今のなしだって、ナシ、ナシ!」
直樹は両手で顔を覆うと、食べかけの弁当もそこそこに勢いよく立ち上がった。
「あーごめんっ、ちょっと部活の集まりがあるから、俺行くわっ!」
恥ずかしさに耐えられなくなったのか、そのままこちらを振り返りもせずに脱兎の如く教室を飛び出していってしまった。
「…………なんだかな」
後に残ったのは、突然の直樹の奇行に驚き立ち尽くしているクラスメイト達と、机の上の食べ残し弁当だけだった。
◆ ◆
遡ること1年と3ヶ月。僕が釘沼中学校に入学して、まさに初日の出来事だった。入学式が終わり、担任に引き連れられてそれぞれのクラスごとに教室に向かうとき、僕の二の腕が何かの力に強く引っ張られた。咄嗟の出来事に対処できず、僕の頭は混乱してどうしていいかわからなくなった。正常な判断を失った頭の中に最初に過ぎった言葉は、いつも脳内で復唱しているものだった。
長いものには巻かれろ。強きものには従え。
僕はそのまま力に全てを委ね、引かれるがままに任せた。列を抜け出しても、周りのみんなは誰一人止めようとはしなかった。入学式初日で緊張していたのか、僕と同じで厄介ごとには首を突っ込まない質なのか。なんにせよ僕は、女子トイレの中に連れ込まれたところで初めて腕を引いた張本人と邂逅することとなった。
「好きです、私と付き合ってください!」
開口一番、目の前の少女は僕に告白をした。初めての中学校生活で、初対面の相手であるこの僕に、いきなり。
それが、僕の初めての彼女になった人物。瀬川憩との出会いだった。
部屋の壁に全ての体重を預けて、窓から十字路を見下ろす。時刻は午後6時を回ろうとしているのに、オレンジの光は電信柱を煌々と照らしていた。
頭の中を巡っていたのは、昼間の直樹との会話だった。口では祝福すると言ったものの、直樹が伊達さんと付き合うところを想像した時、何かを不快に感じた自分がいた。
僕にはちゃんと瀬川憩という好きな人がいる。しかし、僕は伊達さんを手放すのが惜しいのだろうか? いつの間にか伊達さんが僕を好いてくれているのが当たり前になっていて、あたかも伊達さんが僕の所有物であるかのような感覚になっていたのではないか? 心の中のどこかで優越感に浸りながら『伊達さんが僕の元を離れていくはずがない』と高を括っていたのではないか?
「最低だな。僕」
僕は、いつの間に伊達さんを支配下に置いた気分でいたのだろう。伊達さんには伊達さんの気持ちがある。この間のことで学んだはずじゃないか。僕の勝手な思い込みが伊達さんを傷付けていたって。
「いつからこんな風になっちゃったんだろう」
日の沈みに合わせて長く伸びていく電柱の影を見つめながら、僕の中に冷えたタールのようなものが広がっていくのを感じていた。
暗い思考を断ち切ったのは、突然の高い電子音。それはスイッチを切り忘れて鳴り出した目覚まし時計だった。腕だけ伸ばして掴みあげる。文字盤を見ると、針は6時半を指していた。
「もうこんな時間か」
学校から帰宅して、既に3時間近くが経過しようとしていた。そろそろ何かしようかと思ったけど、何もする気になれない。僕は目覚まし時計を足元に置くと、また窓の外に視線を移した。
「……あ」
そこにはちょうど学校から帰ってきた飛鳥の姿があった。その隣には、直樹の姿。部活も家の方角も同じだから一緒に帰ってきたのだろう。二人とも制服姿のまま、肩に大きな鞄を提げている。
二人は交差点まで来ると立ち止まった。それぞれの家に向かう分かれ道だ。曲がり角に建っている立地条件上、ここからだと各々の表情まで読み取れる。話は盛り上がっているようで、二人は家の方に足を進めるでもなくその場で立ち話を始めた。
飛鳥が直樹と帰宅してくるなんて、初めて見る光景だった。いや、今まで見たことがなかっただけで、僕の及び知らぬところでそんなこともあったのかもしれない。この危ないご時勢だ。方角が同じ先輩が後輩を送っていくのは当たり前のことと言えよう。とはいえ、直樹には兄弟揃ってお世話になっている。なんだか申し訳なさでいっぱいだ。
二人はなんの話をしているんだろう。そういえば僕は二人の部活のときの顔を知らない。なんとなく、同じ部活に所属しているわけだし仲は良いのだろうという程度の認識だったが、あれだけ会話が弾んでいるのを見ると、何かしらの役職なんかに就いているのかも知れない。
そんなことを思いながらボーっと眺めていると、長く揚がっていた日も遂に落ち、街灯が灯り始めた。それに気付いた二人は顔を見合わせて笑うと、手を振ってお互いの帰路に着いた。
しばらくして一階の扉が開く音が聞こえる。と、もの凄い勢いで階段を駆け上がっている足音が聞こえた。振動が僕の部屋にまで伝わってくる。足音はどんどんボリュームを増していき、僕の部屋の前で止まった。
「こら根暗野郎ー!」
声と同時に、飛鳥がドアを押し開ける。蝶番の限界を超えたドアが、ドアノブを激しく壁に打ち付ける。
「なに上から覗いてるんだよー! バレてるんだよ根暗野郎ー!」
先ほど窓から見下ろしていたときと違い、肩から提げていた鞄がない。どうやら家に入ってすぐ玄関に置いてきたようだ。
「何度も言ってるけど、部屋に入るときはノックをしてくれ」
「話を逸らすなー!」
飛鳥は部屋の近くにあったクッションを拾い上げると、思い切り振りかぶって僕に投げつけてきた。制球力の全くない枕はあさっての方向に飛んでいき、僕の机の上にあった目覚ましの一つにぶつかった。吹っ飛んだ目覚ましは壁にぶち当たり、中に入っていた乾電池がすっぽ抜けた。
「おいふざけんなノーコン! 僕の目覚ましが壊れたらどうするつもりだ!」
「別に4個もあるんだから、1つくらい壊れたって大丈夫でしょー」
飛鳥はとりあえずスッキリしたのか、自分が投げたクッションを回収すると、また扉の前まで戻り、いつもの場所に腰を下ろした。
なんて横暴な奴。
「制服くらい着替えてこいよ」
「上から見てるなんて、悪趣味ー」
上から見られていたのがよほど癪に触ったのか、飛鳥は膨れっ面のままこちらの問いかけを聞こうともしない。
「別に覗いてたわけじゃないよ。外を眺めてたら二人が通りかかっただけ」
僕は飛び散った目覚まし時計を拾いながらそう言うと、ベッドに腰を下ろした。クッションに座っている飛鳥を見下ろす形になる。
「じゃあ何でずっと見てるのよー」
僕の言葉だけじゃ納得できないらしく、飛鳥は細い眉を吊り上げてこちらを睨んでいる。
「普通、気ぃ使って目逸らすとかするでしょー!」
別に外を見たくて見ていただけなのに、後から視界に勝手に入ってきておいて何を言うか。理不尽極まりない。しかし、向こうも同じ気持ちなのだろう。とりあえず今回は非を認めて、謝っておくことにする。
「ごめん」
「……別にいいけど」
飛鳥はまだ納得できていないような顔をしていたが、とりあえず許してくれたようだった。
用が済んで部屋に戻ろうとしたのか、飛鳥はクッションから立ち上がった。そして、部屋から一歩出たところで、引き返してまたクッションに腰を下ろす。
「なんだよ。早く部屋戻れよ」
「ねぇお兄ちゃん」
飛鳥は先ほどと打って変わって、今度は下を向いたまま、抑揚のないトーンで僕を呼んだ。
「なんだよ」
「直樹さんと何かあった?」
「……え?」
予想外の一言。僕を見る飛鳥の視線は、何かを見透かそうとまっすぐに捉えている。僕はその視線になんとなく嫌悪感を感じて、目を逸らした。
「なんで急にそんなこと聞くの?」
「……なんとなくー」
別に疚しいことなんて何もないのに、なぜか僕の鼓動は早くなっていた。焦っているのだろうか。でも、なんで? 焦る必要なんてどこにもない。
飛鳥の方を見る。飛鳥はさっきと変わらぬ視線で僕を見続けていた。腹黒い魂胆なんて何も考えていなそうな、あどけない顔。ただ純粋に、気になったから聞いただけ。それ以上でも以下でもないという顔だ。どうしてさっき、この視線に嫌悪感を感じたのだろうか。直樹の名前を出されたからだろうか。でも、なんで?
今日の昼のこと。
本当はこんな風に思考を巡らせなくたって、最初から分かっていた。そう、僕は今日の昼、直樹に言われたことを引きずっている。それは、口先だけで心から直樹を応援できなかったことなんかじゃない。『直樹の恋は実ることはない。なぜなら伊達さんはどうしようもなく僕に惚れているから』。そんな確信から来る、安心。そして直樹に対する優越感だった。
そう、優越感だ。
どんなにかっこよくても、どんなに運動神経がよくても、直樹では伊達さんを手にすることは出来ない。伊達さんの愛を一身に受けることができるのは僕だけだ。という、どうしようもなく最低な直樹に対する優越感。そして、そんな熱烈な愛を受けるも断るも僕次第という、どうしようもなく最低な伊達さんに対する優越感の塊だった。
「お兄ちゃん? あたしの話聞いてるー?」
今まで心の中にあった感情にやっと説明が付く。僕は伊達さんや直樹を支配下に置いたつもりで、悦に浸っていたんだ。相手の気持ちなんかお構いなしに、自分の独占欲が満たされることで至福を感じていたんだ。伊達さんの理不尽な愛情に嫌気が差しているなんて真っ赤な嘘。そこにいたのは、優越感に陶酔していた自分だ。
なんという傲慢さ。我がことながらヘドが出る。
気付かないふりをして私利私欲を優先し、結局は自分の一番嫌いな人間像に自らが陥っていたんだ。
「……なぁ飛鳥、『一目惚れ』ってするものなの?」
「えっ!? 突然どうしたの?」
いきなりの質問に対応しきれず、飛鳥は目をぎょっとさせて聞き返してきた。
「いや、人が人を好きになるのって、理由がいるだろ? 優しいから好きとか、格好いいから好きとか。一目惚れってのは、相手のことがほとんど分からないわけじゃん。それなのに好きになるのなんて、ありえるのかなぁ?」
一言も会話を交わしたことすらない瀬川からの、突然の告白。今でも僕の心に引っかかっている、大きな疑問。
「うーん……」
最初は怪訝な顔をしていた飛鳥も、僕の表情を見て真面目な話だと悟ったのか、顎に手を当てて真剣に考えて始めた。少しして、口を開く。
「そもそも人を好きになるのって、理由がいるのかなー?」
「…………えっ?」
その一言は、僕の質問を根底から覆すものだった。
好きになるのに理由が要らない? そんな馬鹿なっ!
「だって普通、気付いたら好きになってるものじゃないの? 優しいとか格好いいって、付き合ってみてからじゃないとわからないものだし」
飛鳥は戸惑う僕に構いもせず、自分の恋愛観を語り続ける。
「見た目のかっこよさとかは付き合う前からでも分かるけど、本当の格好よさってたぶんそういうところじゃないし。だから、あたしは一目惚れとかってアリだと思うなー。なんとなくフィーリングが合いそう、みたいな」
「ちょ、ちょっと待てよ」
飛鳥の話すことは、おおよそ僕が考えていたものとは根っこから全て違うものだった。価値観の相違、という言葉だけでまとめるには、とてもじゃないが納得できない。
僕は慌てて反論する。
「だって、人を好きになるってのはそれなりのプロセスがいることだろ? 腹の立つことや悲しくなることなんかと一緒で、原因があって結果があるはず」
しかし飛鳥は、まるでさも当たり前の事実を述べるように、するすると言葉を紡いだ。
「そういう理屈とか抜きにして人を愛せることが、『好き』ってことなんじゃないのかなぁ? あたしはそう思うんだけど」
僕の頭はガツンと揺れた。まさに目から鱗だった。
飛鳥の解釈は、『恋愛』というものが如何に特別で、自分の中の法則を捻じ曲げるような力を持っているかを端的に語ったものだった。恋の感情の中では全ての理論など吹き飛ぶ。それは魔法のような、不可思議で大きな心のうねり。確かなものなど何もなく、しかし確固たる何かが内在しているような、矛盾の極みであった。
それが、人を愛するということ。
飛鳥は僕なんかより遥かに大人で、遥かに恋愛というものに真摯だった。
「そっか……。そうだったんだ」
「お兄ちゃん、どうしたのー?」
飛鳥はいつものように幼さの残るつぶらな瞳で僕を見つめながら、なんとなく微笑んでいる。
「ん、いや、なんでもない。ありがとう」
「……? 変なお兄ちゃん」
飛鳥は何がなんだかわからないという表情で、首を傾げながら部屋を後にした。
僕は今までなんて最低な心で毎日を過ごしていたんだろう。僕の中には、もっと大きくてもっと大切な、魔法のような感情が残っていたじゃないか。瀬川憩。彼女を想う気持ちは誰にも負けないし、何よりも優先されるものだ。そう、自分だって分かっていたじゃないか。
明日、想いを伝えよう。今度は僕から。大切な想いを。
僕の心の中に一筋の光が芽生えた。それは分厚い雲を押しのけ、ドス黒く冷たいタールのようなものを真っ直ぐに照らし、大きな柱を生み出した。
◆
訪れる夏
◆
入学当初、僕は中学校生活という新たな環境に浮かれていた。相手のことなど何も知らないのに告白をOKしたのは、中学生だし彼女の一人でも欲しい、そんな浮かれた思考故のものだった。
僕たちは話していくたびに少しずつお互いを知り始め、理解していった。憩は告白してきただけあって、最初から僕に首ったけだった。そんな、当初は温度差のあった互いの愛情も、月日を重ねるごとに情が移ってゆき、親密になるにつれ、気にならなくなっていった。
僕は初めての彼女というものに浮かれ、甘えた。それは瀬川憩本人にではなく、恋人という立場に。彼女という立ち位置に対して甘えていた。
破局はすぐに訪れた。付き合い始めて半年。中学生活もある程度要領を覚えた、10月のことだった。
今でもはっきり覚えているのは、たった一つの確かな感覚。透明な心のガラスを、ドロドロしたタールが曇らせ何も見えなくなった、あの感覚。
直樹の報告を聞いたとき、僕の心は大きく揺れ動いた。
「俺、伊達と付き合うことになったんだ」
初夏を匂わせる眩い日差し受け、足取りも軽く家を飛び出した朝のことだった。珍しく十字路で顔を合わせた直樹は、開口一番そう言った。
「……え? そうなの?」
「あぁ」
直樹は軽く肯定すると、学校に向かって歩き出す。僕はその隣に並び、歩く速度を合わせた。
「聞きたいことがありすぎで何から質問していいか分からないんだけど……」
「白崎には報告しておいた方がいいかなと思って、言ってみた」
周りには登校途中の釘沼中生徒がたくさんいた。遅刻はしないが登校時刻ぎりぎりの、生徒たちが一番集中する時間帯だ。僕たちは車が来ないタイミングを見計らって、道の真ん中を通りながら周りの生徒を追い抜いていく。
「とりあえず……いつから?」
「昨日」
直樹は日差しを受けて目を細めながら、なんでもないことのように答えた。眩しい日差しは直樹の頭で遮られ、僕のところまでは届かない。
「昨日って、昨日のいつ?」
「部活始まる前。更衣室の前で待ってた伊達に告白された」
「そうなんだ……」
僕が帰ったあとだ。僕と帰ったあの日以来、伊達さんは僕の後ろに付いてきて帰宅することはなくなっていた。だからありえない話ではない。
直樹さんと何かあったの? 昨日飛鳥が言っていた一言が、今更になって僕の中で大きな意味を持ち始める。
「でも伊達さんは……」
伊達さんは僕のことが好きなはず。それは、もはや約束された事実ではなかったのか? なぜ今更直樹に……。
「なんで俺なんだよって感じだよな」
直樹はハハハと自嘲気味に笑うと、僕の顔を見た。直樹の頭が、後光が差すように太陽と重なる。僕の位置からでは陰になって、直樹の表情を読み取ることが出来ない。
「伊達はお前のことが好きだったはずだろ。俺に告白なんて筋違いもいいとこだ。自暴自棄になっちまったのか、なにかしらの魂胆があるのか。まぁなんにせよ、俺は伊達の告白を断んなきゃいけなかったのかもなぁ……。でもよ、白崎」
直樹はそこで一度言葉を切ると、僕の肩に軽く手を置いた。ずっしりとした重みが僕の右肩にのしかかる。
「俺には断れなかったよ。俺は思った以上に心の弱いやつみたいだ。お前みたいに、強くなることはできない」
直樹の声は、何かを悟ったような、全てを受け入れたような、そんな諦めとも言える響きが混じっていた。僕の肩から直樹の重みが消える。直樹の視線は既に僕を捉えておらず、真っ直ぐ前を向いていた。
「…………そっか」
なんと声を掛けていいのかわからない。直樹はそれ以上を語ろうとせず、少しだけ歩くペースを上げた。それが答えだった。
僕は直樹の横で、歩幅を合わせながら歩いた。二人は一言も喋らず、周りの生徒をぐんぐん抜いていった。
僕は昨日の自分の決意を思い返した。僕には瀬川がいる。僕には瀬川しかいない。これはいいタイミングだ。自分の醜い心から決別する、伊達さんに対する甘えから決別する、いい機会。
今日しかない。そう思った。今日伝えよう。長い間時が過ぎて、錆び付いてしまっていた瀬川への思いに、今日こそ終止符を打とう。
晴天は直樹の頭上をすり抜けて、僕の頭のてっぺんに少しだけ陽光を照らした。
◆
◆
僕はしつこく迫った。思考はタールに遮断されて、憩の言っている意味を受け入れることが出来なかった。
どうして僕を捨てる? 僕のどこがいけないの? こんなに愛しているのに。
憩が僕を見る目は、もう僕を見る目ではなかった。暗くて、ドロドロした、タールのような目。
彼女は言った。
「そういうところが、全部嫌なの!」
それっきり、彼女の中から僕はいなくなった。
僕は納得できなかった。
そういうことろってなに? 言葉で言ってくれなくちゃわからないよ。全部直す。君の気に入らないところは全部直す。だからお願いだ僕を一人にしないでくれ。憩しかもう見えないんだ好きだよ憩、憩、憩憩憩憩憩憩憩憩憩憩憩憩憩……。
きっと何か理由があるに違いない。僕と別れなきゃいけない理由が。本当は僕と別れたくなんかないけど、仕方がないことなんだ。そうでもなきゃ納得できない。憩が僕のことを嫌いになるはずがない。
もっと憩のことを知らなくちゃ。そう思った。
「なぁ瀬川、話があるんだけど」
午前中の授業も半分が過ぎた中休み。クラスメイトとの会話に割り込んで、瀬川に声を掛けた。瀬川は僕を見上げると、あからさまに眉根を寄せた。
「今さっちんと話しているので、後にしてください」
それだけ言い残すと、そっぽを向いてまた会話を再開しようとした。
「いや、結構大事な話だから、なるべく早目がいいんだけど……」
瀬川は急に静止した。そして勢いよく机を叩くと、思いっきり立ち上がった。膝の反動で、今まで瀬川が座っていた椅子が僕の足にぶつかる。
「いてっ」
「今さっちんと話していることは大事な話じゃないっていうんですかっ!?」
「あ、いや、そういうわけじゃないけど……」
僕はぶつけられた脛をさすりながら答える。どうして急に怒っているんだろう。
「あ、私はいいよ憩ちゃん。白崎くんと話してあげて」
僕と瀬川の間に不穏な空気を感じたのか、今まで瀬川と話していた平田幸子(ひらたさちこ)は大げさに手を振りながら促した。
「ううん、さっちゃんは気にしないで」
瀬川が慌ててフォローに入る。瀬川はこちらを一睨みすると、椅子を戻して着席し、またさっきのように平田の方を向く。
「今さっちんの新しい眼鏡の話で忙しいんです。だから話すことがあるなら放課後にしてください。私にとっては、ワタルさんの話より、こっちの方が大事なんです」
こちらを見ることなく言い捨てると、また平田に話を振りはじめた。平田はこちらを申し訳なさそうに見ながら、瀬川に話を合わせていた。
「……わかった」
それだけ言うと、僕も席に戻った。放課後というのならそれでいい。別に遅くはないさ。その程度の時間で僕の決意は鈍らない。
席に着くときちらりと横目で捉えた映像は、教室の奥で楽しそうに話す伊達さんと直樹だった。
◆
◆
放課後、午後とは思えない暑さと日差しの高さに目を顰めながら、金網にもたれかかる。学校内で空に一番近い場所は今、瀬川と僕の二人で占領されていた。
「前の時みたいに、水溜りないですね」
瀬川は僕から5メートルほど離れた位置の金網に身体を預けると、その場に腰を下ろした。スカートがひらりと舞い、地面を覆い隠すように被さる。僕もずるずると腰を下ろした。二人の視線の高さが同じになる。
「で、話したいことがあるんですよね。なんですか?」
瀬川は中休みのことをまだ怒っているのか、不機嫌を隠そうともせずに話しかけてきた。さっさと切り上げて帰りたがっているのがわかる。
「中休みのことは謝るよ。ごめん」
「そのことはもういいですから。早く用件を言ってください」
膨れっ面のまま僕を見る瀬川。視線を合わせてくれているところを見ると、一応話を聞く気はありそうだ。
僕の中で止まっていた熱が流動し始める。告白はいつだって勇気がいるものだ。それは昔の彼女に対するものであっても同じこと。
僕は丹田に力を込めると、一呼吸置いて、ゆっくりと口を開いた。
「瀬川。いや、憩。もう一度、僕と付き合って欲しい。好きなんだ、憩のこと」
言った。瀬川の目を見て、堂々と。
瀬川は僕の告白を聞いた姿勢のまま、全く動かない。口の中が急速に乾いていく気がする。舌で口の中をそこら中舐め回して、固唾をごくりと飲み込んだ。
「そういうの、『なし』って言ったじゃないですか」
「……へ?」
瀬川の回答の意味が分からず、僕は素っ頓狂な声を上げてしまった。瀬川は気だるそうに立ち上がると、僕の隣まで来て、また座った。背景が見えなくなるほど瀬川の顔が近づく。少し潤んだ大きな瞳にドキッとした。
「私、ワタルさんのそういうところが嫌いって、言ったじゃないですか。ずけずけと人の心の中に踏み込んできて、それでいて自分勝手に振舞って。さっきの中休みだってそうです。周りの迷惑なんて考えずに、自分の欲望が満たせればそれでいい。しかも自分の中で変に理論武装しちゃってるものだから、少しも悪びれた様子がない」
「え、え、え?」
何がなんだかわからない。てっきり、瀬川からはOKの返事がもらえるとばかり思っていたのに。これは付き合えないっていう返事なのだろうか。それにしてはやけに感情的になっている。そんな単純なものではないというのが、瀬川の剣幕を見ればわかる。ともかく、僕の告白がなんらかの瀬川の感情を動かすスイッチになってしまったのだろう。
瀬川の口調は、段々と激しさを増していく。
「大体、付き合ってる時だってクラスには内緒にしようとか、ばれないように振舞おうっていう話だったのに、すぐ私のこと『憩』とか呼ぶし。おかげでみんなに憩って呼ばせるの、大変だったんだから。ただクラスのみんなと普通に話してるだけで「お前は男と仲良さそうに喋る」とか言うし、帰りもわざわざ家まで付いてくるし。私を所有物か何かだと思ってるの?」
「え、あの、告白の返事は……?」
「は? 何言ってるの? 呆れたっ!」
瀬川は吐き捨てるように、なおも想いの丈を僕にぶつける。
「今みたいに自分のことしか考えないのが最高に嫌いだって言ってるの! 私がワタルのこと嫌いになった理由がまだ分からないの?」
突然の衝撃。少し遅れて、炸裂音。僕の目は瀬川を捉えておらず、虚空を見つめていた。じんじんと左頬に痛みが伝わってくる。
慌てて瀬川に視線を戻す。瀬川は右手を振りぬいた体勢のまま、目にうっすら涙を浮かべていた。
「仕舞いにはストーカーみたいなことまでしてきたじゃない。帰り道が逆なのにいっつも後ろから付けてきて、家の窓から見下ろすとあんたが見えて、変な手紙まで送りつけてきて、しつこいくらい電話もしてきて。別れた後もどんどんエスカレートするばっかり。家族も私もボロボロになったんだから! 全部あんたのせいよ、全部っ!」
瀬川の目は耐え切れず、一本の線を描いて涙を下に落とした。僕は頭も心も全て混乱していて、目の前の事実をありのままに捉えることしかできない。
思考ができない。
「今年になってやっと新たなスタートが切れると思って頑張ってたんだから。さっちんは私とワタルのことを知らない、初めての友達なの。大切な友達なの。だから、もう今日みたいに声掛けてくるのも止めて。すごい迷惑」
瀬川は立ち上がった。そして僕を振り返ることなく屋上を後にする。僕は引き止めようと思わなかった。いや、引き止めることができなかった。それどころか声を掛けることもできなかった。
背中でドアの音を聞く。屋上は僕一人だけになった。
僕は金網に身体を擦りつけながら倒れる。仰向けに寝転がると、どこまでも続く空が見えた。
「……いってぇ」
左頬を手で押さえる。今になって、痛みが本当の痛みをもって襲ってくる。そのおかげで頭の中が鮮明になってきた。
「僕、フラれたのか」
そんなことを口走りながら、僕の頭は他のことを考えていた。
僕はまた、自分のことばかりを考えていた。正解だと信じて取った行動は、どうやら最も愚かな間違いだったようだ。今回に限らず、今までずっと。あの頃から、瀬川を思う気持ちは全てから空回りしていたんだ。それどころか、迷惑を掛けてしまった。瀬川の目には、僕はストーカーとして映っていたのか。これじゃもう伊達さんのことは笑えない。この先どうしよう。もう何がなんだかわからないよ。
頭の中に大小様々なことが圧倒的な質量をもって吹き込んでいく。それらは巨大な渦を巻き、僕の根底から全てを奪い去っていくように襲い掛かってきた。
考えすぎて、もう何も考えられない。どこまで考えても、行き着く先は泥沼。
全てを放棄して逃げ出したくなる。
「僕は、一体なんだ?」
心を照らした一筋の光は、分厚い雲に覆われて届かなくなってしまった。冷えて固まったタールが、どんどん僕を浸していく。黒くて冷たくてドロドロしていて、僕はそれに溺れていくのだ。
視界を占める空は、僕を吸い込むように、ただただ青かった。
入学当初、僕は中学校生活という新たな環境に浮かれていた。相手のことなど何も知らないのに告白をOKしたのは、中学生だし彼女の一人でも欲しい、そんな浮かれた思考故のものだった。
僕たちは話していくたびに少しずつお互いを知り始め、理解していった。憩は告白してきただけあって、最初から僕に首ったけだった。そんな、当初は温度差のあった互いの愛情も、月日を重ねるごとに情が移ってゆき、親密になるにつれ、気にならなくなっていった。
僕は初めての彼女というものに浮かれ、甘えた。それは瀬川憩本人にではなく、恋人という立場に。彼女という立ち位置に対して甘えていた。
破局はすぐに訪れた。付き合い始めて半年。中学生活もある程度要領を覚えた、10月のことだった。
今でもはっきり覚えているのは、たった一つの確かな感覚。透明な心のガラスを、ドロドロしたタールが曇らせ何も見えなくなった、あの感覚。
直樹の報告を聞いたとき、僕の心は大きく揺れ動いた。
「俺、伊達と付き合うことになったんだ」
初夏を匂わせる眩い日差し受け、足取りも軽く家を飛び出した朝のことだった。珍しく十字路で顔を合わせた直樹は、開口一番そう言った。
「……え? そうなの?」
「あぁ」
直樹は軽く肯定すると、学校に向かって歩き出す。僕はその隣に並び、歩く速度を合わせた。
「聞きたいことがありすぎで何から質問していいか分からないんだけど……」
「白崎には報告しておいた方がいいかなと思って、言ってみた」
周りには登校途中の釘沼中生徒がたくさんいた。遅刻はしないが登校時刻ぎりぎりの、生徒たちが一番集中する時間帯だ。僕たちは車が来ないタイミングを見計らって、道の真ん中を通りながら周りの生徒を追い抜いていく。
「とりあえず……いつから?」
「昨日」
直樹は日差しを受けて目を細めながら、なんでもないことのように答えた。眩しい日差しは直樹の頭で遮られ、僕のところまでは届かない。
「昨日って、昨日のいつ?」
「部活始まる前。更衣室の前で待ってた伊達に告白された」
「そうなんだ……」
僕が帰ったあとだ。僕と帰ったあの日以来、伊達さんは僕の後ろに付いてきて帰宅することはなくなっていた。だからありえない話ではない。
直樹さんと何かあったの? 昨日飛鳥が言っていた一言が、今更になって僕の中で大きな意味を持ち始める。
「でも伊達さんは……」
伊達さんは僕のことが好きなはず。それは、もはや約束された事実ではなかったのか? なぜ今更直樹に……。
「なんで俺なんだよって感じだよな」
直樹はハハハと自嘲気味に笑うと、僕の顔を見た。直樹の頭が、後光が差すように太陽と重なる。僕の位置からでは陰になって、直樹の表情を読み取ることが出来ない。
「伊達はお前のことが好きだったはずだろ。俺に告白なんて筋違いもいいとこだ。自暴自棄になっちまったのか、なにかしらの魂胆があるのか。まぁなんにせよ、俺は伊達の告白を断んなきゃいけなかったのかもなぁ……。でもよ、白崎」
直樹はそこで一度言葉を切ると、僕の肩に軽く手を置いた。ずっしりとした重みが僕の右肩にのしかかる。
「俺には断れなかったよ。俺は思った以上に心の弱いやつみたいだ。お前みたいに、強くなることはできない」
直樹の声は、何かを悟ったような、全てを受け入れたような、そんな諦めとも言える響きが混じっていた。僕の肩から直樹の重みが消える。直樹の視線は既に僕を捉えておらず、真っ直ぐ前を向いていた。
「…………そっか」
なんと声を掛けていいのかわからない。直樹はそれ以上を語ろうとせず、少しだけ歩くペースを上げた。それが答えだった。
僕は直樹の横で、歩幅を合わせながら歩いた。二人は一言も喋らず、周りの生徒をぐんぐん抜いていった。
僕は昨日の自分の決意を思い返した。僕には瀬川がいる。僕には瀬川しかいない。これはいいタイミングだ。自分の醜い心から決別する、伊達さんに対する甘えから決別する、いい機会。
今日しかない。そう思った。今日伝えよう。長い間時が過ぎて、錆び付いてしまっていた瀬川への思いに、今日こそ終止符を打とう。
晴天は直樹の頭上をすり抜けて、僕の頭のてっぺんに少しだけ陽光を照らした。
◆
◆
僕はしつこく迫った。思考はタールに遮断されて、憩の言っている意味を受け入れることが出来なかった。
どうして僕を捨てる? 僕のどこがいけないの? こんなに愛しているのに。
憩が僕を見る目は、もう僕を見る目ではなかった。暗くて、ドロドロした、タールのような目。
彼女は言った。
「そういうところが、全部嫌なの!」
それっきり、彼女の中から僕はいなくなった。
僕は納得できなかった。
そういうことろってなに? 言葉で言ってくれなくちゃわからないよ。全部直す。君の気に入らないところは全部直す。だからお願いだ僕を一人にしないでくれ。憩しかもう見えないんだ好きだよ憩、憩、憩憩憩憩憩憩憩憩憩憩憩憩憩……。
きっと何か理由があるに違いない。僕と別れなきゃいけない理由が。本当は僕と別れたくなんかないけど、仕方がないことなんだ。そうでもなきゃ納得できない。憩が僕のことを嫌いになるはずがない。
もっと憩のことを知らなくちゃ。そう思った。
「なぁ瀬川、話があるんだけど」
午前中の授業も半分が過ぎた中休み。クラスメイトとの会話に割り込んで、瀬川に声を掛けた。瀬川は僕を見上げると、あからさまに眉根を寄せた。
「今さっちんと話しているので、後にしてください」
それだけ言い残すと、そっぽを向いてまた会話を再開しようとした。
「いや、結構大事な話だから、なるべく早目がいいんだけど……」
瀬川は急に静止した。そして勢いよく机を叩くと、思いっきり立ち上がった。膝の反動で、今まで瀬川が座っていた椅子が僕の足にぶつかる。
「いてっ」
「今さっちんと話していることは大事な話じゃないっていうんですかっ!?」
「あ、いや、そういうわけじゃないけど……」
僕はぶつけられた脛をさすりながら答える。どうして急に怒っているんだろう。
「あ、私はいいよ憩ちゃん。白崎くんと話してあげて」
僕と瀬川の間に不穏な空気を感じたのか、今まで瀬川と話していた平田幸子(ひらたさちこ)は大げさに手を振りながら促した。
「ううん、さっちゃんは気にしないで」
瀬川が慌ててフォローに入る。瀬川はこちらを一睨みすると、椅子を戻して着席し、またさっきのように平田の方を向く。
「今さっちんの新しい眼鏡の話で忙しいんです。だから話すことがあるなら放課後にしてください。私にとっては、ワタルさんの話より、こっちの方が大事なんです」
こちらを見ることなく言い捨てると、また平田に話を振りはじめた。平田はこちらを申し訳なさそうに見ながら、瀬川に話を合わせていた。
「……わかった」
それだけ言うと、僕も席に戻った。放課後というのならそれでいい。別に遅くはないさ。その程度の時間で僕の決意は鈍らない。
席に着くときちらりと横目で捉えた映像は、教室の奥で楽しそうに話す伊達さんと直樹だった。
◆
◆
放課後、午後とは思えない暑さと日差しの高さに目を顰めながら、金網にもたれかかる。学校内で空に一番近い場所は今、瀬川と僕の二人で占領されていた。
「前の時みたいに、水溜りないですね」
瀬川は僕から5メートルほど離れた位置の金網に身体を預けると、その場に腰を下ろした。スカートがひらりと舞い、地面を覆い隠すように被さる。僕もずるずると腰を下ろした。二人の視線の高さが同じになる。
「で、話したいことがあるんですよね。なんですか?」
瀬川は中休みのことをまだ怒っているのか、不機嫌を隠そうともせずに話しかけてきた。さっさと切り上げて帰りたがっているのがわかる。
「中休みのことは謝るよ。ごめん」
「そのことはもういいですから。早く用件を言ってください」
膨れっ面のまま僕を見る瀬川。視線を合わせてくれているところを見ると、一応話を聞く気はありそうだ。
僕の中で止まっていた熱が流動し始める。告白はいつだって勇気がいるものだ。それは昔の彼女に対するものであっても同じこと。
僕は丹田に力を込めると、一呼吸置いて、ゆっくりと口を開いた。
「瀬川。いや、憩。もう一度、僕と付き合って欲しい。好きなんだ、憩のこと」
言った。瀬川の目を見て、堂々と。
瀬川は僕の告白を聞いた姿勢のまま、全く動かない。口の中が急速に乾いていく気がする。舌で口の中をそこら中舐め回して、固唾をごくりと飲み込んだ。
「そういうの、『なし』って言ったじゃないですか」
「……へ?」
瀬川の回答の意味が分からず、僕は素っ頓狂な声を上げてしまった。瀬川は気だるそうに立ち上がると、僕の隣まで来て、また座った。背景が見えなくなるほど瀬川の顔が近づく。少し潤んだ大きな瞳にドキッとした。
「私、ワタルさんのそういうところが嫌いって、言ったじゃないですか。ずけずけと人の心の中に踏み込んできて、それでいて自分勝手に振舞って。さっきの中休みだってそうです。周りの迷惑なんて考えずに、自分の欲望が満たせればそれでいい。しかも自分の中で変に理論武装しちゃってるものだから、少しも悪びれた様子がない」
「え、え、え?」
何がなんだかわからない。てっきり、瀬川からはOKの返事がもらえるとばかり思っていたのに。これは付き合えないっていう返事なのだろうか。それにしてはやけに感情的になっている。そんな単純なものではないというのが、瀬川の剣幕を見ればわかる。ともかく、僕の告白がなんらかの瀬川の感情を動かすスイッチになってしまったのだろう。
瀬川の口調は、段々と激しさを増していく。
「大体、付き合ってる時だってクラスには内緒にしようとか、ばれないように振舞おうっていう話だったのに、すぐ私のこと『憩』とか呼ぶし。おかげでみんなに憩って呼ばせるの、大変だったんだから。ただクラスのみんなと普通に話してるだけで「お前は男と仲良さそうに喋る」とか言うし、帰りもわざわざ家まで付いてくるし。私を所有物か何かだと思ってるの?」
「え、あの、告白の返事は……?」
「は? 何言ってるの? 呆れたっ!」
瀬川は吐き捨てるように、なおも想いの丈を僕にぶつける。
「今みたいに自分のことしか考えないのが最高に嫌いだって言ってるの! 私がワタルのこと嫌いになった理由がまだ分からないの?」
突然の衝撃。少し遅れて、炸裂音。僕の目は瀬川を捉えておらず、虚空を見つめていた。じんじんと左頬に痛みが伝わってくる。
慌てて瀬川に視線を戻す。瀬川は右手を振りぬいた体勢のまま、目にうっすら涙を浮かべていた。
「仕舞いにはストーカーみたいなことまでしてきたじゃない。帰り道が逆なのにいっつも後ろから付けてきて、家の窓から見下ろすとあんたが見えて、変な手紙まで送りつけてきて、しつこいくらい電話もしてきて。別れた後もどんどんエスカレートするばっかり。家族も私もボロボロになったんだから! 全部あんたのせいよ、全部っ!」
瀬川の目は耐え切れず、一本の線を描いて涙を下に落とした。僕は頭も心も全て混乱していて、目の前の事実をありのままに捉えることしかできない。
思考ができない。
「今年になってやっと新たなスタートが切れると思って頑張ってたんだから。さっちんは私とワタルのことを知らない、初めての友達なの。大切な友達なの。だから、もう今日みたいに声掛けてくるのも止めて。すごい迷惑」
瀬川は立ち上がった。そして僕を振り返ることなく屋上を後にする。僕は引き止めようと思わなかった。いや、引き止めることができなかった。それどころか声を掛けることもできなかった。
背中でドアの音を聞く。屋上は僕一人だけになった。
僕は金網に身体を擦りつけながら倒れる。仰向けに寝転がると、どこまでも続く空が見えた。
「……いってぇ」
左頬を手で押さえる。今になって、痛みが本当の痛みをもって襲ってくる。そのおかげで頭の中が鮮明になってきた。
「僕、フラれたのか」
そんなことを口走りながら、僕の頭は他のことを考えていた。
僕はまた、自分のことばかりを考えていた。正解だと信じて取った行動は、どうやら最も愚かな間違いだったようだ。今回に限らず、今までずっと。あの頃から、瀬川を思う気持ちは全てから空回りしていたんだ。それどころか、迷惑を掛けてしまった。瀬川の目には、僕はストーカーとして映っていたのか。これじゃもう伊達さんのことは笑えない。この先どうしよう。もう何がなんだかわからないよ。
頭の中に大小様々なことが圧倒的な質量をもって吹き込んでいく。それらは巨大な渦を巻き、僕の根底から全てを奪い去っていくように襲い掛かってきた。
考えすぎて、もう何も考えられない。どこまで考えても、行き着く先は泥沼。
全てを放棄して逃げ出したくなる。
「僕は、一体なんだ?」
心を照らした一筋の光は、分厚い雲に覆われて届かなくなってしまった。冷えて固まったタールが、どんどん僕を浸していく。黒くて冷たくてドロドロしていて、僕はそれに溺れていくのだ。
視界を占める空は、僕を吸い込むように、ただただ青かった。