『食った。食った。流石は氏康様の片腕だよな。いいもんばっかだったぜ。』
戦国時代の食事などあんまりいいものなどないはず・・・。
どうせ鯛だか鯨とかだろ?猪とか野鳥もありうるか・・・。
どっちにしろ肉汁の滴り落ちるようなステーキなんてあるはずない。
よかったですね。といって僕は白米と城下で売っていたよくわからない(多分鯵)の干物の二品目の夕飯を食べていた。
そもそも清兵衛だけ玉縄城に行ったのはわけがある。
僕が献上した物は鉛筆だった。
筆を使うよりよっぽど早く書ける。
紙はこの時代もうあったのでなんら問題ない筈だった。
しかしうすうす感じていた。
「でも実際大差なくね?」
そもそも戦国大名が自ら筆を執るということは多くなく、祐筆と呼ばれる人たちに書かせる。
だからはっきりいって献上しても・・・。
「なるほど。もらっておこう。」
あ。なるほど。あんまり興味なさそうっすね。
その日は二人とも帰って寝た。
僕は最悪のパターンが的中したからこのまま転がり落ちていく様を想像するのをやめて床についた。
おとといの朝伝令の使者が来た。
そうふてくされんな、と清兵衛はいってくれた。
これから清兵衛が登城するときは僕はいらないと伝令の人がいっていた。
\(^o^)/パターン的中。オレスゲー。
畜生。占い師でこの先食っていこうか。
そして今日清兵衛は登場し、いいもんくって帰ってきた。
清兵衛は酔っているのか、千鳥足になりながら床にどっかと座った。
『明日は岩槻城攻めだから早く寝ろ・・・・・・。』
そういって清兵衛は座った姿勢からころりと横になってでかいいびきをかいて眠り始めた。
少し高揚になって僕も寝た。
次の日の早朝。
清兵衛は僕より早くおき金色のよろいを身にまとっていた。
玉縄城には約1500の兵が小田原城に向けて進軍する準備をしていた。
玉縄城から伝令の使者が清兵衛の前に頭をたれてこういった。
「ただいまより小田原城に行くので遅れずに参陣するようにお願いします。」
わかった。といって清兵衛は僕のほうをちらりとみて、小田原城に向かって歩き出した。
小田原城と玉縄城は約30キロほど離れているので結構遠い。
といっても岩槻城は小田原から70~100キロほどあるから。やる気が落ちていく。
なるほど。信長の野望革新でも遠く行けば行くほど士気が落ちていった。
うまくできてんなーと思いながらひたすら歩き続ける。
いけどもいけども。まだつかない。それほど徒歩で30kmは遠いのだ。
小田原城―――。
上杉謙信・武田信玄、戦国時代が誇る二頭の怪物が落とせなかった天下の堅城それが、小田原城である。
小田原城には約4000の兵がすでに着陣していて、玉縄の兵が加わって5500の兵となった。
聞けば出陣は明日らしい。
30キロの道を歩いてきた玉縄の兵。
北条綱成をはじめ全員眠りこけた。
次の日には5500の兵が8000にまで増えていた。
8000人。
それは膨大な人数で、戦国時代で8000人も一度に動かせた大名などは有名どころだけだ。
信長の野望、太閤立志伝、戦国無双などで、戦国時代がゲームになってしまって1万、2万。
果てには10万、20万の兵が各地で戦っている。などというおかしな出来事が起こっているが、これは現実。
すくなくとも北条氏康の時代に8000人も動かせる武将は限られている。
この8000人を指揮する主な武将は・・・
北条氏康、北条綱成、大道寺政繁、北条氏照、北条氏邦、松田憲秀といった、北条オールスターといってもいいほどの布陣だった。
氏康、政繁、憲秀の三人の部隊と、綱成、氏照、氏邦の三人の2部隊に分かれ、
総大将氏康の号令で岩槻城へ進軍した。
岩槻城攻め
北条氏康―――。
戦国武将を聞いてこの男を上げる男はあまりいないだろう。
武田信玄、織田信長、徳川家康、上杉謙信、豊臣秀吉、伊達政宗、毛利元就、島津義久、真田幸村
錚々たるメンバーに北条氏康は知名度では入れないだろう。
次点に来るのは、明智光秀、前田慶次、山本勘介、浅井長政、石田三成ぐらいだからだ。
しかし、この氏康。戦上手ぶりは信玄、謙信に負けるとも劣らない。
武田信玄という甲斐の英傑が遠江の英傑今川義元と相模、伊豆の英傑北条氏康組んだこということは、
信玄クラスの武将が一筋縄では、義元、氏康は倒せないと踏んだから甲・遠・駿三国同盟を結んだのだ。
この三国同盟によって、武田は北進し、今川は西進、そして北条は東進した。
ここでも氏康は抜群の戦振りと政治手腕を発揮する。
ここで簡単に最もポピュラーな戦国ゲームである信長の野望の最新作である革新で北条氏康の統率力を見てみよう。
北条氏康:統率95
これだけでは何もわからない。なので上に挙げた人物と比較してみる。
武田信玄:110 織田信長:92 徳川家康:95 上杉謙信:120 豊臣秀吉:87
伊達政宗:95 毛利元就:92 島津義久:85 真田幸村:105 今川義元:85
どうだろうか?
錚々たるメンバーに堂々と君臨しているのがお分かりだろうか?
話がそれた。
が、それほどそれてはいない。
なにをいうこの話の主人公、弥九郎は前の世界では信長の野望革新ばかりやっていたから―――。
北条氏康、大道寺政繁、松田憲秀の三人だろ・・・。
たしか氏康の統率が100ぐらいで・・・。
武勇は80台だったかな・・・。
知略は94だったかな・・・?
「このメンバー強すぎだろ・・・」
信長の野望革新では、三人の中で最も3つの数値が高いものが反映される。
大道寺政繁、松田憲秀ともに、氏康には、統率・武勇・知略を上回っていないので、統率100、武勇80、知略94の軍団が結成された。
同様に北条綱成、北条氏照、北条氏邦の三人の中で軍団を作ると、統率94、武勇94、知略79の第二軍団が結成された。
もちろんこれはゲームではないし、ゲームの中でも統率が低いものが高いものに勝つこともあるし
知略が低いものが高いものに計略をかけたりする。
ただこれから何度も話す戦の話のときに一つの目安だと思ってもらってほしい。
ドラゴンボールの戦闘力、キン肉マンの超人強度、ワンピースの賞金額と同じようなものだと思ってほしい。
さて、岩槻城である。
岩槻城。
古くは1457年に大田道灌が作った城である。
荒川を天然の堀として、、沼沢地の中の台地に主郭部と曲輪を築き
その外側に約8kmにわたる外郭をめぐらした壮大な名城であった。
離れてこの城を見ると、広い湿原に浮かんだ城に見えることから「浮城」とも呼ばれた。
その岩槻城を攻めるべく北条家が8000の兵を連れて進軍し、岩槻城を包囲した。
戦争学は攻者三倍の法則というものがあり、防御型拠点を攻め落とすには三倍の人数が必要というものだ。
しかし肝心の岩槻城は3000の城兵が守っている。
むろん全員が城内にいるわけではない。
近くに作った砦だの、山などに300人ずつほど着陣している。
砦や山を攻めていると、城から、砦から、山から援軍が来て、挟み撃ちになってしまう。
しかし氏康。馬鹿ではない。
このための軍団に分割だったのだ。
第一北条氏康軍団。5000の兵で周辺の砦を次々と落としていく。
第二北条綱成軍団。3000の兵を持って山に陣取る敵方の兵を一蹴していく。
これで、約2500の兵が岩槻城に篭城したことになった。
戦国武将を聞いてこの男を上げる男はあまりいないだろう。
武田信玄、織田信長、徳川家康、上杉謙信、豊臣秀吉、伊達政宗、毛利元就、島津義久、真田幸村
錚々たるメンバーに北条氏康は知名度では入れないだろう。
次点に来るのは、明智光秀、前田慶次、山本勘介、浅井長政、石田三成ぐらいだからだ。
しかし、この氏康。戦上手ぶりは信玄、謙信に負けるとも劣らない。
武田信玄という甲斐の英傑が遠江の英傑今川義元と相模、伊豆の英傑北条氏康組んだこということは、
信玄クラスの武将が一筋縄では、義元、氏康は倒せないと踏んだから甲・遠・駿三国同盟を結んだのだ。
この三国同盟によって、武田は北進し、今川は西進、そして北条は東進した。
ここでも氏康は抜群の戦振りと政治手腕を発揮する。
ここで簡単に最もポピュラーな戦国ゲームである信長の野望の最新作である革新で北条氏康の統率力を見てみよう。
北条氏康:統率95
これだけでは何もわからない。なので上に挙げた人物と比較してみる。
武田信玄:110 織田信長:92 徳川家康:95 上杉謙信:120 豊臣秀吉:87
伊達政宗:95 毛利元就:92 島津義久:85 真田幸村:105 今川義元:85
どうだろうか?
錚々たるメンバーに堂々と君臨しているのがお分かりだろうか?
話がそれた。
が、それほどそれてはいない。
なにをいうこの話の主人公、弥九郎は前の世界では信長の野望革新ばかりやっていたから―――。
北条氏康、大道寺政繁、松田憲秀の三人だろ・・・。
たしか氏康の統率が100ぐらいで・・・。
武勇は80台だったかな・・・。
知略は94だったかな・・・?
「このメンバー強すぎだろ・・・」
信長の野望革新では、三人の中で最も3つの数値が高いものが反映される。
大道寺政繁、松田憲秀ともに、氏康には、統率・武勇・知略を上回っていないので、統率100、武勇80、知略94の軍団が結成された。
同様に北条綱成、北条氏照、北条氏邦の三人の中で軍団を作ると、統率94、武勇94、知略79の第二軍団が結成された。
もちろんこれはゲームではないし、ゲームの中でも統率が低いものが高いものに勝つこともあるし
知略が低いものが高いものに計略をかけたりする。
ただこれから何度も話す戦の話のときに一つの目安だと思ってもらってほしい。
ドラゴンボールの戦闘力、キン肉マンの超人強度、ワンピースの賞金額と同じようなものだと思ってほしい。
さて、岩槻城である。
岩槻城。
古くは1457年に大田道灌が作った城である。
荒川を天然の堀として、、沼沢地の中の台地に主郭部と曲輪を築き
その外側に約8kmにわたる外郭をめぐらした壮大な名城であった。
離れてこの城を見ると、広い湿原に浮かんだ城に見えることから「浮城」とも呼ばれた。
その岩槻城を攻めるべく北条家が8000の兵を連れて進軍し、岩槻城を包囲した。
戦争学は攻者三倍の法則というものがあり、防御型拠点を攻め落とすには三倍の人数が必要というものだ。
しかし肝心の岩槻城は3000の城兵が守っている。
むろん全員が城内にいるわけではない。
近くに作った砦だの、山などに300人ずつほど着陣している。
砦や山を攻めていると、城から、砦から、山から援軍が来て、挟み撃ちになってしまう。
しかし氏康。馬鹿ではない。
このための軍団に分割だったのだ。
第一北条氏康軍団。5000の兵で周辺の砦を次々と落としていく。
第二北条綱成軍団。3000の兵を持って山に陣取る敵方の兵を一蹴していく。
これで、約2500の兵が岩槻城に篭城したことになった。