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10:デッドフィッシュにうってつけの日

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 豪雨のように、灰とウェルダンの肉が降り注ぐ。焼け落ちる怪物に中指を立てると僕はジェニーに言った。
「もうすぐ夜が明けるな……。ジェニー、君にもいろんな事情があったらしいがそんなのはどうでもいい。怪物を召喚するのをやめるんだ……。でないと君もノックアウトだぜ」
「勝負はついたみたいだね……怪物はもう、おしまいだよ」ジェニーは笑いながら空を仰いでいた。ピンク色の空を。「どうやら私はまた眠ったほうがよさそうね。そういうことらしい、この結果は」
 ジェニーの体が崩れ始めていた。足のほうから、白い灰になって、空に舞い飛んでいく。
「あなたは『ジェニー』を必要としていないみたいだ。だから、消えるよ」
「そうか」
 僕はジェニーを恋人として扱ってきた。それは必要だったからそうしたのであって――いや、そのはずだが、今僕は彼女を倒そうとしていた。彼女の言うとおり、もう必要としていないということか。
 夢の世界はどんどん明るくなっていく。どうやら、現実では夜が明け始めているらしい。
「まあせいいっぱい生きることだね……あなたは私と違って、魚から人間になることができた――ちゃんと外の世界に、生まれ出ることができたんだから」安らかな顔で、彼女は言う。「これからは、夢はほどほどにするんだよ」
「ああ。きっと、そうするよ」
 彼女が手を振った。僕もそうする。今やジェニーは顔と腕だけになっていた。
「じゃあまたね……私はあなたとともにある。思い出したら夢に出てくるかもね……。ミチコちゃんと仲良くするんだよ。貴方だけのジェニーより最後の抱擁だ」ジェニーは残された両手で僕を抱きしめる。そういえば、僕のほうから抱きしめるのはいつものことだったけど、彼女からするのは珍しかった。ひょっとすると初めてかも。
「さよなら影介。楽しかったよ」
 と、最後の別れをつぶやくと、彼女は消え去った。
 白い灰が光りながら、空に昇っていく。
「ジェニー、君は、ただのギターじゃなかったよ。だけど完全な恋人には、なれなかったんだ。血が繋がってちゃあね。また会おう」
 そうして、夢は終わった。

「あ、起きた」
 目を開けると、見慣れた顔があった。
 ミチコだ。
 僕はしばらく呆然としていたが、その青白い顔が現実のものと分かって彼女にあいさつする。
「おはよう」
 そして酒臭い息を吐きながら、体を起こす。頭がガンガン鳴らされてる。今にも吐きそうだがなんとかこらえ、夜明けの空を見ることができた。
 薔薇色が東から広がっていく。こんなにきれいな空は久々だよ。
「ホントに最悪の気分って感じだね……。勝ったの?」とミチコが聞いたから、
「ああ。勝ったよ。それを記念して、一曲やるよ……」と答え、僕はオレンジのレスポールを弾き始めた。古いパンクロックだった。
 曲は朝の街に響いていく。それに乗って、ジェニーも空に昇っていく気がした。

 すがすがしい気分はすぐに終わった。
 酒を無茶に飲むとこうなるという、青少年への戒めにぴったりの状態だった。バス停へやって来た人たちには申し訳ない。酸っぱい臭いの中、バスを待たねばならなくなったのだから。
 僕は二日酔いのときいつも飲んでいるグレープフルーツジュースを買って来て、それからミチコに好きだと言ったが保留された。
 しかたないので朝飯を食うことにした。食料を目当てにワタヌキの家に戻ると、彼は曲を五曲ほど作り上げていた。それと、ミチコや春日井が作った曲を合わせたのが最初の自主制作アルバム「Deadfish」だ(あんまり売れなかった)。
 それから僕らはライブを重ね、ストロベリー・アライアンスはまあまあの人気を誇っている。
 ワタヌキは今でも鯨の墓場に行きたがる。
 春日井は髪を切る気配がない。このままだと地面にまで到達するだろう。
 大造と来戸はユニットを組み、僕らより売れている。
 今でも僕はあのオレンジのレスポールを使っているが、あれ以来ジェニーと呼んだことはない。
 ミチコは未だに僕の告白の返事を保留しているが、今は一緒に暮らしている。

 思うに、夢というのは人生の一部分だと思う。
 疲れた生活を送っている間、僕はそこに逃げ込んでいた。しかし、起きている間疲れていると、夢の中でも疲れてしまうらしい。ぐちゃぐちゃの夢が待っているのだ。だからそこへ逃げ込んでも、何の解決にもならないと僕は思い始めた。
 結局、逃げ場なんてどこにもないし、無理に作って逃げこんでも、どうにもならないんだ。その代わり、人生ってやつを充実させれば、夢も素敵になると思うし、現実から逃げる必要もなくなる。早死にしたいなんて思いたくもなくなるだろう。
 僕は今、まさにそういう人生を送っている。幸せだ。
 めでたしめでたしさ――

 ――と、言えれば最高なのだが状況は特に変わってない。
 やはり人間の体はとても七十年やそれ以上生きるほど丈夫にはできていないと僕は思う。
 いやなことだらけだし、いいことなんて世界の果てまで探してもどこにもないんじゃないかって思える。
 だから今でも僕は、ミチコとともに夢の中へ逃げ出す。手を繋いだまま僕らは横になり、そして意識を混濁させ浅い眠りの底を漂うんだ。死んだ魚みたいに。
 充実した人生なんて、クソくらえさ。これから先もそんなのは、僕らに関係ない。
 僕らは二十七歳になる前に、きっと腐り果てるだろう。胎児のうちに消えてなくなったほうが幸せだったかも。僕らは、きっと病気なんだ。水底で漂うことしかできない病気。僕の得た結論はそれさ。

 ぐずぐずのドロになった地面の上を僕とミチコは、手を繋いで歩いている。人間をパテで固めたような悪趣味なオブジェクトがいくつも立ち並ぶ。肉の焼ける臭いがする。視界はピンクや水色の蛍光色に染まったり、白黒に変わったりする。一秒前には僕らは空の上にいた。一秒後には地面の下にいる。世界はゲロと肉片でまみれたパイプでつながっていて、二日酔いのときの口臭とドブの臭いと、ノミ取りシャンプーの香りを合わせた空気で満たされている。その中を光速で僕らは行きかう。上空は錆色。ゴミであふれた地表もよく見える。喉に指を突っ込んで吐しゃする僕ら。それがお互いの愛を確かめ合う方法じゃないかと僕は思っている。結局すべては夢だった。今後もすべては夢なんだ。赤銅色のねじくれた虹が、気色悪い地平線にかかっている。これが現実でも何の違和感もない。何かが僕のケツを蹴り上げた。老齢の猫だった。コンクリートの、監獄みたいな場所で僕らは猫に囲まれてる。猫。よくこいつらが僕らの夢に出てきて、指をかじったり蹴ったりする。それで出血すると温かくて気持ちいい。天井からばらばらとムカデが降ってくる。見たくないから目をつぶると、僕らはいつの間にか電車に乗ってる。環状線だ。廃墟の街をぐるぐると、永遠に回っている。くだらない思い出話を、乗客はぶつぶつと呟いてる。ダメだ。この夢は面白くない。もっと衝撃的なやつがいい、と思ってると、何もない真っ暗な場所に出た。ひび割れが地面に走ってる。向こうから何かが飛び跳ねて来るのが見える。あれはよくないものだ、って思う。すると、僕らはまた別の場所に飛ぶ。猫脚浴槽だけが延々と置かれている平原。昔住んでいた家。カビで覆われた部屋。初めてライブした体育館。錆びた車の中。自分の墓の前。砂漠。ゴミの山。ワタヌキの家。疲れた顔の誰か。笑えない冗談。ふと自分の体の中を見てみると、からっぽだった。ミチコに話しかける。「僕らは同じ夢を見ているのかな」すると、「そんなわけないよ。同じくらい、いかしてる夢なのは間違いないけど……」違いない。そのとき聞こえてくる、下手な歌。空を飛ぶ腐った鯨。それにたかる猫。僕を罵倒する魚。胎内で溶けたはずの姉もしくは妹。空から降ってくる、マシュマロ。崩れかけたカラオケボックス。ハロウィンの夜。灰色の、海。大笑いする群衆。永遠にこの夢が覚めないんじゃないかという危惧。このまま死ねたらいいなという願望。これが夢だって忘れたい気分。ゲロまみれの便器。無限に続く階段。青白い、三日月。死んだ犬の目。人間椅子。どこからかやって来た、知っているはずの人々。一度も行ったことのない、思い出の地。腐りかけたサボテン。潰れたオレンジ。誰も最初からいなかったという事実。僕は本当は、ギターに触ったことはおろか音楽に触れたことすらないのでは、って疑惑。どこからともなく飛んでくる、電波。空飛ぶ火の玉フー・ファイター。残像。やってらんないって気持ち。飲みかけのワインボトル。できの悪い集合写真。ひどい徒労感。暗黒時代。口を利くギター。ツギハギだらけの街。諦念。ゴムでできたショートケーキ。散乱する自分のアバラ。

 もういいや。終わりにしようか。

 おはよう。




   <了>
10

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