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3:東京病

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 来戸が帰ってきたので僕は歌わなくてよくなった。安堵から練習に参加しなくなった。
 ジェニーを弾き酒を飲むだけの生活になった。
 ある日公園でウイスキー片手に歌っていると、視界に猫が入った。黒猫だ。
 鳩がいなくなったのはこいつのせいかもしれない。
 僕はその黒猫に向けて歌おうとするがすぐにヤツはいなくなってしまった。
 その後、猫の代わりにあいつがやって来た。
 ミチコだ。
 彼女は僕を発見するといきなり持っていたムスタングに頬擦りを始めた。こっちを見ながら。
 なんのつもりか分からなかったが、対抗して僕もジェニーを抱いた。
「ミチコ。ルーシーは女か? そうだろ?」彼女に気になっていたことを言うと、
「そうだけど」ミチコはこともなげに言う。「女同士でこういうことをするのは変だと思う?」
「いや」
「そう。影介とその彼女より仲いいのを見せ付けようとしたんだけど、ドローね……」
 ミチコはルーシーを顔から離し、こちらにやって来た。
「酒臭い。こんな朝早くから飲んでるの?」
「嫌なことを忘れるためだよ」
「どんな?」とミチコに聞かれたが、自分がなにをそんなに嫌がっているのか分からなくなってきた。
 何かに追われるような気分だったが果たしてなんだったか?
 まずいな。頭の中がごちゃごちゃになって来た。
 とりあえず話題を変えることにした。
「ミチコはバンドやってるのか?」
「やってない。バンドは他人と関わらなきゃならないから。それって好きじゃない」
「そうか。だけど人間、他者と関わらないと生きていけないんじゃないか」
「そんなことはないよ」ミチコはきっぱりと言う。「他人が一人も存在していなかったら生きていけないかもしれないけど、関わりを極限まで少なくして生きることはできると思う。君はずっとだれとも喋らない時期とかはないの?」
「それは」僕は少し考えて、「あるかも知れないな、しばしば」
「でしょ?」我が意を得たりをいった様子でミチコが言った。「それをずっと続けていけばなんとかなるんだよ。所詮私と他の人たちは人種が違う、っていうか種が違う気がするんだよ」
 イメージに反してミチコは饒舌だった。
「そうなのか? 例えばどういう点が?」
「まずは、私に社会性ってのが欠落してるところかな。さっきの話で分かったと思うけど。それにみんなすごくハイだと思うし。私が何かキメないと達成できないレベルに、みんなはナチュラルで達してるって感じがする」
 「他人が自分と違う」と力説するミチコはつまり、自分は孤独だと言いたいのだろうか。その気持ちは分かる気がした。ポイントは「自分は他人と違う」ではないところだ。
「なかなか面白い話だ……ミチコ、場所を変えようか。もう少しお前と話したいって気分」

 少し離れた場所にあるファーストフード店へやって来た。
 僕は百円のストロベリーシェイクのみ注文する。ジェニーを抱えたまま席に着く。
「話は変わるけど昨日こういう夢を見た。アポロ……十一号だったか十二号だったか、それが月まで行くのを僕はテレビで見てるんだ。自分が生まれるずっと前のことなのに。テレビはモノクロでさ。カウントダウンが終わって空にアポロが飛んでいくんだけど、ここで問題が発生する。月が消えていたんだ。どこにもなかった。アポロは目的を失ってしまう。そういう夢だよ」
 僕はシェイクをストローでかき回す。
 ミチコはそれを見ながら「いい夢」と一言漏らした。
 僕はこういう、妙な夢ばっかり見る。
 どこかの誰かが、僕の頭の中に向かって映写機を回してるみたいな。その誰かってのは相当ひねくれてるヤツに違いない。
「ねえ。影介って何歳?」ミチコが質問してきた。サバを読もうかと思ったが意味がないことに気づき正直に答える。
「二十歳」
「ふうん。同い年だったんだ」
 同い年? 意外だった。ミチコの顔は五歳くらい若く見える。
「二十か……将来どうする?」僕は唐突な質問をした。
 しばらくミチコはうつむいて、そして冗談みたいに言う。
「ミュージシャンか、詩人になるよ。それか死ぬ」
「そうか」
 きっと、ミチコはどれかになるんじゃないかと思った。僕もなりたい。ミュージシャンか詩人か死人に。


 夢を見た。
 僕は電車に乗っている。空は暗い。ネガポジ反転したみたいな黒い太陽が窓の外に見えた。
 隣に一人の少年が座っている。ミチコに似たファッションセンスだ。ひどく憂いを帯びた表情をしていた。女の子みたいな顔。僕はそれが誰か分かった。
「ルーシー」
 彼がこっちを見た。
 頬の上をカタツムリが這っている。
 ぬめぬめとした粘液が顔の上を走っていた。
「よく分かったね」陰鬱な声でルーシーが言った。
「なんとなく、雰囲気で。ミチコは君を女だと思ってるぞ」
「別にいいけど」ルーシーが半開きだった目を開けた。ミチコと同じ黒く濁った目だ。「ギターの性別なんてどうでもいいとは思わない?」
 思わない。
 それは、とても重要なことなんだ。
 僕がそう主張しても、ルーシーは分かってくれなかったみたいだ。所詮ギターは楽器だと彼は言うのだった。
「まあ……意見は食い違ったみたいだけど」とルーシー。「あんたの彼女は女で間違いないと思うよ……仲良くするといい。俺とミチコみたいに。」
 カタツムリが彼の耳に達した。
 そのまま中へ入っていってしまうのかと僕は心配になった。
「言われなくても……」そのとき僕は自分の耳にも何かがへばり付いてるのに気づいて、手で探りながら言う。「……そうしてるつもりさ、十二分に」
 それには殻がなかった。

 ナメクジだ。
3

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