毎週、腫れぼったい目を擦りながら、阪急のホームで列車がやってくるのを待ち構え、
ふらっと気が滅入って気付いたら回りの人達は乗り込んでいた、なんて
毎日を続けながら、相変わらず僕の生活は貧窮していた。
毎日鉄骨運びで休みの日は布団に篭りっきりだったので、休みの日に出席することもできず、
大学はほぼ休学状態であった。学友から「どうしたい？」という電話を頂くが、
流石に女にハメられたなんて言い訳もできるわけなく、学校なんてくだらねぇよ、なんて、
意地を張って、裏でヘドを吐いていた次第。
まあ大学も元々気に入っていたわけでも、なかったのであり。
ドストエフスキイはいいよ、人間の真理を突いてるよ、ツルゲーネフは深遠だよ、
なんてしたり顔でぬかす輩が多いもので、辟易としていたのも事実であったのであり。
カルシウムが足りないのか、段々イライラが募っていった。
そうしてイライラの勢いに任せ、ちくしょう、などと
呟きながら、近くの文房具店に足を運び、原稿用紙ひと束と、万年筆を購入した。
そうして鬱憤を晴らすように書き綴っていったのだが、「乳房偏執狂博士の異常な愛情」
という、キューブリックを馬鹿にしたような、ユーモアがあるようでない、
山羊の餌にもならないような、どうでもいい寓話ができあがった。
僕は内心満足し、これを投稿してやろう、そして、芥川賞をとって「１９歳の衝撃」「瑞々しい才能」
という仰々しい煽り文句のもと、５０万部強の本を売り上げるのだ。
５０万部っていうと、一冊５％として、えーっと・・・と、近々預金通帳に振り込まれるであろう、
狸の金を計算しながら、また泥のように、床についたのであった。
もう時間軸さえ前後している。
真里は、大学で他の男とよろしくやってるらしい。
僕のほうといえば、忙しすぎて、怒る余裕さえない。もう僕の頭の中には、真里という単語さえ、
消えかかっていた。
日雇いのバイトといえば、正直なところ、楽しくなってきた。
人間、慣れてしまえば本当に慣れてしまうもので、新入りの後輩達に、
きみきみ、こうすればいいんだよ、あっ、それは、こっちに運ぶものじゃないんだよなどと、
小口を叩くまで、成長した。
そんな中で、僕を慕う山下という後輩が出てきて、
彼は三年生だそうで、眼鏡をかけた堅い顔通り、実直で品行方正、辛い仕事を任されても
愚痴を言わない、年上の僕から見ても実にまじめな男だった。
彼は検察官を目指しているということで、六法全書入門編、ってような薄い本を、
いつも抱えていた。んで、文学部に入っているから何でも知っていると思ったのか、
山下は目を輝かせて色々な本について聞いてきた。マキャヴァリの君主論だとか、
確か倫理で習ったなぁ、というような、とかく彼は真面目の前に更に真の付くような、
んまじめと呼ぶが如くの、ほんとうにほんとうに、真面目な男であった。
そんで今日は週末だし飲みに行くか、ってんで格好つけて、僕は酒も飲めないのに、
大人の楽しみを知らないなけけけ、と先輩面し、彼を行きつけの居酒屋に連れて行った。
普段口ごもって注文もまともにできないというのに、今日は綽綽余裕という態度で
受け答えするので、よく注文を受ける釣り目の女は、必死で笑いを堪えていた。
彼はやっぱり酒が飲めなく、僕も飲めなかったので、
運ばれてきたピーチサワーを前に、ただ呆然とするしかなかった。
そして水割りというかもはや水と呼ぶしかないような、水９：ピーチ１の割合で
薄め、二人で慎ましく乾杯し、周りでどんちゃら騒ぎに明け暮れるボーイミーツガールを尻目に、
共産党批判というヤングに似つかわしくない話題で、やけに盛り上がっていた。
しかも彼は存外、超危険的思想の持ち主らしく、
日本の法律は腐っている、加害者は腹を切って死ぬべきだ、そうだ中国や韓国も同じだ、
奴らは鬼畜だ、法の下で裁くべきだ、と、正義感を募らせており、
僕は内心「もう付き合うのやめようかな」と考え始めていた。
帰りに店員がちらちら僕のほうを見るので、噂しているのか、娘ども。
と自意識過剰の感に打たれながら、また沈むように床に就いたのであった。
のらりくらり、彼女が欲しい。いやなんていうか、話し相手が欲しいな。
アパートに住み込んだら隣の人が美人さんで、「実は金平ごぼう作りすぎちゃったんですけど・・・
食べますか？」なんて言って、ありがたく食べさせていただきますって流れで懇意になり、
僕の部屋に度々あがりこむようになり、そして・・・という妄想を馳せていたものの、
右隣の２３１号室ははセンスゼロの哀愁ソングを歌う若者で、左隣は一応女だが、
毎日パーティーに明け暮れているらしく、うるさいことこのうえない。
これで家賃８万円だというのだから、笑わせる。迷惑料金というものも、明細に
書き記しておきたいものだ。
次の朝、また仕事場へ行くと、なんだか山下君が、親が危篤にでもなったかのような、
挙動不審な動きをしていたので、どうしたんだい、と聞いてみると、
えっ、なんですか、と、明らかに動揺した様子で、潤んだ瞳を覗かせてきた。
「山下君、朝からなんか変だよ。何かあったのかな、と思ってさ」
「やっぱりわかりますか、わかりますよね・・・」
軽く質問したつもりだったのに、山下君は急に閉口し押し黙ってしまった。
ぞわぞわと興味の虫が湧いてくるのを感じたが、なるべく感じ取られないよう平静を装って聞いてみた。
「その顔はさては、女か！やるね、君も」
「そうなんです。さすが先輩ですね。もうお気づきになられたとは・・・」
唖然とした。女。女だと。僕が煮え湯を飲まされてきた、女。
その女に、霊長類ヒト科オスのヤマシタが、惚れているのだ。
彼は滔滔と語り始めた。彼は同い年の女の子で、背がちっこくておかっぱで、とても可愛らしいんです、
この前勢いにまかせて告白して、友達からなら、と一応は付き合うことを了承されたものの、
小生一度も男女の契りを交わしたことなく、どうやってこの関係を円滑に進めていけばいいのかわからないので
僕に聞いた、というわけであった。
僕に聞くなど、うちの猫が治らない、と外科の先生に聞くようなものであり、
一体僕のどこを見て男女経験豊富だと感じたのか、さっぱり理解できなかった。
彼がズレていると思われる所以であろう。
僕は、まあ女っていうのはさ、大半があほだからさ、スッゲー、マジ？そうそう、うんうんなんて
相槌入れとけば、どんどん喋繰り回るものなんだよ、と、石田純一を受け売りした女論を語り、
そんな何の根拠も無い論に山下君はほうほう、と熱心にメモを取り、
わかりました、明日試してみます、と、勇ましく工場をあとにしたのであった。
帰ってそうか、山下に女かぁ、あんな男にでも女ができるのか、ほうほう、
本来男と女は半々の確率で産まれてくるのに、なぜ需要と供給が成り立たないのだろう、と
この世の不条理を嘆きながら、僕はまた早めの床についたのであった。
カレンダーも、最初のほうは過ぎ去る日の対角線を引いてバッテンしてたものだが、
半分を過ぎたところでやる気が無くなり、もう今日が何日なのかもいまいちわからない。
いずれにしろ、土日がきたところで仕事だし、もはや曜日感覚というものが体から抜けきっていて、
ただだらだらと日々を過ごすのみだった。
今日もバイトだ、鉄骨だよ、もう最初のような不安感は無くなったものの、
まるで刺激がなく、惰性と化した職場へ、また足を運んだ。
ベルトコンベアーがぐるぐる回り、なんか精密機械を運んでいる。
あのプレス機に誰かを入れたら、完全犯罪成立ではないか。
なんか映画であったな。悪役が、機械に押し潰されるとかいう、そういうシチュエーション、よく、あるよな。
もう上役に小言を叩かれないのをいいことに、仕事の動きも段々精を欠いてきた。
ふいにジーンズのポケットに入れた携帯電話がういんういん唸りだしたので、
なんだまた外国からのスパムか、と開いてみると、
「彼女と遊園地にきています。でも、これからどうすればいいのかわかりません。
不遜な願いとは存じますが、今からここにきて僕を助けてくれませんか？」
とのメールだったので、上役にすいません、今日あがっていいですか？と聞くと、
うんいいよ、と人のよさそうな返答が帰ってきたので安心し、何駅かを越し、
港町の寂れたテーマパークに、わざわざ足を運んだのであった。
入るのに入場料とフリーパスで馬鹿高い金を請求さししめられたが、
もうこうなったら、徹底的に楽しんでやる、と開き直り、ファンシーな正門を開けると、
すぐさま山下の不安そうな顔が晴れ、こちらにすたたと走ってきた。
「本当に来てくれるとは！僕、先輩信じていました！」
「いや僕はいいけど、僕の方を見てすぐすたこらさっさなんてやっちゃってたら、自分のことは
どうでもいいのかしら？なんて、彼女が思っちゃわない？」
彼はあ、そうだ！すいませんでしたと謝ったが、多分こういうことは後々も続くだろう。
僕は内心、もうツッこまないぞと、自分を戒めた。
おかっぱの女の子といえば、こちらを凝視していた。
「あ、えーっと・・・こちらが、先輩の方。工場で一緒に働いてるっていう。前確か言ったよね？」
彼女は訝しげな目でこちらをじっと見つめてきた。多分この調子だと、彼から僕のことは
告げられていないのだろう。
「どうも、今日は僕も遊園地を楽しもうと思ってやってきたんだ。君、なんて名前？よろしくね。」
彼女は崎山です、とぼそりと呟いてからというもの、こっちをじーっと凝視していた。
確かに可愛い女の子だった。呟いた声も可愛いが、身に纏ったオーラが可愛い感じを醸し出していた。
身に着けた服も、可愛いが控えめで、それが彼女の知性と上品さをあらわしていた。
まずはジェットコースターに乗ろうと考え、「あれ乗ろうぜ！」と平静では考えられないような
ハイテンションさで僕は呼びかけ、落ちモノはまるで駄目なのに、吊り橋効果を狙って、
彼らと一緒に乗り込んだ。さびれたしょぼいコースターだというのに、そのキシキシ軋む
木材の音で、僕は絶望的な恐怖を感じていた。後ろの二人は、せっかく若いのにキャーとかグワーとか
言えばいいのに、まったくの無言であった。
そうして満身創痍、様々な恐怖系アトラクションに挑戦するものの、
二人のテンションはさっぱり上がらず、ただ女の方は僕を凝視するのみだった。
そうして日も暮れ、山下には悪いことしたな、と内心落ち込んでいたら、女の子がぼそり
「今日は楽しかったです・・・」と呟いたので、僕はその一言に救われ、帰って熟睡することができた。
次の日、山下は嬉しかったろうな、あんなこと言われて、
なんて喜々としながら工場へ行くと、彼は親の死に目にでも遭ったような、
虚ろな目で、ペンチで針金を切っていた。その尋常ざらなる様子に、話しあぐねていたところ、
突如彼が語り始めた。
「先輩、あいつ、好きな人ができたっていうんです・・・だからあなたは、友達までだって・・・
どうすればいいんすかねぇ、せんぱぁい」
後半になるにつれ、彼の語気は弱味を帯びていった。
しかし、好きな人ができたというのは嘘かもしれない。多分空気の読めない山下君に見切りをつけ、
好きな人ができたなどという妄言を吐き、山下君の元を去っていった・・・
ということも考えられるが、そんなこと言えるわけない。
「多分それは、一時的なものだとおもうよ。もしかしたら君の想いを、試しているのかもしれないし。
まあ今のところは簡単に諦めず、暖かく見守ってあげたら？」
僕の若干、もう駄目かもしれないよ的なフォローにも、そうですよね、
簡単に諦めちゃいけませんよね・・・と、鸚鵡返ししてきたので、
簡単に宗教にはまってしまうんではないかと危惧しつつ、なんだか気まずい
一日の仕事を終えたのであった。
今日は真里がまた来る。
今日こそは、何か言おうか。いや、もう怒るとかしなくていい。
お金払うんでいいから、何か真里と話したい。政治学について、語り合おうじゃないか。
畳に倒れふし、僕はもう人に飢えっきりであった。
すると携帯が震えたので、山下か、と思って通話ボタンを押した。
「山下か？」
「・・・・・・・」
「？」
「・・・・・・」
「オーイ、山下、ヨーイ、ヨーイ」
「・・・私は山下君じゃないです・・・」
「誰？って・・・あ！」
ディスプレイを見ると、なるほど知らない電話番号である。
だが、この声には妙に聴き覚えがある。
「私です・・・崎山です・・・」
「あ！」
思い出した。そうだ彼女は、山下の彼女、崎山なる女の子であった。
僕はどうしたの、と聞いてみたが、しばらく反応がなかったので、
もしもーし、と聞いてみた。すると、切れてしまった。
変な女の子だなぁ、と思って受話器から耳を離すと、
すぐさままた彼女からコールがかかってきた。
「・・・・崎山です・・・」
それは知ってるっちゅうの。
「どうしたの？山下君のことで、何か相談でも？」
それ以前に何故僕の電話番号を知っているのか聞きたくなったが、
ここはぐっと我慢して、彼女の返答を待った。
長い長い、沈黙、ディスプレイに表示された通話時間が、一秒一秒増えてゆく。
「あの・・・実は・・・・」
「はい？」
「あたし、あなたのことが、好きなんです・・・・」
僕は間抜けにも、誰のこと？と聞き返してしまった。
彼女はしばし黙った。僕もしばらく黙ってしまったのだ。