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最終話『君の手は叶わない未来』

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「俺、幸と結婚しようと思ってる」
 シャワーを浴びて、朝食の用意をし、テーブルについた後。静かに投げかけられた第一声を、譲はどこか納得したような、諦めきったような面持ちで聞いていた。
「もちろん大学を出て就職した後の話だけど、もう向こうのご両親とも顔合わせはしててさ、そういう雰囲気は察してもらってるかなって感じなんだ」
 今までの流れを全部無かったことにして、そのセリフだけを抜き取って見れば、ノロケとしか思えないような幸せそうな発言だ。だが、健の顔にはくすりとも笑みは浮かばず、空気は午前の陽気とは裏腹にどんよりと重苦しい。
 春の初めの涼しい風が窓から入り込み、トーストの香ばしい匂いは確かに鼻腔へと届いているのに、まるでここだけ昨夜の雨が降り続いているかのようだ。
「……へえ」
 譲は何を言おうかと、ずっと考えていた。前もって健に話があると言われてから、シャワーを浴びている間も朝食の準備を待っている間も、何を言われても対応できるように覚悟をしていたつもりだった。
 だが、真剣な表情で淡々と事実のみを語る健を前にして、譲は嘆くことも怒ることも、光一にしたように暴れることや取り乱すことさえできなかった。
「なんで、それを今俺に言うんだ?」
 それは憤りからの問いではなく、純粋に疑問に思ったことだ。
 譲だって、これから先に健と恋仲になれるだなどと甘い考えは持っていない。幸のことだって分かっていながら、この家の敷居を跨いだのだ。ただ一晩だけ、幸せな夢を見せてくれればよかった。傷つきすぎた心を、その場限りだけでも癒して欲しかったのだ。
 どうせ、春休みが終われば譲は大学のある地方へと戻らなくてはならない。そうなれば東京で健が結婚しようが何をしようが、譲には気付くことさえできない。それならば――
「今、何も言わないで帰してくれれば良かったのに……」
 堪えかねたように、手で顔を覆うようにして譲は顔を俯ける。
「謝って、許してもらいたいんだ」
 耳に届いた健の声は、意外なほど弱々しかった。
「何を?」
 何を謝るというのか。そして、何を許せと言うのか。
 光一と関係を持ったこと、幸との結婚のこと、昨夜のこと。それとも、はるか前の図書室でのことか。
 どれをとってもいまさらで、どれも手遅れで、どれも許せるとは思えない。
「俺が、『普通に』幸せになってしまうこと」
 『普通に』――つまり、男女で、ということ。それこそ普通ならば、そんなものに許可など必要ない。勝手になればいいし、勝手になってしまうものだ。
 しかし、そうはいかないのだ。吉川譲を『普通』ではない道へ引きずり込んだ、村上健としては。
「三年前の図書室のこと、覚えてるか?」
 譲の肩が、びくりと震えた。
「ああ……忘れるわけない。忘れられるわけないだろ」
「そうだよな……。あの時のことは、特にすまないと思ってる。勝手に自分の気持ちを押し付けて、『嫌だって言ったら止める』って言ったのに自分を止められなかった」
 本当に悔やんでいるように、健の声のトーンが低くなる。
「嘘をついて、お前を汚した」
「……」
 顔を覆っていた手をどけると、健の真剣な顔が変わらずそこにあった。あの日から意識してしまうようになった、後から特別であったことに気付いた、自分が一番好きな人間の顔。
 あの時を後悔しているのは自分もだ、とは今の譲には言えなかった。
 あの時、確かに健のことが怖かった。無理やり犯された箇所は、今思い出しても鳥肌が立つほど痛かった。だが、今みたいな気持ちになるのが分かっていたのなら、拒むことなどなかったのにと何度も悔いたのも確かだ。
「自分の気持ち……って、言ったか?」
「ん。あ、ああ」
「なら、どうしてあの後俺を避けたりしたんだ? 卒業までの間、何も言ってこなかったのはどうしてなんだ?」
 それを聞かなければ、『健の気持ち』なんてものを信じられるわけがない。
 卒業すれば別々の進路に行ってしまう体のいい相手を、面白半分に犯してみただけかもしれないのだ。
 しかし、健はそんな疑問が出たことが信じられないと言う様子で、前につんのめるようにして早口で即答する。
「そんなの、拒絶されたからに決まってるだろ!」
 テーブルを叩かんばかりの勢いで、健は訴えかけるように言葉を続ける。
「本当に悪いことをしたと思ったし、凄く後悔したよ。当たり前のことだ。男同士で……なんて、受け入れてもらえるはずがない。あの後譲は誰にも言わなかったけど、俺はいつ自分が周囲からつまはじかれるかとビクビクしながら暮らしてたんだ。譲のことを疑ってたんじゃない、それくらい異常なことを自分がしたんだっていう、自覚はあったんだって話だ」
 拒絶されたのならなおさら、と健は続けた。だから、話しかけることなどできるはずがなかったと。一回限りだから見逃してくれているのであって、もう一度話しかけたりしたら今度こそ周りに言い触らされるかもしれない。そう自分に言い聞かせて自重していた。
「それに、話しかけて怯えられたらと思うと、怖くてできなかったよ」
「そんなのはっ……!」
 お前だけの都合だ。と、譲は否定の言葉を口にすることができなかった。健の話には筋が通っていたし、健の立場ならそうするしかなかったのだろう。
 ただ、後のことを気にして自重をするのなら、最初に譲が行為を拒否したときではなかったのかと思う。そうしていれば、何も始まらなかったし、何も壊れることはなかった。
(そうだ、やっぱりあの時の拒絶は間違ってなんかいなかった)
 譲とは違う形で、健もまたあの時のことについて思い悩んでいたのだ。だが彼の場合、それは自分が譲に嘘を吐いた罪を、どう償うのかということ。後々の結果から過程を悔やんだだけの譲とは、前提が全く違う。
 思索のための沈黙の後、それを破って言葉を発したのは健の方だった。
「だから、光一とのことは驚いたよ」
「え……?」
 再び、譲の肩が震えた。それは光一の話題に対する拒絶反応などではない。むしろそれは、健から言い出さなければ自分が振ろうと思っていたほどに、避けては通れないな話題だと思っていた。
 昨日今日と合わせて、健の口から光一の名前が出たのはこれが初めてのこと。
 それだけ。健の口から光一の名前が出たという、ただそれだけで、様々な感情が譲の中で渦巻いた。その感情に押し潰されそうで、譲の肩は震えたのだ。
 つい昨日のことだ。光一を問い詰め、彼の顔を殴り、逃げるように飛び出した。それからまだ、24時間も経っていない。
「覚えてるか? 一ヶ月ちょっと前の同窓会のこと。お前は離れて見てるだけだったけど、俺と光一はそれなりに話してた。そこで言われたんだよ、光一に。お前を指差して、『あそこにいる奴と付き合ってる』んだってな」
 覚えていた。確かに、光一と健が話しているのを見た。その途中で、健がこちらを向き目が合ったことも……。
「なんでアイツ、そんなことを……」
 そう言いかけて、譲ははっとした。昨日の口論の最中、光一は確かに言っていた。光一は健と譲の間に何かあったことを、誰から何も聞かなくても、雰囲気で察していたらしいということを。そして、それをずっと気にしていたようなことも。
「後で話を聞いたら、光一との関係は譲の方からだって言うじゃないか。そりゃあ驚くさ。俺のことを拒絶したはずのお前が、いつのまにか別の男と『そういう』関係になってたんだからな」
 健の言葉には、自嘲するような響きがあった。
 つまり光一は、譲と健との間に『そういう』いざこざがあったのを察していたということになる。でなければ、自分からそんなことを健にバラすはずがない。そして、昨日の話と照らし合わせると、譲が同窓会の後に健を気にしていたことも見破られていたのではないか。譲の度重なる呼び出しと、心のもやをを吐き出すような行為に付き合ってくれたのも、それを察していたというなら全然意味合いが変わってくる。
 さっと血の気が引くのを、譲は感じた。昨日考えていたこと、裏切られた、騙されていた、自分は被害者だと思い込んでいたことが、丸ごと根本からひっくり返されたような気分だった。
「だから、ムキになった。それは光一も同じだったろう。自分が今付き合ってる相手が、昔自分の意にそぐわない形で犯されたって言うんだから」
 その言葉に、譲ははっとなる。今の話は、光一が勘付いていたという話とは違う。それは、察したとかいうレベルを超えている。
「そんなこと、アイツに話したのか!?」
 そうとしか考えられない。しかし、当の本人である健はしれっと言い放った。
「ああ、話したよ。あのときのこと全部。二次的な被害者であるアイツは、知っておくべきことだと思った」
 被害者。健の口から出た言葉は、譲の中に深く響いた。
 この一連の出来事の中で、誰が一番被害者だったのか。それは自分だと譲は考えていた。でもそれは違っていたのだ。
 譲が被害者だったのは、三年前までで終わっていた。それが原因だったとはいえ、光一を押し倒して『こちら側』に引き込んだこと、健を諦めることへの苛立ちを光一にぶつけたこと、そして光一との仲違いを言い訳に、念願であったはずの健に抱かれたこと。冷静になって考えてみれば、譲はむしろ加害者の側に近い。
 最も被害者と呼ぶのに相応しかったのは、昨日譲が散々非難した光一の方だったのに。
「それに、ムキになったのも仕方ないことだと思わないか? 自分が無理やり犯して、罪悪感からなんとか『普通』になろうとして。三年ぶりに会ってみれば、お前は『そっち』の道にどっぷり漬かってるんだからさ!」
 憤るように、鬱憤を吐き出すように、健は吼えた。
 健は、自分を拒絶したくせに、光一を求めていた譲が許せなくて。
 光一は、健と譲の昔のことを知り、ただの捌け口だった自分に我慢できなくて。
 そうして二人はおそらくここで、ぶつかるように汚し合ったのだ。
 今まで全く考えていることが分からなかった健という人間が、少しずつ見えてきたような気がした。しかし――
「だから……。俺も加害者だったから、光一とのことについては俺の方にも理由があったから。だから全部まとめてそれを許せって? 一人だけ楽な方法で、幸せになるのを許して欲しいって?」
「……ああ。そういうことだ」
 熱くなっていた自分を落ち着かせるように一息吐いて、健は言った。
「俺には幸がいる。だから、お前と一緒にいることはできない。光一とのことは……こういう言い方は卑怯かもしれないけど、昨夜の俺たちと同じだよ。お互いに必要だったんだ。俺と光一がどうこうとか、そんなのはないから」
「……から、なんだよ」
「みんなもとの鞘に納まる。一ヶ月前の、あの同窓会の前に戻ろう。そうすれば、きっと全部うまくいく」
 健の顔は、変わらず真剣だ。その場限りの言い逃れではない、自分が許されたいためだけの言い訳ではない。本当にそうした方がいいと思っての発言だろう。
 しかし、譲は首を横に振った。
「ダメだ。俺は、光一とまたやり直すなんてできない」
「……黙ってろって言われたけどな、昨日譲のいる場所を教えてくれて、迎えに来るように言ったのは光一なんだ」
「そうだろうな」
 少し考えれば分かることだ。いや、何も考えなくてもそれしか方法はなかったはずなのだ。本当に天文学的確率の偶然などではない限り、それ以外に健が譲のことを知る由などなかったのだから。
「アイツはまだ、お前のことが好きなんだよ。ダメだなんて一人で結論付けないで、もう一度話をするとかさ――」
「違うよ。そういうんじゃない。本当に、ダメなんだ」
 さらに食い下がろうとする健の言葉を、譲は強引にせき止めた。
「健、お前は一つ、どうしようもない見逃しをしてる」
「見逃し? なんだよそ――」
 譲は健の胸倉を一気に引き寄せて、強引に唇を奪った。言葉を聞き終えるより先に、体は動いていた。この意図して鈍感でいるような男に、昨夜のように剥き出しの心をぶつけた。
 深く、深く吸い込んだ後に、引き離して言う。絶望を湛えた視線を向ける健を、達観したように見返して。
「俺は、お前が好きなんだ。だから、光一に逃げ出すことは、もうできない」
 健という人間を知ったところで、それぞれの事情を知ったところで、その気持ちだけは何も変わらなかった。
「だから健、俺はお前を絶対に許さない。何があっても、一生、お前のことを赦すことはない」
 全てがいまさら。全てが手遅れで、誰も赦されるはずがない。
 譲は拒絶し、突き放した。好意を持ってくれた健も、親身に尽くしてくれた光一も。その関係は、二度と在りし日のようには戻らないだろう。しかしそれは、自分が原因の一端となっているものの結果として、受け止めるしかないのだ。
 健が結婚するのもそうだ。『普通』になりたければなればいいし、幸せになれるものならなればいい。それは個人の自由で、勝手で、譲が強制して止められるものでは決してない。
 ただ、赦さない。
 吉川譲は、村上健の罪を赦すことは決してないという、ただそれだけのことだ。
「なんでだよ……。なんで今、そうなんだよ……」
 呆然と譲の顔を見返していた健が、搾り出したように零す。
 健はおそらく、譲のことを説得できると確信していたのだろう。譲はここ数日の間で、数々の衝撃を心に受けた。幸と出会って健と光一のことを知り、光一を傷付け、健に甘え、全ての訳を聞いて自分の罪に気が付いた。それならば、光一への罪悪感や自分がしたことへの嫌悪感から、全てをなかったことにしたいと――起こる前に戻してしまいたいと願うことだろうと想定していたのだろう。
 譲は誤解の解けた光一のものへ戻り、健はこの春休みに何もなかったことにして、あの芝村幸と仲直りをする。
 それが、譲にも……そして誰より健にとって、都合のいい幕引きだったのだ。
「狡いな、健」
 もちろん、全てを計算づくでやったというわけではないだろう。昨日駅前まで来てくれたこと、抱いてくれたこと、優しくしてくれたこと、その全てが演技だとは思えない。気持ちが入っていなかったなどとは、思いたくもない。
 だが、それが彼に都合のいい結末への布石として機能していたことも、また確かなのだ。
 譲は立ち上がると、部屋干ししてあった自分の服を手に取り、それに着替え始めた。まだ生乾きだったが、そんなことは気にしていられない。
「な、おい! 話はまだ途中だろ!?」
 慌てて詰め寄る健に、譲は静かに言った。
「もう、ここには来ない。いや……もう、健とは会わない」
「なっ!? なんで急にそんな……」
「急にじゃないんだ。本当は、この間来たときもそう思ってた。でも、俺が弱かったからこうして来てしまった」
 服に袖を通し終えた譲は、淀みない足取りで玄関へ向かう。靴を履いて、鍵を開け、ゆっくりと振り返った。
「それじゃ……」
「待てよ、待ってくれ。俺は……俺は本当は、お前が!」
 健の口から続きが吐き出される前に、譲は扉を完全に閉めた。耐えられなかったのだ。そんな、今を取り繕うための言葉で、『好きだ』などと言われるのは。
「さようなら」
 改めて口にした言葉を噛み締める。気分は、悪くはなかった。
(さて……と。これからどうしようか)
 そう思うと同時に腹が鳴る。そういえば、朝食は一口も口にできなかった。服は湿っていて気持ち悪いしし、幸への言い訳を考えるのも気が重い。満身創痍もいいところだ。
 ただ、頭上に広がる雨上がりの青い空だけは、透き通ったように綺麗だった。


                     君の手は僕に触れない 完
12

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