二年前。健は図書館の一件の後で譲に言い寄ることも、何をすることもなく、そのまま卒業まで友達という関係を全く崩さずに過ごした。
結果的に、譲は彼を受け入れてしまったわけで。それならば、そこに付け込んで関係を続けることだってできたのかもしれない。
その時には気付く由も無かったとは言え、譲の後々のことを考えればその関係の行方は決して悲観的なものでは無かっただろう。
しかし、結局それを彼がすることは無かった。
卒業して、みんなが解散する最後の時でさえ、健はその一件などなかったかのように一点の曇りもない笑みを交わして譲と別れたのだ。
その態度は、一件の当事者からしてみれば不可解としか言いようがない。
しかし今になってやっと、譲はなんとなく健の当時の態度の理由に気付いていた。
『……嫌だったら、嫌だって言えよ』
そう言われた譲は、最後まで健を拒否した。結果的な行為ではなく、言葉の上だけでは。それは、譲の最後の意地のようなものだった。
異常者であることを、一線を越えてしまうまで認めたくないと考えるのは当然のことだろう。
だが、それはつまり健が譲の気持ちを裏切り、自分の言葉を捻じ曲げてでも自分の欲を押し付けたことに他ならない。その、きっかけを作ってしまったことに他ならないのだ。
健は、譲の言葉を遮って身体を奪ったのだから。
譲は今でも時たま考える。
あの時、肯定していたならば。いや、それ以前に彼の告白をもっと真面目に捉えていれば、今の自分はどうなっていただろうと。
「……はぁ…は……うぁ……あっ……」
あの日、譲は寝惚け眼の健と状況をよく呑み込めていない彼の彼女に適当な言い訳をまくしたて、逃げるように立ち去った。いや、実際に逃げ出したのだ。
「はっ……はっ……もうちょっと腰、こっちに…そう……」
それからすぐ、譲は光一に電話をかけた。光一の前からも逃げ出して東京へ来たというのに、口はずうずうしいほど流暢に取り繕いの言葉を紡ぐ。
あの時は悪かった、色々と疲れていたせいで気が立っていた、黙って東京へ来てしまったことも謝る、許して欲しい。
『だから……会いたい』
光一は元々譲と同じように春休みの間は実家に戻るつもりだったらしく、その日のうちに新幹線で東京へと戻ってきた。東京駅で手荷物だけをかかえて目の前に現れた彼は、普段は見せないような優しい笑みを譲に向けた。
それは、間に合わせにしかならない救いだった。
「だから腰……下げんなって。もう……少しだから……さっ!」
光一は譲の腰を下から掴んで持ち上げると、腰の骨が砕けてしまうのではないかと思うほどの強さで譲に自分自身を突きこむ。
普段は身勝手だと不満に思うはずの彼の行為も、今の譲にはありがたかった。
光一は基本的に人の事情に深く突っ込もうとはしない。東京にいきなり呼んだことや、そもそもその前に様子がおかしかったことに関しても改めて聞くようなことはしなかった。
他人に無関心というわけではないのだが、人のことよりも自分のことが大切な人間なのだ。それは、彼のセックスにもよく表れている。
「っ! ……つー……はぁ……あー」
何よりも自分が気持ち良くなることが大事で、その後に申し訳程度に相手の処理だけを機械的に行う。処理――なんて言葉が本当に似合うほど酷い体験をしたことも、今までに一度や二度じゃ済まないほどあった。
「う……っと」
ずるりと自分の体から異物が排泄されるような感覚に、譲は光一から見えないように顔をしかめた。
乱暴にされようが自分勝手に攻められようが感じるような身体になってしまってはいたが、この感覚だけはいつになっても慣れない。
そのままうつ伏せに寝そべる譲の横に、どざっと光一が倒れる音が聞こえた。そちらへ顔を向けることも無い譲に、光一は今更な問いをどうでもいい風に投げかける。
「最近、どうしたんだよ」
「……何が?」
「ヤケになってんじゃねーの、ってこと」
「そんなんじゃ、ない」
そっぽを向いたままの譲を、光一は後ろから抱いた。汗でじっとりとした胸板が背中に押し付けられる。
「そんなんじゃないわけないだろ。バイトで疲れてるくせに、ここんとこ毎日じゃん。しかも、そっちから呼び出すくせにマグロだし」
(本題はそれか……)
最後に少しだけ見えた本音にため息を吐きつつも、彼のこういうところに救われているのだから文句は言えないと思い直す。
譲は健の家に行った日から、すでに二週間あまり。東京に帰って来た光一を呼び出しては、その日のバイト代の大半を使ってこうしてホテルへやってきていたのだ。
抱かれている間だけは、何もかも思い出さずに、考えずにいられるから。
健のこと、その彼女のこと、光一のこと。なにもかも問題を先送りにして、しかしその回答を求めているのは自分だけなことにも譲は気が付いていた。
気にしているのは自分だけ。問題は問題にすらなっていない。健に電話でもして、急に彼女が来て動転したことを謝り、『勝手に彼女とか呼んでんじゃねーよ』などと逆ギレでもしてみればいいのだ。
そして、自分は今横にいる光一とこれからも付き合っていく。振り向いてキスでもして、『なんでもない』と笑えば彼だってこれ以上気にすることはない。
それに納得すればいい。それで全部上手くいく。そのはずだ。
なのに、考えてしまう。頭に浮かぶのは、健の事ばかり。
あの寝顔に、チャイムなんか無視してキスでもしておけば良かった。あれが最後のチャンスだったのかもしれないのに。
枕に顔を埋めて、息を吐き出す。
(何のチャンスだよ、何の……)
横を向くと、光一はすでに穏やかな寝息を立てていた。ホテルは宿泊ではなく休憩だって言うのに、馬鹿面としか言いようがない寝顔を晒している。
「お前はいいねぇ。腰振って出してりゃ満足なんだから」
それをさせているのは自分だというのに、譲は光一の鼻の頭に指を置いて、何の気なしにぐるぐると回してみた。「う~」とぼやいて寝づらそうに顔の前で手をばたつかせるのを、さっと避ける。
「ははは。……ふー」
時計を見ると、出なければいけない時間まであと30分ほどしかない。とても満足なほど寝られるとは思わなかったが、譲は思い切って目を閉じてしまった。
少しだけ、ほんの少しだけ現実から逃げられる時間が欲しくて。
多分、一番安心できる人の隣で。