第十五話『死:佐藤啓太』
七月十九日、水曜日、天気は雨。蒸し暑く、湿度が高いということを肌を以って教えてくれている今朝。まだ居座っている梅雨を追い払うように気温だけが高くなったような、そんな感じがしなくもない。
傘を差して、なるべく水溜りを踏まないようにしながら、俺は学校へ向かっていた。今日はなんとなく一人で向かいたい気分だったので、気持ち早めに家を出た。朝特有の清々しい空気を吸いながら、気持ちよく登校しようと思った矢先にこの天気。とてもウェットな気分になってしまう。――なんてことを考えながら恨めしく空を見上げていた所為だろう、水飛沫を撒き散らしながら、俺はこれでもかと水溜りに足を突っ込んでしまった。アスファルトがちょうど窪んでいる所だったらしく、予想以上の水位が俺の靴を襲う。
思った。上を向いて歩こうだなんて言うが、それは大いに間違っていると思う。人生、上よりも下を見ていたほうが危険を回避しやすいと思うんだ。石ころが落ちているのも下、寝首をかくのも下の者、上限よりも下限、と。最後は無理やり感があるが、少なくとも下を見ることにネガティブな印象付けをされていること自体がおかしいと言える。別に下を見たっていいじゃない。そりゃあ、気分的な比喩表現だってのはわかるけど、だからって反対の下を貶めるのは酷いんじゃないのか。
ぐしょぐしょとした足の気持ち悪さから逃れるためにそんなことを考えていたら、いつの間にか学校に到着。心なしか視界の端に居座る影に笑われている気がして、俺は足早に下駄箱へと向かった。
『死:佐藤啓太』
天井からぶら下がった時計を見れば、七時十分。どうするか、予想以上に早く着きすぎてしまった。人っ子一人いないのは確かだが、これじゃあ暇が潰せない。内藤辺りが居たら、今日の弁当談義でも出来るのだが。……どうしよう。
いやね、佐藤や杉林さん、おまけで本堂の事を考えていれば、時間なんてあっという間に過ぎ去るんだけど、けど、けれども心の療養と言うのか、たまには面倒なことを考えずにだらだらと無駄な時間を過ごしたいと思うのはダメなことではないはずだ。……おかしいな、ちょっと前まではそんな時間は有り余っていたはずなのに。気付けば人のことばかり考えている。状況がそれを促したと言えばそこまでだが、妄想ばかりしていたころに比べて自分が進歩したと、俺は言いたい。そう考えると、幾分か気が楽になる。
しとしと。自分の足音だけが響く廊下でも、耳を澄ませば雨が降る音、職員室に居るのだろう教師たちの声、遠くからこだましてくる椅子を引きずる音などが耳に飛び込んでくる。正確に言えば、現代社会で一人になることは無理に等しい。現に学校という限定された場所でも、俺以外の人は確実にいる。いくら自分で一人だと思い込んでも、マクロな視点で見れば、確実に他人は傍に居るわけだ。……まあ気持ちの問題なんだろう、なんせここしばらくは騒がしかったものだから。……なんて、妙に現実味の無い場所――人が視界に入らない学校――にいると、若者にありがち、“宇宙とは何ぞや”的なことを考えてしまう。
自分の教室を覗くと、案の定誰も居なかった。時計を見れば七時二十分。そこで俺は自分の靴がいい具合に浸水していることを思い出す。慣れれば気にならないが、気にしてしまえばとことん気になってしまうので、何か方法を探す。冬場なら保健室に行けばストーブがあるからそこで乾かすことが出来るんだけど、今は夏。夏なら陽に晒しておけば乾くと思うが、外を見れば未だに雨が降っている。いつもの邪魔なくらいに日差しを落としている太陽は見る影も無い。仕方が無いので教室に入り、自分の席に座る。そのままおもむろに靴と靴下を脱ぎ捨てると、素足となった足を机の上にだらしなく乗せた。いや、行儀が悪いのはわかっているさ。ただ、今は誰も見ていない。あと二十分もすれば気の早いクラスメイトが来るだろうけど、まあ、その頃には“湿っている”程度には乾くだろう。そう願いたい。
はあ、と溜め息。今気付いたけど、最近になって溜め息をする回数が増えた気がする。理由は考えずともわかるのだが、ううむ。……溜め息をするごとに幸せが一つ逃げると言うが、それはどうなんだ。思うに、溜め息が頻繁に出る状況と言うのは、幸せが逃げる云々と言っていられるほどの余裕は無い。この言葉は、溜め息をしている本人が言うのではなく、それを見ている奴が言う言葉だと思う。つまりは、目の前で溜め息をされると気分がよろしくないがためにこんなことを言ったんだな、この言葉を考えた奴は。なんて素晴らしく捻くれた考えをするんだ俺は。……まあ、ネガティブになっている相手のことを思っていったことかもしれないわけだし、一概にこれと決め付けることはないよな。不毛な結論だ。
ガラッ、と。下らないことを考えていると、不意に教室の扉が開いたので、慌てて机の上に置いてあった足を下げて、靴下を履く。……いい具合に気持ち悪い履き心地だ。
と、入ってきた奴を見ようと視線を上げると、何やら変な目で俺を見つめる三島が立っていた。無言で見つめられると、相手が今考えていることを悪い方向で想像してしまうから止めてもらいたいものなのだが。
「おはよう」
一人になりたかったくせに、人が居るのに静かなのは耐えられない自分が可愛い。俺のぶっきらぼうな挨拶を聞いて、三島はふうと溜め息。何が気に入らないのかはわからないが、なんとなく馬鹿にされた気分になる。
「言いたいことがあるなら言えよ。溜め息は返事じゃないぞ」
「はいはいおはよう。……昨日あんなことがあったのに、やけに朝から楽しそうにしてたわね、と呆れただけ」
投げやりに挨拶を返した三島は、鞄を自分の机の横にかけて、そのまま席に着く。……なるほど、俺が裸足を机にほっぽり出していたことを言いたいわけか。別に楽しかったわけじゃないのだが、何も言い返せないので黙る。
「何か隠してるとは思ってたけど、まさかこんなことだったなんてね。急に現実味が無くなったわよ」
「まあ、黙ってたことは謝るが、わかると思うけど口止めされてたんだよ。おいそれと言えることじゃないわけだし、そこら辺はわかってくれ」
「そうねー、武田クンのことは責められないわ。誰が悪いわけでもなし。ただ、それが厄介なんだけどね」
傍から聞いていれば突拍子もない話の切り出し方だが、昨日は納得がいかない内に解散になったんだ、まあ当然だろう。片肘をつき、遠くを見るような目つきでそんなことを言う三島に、俺は相槌を打つ。三島の言うとおり、誰かを責めることが出来れば一時的でも気が楽になる。責任を押し付けることで安堵するのは、別におかしいことじゃないさ。ただ、佐藤に関しては誰かを責めようがない。悶々とした事実を抱えたまま、延々と自分で考えるしかないというのはつらいもんだ。
「俺たちに出来ることと言えば、いつも通りに過ごすことぐらいだろう。何よりアイツがそれを望んでるんだからな」
「そう、だよね。……でも、やっぱり今までと同じように話すのは難しいなあ。今でもわたし、自分でも混乱してるのがわかるし」
「普通はそうなるわな。俺だって普通に接していけているのかはわからない。でもまあ、アイツに何かしてやりたいのなら、これしかないから。俺はこれからも出来る限り普通にしてるさ」
「武田クンったら、さりげなく凄いよね……」
そう言うと、三島はいつかの屋上を思わせるような目で俺を見つめてきた。俺は急に小っ恥ずかしくなり、顔を背ける。……いかん、そういえば俺ったら何が狂ったのか、三島に告白されたことがあったんだった。やだなあ、思い出したら妙にこびり付いて離れないぞ。俺が三島に対して何とも思ってなかったのは事実だし、今もそれは変わらないはずなのに。それでも気になって、そっと三島を盗み見ると、既に視線は正面の黒板へ移っていた。……馬鹿みたいだ。
凄いと言われても、多分三島に俺の心の内を全て見せてしまえばその言葉も取り消されるだろう。平気な風を装って、内心凄く悩んでいるのだから。俺から言わしてみれば、三島みたいに悩みを簡単に口に出せる方が凄いと思える。元来自分は溜め込む性質だからだろう、それこそ佐藤のように人の前で“自分は死ぬ”だなんて言えるわけがない。――こんな風に考えて、完結させる。この事を三島に言うことも出来るが、やはり内面を他人に晒すのは気が引けてしまう。
それとなく、お互いが沈黙する。特に話すことがあったわけじゃないし、当然の流れだ。沈黙を持て余して靴を触るも、まだ湿っている。……こりゃあ乾かないな。
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午前の授業が終わり、それを告げるチャイムが校舎に鳴り響く。人生でこれから何度、この音を聞くのかと考えるだけで気が遠くなる。いや、単純に計算すればいいだけの話なんだけど、まあ、勉強に価値を見出せないありがちな学生の気分というわけだ。
各々が昼食を取るのだろう、席を立つ者が居れば座ったまま弁当の包みを広げる者もいる。……さて、もう既に恒例となっているが、“奴”は今日も来るのだろうか。
「おっおっ、武田君は今日もお弁当じゃないのかお? 早く武田君の作ったお弁当を見てみたいお」
と、案の定、内藤がいつも通りの嬉しそうな表情を浮かべながらこちらにかけよってきた。手に持っているのは、いつもの弁当包み。あの野郎、今日はどんな美味そうな弁当を作ってきたのやら。
机の上に広げていた勉強道具を鞄にしまい、少しわくわくしながら内藤を待つ。
「今日は趣向を変えてパンなんだお」
「パン……だと……? もしや、それはサンドウィッチ伯ジョン・モンタギューがトランプ遊びをする際に編み出したという伝説のサンドウィッチか」
「僕は砂と魔女以外は何でも挟めるからサンドウィッチ、の説を支持するお」
むう、スライダーを投げたら高速スライダーで返された気分だ。内藤の奴、意外と博識でいらっしゃる。ちょっと感心してしまった俺を他所に、内藤はいそいそと弁当の包みを広げる。見ると、いつものプラスチック製の弁当箱ではなく、ピクニックバスケットを小さくしたような入れ物が姿を現した。
「へえ、なんか知らんが凝ってるな。外がこんな天気じゃなかったら、気持ちよく食べれたものを」
「そうなんだお。昨日の天気予報じゃ晴れだって言ってたのに、とんだ詐欺だお」
内藤はぷんすか怒りながら――それでも笑顔を崩さないのは賞賛に値する――、ふたを開けて中身を俺に見せてくる。……ふむふむ、トマトとレタスを挟んでマヨネーズを加えた物に、ハムとキュウリを挟んだ物、こっちはたまごだな。それにツナマヨネーズと、これは中々、メジャーどころは抑えてある。俺も一人暮らしを始めてからそれなりに経つが、一日ぽっきりの昼飯如きにここまでの量を用意するのは骨が折れる。さすがの一言だな。
「どうだお? 今日は早起きして頑張ったんだお!」
「さすがだな。俺の家に来て炊事を任せたいくらいだよ」
「……そ、それは褒めすぎだお。僕はただ料理が好きなだけなんだお」
そう言うと内藤は赤面しているのを誤魔化すように、この場でバクバクとサンドウィッチを食べ始めてしまった。頑張ったのなら、もっと味わって食えばいいものを、可愛らしい奴め。
俺はそんな内藤を眺めなら、ふと思う。そう、前々から考えないようにしながらもちょっと考えちゃって思考の迷宮に何度か陥ったことがある事だ。それと言うのも、あれだよ、あれ、内藤の顔ってどうなっているんだ。なんて言えばいいのか、まるで内藤という存在自体がゲシュタルト崩壊を起こしているような錯覚に陥ってしまう。常識的に考えてこんな顔が出来る人間はいない。だというのに、俺はもちろん他の奴もそこまで疑問には思っていない。何かメタな存在に無理やり誤魔化されているようで、癪に感じてしまうのだ。加えてゲシュタルト崩壊という例えを出したが、正直言うと、俺は内藤の全容を把握しきれていない。以前も思ったことだが、たまーに俺はコイツを男か女か考え込んでしまう時がある。今もそれはあって、いくら凝視しようとも学ランなのかセーラーなのか見分けがつかない。どうにも腑に落ちないとかそんなレベルの話ではないぞ。
「ん? どうしたんだお?」
俺がこの世の根底に辿り着きそうな勢いで考え込んでいると、内藤は口の端にパンのくずを付けたまま、顔を覗き込んできた。……そうだな、この際だから聞いてしまおう。これは俺一人悩んでいても一生分からないだろうし。ならば、忘れないうちに聞いておくのが得策だ。
「そのな、前々から気になっていたんだが、お前、男? 女?」
「……ど、ど、どうなんだろうかお。それよりもたまごがいい感じに半熟でおいしいお! マヨネーズの塩気もちょうどいい具合だお!」
あからさまにはぐらかされた。
「いやまあ、言いたくないのならいいんだけど。ひょっとしたら、俺が変なことを言ってるのかもしれないし」
「武田君は別に変じゃないお。ただ、僕もよくわからないんだお」
と、話を終わらせるように内藤は空になった入れ物のふたを閉める。そのまま抱えて席を立つと、“サボっちゃダメだお”なんて言いながら自分の席に戻っていった。
……どうなんだろうなあ。よくよく考えると、変な問いかけだった。自分でさっき言っていたが、内藤がなんと言おうと、俺が変なのかもしれない。以前はちゃんと学ランを着ていたのは覚えているわけだし。まあ世の中には永遠に解けない謎というものも、心の潤いとして必要だよな。うむ、無理やり納得した。
すっきりしたところで俺は席を立つと、窓の外を見て、瞬時にどんよりとした気分になる。ああそうだ、今日は雨だ。けど、外に出て昼飯を買いに行かなければいけないんだよな。なんてこったい。
――視界の端に女の子がいないと気付いたのはこの時で。しかしそんなことよりも腹が減っているので、俺は特に気にせず、足早に教室から出て行った。
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撥水作用なんぞとっくに無効化されている傘を閉じ、傘入れに無理やり突っ込む。個人用に傘入れを作れとは言わないが、さすがにこの無法地帯っぷりを見ると、もう少し改善して欲しいと言いたくなる。色とりどりの傘が無造作に山を作っている光景を見て、溜め息一つ。これじゃあ盗られたとしてもわからんし、そんなつもりがなくとも盗ってしまいそうだ。
せっかく湿っている程度に乾いていた靴も、この二度目の外出によっていい具合に濡れてしまった。格好悪いが、これじゃあ長靴で登校したくなる。しかし、校則がそれを許さないという事実。なんだよ指定の靴で登校とか生徒の個性をこれでもかと潰しにきてやがるよ。心の内で悪態をつきながら、べしょべしょと廊下を進む。
時計を確認すると、既に十二時半を回っていた。内藤と長話しすぎたかな。……アイツの存在が謎なのもあるが、俺なんかに自分から話しかけてきてくれるってのが一番の謎だな。自虐的大いに結構、今じゃ親切にされるほうが信用できなくなってしまった。まあ、内藤はそんな俺の偏った評価基準で見ても“いい奴”だけど。なんだかんだで楽しく話せたからだろう、なんとなく気持ちが軽い。
さて、問題はこの内藤に触発されて買ってきたサンドウィッチを何処で食べるか、なんだよな。いつもはおにぎりだが、今日は少しリッチにサンドウィッチ。頑張った自分へのご褒美かっこ笑いってやつだ。……そう、“頑張った”。佐藤が自分で告白したことにより、俺も心の何かが軽くなった。もちろん他の問題もあるのだが、一段落したってのはある。これからは少女漫画チックな本堂の嫌味に付き合う必要もないし、三島の探るような目に耐えることも無いわけで、それだけでも随分と楽になるってもんだ。……杉林さんに関しては、今でもどうすればいいのかわからない。思惑通りに行ったと思ったら、まさかの当日でご本人からのネタばらしだからなあ。杉林さんには、何回謝っても足りない。……止めだ止め、今は楽しい昼食の時間だ。こういうウェットな事柄は午後の気だるい授業を受けながら考えよう。
階段を上り、長く続く廊下へ。しばらく歩いて立ち止まり、左側にある扉に視線を移す。教室は人がたくさんいて居心地が悪いし、屋上は雨だし、さすがに雨ざらしで朝食を摂るなんて、体を虐める行為は嫌だ。というわけで辿り着いたのが裁縫部の部室。昨日は鍵を閉め忘れていたし、まあ入れるだろうと。我ながらナイスアイデア過ぎる。裁縫部が無かったら一線を越えてしまうところ――便所だ……――だったぜ。
「……あ」
そんなこんなで気分良く扉を開けると、既に先客。これで何度目にしただろうか、ピンクの弁当包みを広げている杉林さんが、これまた俺と同じように驚いた表情で座っていた。……まいったな。
扉をそっと閉めると、俺は杉林さんから一番離れた席に座り、かさかさと音を立てながらサンドウィッチを取り出す。……杉林さんがじっとこちらを見ている。俺はそれに気付かないふりをしながら、包装紙を破り、サンドウィッチにかぶりつく。極度に気まずい所為か、あまり味がしない。
ぱくぱく。もぐもぐ。ごっくん。…………気まずい。まるで食っている気がしない。お互いが黙ったまま飯を食う光景は中々異様な空気をかもし出しているだろう。が、なんだかんだと俺は二つ目の包みに手を出す。腹は減っているんだ、仕方がない。対して、杉林さんも黙々といつものゆっくりとしているような速いような動きで確実に弁当の中身を減らしている。……さて、話をしようにも、どうやって切り出したものか。このままじゃ黙って飯を食って終わってしまう。せっかくの幸せなひと時――昼食の時間――を犠牲にしたのなら、何か得るものがなければやってられない。だがしかし、どうするか。
悶々とするも、いい答えは浮かばず。杉林さんを見れば、これまたいつも通り、何も考えてないような呆けた表情を浮かべている。……でも、そんな杉林さんも感情を表に出す時は出すんだよな。昨日は杉林さんの色々な顔を見れた気がする。主に怒った表情だけど。思えば、杉林さんに対して言ったことは全て裏目に出てしまった。本当のことを交えながらあることないことを言ったわけだし、“実は嘘です。本当は佐藤は親友なんです。信じてください”なんて今更言っても信じてもらえないだろう。
「……あの、昨日のことなんですけど」
「んあ?」
天井を仰ぎながら話しかけることを諦めかけていた時、不意に杉林さんが話しかけてきた。文字通り不意打ちだったものだから、変な声を出してしまう。恥ずかしい。視線を下ろし杉林さんを見れば、先程までの呆けた表情と異なり、少々思いつめた様子。
俺だけではなく、多分、杉林さんだって気まずかったはず。それなのに自分から話しかけるということは、どうしても言いたいことがあるということだろう。俺は真顔になり、杉林さんが喋り始めるのを待つ。
「武田さん、その、一つ確認したいことがあるんです」
「なに?」
「昨日、昼に屋上で言ったことは本心からのことなんですか?」
本心、とは佐藤に対しての暴言だろう。正直それについての杉林さんへの解答はまとまっていなかったので、応えに窮してしまう。なんせ、今さっきまで考えていて、諦めてしまった問題だ。……ここで本当のことを話してしまうか、幻滅されるのを承知で場をちゃかすか、黙るか。どれも実行するには先が読めず、中々口を開く決心がつかない。
内的時間では相当経っているように感じるが、現実では二分と経っていない。このまま黙っていようと本気で考えたが、あまりに時間の流れが遅く、その考えを捨てる。杉林さんは、依然真剣な表情で俺を見つめている。…………黙られるのは、俺だって嫌だしな。まとまりきっていない考えを振り捨てて――俺らしくない――その場の流れで応えようと、俺は口を開いた。
「……まあ、本心でないことは確かだ。ただ、言ってしまったことは事実だし、言い訳をする気は無い」
「そう、ですか。……私が聞きたいから聞きますけど、なんであんなことを言ったんですか? 武田さんが佐藤さんに対して暴言を吐く必要性が、どうしても見つかりません」
「昨日言っていた通りさ。俺ではなく、佐藤に依存して欲しかった。それが何より、佐藤が喜ぶと思ったからな。けれど、どんな理由でも杉林さんの気持ちを踏みにじったことには変わりない。白々しく思えるけど、謝っておく。ごめん」
「……」
深く頭を下げる俺に対し、杉林さんは何も言わない。今、どんな目で見られているのだろうか。軽蔑か? 怒りか? なんにせよ、今は杉林さんの顔を見れそうにはない。
「頭を上げてください……」
俺の予想に反して杉林さんが放った言葉は、頭を上げろという“仕切り直し”の言葉だった。多少戸惑いながら、俺は言われた通りに頭を上げる。目の前には、さっきまでの俺と同じように、申し訳なさそうな表情を浮かべる杉林さんがいた。
「私も、謝りたい事があるんです。……私が特別深い関係を望んだことで、武田さんに迷惑をかけてしまった、それを謝りたいんです。武田さんが“依存”に関して謝ることは無いんですよ、私が変なだけなんですから。本当は、頬を叩いたことだって、断られたことへのあてつけだったんです。ですから、武田さんが、謝ることなんて……」
そのまま、杉林さんは顔を伏せてしまった。
俺はすぐに応えることが出来ずに、考え込んでしまう。悪いと思いつつも、俺は全く杉林さんの言った事とは関係ない事を考えていた。それというのも、何故、このタイミングで杉林さんは自分の心の内を吐露したのか。だって、ありえないだろう。そんなこと、そう簡単に言えることじゃない。杉林さんがつい昨日まで怒っていたことは事実だし。……多分“俺にとって”ありえないから、こんなことを思うんだろう。
「もう、やめよう。“自分のほうが悪い”なんて不毛な言い合いは。俺が悪いと思って、杉林さんも悪いと思っていて、それでいいんじゃないか。細かいことなんて、どうせわかりあうことなんて出来ないわけだし。俺としては、今まで通りに杉林さんと話すことが出来ればいいよ」
いつまでも黙っていることが耐えられなくて、俺は顔を伏せている杉林さんに対し、この空気の“逃げ道”を提示する。今言った通り、このままじゃ埒が明かない。他人のことなんて完全にわかるはず無いのだから、どこかで妥協するしかないんだ。杉林さんの言葉は俺の予想に反したものだったけど、それなら、“無かったこと”にすることが最善の選択だと思う。
少し待って、昼の長い休憩の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた頃、杉林さんは顔を上げた。いつも通りの、何を考えているのかわからない顔。
「……わかり、ました」
そう言って椅子から立ち上がる杉林さん。とてもゆっくりとした動作で弁当包みを持つと、そのまま部室の扉に向かってゆく。そんな後姿を、俺は黙って見ていることしか出来なかった。……これでいいんだよな。
授業に少し遅れたことを憂鬱に思いながら、俺は部室を後にした。
▼
しとしと。ガラス窓を通して、雨が地面をたたく音が耳を刺激する。依然として暗雲を漂わせる空は朝に続き晴れる気はないようで、ごろごろと不穏な音を鳴らしている。そんな中、校内では全ての授業が終了したことを知らせるチャイムが鳴り響いていた。暗い空を尻目に、俺は机に広がっている勉強道具を鞄にしまう。今日もやっと授業が終わったと、生徒たちは次々に立ち上がり、窓の外を見て一様に憂鬱な表情を一瞬浮かべる。まあ俺もその内の一人なわけで。
憂鬱な表情を浮かべ、中々立ち上がる気が起こらない俺を促すように、佐藤がこちらに向かってきた。
「今日も部活あるけど、来るよな?」
と、開口一番にそんなことを言ってくる。俺はもちろん行く気なんだが、まあ、その部活初日が“あんな”だったわけだし、普通は行くかどうか考えるだろう。“あんな”にした張本人がこんなことを言ってくるのだから、世話が無い。
「俺は行くつもりだけど、昨日が昨日だしなあ。みんなはどうなの?」
「来てないのは武田だけなんだけど……」
……俺が考えすぎなだけだったのだろうか。
「いや、ごめん。すぐ行くから先に行っててくれ」
なにやら一般とは異なる自分の考えに複雑な思いを感じながら、佐藤が教室から出て行くのを見つめる。まあ確かに他のみんなの姿は見えない。しかし、そこまで急いで行くほど楽しいものじゃなかろうに、と、口には出せないが思ってしまう。俺が捻くれているだけなのか、はたまた何かが変なのか。よくわからないが、鞄を肩にかけ、俺は席を立った。
教室から出て、色々と考えながら部室に向かおうとした時、急に肩を叩かれる。驚いて振り向くと、これまた嫌味なくらいに笑っている内藤が立っていた。
「なんだ内藤か。びっくりしたぞ」
「ふひひ、ごめんお。武田君は今から部活かお?」
「そうだけど。そういえば内藤って何か部活しているのか?」
すぐに部室へ向かう気にはなれないしなあ。……内藤との雑談と洒落込むことにしよう。壁にもたれかかり、内藤の返事を待つ。
「僕は何もしてないお。それよりも武田君、今の僕は男に見えるかお? それとも女かお?」
「……うーむ。特徴的な顔はハッキリわかるんだけどな、やっぱ全体像がぼやけてる感じだ。なんだ、本当はどっちなのか教えてくれる気になったのか」
「そ、そ、そういうわけじゃないお! 永遠の秘密ってやつなんだお! 人には一つ二つ秘密があったほうが魅力的になるって本に書いてあったお!」
「そこまで必死にならなくとも、もう俺からは詮索しないさ。というか、もう慣れた」
わたわたする内藤をなだめるように、俺は笑いながら両手を軽く挙げる。……しかしまあ、内藤からこの話題を振ってくるとは。もしや自覚しているのだろうか。……いやだめだ、これについては考え始めると埒が明かない。風呂に入っている時やトイレで踏ん張っている時に考えるべきことなんだよ、これは。
何かを確認出来たのだろう、内藤は“呼び止めてごめんお”と一言残し、そのまま走り去っていった。……廊下を走るなと怒られている様を見て一笑いした後、俺も背を向け、部室に向かうことにした。
廊下を歩いていると、不意に窓ガラスが大きな音を立て始めた。外を見れば、なるほど、豪雨だ。申し訳ない程度に植えられた木々が悲鳴を上げるように、右へ左へと揺さぶられている。空は何度か光っており、その度に遅れて腹に響くような重低音。なんというか、帰りたくなくなる天気だな。傘なんか差そうものなら、一瞬でまいっちんぐってもんだ。ああ、いやだいやだ。
ここまで風が強いと、何かの拍子で窓ガラスが割れるのではないのかと少し不安になり、気持ち速めに足を動かし部室へ向かう。……教師に怒られない程度に走り、軽快に階段を昇り、また昇り、廊下に入り、向かって左が裁縫部の部室でございます。階段を上った所為か、ちょっとした疲れを感じる。少し乱れた息を整えて、俺は部室の扉を開いた。
――――そして俺は、侵食してきた非現実を目の当たりにした。
「……なん、で」
頭が混乱している。待て、俺はどんなことが起ころうとも冷静でいられるとかパニック映画を見て常々思っていたが、待て、俺は今冷静ではない。目の前の光景を理解できていない。考えが、追いつかない。
「武田……か……?」
「佐藤、お前」
部室。中。床で、佐藤が倒れていた。いや、そうじゃない。この、くそっ! なんて言えばいいんだ。……光だよ、何故かは知らないけど佐藤の足から光が舞い上がるように出ている。ただ、何よりも俺をパニックと足らしめているのは、佐藤を見下ろすように立っている存在だ。だってそうだろう、コイツは。
「――想定外だ。今、武田智和は内藤との雑談に興じているはず」
後ろで一括りにされた長い黒髪を揺らしながら、冷たい光を帯びた瞳をこちらに向ける“彼女”。全身を暗い灰色のローブで覆っていて、そう、間違えるはずが無い。この一週間近く、図々しく俺の視界に居座っていた奴だ。
俺は佐藤と彼女に視線を行き来させながら、言葉を選ぶ。いや、そんな場合じゃない。今すぐにでも佐藤に近づき、必要ならば人手を呼んで助けるべきだろう。しかしこの女はどうする、状況から見て佐藤を苦しませているのはコイツだ。だが確定しているわけじゃない。確定していたとしても、こんな、光が出るだなんてことの対処法は知らない。どうすればいいんだよ、考えている場合じゃないのに、答えが出ない。どうすれば。
「どうやら混乱しているようだな、武田智和。無理も無い……が、何を考えようとこの状況は変わらない。ここで“私”を知られるのは予定外だが、最終段階だ、良しとしよう」
「なに、一人で語ってんだよ。お前の御託はどうでもいいから、佐藤を助けろ」
考えがまとまらないが、ひとまず最優先するべき佐藤を助けるべく乱暴な口調で話しかける。が、彼女は微動だにせず、一呼吸置いて口を開く。
「残念ながらここに在るのは消去によって生じる誤差だ、既に遅い」
「消、去?」
佐藤に視線を移すと、先程まで光を放出していた足先が“消えていた”。……わけがわからない。理不尽なことに対し、俺は“待て”と理不尽で返す。しかし、止まらない。
俺は慌てて駆け寄り、佐藤の上半身を抱える。
「おい、佐藤、おい!」
「おかしい、よな……俺、まだ、死ぬ時期じゃない、のに」
「いいから喋るなよ、今だれか呼んでくるから――」
「――別に、いいよ。それよりここに、いてくれ。……なんだかんだで、一人で死ぬ、のは、こええや」
「待てって! お前、やっと部活作ったんだぞ。杉林さんが好きなんだろ。まだ、何も始まってないだろうが……」
考えがまとまらない。どうでもいいことを喋っている間にも、佐藤の体はゆっくりと消えてゆく。既に胸から上しか残っていないその体からは、血は出ていない。ただ、球状の光が天井へ吸い込まれるように放出されているだけ。現実感の無い事が、身近な人という現実で起こっている。それが信じられない。
いつの間にか手に伝わる重さはほとんど無くて、佐藤が首だけになる頃には、俺は何も言えずにいた。ただただ、無機質な光と、完全に消えて無くなる佐藤を見ているだけで。
「……さて、感動のお別れもこれで終わりだ」
「黙れよ」
もう何も無い。佐藤も光も、まるで嘘だったかのように、空しく空を掴む俺の手だけがそこにあるだけ。ゆっくりと立ち上がり、俺は女に向き直る。
「なんでお前はそこにいるんだ。おかしいだろ、お前は俺が見ていた幻覚のはずだ」
「そんな馬鹿な、私はちゃんといたさ。それに、“最初に”説明したはずなのだがな。覚えていないのか?」
「説明……だと?」
記憶を探るも、そんな覚えは無い。
それよりも、俺は人を一人消したというのに冷静な口調で話す女に腹が立ち、詰め寄って胸倉を掴む。そんな状態でも感情のこもっていない瞳で見つめてくる女へ激昂するのに、そう時間はかからなかった。
「そんなどうでもいいことより、佐藤に何をしたッ! 今すぐ元に戻してもらうぞ!」
「無理だ。一旦消去したメモリアはサルベージするだけでも数ヶ月はかかる。それも、私の一存では無理な話だがな」
「わけのわからん御託はどうでもいいんだよ!」
拳を握り、女の顔面を狙って殴りつける。そのまま拳に衝撃が伝わる、はずだった。……瞬きすらしていない。俺の拳は空回り、胸倉を掴んでいたはずの手は宙を掴んでおり。
「感情の起伏というものは面白いな。しかし、殴られるのは嫌なものでね」
「……なん、でだよ。お前はそうやって、非現実的な存在で、なのに、なんで」
背後から聞こえる声に対し、俺は振り向く気も起きず、脱力する。急にどうでもよくなり、何もかも忘れて遠くに行きたい衝動に駆られるも、踏みとどまる。そんな俺を悟ったのか、女は背後に立ったまま喋り始めた。
「武田智和が説明の内容を忘れていたというのは想定外だ。が、それもまた純粋な結果として得られるということだろう。……しかし武田智和、お前は非現実的な存在なら見ていたはずだろう。私然り、内藤然り。今更驚くことでもあるまい」
内藤……そうだな、確かに、アイツも現実では“ありえない”奴だ。ありえないのに、そう、それを容認していたのは単純で笑える理由だ。害の無い非現実が傍に在るってのは、いわゆる主人公な感じがするんだよ。だからだろう、深く考えていなかった。……内藤のことを真剣に考えていたら、こうはならなかったのだろうか。
「放心した、か。まあ好都合。先程も言ったが、既に最終段階だ。武田智和が覚えている覚えていないに関わらず、“過程”は続くさ」
そう言って最後、人の気配が消えた。誰もいない、激しい雨音だけが耳に入り込む、ただの部室。力尽きたように、俺は床に膝をついてしまう。
「はは」
笑うしかない、とはよく言ったものだ。あの女が言っていたことは一つも理解できなかったし、やっていたことも理解できなかったし、起こったことも理解できなかった。笑うしかない。乾いた笑い声が部室に響くたびに、何も考えられなくなる。
……そうだな、理解できることが一つだけあった。佐藤が消えたということ、それだけ。
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