第一部最終話『夏、過ぎ去ってから』
もう、誰も残っていない。それは俺の目的が全て失われたということになる。こんなところに来てまで、結局、俺は何も得ることが出来なかった。……そもそもが能動的にやり始めたことじゃない。かと言って受動的かと言えば、そうじゃないな。そうするしかなかったんだ。だけど、その一つだけの道が行き止まりだった。じゃあ……どうしようもないじゃないか。戻れはしない、やり直すことは出来ない、これ以上は進めない。とどのつまり、ゲームオーバーだ。最初からゴールがないものをゲームと呼べるのか、という疑問は置いといてな。
終わりだ。今更みんながいない日常に戻して欲しいなんて思わない。それこそ今以上の非日常。だから俺は、消して欲しいと声に出した。
「それは認められないな」
返ってきたのは否定の言葉。女は特に表情を変えるわけでもなく、マネージメント・デバイスを懐に仕舞う。俺はその一連の動作を見て、目を伏せた。
わかっていたことだからな。なんとなく、“これで終わりじゃない”という予感があった。女が言う説明を聞いた時も思ったことだ。……葛藤やら解決やらは目的じゃない。その先がある。
顔を上げて、女に応える。
「そう、か。そうだよな。……俺を消すわけにはいかないんだろ?」
「察しが良くて助かる。武田智和が消えることは人類の多大なる損失だ。少なくとも、消さないのではない。私の一存では消せないのだよ」
「またわけのわからないことを……いいから、説明してくれよ。全部さ」
そう言って俺はフェンスに向かって歩き始める。
考えることが無くなってしまった。考えなくてもいいと言うよりも、考える対象がいない。自分が置かれた状況なんて、もう考え尽くした。答えは出ない。じゃあ、他に考えられることなんて、もう残っていない。
フェンスに指を引っ掛けながら、遠くを眺める。円形に取り残された校舎の周辺以外は、全て黒いものに覆われていた。いや、黒の絵の具を塗りたくったように、存在すら無いように見える。言ってみれば校舎を中心にした島。遠近上下の感覚が無い遠くが、まるで自分を見ているような気がして、目を逸らす。
俺の考えることは自分の周囲で完結していた。世界情勢だとか、将来だとか、そんなことはほとんど考えたことが無い。いつも自分の見られ方を考えて、上手くいった時のことを妄想していた。そして佐藤のことを考え始めて、本堂、三島、杉林さんと考えることが増えていく。……でも、それだけだ。この景色と同じで、とても小さな範囲の出来事しか見えていない。それが悪いとは思わないけど、みんなが居なくなった今、あまりにも空っぽになってしまった。……何も無い。それは消えたいと思うに十分すぎる理由だと思う。それを考えてみれば、杉林さんの気持ちが少しわかる気がした。
『夏、過ぎ去ってから』
「すまないが、私の口から説明することは出来ない」
「そうかい」
いつの間にか隣に立っていた女を気にするわけでもなく、俺は適当に返しながらフェンスを背にする。
考えることもないわけだし、久しぶりに妄想でもしよう。理屈だとか、色々なものを抜きにして、いきなり俺が背にしているフェンスが壊れるとする。もたれかかっている俺はもちろん、落ちるだろう。そうして俺は死んだはずだったんだけど、気付いたら俺は教室に居て、椅子から転げ落ちる形になっていた。冷ややかな視線を受けながら、今までのことが夢だったことに気付いて、俺は顔を赤くしながら席に着く。さりげなく周りを見渡せば、見慣れたみんなの顔もある。みんながみんな、苦笑いを浮かべていた。俺はそんな中で恥ずかしく思いながらも、夢でよかったと、一人安堵するんだ。……ヒロイックなものなんていらない。主人公になりたいとも思わない。ただ、この日常が続くだけでよかったんだと、確かめることが出来たんだ。
「――普段はそんなことを考えているのか」
妄想に浸っていると、隣から女が呆れたような声でそんなことを言う。……そういえば、女には俺の考えていることがわかるんだったっけな。
「悪いかよ。俺は元々こういう奴なんだ。そんな俺を捕まえて、ほんと、お前は何がしたかったんだよ」
投げやりに返事をしながら、空を見上げる。相変わらず黒い空だ。そう思いため息を漏らしたところで、気付いた。黒い空に変わりはない。だけど、そこに一本の白い線が見えていた。あまりにも浮いていて最初はわからなかったが、よくよく見ればそれは飛行機雲だった。空を真っ二つにしているような、白い線。今まで無かったはずだが……。
原因を問いかけるようにして女を見れば、俺の考えがわかっているんだろう、口を開く。
「再構築が始まったようだな」
「再構築?」
「ああ。この世界が黒くなった原因はシステムがダウンしたことによる弊害だ。内藤が上手くやったようだな――見ろ」
女が俺と同じように空を見上げる。内藤という懐かしい名前を引きずりながら、俺もつられてもう一度空を見て、目を疑った。まるで黒い水に明るい絵の具を混ぜたような“うねり”を見せながら、空の色が変わっていく。黒だった色は薄く濁っていき、次第に青が浮き出す。雲が薄くなるように太陽の光が漏れ始め――全ては、戻っていた。
椅子を引きずる音が聞こえる。たまに女子生徒の甲高い声が響いて、ああ、空がどこまでも青く、透き通っていた。それは俺がいつも見上げていた空と同じで、くぐもった音と共に飛行機が線を描いている。
「これは……」
「さて、武田智和。私が廊下で言ったことを覚えているか?」
「廊下で?」
あまりの変わりように驚いている間もなく、女が俺に問いかけてくる。俺は頬に風を感じながら、あの黒い校舎を思い出す。
『奴のことは気にするな。とにかく、武田智和、二人を消すんだ。幸いにも部外者は奴一人、しばらくは私が抑える。だが、すぐにでも増える可能性は捨てきれない、急ぐんだ』
これじゃない。もっと前だ。
『本堂恵は、私達の管轄外で消えた。つまりだ、武田智和。私達では本堂恵を“戻す”ことは出来ないということだよ』
そう、この時だ。……女は、俺に何を言った。
『もはや計画は変更するしかないだろう。まさかアメミットの連中がここを嗅ぎ付けているとは思わなかったからな。……結論から言わせてもらえば、武田智和、最終的に君を“起こす”』
「それだよ、武田智和」
「……確かに、何もかも終わった。最終的の意味も、今ならわかる。だけど、“起こす”というのはどういうことなんだ。お前の言う言葉はいつもわけがわからないが、これはさらに意味がわからない」
「その説明は君が起きてから、私ではない誰かが説明するだろう」
「だから、お前は」
「起きる方法を教えておこう。……ふむ、アレは邪魔だな」
くそ、いつも通りはぐらかすことだけは上手くやるもんだ。……ああ、いつも通り、か。思えばこの女ともそれなりの時間を過ごしていたことになるのかもしれない。飽くまで視界に住む奴として、だけどな。実際に話したのは佐藤が消えた時が始めてだ。事故のショックかなんかで見えていた幻覚だと思ってたのに、あれだ。第一印象は最悪を通り越して憎しみすら感じたほどだ。……今となってはコイツが一番身近な奴か。皮肉過ぎて笑えてくる。
女は自然な動作で懐からマネージメント・デバイスを取り出すと、それをフェンスに向けた。……わからないな。フェンスを消そうとしているのはわかる。だけど、何故フェンスを消そうとしているのかがわからない。
「答えは簡単だ。ここから飛び降りるからだよ」
「あ?」
予想通り跡形もなくフェンスが消え去り、屋上から地面への道のりを遮るものは無くなった。
俺と言えば、今までで一番わけのわからないことを口走った女に対し、怪訝な表情を向ける。
「飛び降り自殺しろって言うのかよ。言っておくが、俺は自殺する勇気なんて持ち合わせちゃいないぞ。だからこそお前に消してくれって頼んだんだが」
「君の勇気の有無は置いておくとして、自殺という言葉は半分正解だ」
「本気かよ」
「現実準拠のこの世界で、自分自身を消すことは出来ない。何故なら、自我が――魂の定義が邪魔をするからだ。マネージメント・デバイスを持ってしても、これは覆せない」
女は毅然とした足取りで、屋上の端へ移動しながら説明を続ける。俺は焦る気持ちを感じながら女の後に続き、端に辿り着いた。
下を見れば、体育の授業だろう、校庭にたくさんの生徒が見える。
「もっと俺にわかる言葉で説明してくれ。心配しなくとも、ちゃんとした説明さえ聞ければ俺は“やる”。どうせ他にやることなんてないんだ。これで死んだところで、別に困ることは無い」
「死にはしないがな。それに、私達としては死なれると困る。……だからこそ、説明を聞くんだ」
「ああ」
カチャリと、金属同士が弾かれるような音が聞こえた。それは足元で聞こえて、視線を向けてみれば、女の、“足のようなもの”が目に入った。
太陽の光をこれでもかと跳ね返す白銀のそれ。一目見て義足のようなものだと理解したが、こんな形をしたものは本でも見たことが無い。
「……それも、起きれば現実が教えてくれる」
「現実、って。じゃあ今が夢だったと、本気で言ってるのか? はっ、俺の妄想にでもあてられたかよ」
捻くれたように言う。けど、女は意に介さないといった風に俺の言葉を無視して、説明を続ける。
「魂の定義に則って起きる――私に言わせれば戻るためには、概念的に死ぬ必要がある。記憶に死を焼きつけるんだよ。死の直前まで目を見開き、強く焼き付ける。言わば魂とこの世界に死を認めさせるのだ。……後は、内藤が上手くやる」
「さっきも気になったが、内藤は消えたんじゃないのかよ」
意図的にわからない単語を無視して、最期に聞こえた覚えのある名前について問いかける。
とにかく飛び降りればいいんだろう。簡潔に、そうやって言えばいいものを。これ以上わけのわからないことを考えさせないでくれ。
「その辺りの説明もしたいのだがな、残念ながら私は一足先に失礼する。……簡潔に言おう。ここから飛び降りろ。死を意識しろ。それだけだ」
「最初からそう言えば――おい!」
「“後で会おう”」
咄嗟に手を伸ばした。けど、掴めない。すり抜けるように、女は地面へ吸い込まれていった。激突する瞬間は見たくない。しかし、俺は凝視していた。頭から落ちていく女の姿が、徐々に“薄く”なっていく。……激突の瞬間は訪れなかった。
何事も無かったかのように校庭では体育の授業が行われていて、俺は、尻餅を付いた。
「本当に飛び降りるのかよ」
そのまま俺は大の字になって、空を仰ぐ。……いつもの空だ。こういう日に屋上でこうしていると、いつの間にか杉林さんが隣に居たりする。最近にもあったような気もするけど、なんだかひどく懐かしく思えてしまった。
体を起こし、立ち上がる。
さっきまでの事が嘘のように、今日はとても爽やかな日だ。こんな日に屋上から飛び降りるだなんて、正気の沙汰じゃない。でも、それをやれと言う。
身を乗り出して、屋上から下をのぞき見る。高い。とてもじゃないが、ここから飛び降りたら助からないだろう。いくらみんなが消えて、何も残らなかったとしても、自分でぐちゃぐちゃになってまで死ぬ勇気はない。死なないと言われても、一度浮かんだ恐怖はそう簡単に消えない。
……終わりだ。ここから飛び降りれば、終わる。すくなくとも、俺がやれることはもう無い。ここで一生過ごしたとして、一体、何になると言うのだろうか。なら、怖くても終わらせたい。言ってみれば俺は死にたいんだ。だけど、自分で死ぬ勇気はなかった。……そう、無かった。杉林さんが消えてわかったけど、俺は本当に何も残ってないことに気付いてしまった。……今なら、足を一歩前に出すくらいの勇気は出るかもしれない。
息の詰まるような空は元に戻っていて、肺に深く空気を入れると、澄んだものが体に満ちていくような錯覚を感じる。
「ふう」
別に混乱していたとかじゃないけど、深呼吸を終えると、妙に落ち着いてしまった。……今ならいけそうな気がする。
とにかく飛び降りればいいんだろ。それでいいんだろ。飛び降り方とかあったとしても聞いてないしな。じゃあ、もうこのまま飛び降りるしかない。
屋上の中心まで移動する。……一歩進めば、なんて考えるから怖いんだ。走ってしまえば止まれない。勢いで飛べるだろう。
俺はこれ以上面倒なことを考えないようにして、心の準備を待たずに走り出した。そこまで広い屋上じゃない。いくら運動神経がそこまでよくない俺でも、本気で走ればすぐに端が見えてくる。――死にたい。死ぬ。落ちる。それ以上は考えない。
そして、俺の足は宙を踏んだ。
「う――わっ」
唐突に重力を感じて声が漏れてしまう。けど、それを気にする間もなく視界が狭まった。
落ちている。心臓が締め付けられるような感覚が断続的に体を襲い、空気に抵抗する音が耳に訴えかけ、切るような風が目を掠める。……目を開いてろと、あの女は言っていた。けど、これはさすがに。
地面が近い。後数秒もしない内に叩きつけられる。死ぬ。そう思って目を瞑ろうとした時、不意に風を感じなくなった。まだ落ちている。けど、感覚が遮断されたように、何も感じない。女の体が徐々に消えていたが、俺もそうなっているのか。確認しようと思い、そこで、何も聞こえなくなった。まるで順番に五感が削られていくように。
ゆっくりと落ちていく。既に死への恐怖は無くなっていて――何も見えなくなった。
>>: