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第一話『過ぎ去って、今』

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 目覚めは最悪だった。
 腹の底に渦巻く吐き気と、鳴り響くような頭痛。全身を襲う強烈な寒気を感じながらも、思うように動かない体。……瞼が開かない。まるで接着剤で固められたように、瞼に限らず、全身が上手く動かせなかった。唯一まともに機能しているのは耳だけで、蒸気が噴出すような音と自身の呼吸音だけを定期的に拾っている。……死んでいない。徐々に覚醒していく頭の中で、最後に意識を失った時のことを思い出し、安堵すると同時に落胆する。
 ここは、どこだ。
 太陽の光は感じない。だけど、人工的な光が瞼の向こう側に感じる。病院……じゃないな。病院なら、さっきから聞こえてくる音に説明がつかない。なにより、こんな硬いベッドに寝かせるような病院を俺は知らない。冷えた金属の上に寝かされているんだろう、俺の体温を容赦なく奪っていく。
「――だ、――智和」
 声が聞こえた。他の音に掻き消されて上手く聞こえないが、名前を呼ばれた気がする。もどかしく感じた俺は瞼を開こうとするも、やはり開けない。瞼に限らず、全身が動かせないんだ。まるで自分の体じゃないように、脳からの信号を否定される。
 声も出せない俺は“上手く聞こえない”と伝える術も無く。意識と聴覚だけが妙に浮いた状態で、次の言葉を待った。
「……体の具合はどうだ、武田智和」
 不意に耳元で囁くような声が聞こえた。吐息が耳にかかり慌てて体を動かそうとするも、動かない。……声からして、あの女だろうか。俺は何とかして“寒い”ということを伝えようと思ったが、何も出来ない以上、断念する。
 どうやら女はまだ耳元の傍に居るようで、俺とは違う人間の呼吸音が聞こえてくる。嫌に落ち着かないものを感じていると、気配が離れた。
「内藤、本当に武田智和の意識レベルは安定しているんだろうな? 動く気配が無いのだが」
「こっちでは特に問題ないお。……もしかしたら記憶結合空間《ネット》からの乖離で神経系統に混乱が生じてるのかもしれないお」
「ふむ。となると、しばらくはこのまま、か」
 内藤……だと? 内藤は女が消したはずだ。その現場には俺も居た、間違いない。だというのに、なんで内藤がここに居る。いや、そもそも“ここ”はどこなんだ。
 駄目だ、わからないことが多すぎる。聴覚だけでは情報と言った情報も得られない。……神経系統の混乱と言っていたが、なんでそんなことに。
「数値を見る限り、武田君の意識レベルは安定しているお。“ここ”に戻ってきてるのは間違いないお」
 その時、カチリという音が聞こえた気がした。音は反響していない。残るものが無かった。つまり、端的に言えば“頭の中で鳴った”と表現するしかない音。その音がなんなのかを考え始める前に、俺の瞼が重石を外されたかのように、ゆっくりと開いた。
 瞼という“仕切り”を失った先の光は、視神経を焼くような、強烈なものに感じた。咄嗟に瞼を閉じようとするも、今度は閉じることが出来ないことに気付き、不意に戸惑いの声が漏れる。
「な、んだ……」
 全てが新しい、そう言うしかない。自分の口から出たはずの呟くような声は聴き慣れたものではなく、落ち着いた空気をまとう太めの声だった。それに合わせてぎしりと頬が鳴ったような気がして。――それが合図だと言わんばかりに、体中の指揮権を取り戻した脳が、同時に“動いた”。背中から伝わる寒気から逃げるように上半身を起こし、声が聞こえていたほうに首を動かし、蒸気が噴出すような音の元を確かめようと眼球を忙しなく動かし、右手を頬に当てて金属の感触を確かめながら、左手で女の二の腕を掴む。
 その全ての動作を流れるように行えたことに新鮮さを覚えながら、俺は口を開いた。
「説明しろ」
 さっきまで音だけを情報として捉えていた頭が、急に視覚を取り戻したことで混乱する。
 灰色を基調とした、密室というイメージに近い部屋。その狭い部屋の中に、曲がりくねったパイプが幾重も顔を覗かせ、その所々から白いものを噴出している。見た目は把握出来たが、ここがどこなのか、全く理解出来ない。
 柄にもなく驚いているのか、俺に腕を捕まれた女は中々口を開こうとしない。……そこで、俺は女の向こう側に人影を見つけた。見覚えのある仮面を被っている。学校で会った仮面の男も似たような物を被っていたが、それよりも、仮面に描かれている妙な笑顔。……“なんとなく”把握出来ていたアイツの顔が、真っ先に思い浮かんだ。
「内藤、なのか?」
「……お、おっおっ、そうだお」
 女と違い、内藤は俺の問い掛けにすぐさま答えると、小走りで俺の傍に近付いてくる。俺はその様子を目で追いつつ女の腕から手を離すと、心を落ち着かせるように一つ、深呼吸をした。
 女が話していた内藤が、俺の知る内藤だとは認めたくなかった。だが、俺に近付くコイツは纏っている空気からして内藤だと、認めざるを得なかった。今にも自慢げに弁当箱を見せ付けてくる――そんな想像さえもしてしまうくらいに。
「なんでお前は……いや、それは後だ。ひとまず、俺は説明して欲しい。何が起こったのかをな。そこの女は話す気が無いらしいし、内藤、説明してくれないか?」
「僕は構わないけど、いいのかお?」
 内藤への疑問よりも現状を知る方が先だ。俺は疑問を頭の隅に追いやり、内藤に問いかけた。
 俺の言葉を聞いた内藤は答えていいのか迷っているんだろう、女のほうを見て了承を得ようと話しかける。それを見て、女は何も言わずに首だけを縦に動かした。
「内藤が答えてくれるのはいいんだが、アンタが答えたほうが早いんじゃないのか?」
 目の前の光景を見て、俺は当然のように湧き上がってきた疑問を口にした。対する女は一歩前に出て、口を開く。
「……君は私に怒りを感じないのか? 君の日常を勝手に侵したばかりか、君自身を“こんな場所”に連れてきた。そんな私に」
「なんだそりゃ?」
 俺が女に怒る。その理由に思い当たる節はない。確かに日常を侵した云々は、その時にしてみれば納得の出来ない――ああ、それこそ怒りを感じていたかもしれない。しかし、今となっては話が別だ。学校にはもう、俺が知っている奴なんて一人も居ない。そんな場所からどこへ連れて行かれようと、怒りなんて感じるわけがない。
 そもそも、この女がそんなことを気にして萎むようなタマか。
「ふう。いい、内藤、私が説明する」
 いまいち女の言っていることを理解出来ないという気持ちが顔に出ていたんだろう、俺の顔を見た女は内藤を制して、すぐ傍まで歩を進めてきた。
「いいか、武田智和。まず言っておくが、ここは“現実”だ」
「……それが、どうかしたのかよ? ここが現実じゃなかったらなんだって言うんだ」
「前提からして違うんだ。君の言う“現実”は、ここで言う“記憶結合空間《ネット》”。わかりやすく言えば、仮想現実だったんだよ」
 ここは驚く所なのだろうか。
 大真面目に冗談を言い放つ女を目の前にして、俺は返す言葉が見当たらなかった。だってそうだろう、今時仮想現実だなんて、SF映画でも使い古し且つ出涸らしのようなネタだ。俺が居た場所が“それ”? ありえない。今の技術で“それ”が出来るわけがない。
「冗談は止せ。こっちは真面目に聞いてるんだ、ここはどこだ」
「……西暦二七四九年。八月十三日。極東地下大空洞――“アジアネスト”内の医療施設」
「は?」
「君にとっての、未来だ」


第一話『過ぎ去って、今』


 冗談は止せと言ったはずなのだが、女の口から出た言葉は“仮想現実”なんて可愛く思えるほどの“冗談”だった。
 俺はこれ以上口を開こうとしない女から目を逸らして内藤を見るが、こちらも何かを話そうとする素振りは見せない。……否定しない。それはつまり、女の言ったことが真実なんだと、そういうことを示していた。
「いや、待てよ。西暦二七四九年? 俺の知る限り、今は二〇〇七年のはずだが。それがどうして、一瞬で七百年以上も経ったんだよ。おい、説明しろ」
「信じるのか?」
「お前が言ったんだろうが。信じられねえから、納得のいく説明をしろって言ってるんだよ」
「……記録上、君は二〇〇七年七月十二日に事故で植物状態になったとされている。いつかわかるか?」
 女の言葉が真実かどうか。それを考えることで精一杯だというのに、今度は植物状態? 頭が追いつかない。そもそも俺が説明を欲しているのに、なんで質問されなければならないのか。
 そう思うも、聞いてしまった言葉は勝手に記憶を探り出し、思い当たる節を発見してしまった。
「……ああ、俺の人生の中で事故って言えば、トラックに撥ねられたくらいだ。その日で合ってるよ。……だけど、それは奇跡的にほぼ無傷で」
「そこからだ。その“助かってから”が、全て仮想現実の中で起こっていたことなんだ」
 しっかりと、俺に刻み付けるように放たれる言葉。その言葉の主の目を見れば、冗談を言っているようには見えなかった。……こんな手の込んだ嘘をついて何になるのか。半ば諦めるように、俺の頭は素直に女の言葉を受け入れ始める。
 つまり。トラックに撥ねられて無事で済むわけがなく、本当は植物人間だったところ、どんな理屈かは知らないが仮想現実にシフトして、と。そういうことか。……なんとも笑える話だ。普通なら信じられるわけがない。が、それなら学校で起こった不可思議なことにも説明がつく。“あんなこと”が現実に起こると言われるよりは、遥かに“現実的”な説明だ。
「その辺りの説明は、初めて私が君と会った時に説明したのだが……どうやら上手く同期が取れていなかったらしい。本来なら、“あれら”の出来事は全て同意の上で行われるはずだった」
「待てよ、それにしちゃあ随分と秘密主義だったろ。俺が理由を聞いても、お前は答えなかったと記憶しているが」
「それは……すまない。全て私が行っていたことならば、説明などいくらでもしていただろう。しかし、私は飽くまで君を監視する役割しか与えられていなかった。お上が、“楽しめるように”と方針を変えたから説明が出来なかったんだ」
「なんだよ、それ」
 心なしか俯くように話す女を前に、俺は感じるわけがないとついさっきまで思っていたものを感じ始めていた。
「ま、まあちょっと落ち着くお。とりあえず武田君は服を来て、もっと暖かい場所でお話しするお! 名案だお!」
「しかし、内藤。これは私の義務であり――」
「そうしてくれるならありがたいな」
 内藤が話したことにより、周囲の空気に色がついたような錯覚。続いて、忘れかけていた寒さを感じた俺は、内藤の意見に同意することにした。
 女としては説明を続けたいようだったが、裸のまま聞いていることもあるとして、これ以上聞いていたら明確な怒りが沸いてくると思った俺は、ひとまず落ち着く為にも気分を入れ替えたかった。
「武田智和がそうしたいのならば、仕方がない。……内藤、私は先に四号で待っている。武田智和に服を支給した後、連れてきてくれ」
「わかったお」
 そう言って、女は蒸気の向こう側へ姿を消した。



 女が部屋から出て行ってから、俺は内藤に下着と白衣のような服をもらい、着替えた。未来と言うからにはもっと全身スーツのようなものを想像していたが、割と普通だったことに安心する。
 内藤が案内をすると言うので、俺は金属製ベッドの脇に揃えてあったスリッパを履いて立ち上がる。と、不意に体が傾いた。続いて、右脇に硬い感触。
「た、武田君、重いお。というか大丈夫かお?」
「内藤……ありがとな。目を覚ましてから、どうも体の調子が良くないんだ」
 倒れそうになったところを支えてくれたのは内藤だった。相変わらず仮面とは言え表情に違いは無く、苦笑気味にお礼の言葉を言う。その数瞬後、仮面の左右に付いている球体が水色から黄色に変わった。……どことなく、嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
 たどたどしく前に進み始めると、俺の言葉に応えるように内藤が話し始める。
「多分、“ネット酔い”してるんだお」
「ネット酔い?」
「ネットと現実じゃ体の動かし方が微妙に違うんだお。それで、ネットに長くいると現実での神経系と食い違って、上手く動かせなくなるんだお」
 まるで長いこと寝たきりだったような、そんな感覚。それを考えれば、俺が植物状態だったというのも頷ける。
 ……さて、七百年以上も寝たきりで、俺はどれだけリハビリをすればいいんだろうか。心配になった俺は、ひとまず内藤に聞く。
「それは治るのか?」
「心配しなくても、時間が経てば治るお。……でも、治るまでが不便なんだお。“あっち”にあるような車椅子なんてあれば便利なんだけど……ここには無いから僕が肩を貸すお!」
「あ、ああ、助かる」
 そう言って内藤は必死に前へ進もうとするが、その動きは遅々としたものだった。……それもそのはずだ、肩を貸すなんて言うのはいいが、内藤の背はそれこそ、俺の肩までしかなかったのだから。
「助かると言っておいてなんだが、やっぱり一人で歩く。なんとなく体の調子も戻ってきたようだしな」
「そ、そうかお? 実はすごく大変だったお。今度は僕が助かったお」
 チカチカと仮面の球体を点滅させながら、内藤がゆっくりと俺から離れる。多少はふらつくが、起き抜けよりだいぶ調子が戻ってきていたのは事実。だが、それ以上に必死すぎる内藤が見てられなかった。
 俺は隣で一息ついている内藤に対して、とうとう抑えられなくなった疑問を投げつけることにした。
「……なあ、内藤。なんかお前、小さくないか」
「背のことは言わないで欲しいお! 確かにネットでの僕は理想的な背に設定してあったけど、背のことは言わないで欲しいお!」
 なんて、長いもみあげを揺らしながら球体を真っ赤にして怒る内藤。……ダメだな、どうにもコイツと話していると“いつも通り”な気がしてくる。実際のところはいつも通りとはもっともかけ離れている現状なんだが。
 内藤とのじゃれあいもそこそこにして、俺は内藤に進むことを促す。二人して歩き始める頃には、体の不調を忘れるほどまで回復していた。



 部屋から出た俺は、一向に変わる気配のない陰鬱とした空気に嫌気を感じていた。どこを見ようとも乱雑に飛び出たパイプが目に入り、その度に蒸気が噴出す。切れ掛かった電球のような、辛うじて明るさを保っている、そんな通路は、服と同じように俺が想像していた未来とは違う現実だった。……白を貴重とした内装に、人間が生活するための負荷を最大限無くすような機械達が踊る未来。だが、現実と言えばボイラー室のような道が延々と続いているのみ。どうにも明るくはなれそうにない場所だ。
「なあ内藤、ここって結局なんなんだ? アイツは地下やら大空洞やら言っていたが」
 俺は気を紛らわすように、隣よりちょっと先でひょこひょこ歩く内藤に話しかける。
「言葉の通りだお。日本を含んだアジア全域に広がる地下施設、それがアジアネスト。僕達が今いる場所だお」
「アジア全域って、それも言葉通りなのか?」
「そうだお。武田君たちの時代で言う“未来”とはちょっと印象が違うかもしれないけど、技術力はそれなりに“未来”なんだお」
 全容を見てみないと判断しづらいが、アジア全域に地下施設を作れるほどの技術力と言えば、確かに未来だ。しかしながらそんな技術力がなんになるのか、なんでそこまで大規模な地下施設を作るに至ったのか。それらがわからないから、どうにも凄いとは感じない。
 不意にここが夢なんじゃないのかと錯覚しそうになる。突拍子も無い説明を聞かされ、見たことも無い場所で寝ていて。けれど、その度にギシリと軋む体が現実に引き戻す。……そんな現実を見せられたからか、柄にも無く、俺を置き去りにした親のことを思い出してしまう。海外へ赴任することになった父親、それについていった母親。何百年と経った今、二人が生きていることは無いだろう。
 なんて考えていた時、隣を歩いていた内藤が立ち止まった。
「どうした?」
「ここだお」
 そう言って内藤は鈍色の扉を指差す。歩いている途中で何度か同じような扉を見かけたが、どうやって判別しているのだろうか。俺には全て同じ扉にしか見えなかった。
 内藤は何を言うわけでもなく、扉に設けられたハンドルを回す。これを見ると、扉と言うよりはハッチに近いのかもしれない。そんな扉が開かれ、俺は内藤に続く形で部屋に入った。




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