『1』
これが君達と我輩である超人との差である事は、歴然とした結果である。
君達はこの『 』内に内包された情報をどの様に受け止め、感情に表したのか?
大方、1とは数字である、などと下らぬ発想で自己の想像力の貧窮を表したに違いない。
それ以上の者でも良くて数学的な、しかも幼稚で安易な解釈にすぎない。
仕方が無くはあるが、ここでその数学的な意味である『1』に触れておこう。
『1』を語る際にしばしば挙げられるのが『0』である。創造と言えるだろう。
この言わば『有』と『無』を表す言葉は、それすなわち万物の始まりである。
これは主に西洋の数術に関する話ではあるが、それは正しいと言えよう。
さて、ここで本題であるが、君達が最も好む年代の幼女は何歳だろうか?
私は小学校低学年である。あの鋭角的な姿と精神に突き進む様は素晴らしい。
幼稚園児と言う者も居る。それ以下と言う者も居るだろう。
しかし、今それについてどちらの趣向が正しいか、などと愚問する気は無い。
ここにあるのは、ただ純粋かつ、まるで奇跡とも言える様な万物の始まり、
それすなわち素晴らしい創造であり、運命意思とも言える様なのだ。
『0』、この卵の様なフォルムを見て欲しい。
なぜ古代エジプト人は、この様な形に零、無の概念を与えたのか?
なぜならば、幼女は生まれてから成長するまで、鋭角さを持ち合わせないからである。
生まれてきてから幼稚園児となるまで各々成長の違いはあるだろうが、
この卵型のプニプニという姿はどの様な賢者にも否定できないだろう。
幼女は成長し、小学校低学年という初めての社会的規律の存在する集団に属する。
そして精神だけでなく、身体の方も意思に関係無く成長し始めるのだ。
絶壁に生えた枝は、まるでそれを望んだかの様に鋭角的に空を抉る。
『1』、それはつまり、幼女の乳首が立った姿なのである。
初めての快感と痛みに戸惑いながらも、心拍の速度を上げながら、
緊迫した体は直立不動にその情緒を受け止めている様なのだ。
我輩の様な超人にとってこの姿は愛するべき者である。
息も切れ切れに自身の乳首を抓ってみれば、その様が伺えよう。
すなわち、古代エジプト人はこの様にいち早く気づいたのだ。
言わば古代エジプト人達の自慰はおおよそ乳首弄りだったに違いない。