例えるなら、この世界は砂時計。
真っ先に下界に落ちる砂粒と、最後まで上界に残る砂粒。
彼らは落ちないようにと、もがき苦しむ。
その尽力は、いつ水泡に帰すやも知れぬ。
世界は、たやすく、反転するのだ。
下界は上界。上界は下界。
世界は、いつ、反転するのか。
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元旦にも。七夕にも。どんな機会にも。
願うことはいつだって一つだった。
「この日常が続くように」
その願いは、今日の今日まで、どこかで受理されているものだという盲信があった。
俺の世界は、決して歪まない。
俺は傍観者だ。世界を外側から眺めていられればいい。
さながら、安楽椅子に腰掛ける哲学者のように。
俺の秩序は、決して蹂躙されない。
そんな盲信。根拠のない、揺ぎない自信。
当然のものは、当然のごとく崩れ去ると、知っていたはずなのに。
朝登校してみると、昨日よりもすさまじい異変を感じ取った。
うちの教室から人が溢れている。他クラスの生徒まで来ているようだ。
「何の騒ぎだよ・・」
野次馬というものは概して無尽蔵であるから、意に介さないように努めるのが
賢明であるとわかっていた。だがそれに関わらざるをえない理由もあった。
教卓の前・・・黒板が騒ぎの爆心地のようだ。そこを中心にして、群れはできている。
「座れないじゃないか・・・」
ここで席替えを恨むのはお門違いだともわかっていた。
だから、野次馬心理とは脅威だなと自分を諭すような心持ちで、教卓に向かった。
だが、これまでの、それなりに暢気だった思考回路は、
一瞬にしてフリーズした。
「何だこれは・・・」
黒板に貼られていたのは、何枚もの写真。幾重にも重厚に貼られていて、上の層のそれは
今にも剥がれ落ちそうになっている。
写真の内容は、女子生徒のあられもない下着姿。体育などの更衣時間の間に
撮られたのだろうか。
「入谷君・・・」
俺の服を引っ張っているのは委員長。
「ああ」
含みを持たせるように、野次馬の中でも掻き消されないように、返事をした。
事態は、深刻だ。
キーンコーン
だが数分前の俺よりも暢気だったのは、チャイムの音。
暢気な響きだったにも関わらず、それは俺の頭の中で、鈍く、反芻された。
野次馬はそれぞれ嘆きを漏らしながら、各々のクラスに散っていった。
残ったのは、うちのクラスの面子と、否定しがたい沈黙。
事態は、深刻。なぜなら。
そろそろ・・あいつが・・重役出勤してくる頃・・・
「・・・・・はあ・・?」
そこに立ち尽くしていたのは、相川だった。
自分が露に写った写真を目の当たりにして、愕然としている。
当然の反応だ。彼女だって、小さな・・・無能な・・・人間・・・
「・・・何よ!これ!!」
いつもよりも、真に迫る、怒号。
「誰よっ!誰がやったのよ!!」
皆が、顔を背けている。今のこの事態は、無いことのように。
「誰なのよ!」
相川の問いに沈黙で答える。
「誰がやったかって聞いてんのよ!」
無言の重圧。
「あんた!?」
近くの男子に物凄い剣幕で掴み掛かる。写真の内容からして女子を先に疑ったほうが
無難だという着想は、もはや浮かばないらしい。
いや、というより、この写真を見た誰もが、一度は真っ先に
「彼女」に疑念を向けたのではなかろうか。
雪村。
彼女もまた猛る相川に対して、沈黙を盾にして、硬直していた。
相川にいじめられていた彼女が、報復のためにやったと考えれば、一貫する。
だが同時に彼女にそんな気概があれば、今までいじめられやしていないだろうという
論理も有効だ。
「もしかして」
俺は委員長に向けて言ったつもりだったが、彼女には届いていなかったろう。
「最近の不審事件と関連性が・・・?」
生徒が未知の被害に連続して遭遇している事件。教師たちも、犯人の影すら踏めず、
半ば妥協に近い姿勢をとっていた、最近の不審事件。
しかしながら教師たちには、少なからず安堵にも似た感情があったに違いない。
なぜなら被害に遭った生徒たちは、何かしら素行の悪さが目立っていた輩だったからだ。
これに懲りて、素直に学校生活を送ってもらえればと期待はしていい。
面倒が増えたと同時に、面倒が減ったのだ。
素直には喜べないだろうが、その複雑な心境は察してあまりある。
悶々として、問題点に関する思弁を重ねながら、ふと黒板を振り返る。
すると、これまでそれなりに冷え切っていた思考回路が、
今度はオーバーヒートしそうになる。
「これ・・は」
黒板に貼り付いて山となっていた写真の脇に、マグネットも貼ってあった。
それは、そのマグネットに掛けてあった。
「鍵」
そっと
「コスモスの・・・鍵」
つぶやくように。
「なんでこれが・・こんなところに」
これは、俺しか所持していない物だったはず。姉さんが・・俺にくれた・・
いや、冷静になれ。
レプリカ?違う。たまたま類似したキーホルダーがついた鍵なだけだ。
違う。だからといって。そんな物がなぜここにある必要が?
誰かが?意図的に?何のために?誰かって誰だよ?
この事件の犯人?だからって何故そいつがこんなものを?
何故コスモスの鍵を?わからない。いや、違う。
「俺への・・・メッセージ?」
問いにならない問い。
問いを問いで殺しては、新たな問いが浮上する。
「それは・・自意識すぎる」
もはや最大の関心事はすっかりそちらに移行して、相川の怒号も気にならなくなっていた。
教室を見回してみる。クラス中の生徒が、居心地が悪そうに、青ざめて、
相川をなだめようともせずに、ただただ呆然としている。
委員長も。雪村も。
皆画一になって、沈痛な面持ちをして、黒々としたユニゾンを。
そのなかで、
唯一、
こんな状況を前にして、
皆が必死に、雰囲気に押しつぶされそうになるのを、耐えているなかで。
その顔に、笑みをたたえている者がいた。
何故オマエは笑っている?笑っていられる?何に対して?
常人には不可能な所業だろ、それは。
いや、「浮いている」というべきか。
黒峰。
ただ彼女だけが、ユニゾンを唱えていない。
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それからというものの、一日は静かに閉幕した。
騒ぐだけがとりえだったうちのクラスは、すっかり脱色されて、色あせていた。
授業の最中も。教師たちはそれを、表面でしか受容しなかっただろうが。
相川もその日は大人しかった。だが、それはクラスが秩序に治まったわけじゃない。
そんな押し付けの秩序じゃない。俺が欲しかったのは。
喜ぶべきことじゃない。こんな不気味な静けさは。
これは、決して俺が望んだ静謐じゃない!
チャイムが放課後を告げる。
何かから逃げるように。何かを振り切るように。
俺は教室の外に出た。
廊下は放課後にいそしむ、嬉々とした生徒で満ちていた。うちのクラスをよそに。
騒がしい。
その雑踏を聞いている。
俺はそのなかを通っていく。
そのなかで、一つだけ、異質な足音を聞き分けている。
「丁度よかった」
俺はその足音に呼びかける。
「聞きたいことがあったんだ」
後ろに振り返りながら。
「オマエだってそれは同じなんだろ?」
その足音は止まる。
「黒峰」
彼女はまた、うっすらと笑いを浮かべる。
「ただ、尾行なんていうのは気に入らない」
くわえていた飴玉を、口から出して。
「ええ。そうね。謝っておくわ」
謝罪ともつかないくらいの加減で、頭を若干下げる。
「そのかわり」
そして彼女は、自分の制服からそれを取り出して、俺に見せた。
「連れて行ってあげるわ」
チャラン、と金属質の擦る音を奏でて。
「この鍵でね」
コスモスの鍵を、取り出した。
俺には、彼女を問い質す必要があった。
砂時計が落ちる前に。
世界がまた、反転する前に。
これ以上、もっと恐ろしいことが、起こらないうちに。