「なんで投げたよコレ……?」
俺、ちゃんと自分のリスバン着けてんぞ。
白地に水色と青のラインが入ったこのリストバンドは、中学校の時から恵姉がずっと大事に使い続けているものである。こいつは普段の練習では使われず、こうした公式戦の檜舞台で満を持したようにお目見えする恵姉大のお気に入りだ。
確か『着けると力がみなぎってくるような気がすんの♪』とか言ってたっけか。効果が薄まらないように使用頻度を抑えているんだとさ。
「ってか両手に着けろってことか? それとも片腕に2つ??」
普通、リストバンドはどちらか片方の腕に着けるのが一般的だ。両手に着けることはあまり無く、テニスに限って言えば利き腕の手首に着ける事が多い。理由もごく単純で、汗が腕を伝ってラケットに流れてくるのを防ぐためだ。ファッション感覚で両手に着けたりもするが、汗を拭う分には1つで十分だったりする。
で、今! 俺の右手首には既に黒のリスバンがしっかと陣取っているワケで。
つまり、そういうこった。
「君の居場所は無いハズなんだけどねぇ……。待てよ、ひょっとして恵姉のやつ、まさか本当にコレ着けたら力がアップするとか思ってるんじゃ……!?」
いやいやいやいや! いくらなんでもドリーマーすぐるだろ!? ど、どんだk(ry。
「どうしたんだー? 主審が呼んでるぞい。ちゃっちゃかコートに戻れってさー。」
ボールを拾ったまま俺が1人で宙にボケたりツッコんだりしているのが心配になったのか、宮奥さんが駆け足でこっちにやってきた。
「すみません、何でもないっす。リストバンドを恵姉に投げつけられ……んんっ!?」
「ん? リストバンドが何だって?」
「いや、なんか字が……。」
「字??」
よく見ると、リストバンドの裏に何か書いてある。
ひっくり返してみると、いくつかの言葉が連なって書かれていた。試合ごとに汗で文字が滲んでしまうからか何度も上から重ねて書いた跡があり、かなり文字が太く濃くなっている。
「で、何て書いてあるんだ? 読めそうか?」
「はい……。冷静に、相手に楽をさせるな、何を嫌がるか考えろ、ファイト私……私!?」
「ちょwwwwええっwwwwww。」
宮奥さんは俺が読み終えるや盛大に吹き出してしまった。俺も釣られて笑いたいところではあったが、笑うと猟奇的な彼女に後から何をされるか知れたものではないので自重した。
「自己アドバイス!? おい渡瀬、神崎さんってこんなキャラだったの!? 超意外ww。」
「たはは……。流石に『ファイト私!』は俺にも予想外です……。」
「バロスwwww。」
ひとしきり笑った後、宮奥さんは膝を折ってしゃがみ込むと、シューズの紐を解いて結び直しながらゆっくり続けた。
「いや、まーでもこれって神崎さんからの叱咤激励って事だもんな。このまま何も出来ずに終わっていいの!? って、俺たちに言ってるんだよな。」
「ですね。ちょっと頭冷やしてもらいました。試したいことも見つかりましたし!」
「えっ、試す? 何をだ???」
「フッフフw。悪を制するためにはやっぱ悪……ですよね?ww」
「ナ、ナンダッテー!!??」
びっくりしていつもよりまばたきが3割くらい増えてしまっている宮奥さんに、たった今思いついた作戦内容を掲げていく。と、途端に先輩の瞳は急にらんらんと輝きを増し始めた。
「あれだけの実力があるのにどうして3番手かなー、って思って。しかも、ああまで露骨に俺たちを挑発するってのは……!」
「なるほど、そういうことか。確かにアリかもだな……。俺らも少し大人し過ぎたしな!」
「はい! どうせ次取られたら負けなんだし、こうなりゃトコトン暴れましょう!」
「オッケー!」
サンキュ、恵姉。このまま無様に負けてたまるかってんだ。しっかり見ててくれよ!
ここから俺のドトウの反撃がはj――。
「渡瀬・宮奥ペアっ!! 早くコートに戻って下さいっっ!!!」
「「は、はい!」」
やっぱり審判に窘められてしまいましたとサ。カッコつけてる余裕も無かったわな。
よし、行こう。これで駄目ならしゃあない!
恵姉のリストバンドを着けた左手首を右手で目一杯握り締めて、俺は覚悟を決めた。
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「おい岩崎、あいつら一体何やってんだ?」
目の前に広がる異様な光景を前に、隣に座る永野も首を傾げている。
と言うのも、宮奥と渡瀬はボールを拾いに行ったまま何やら怪しげな作戦会議を始めてしまったからであった。2人がひそひそやっている場所は俺たちの座るベンチからやや離れているので、あいつらが何を話しているのかまでは聞き取れない。
「見た感じだと何だか渡瀬の話に対して宮奥がしきりに頷いているようだな……。」
「おいおい何やってんだよ全く……。イワ、ちっと注意したほうが良いんじゃないか?」
俺の後ろから鬼木も顔を近づけ声を掛けて来る。
「そう、だな……。」
おーいお前ら、あちらさんも訝しげに見てるんだがなぁ。早くコートに戻れー。
当然俺の心の声が届くはずもなく2人はそのまましばらく会議を続行させていたのだが、痺れを切らした主審が注意を促すと、やっとこさこちらへと戻ってきた。
「何か状況打開への具体策でも練っていたのか……? 岩崎、お前どう思う?」
「うーん……。状況が状況だからな。何にせよインターバルが必要だったんだろう。」
この試合を制するのが正直言ってかなり難しい情勢であるのは最早疑いようがないからな。渡瀬には悪いが、今日の向井は特別に出来すぎている。
「でもよ、その割には宮のヤロー、妙にニヤけてねぇか?」
負けてるってのに気楽な奴だ、とため息交じりに鬼木は続けると、腕を組んで再びコート上の4人に視線を移した。
確かに鬼木の言う通り、宮奥と渡瀬を包む空気が軽くなったような感じを受ける。何か相手攻略の突破口でも見つけたのだろうか?
そんな俺たちの心配を、2人は吹き飛ばした。
……とんでもなく荒療治だったのだが。
カウント1-3から再び試合が再開された。
「ハイ!!」
渡瀬の掛け声とともにサーブが放たれる。向井がそれをバックハンドで返球したが、ボールは勢いに押されてネットに掛かった。
ポイント2-3。もう1ポイントでデュースに持ち込める。ベンチが沸きあがる。
「よし、ナイスサーブだ渡瀬。」
俺は静かにガッツポーズをしていた。
その瞬間。
「もうけもうけ!! はい、ラッキーだぁぁぁ!!!!」
突然、宮奥が大きな声で向井に向かって挑発したのである。
それまでポイントを捕った時は渡瀬と2人で喜んでいたので、宮奥のこの行動には俺はもちろん、星和ベンチ全体をどよめかせた。
でも、一番驚いたのは対戦相手の向井だ。
「んだとコラ!!!!! 死ねやワレェ!!!!」
途端に名治商ベンチから唸り声が上がる。
「さ、最終的な答えはこれか……。」
そう。ケンカ・ファイトが始まってしまったのだ。
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恵姉から貰ったゲキに、1つ気になるワードが書かれていた。
”嫌がるプレー”だ。
精神的に揺さぶれば、向井も調子を崩すかもしれない。その為にできる事がないか考えた結果、思いついたのが『横内作戦』だった。
「いよっしゃ、もーけ!!」
まず、敵のミスには思い切り過剰に反応する。どんな小さなコトでも良いから、いちいち過剰に喜ぶようにする。相手からしたら喜ばれている姿を見たらそれだけで癪なはずだ。
「ハイもうけ、一本追加ねー!!!!」
それから獲得した1ポイントごとに相手を煽るのも忘れない。相手に深い精神的ダメージを与えて正確な判断力を失わせ、普段のプレーを出来なくさせる狙いだ。
これらは全て過去に自分がヨコに受けてきた作戦だったから、効果は絶大だ。向井に効くかはわからないが、先に仕掛けてきたのはあいつらだから、こちらもとことん悪になってもいいはずだ! 目には目を、煽りには煽りを、だ!!!
やけっぱちで思いついた俺の作戦は、しかし絶大な効果をもたらした。
宮奥さんのたった一言の煽りで、向井のプレーに揺らぎが生まれたのだ。
先制口撃でペースをつかんだのに気をよくしてプレーを充実させていた向井はその実、セルフコントロールに不安を抱えていたようだ。とにかく煽られるのに弱いようで、それまで完璧だったショットにも次第にミスが出だしたのだった。
その後も俺たちは審判に注意されるギリギリのラインで煽りつづけてこのゲームを奪取、ゲームカウントを2-3に戻し再びチェンジ・サイズとなった。
「やったな渡瀬! 効果適面じゃないか!」
「はい。俺も昔はああでしたからね。あーなると自分を保つのが厳しいんですよ。」
まあ単なる経験則だけど。でも、昔の俺と向井は何となく似ているような気がする。
よーし、ここからだ。
勝利へのわずかな光。この手ごたえは逃さない。
第5ゲームが終わり、俺はコートからベンチへ向かって体を反転させた。
「ふいーっ……。」
まあ、なんとかやれそうだな。
向き直った視線の先にはみんなの笑顔と歓声が待ち受けていて、ベンチ前に戻った俺たちは先生や先輩たちから温かく迎えられ――――。
なんていう癒し的な展開を卑しくもちょっと期待しつつ振り返る。するとどうだろう、俺の視界に飛び込んできたのは、シンと静まり返ったみんなと、口を真一文字に結び腕を組んで微動だにせず立っている先生の姿だった。
うん、間違いなく怒ってるね。やばいな。
殺意にも似た鋭利な眼差し。先生からにじみ出ているこの殺伐とした雰囲気を、仮に効果音をつけて視覚的に表すとするならば、もうほぼ『ドォォォォン……!』で決まりだろう。
……などと言う現実逃避じみた妄想を抱きながら、ここに来てベンチへ向かう急な足取りの重さを自覚しつつある俺に向かって、
「わ、渡瀬。このまま反対側のコートに行ったら駄目かなぁ? 俺、戻りたくないっぽい。」
隣を歩く宮奥さんもぽつんと本音を囁く。ですよねー。
「でもそんなことしたら試合後に何をされるか……仮に勝ったとしてもですね……。」
「……、だよなあ。こりゃ甘んじて説教をうける以外に最善手は無し、か。」
「そのようです。」
そうこう問答を続けている内に、嗚呼、俺たちはベンチに着いてしまった。振り返ってから時間にして約20秒程だろうか。かなり濃密な20秒だったことに、何も疑いの余地はない。
先生の前に並んで腕を後ろに組み、背筋を伸ばして指示を仰ぐ。
目線を先生から離すことはしない。と言うか出来ない。うっかり余所見でもすれば、必殺マリ・ストレートが繰り出される可能性が大だからだ。いのちだいじに。
そのまま星和ベンチを静寂が包み込む。次第にベンチの後ろの応援席からも、この異様な光景を前にしてざわめきが大きくなり始めてきていた。
「…………褒められたものじゃあ、ない。わかってるよね。」
長い長い沈黙を破って、その薄紅で縁取られた小さな唇から恐ろしく抑揚のない声が吐き出された。
マジで怖い。額に、背中に、変な汗が湧いていくのを感じる。
どうかその無表情をやめていただけないでしょうか……?
「仮にも紳士のスポーツともあろう競技がこれ? ただのケンカじゃないの!」
「「……!?」」
おや、様子が変わった……か?
「はぁーっ……いい? アンタたちの仕出かしたケンカの後始末すんのは私なのよ? 名治商のカントクってね、この辺りじゃ有名な暴れん坊なの! これどういう意味かわかる!?」
「「……え?」」
はいぃ??
「喧嘩両成敗にはならないの! 私がひたすら頭を下げる展開が今から目に見えてんのよー。ちょっと回れ右して見てみなさいよ、あれ。」
先生はそう言うと俺たちに後ろを見ろ、と顎で合図した。
恐る恐る振り返って相手方のベンチをよく見ると、なるほどVシネチックなオッサンが今にも殴りかかりそうな剣幕で向井たちに罵声を浴びせている最中だった。
金縁のサングラスにビシッと決まった角刈り。ややメタボ体型だが、いかにもな感じだ。
「どっかの組長みたいな感じでしょ? みんな怖がってあの人には何も言えないのよ。」
「ひえーっ。渡瀬、俺たちさっきまで向こうのサイドでプレーしてたんだよな? ってかまたこれから行かなきゃなんないんだよなぁ……。」
「そう、なりますね……。」
「わかった? はい、こっち向く。」
元の隊形に戻れっ、てな感じに2人で再度回れ右。
「もういい、好きにやんなさい。実を言うとね、ちょっとあんた達にがっかりしてたトコもあったの。あんだけコケにされて黙ってるなんてーってね。でもまあやっぱり男の子だわね。」
先生は俺たちが売られたケンカを『買った』ことに、ちょっとスッとしたらしい。
「こうなったら意地でも試合に勝って私に気分よく謝りに行かせて頂戴。負けて尚謝るなんて悔しいったらないもの。次取ってファイナルよ、いいわね!」
「「は、はいっ。」」
これは昨日の再現なのだろうか。もう一度言っておかなきゃいけないのだろうか。
絶対に、負けられない戦いが、ここにもある――――と。
どんよりとした雲に覆われて小康状態を保っていた星和コート上空にようやく陽の光が射しはじめてきたのは、運営本部前に掛けられた大時計も午後4時をまわり、一日も終盤戦にさしかかろうかという頃になってからだった。既に今日の試合日程を終えてネットが外されているコートも増えだして、試合が続いているコートは数えるほどになっている。負けが決まって帰宅の途につく学校も目立ち始めてきていた。
そんな中、俺たちのコートの周りは開始直後より逆に賑わっていた。
おそらくはさっきまで試合をしていた学校の応援団やらが集まってきているのだろう。ベスト4進出を決めた学校は、主に偵察を兼ねた高見の見物で。逆に敗退してしまった学校は、目一杯ボードに埋められたスコアを見て、折角だからこのまま試合の行く末を見届けてから帰ってもいいだろう、とかそんな感じだろうか。
第6ゲームも何とかものにしていよいよこれからファイナルゲームなのだが、とにかく辺りが騒がしいのでプレーしづらいったらない。俺は特に目立ちたがりな性格でもないので、このシチュエーションを少しも美味しく感じられないのが残念だ。
て言うか俺等の苦労がそんなに面白いか、この野次馬ども!
「ふーっ。なんとかここまで来ましたね。ぶっちゃけ、少し疲れました。」
「フフ、俺もだよ。やっと並んだな。こっからは気持ちが切れた方が負けだぞ。」
「はい。もっかい集中ですね。」
後ろの名治商ベンチから浴びせられるブーイングの嵐を背中に感じながらの会話にも、もう慣れた。既に体は汗でびしょびしょになってるけど、それも気にならない。
余計なことを考えないでいられている。ただ、目の前のボールに反応して打つだけ。
顔面と手のひらに全体に感じる汗をユニフォームやリストバンドで拭きながら、コート上でわずかなインターバルを過ごしていると、不意にネットを挟んだ向かいの星和応援席から大きな声援が俺の耳に届いてきた。
目を向けると、ゲンキをはじめとするエロ軍団が陣頭指揮を執りながら恥ずかしがる諸先輩方に声を出させていたり、女子部の皆もこちらに向かって黄色い声援を一生懸命送ってくれていた。皆蒸し暑い天候にも負けず、額に汗を浮かべながらも声を出してくれている。
その様子を見ていてふと、俺は胸にこみ上げるものを覚えたのだった。
「宮奥さん、俺たちってすごく幸せ者ですよね。」
「ああっ!? 急にどうしたww。」
「いや、皆自分の出る試合でもないのにあんなに必死に応援してくれてて。ここまでテニスやってきてよかったなぁーって、今心から思います。ちょっと泣いちゃいそうです。」
「ははっ。それが団体スポーツの醍醐味だよな。」
苦しいときも、悔しいときも、いつも皆で一緒に乗り越えてきた。
嬉しいことも、楽しいことも、皆で味わえば喜びが何倍にも増した。
体を鍛える為に始めたテニスだったけど、本当にたくさんのものが自分に返ってきた。
テニスに出会えてよかった――――。
俺の顔を見た宮奥さんは、こちらに近づくとラケットで俺の頭をポン、と軽く叩いた。
「コラコラ、湿っぽくなるのはまだ早いんだぜw。」
「……ですねw。」
「勝ちに行こう、渡瀬。あと7ポイントだぞ。」
「はいっ!」
主審のコールが掛かった。いよいよ最終局面を迎える。
「さあ、こーい!」
「一本集中ー!!」
「っしゃぁ!」
「先手先手ぇ!!」
もう挑発的な態度もすっかり無くなり、純粋に勝負を挑んできている向井の右手からボールが宙を舞えば、ファイナルゲームの火蓋が斬って落とされる。
長かった試合も、これで終わりだ。
無心に、ただ無心に。追いかけて、打つのみ。
いざ、尋常に。