「……、……。それではコップを持って! せーの、乾杯!!」
「「「「「カンパーイ!!」」」」」
インハイ出場の関門・ベスト8入り。それを目の前に儚くも散った岩崎さんペアを幕引きにして総体が終わりを告げ、3年生たちは揃ってコートを卒業した。
1年の時から既に星和の次代を担う黄金世代と期待され、またそんな期待に応えて余りある実績を収めてきた先輩たちが居なくなると、部室は一気に広さを増した。
それはきっと、ただ単純に頭数が減ったからというだけではなく、それまで凛として常にそこに在り続けた『存在感』がすっぽり抜け落ちてしまったからだろう。或いは、入部当初から変にいびったりせず、右も左もわからない俺たちを優しく迎え入れ指南してくれた“お兄ちゃん”が居なくなってしまったことに対する寂しさが、そう感じさせているのかもしれない。
「あ、こら! 俺の肉捕るな!!」
「あら、こりゃ失敬。でもいっただっきまーす……ん、美味っ! 功一くんはホント上手に焼き上げるわねー。私の専属シェフにしてあげようかしら」
引退組の使っていたロッカーは、替わって俺たちの愛箱となった。決して広いとは言えない収納箱。でも、そんな事気にもならない。念願悲願のマイ・ロッカーだもの。嬉しいことといったらもう、何とも筆舌に尽くしがたい。
何せ、これからは部室の中で着替えが出来るんだ。やったぜ。これは泣ける。
毎日毎日外で猿脱ぎして(ゲンキをはじめ平気で裸になる連中もいたが)、女子や他の部の連中から否応なく受け続けられていた厭視線にも、ようやくお別れだ。嗚呼なんと長かったことか。
「もう、いづみったら変なコト言ってんじゃないの。だいたい功なんて肉焼く以外にまともな料理の腕もってないんだから」
「うっせえな。恵姉だってこないだまで目玉焼きすら失敗してたじゃねーか」
「う、うるさいわね。今はもうちゃんとカラを入れずに卵だって割れるわよ!」
「め、恵……。それくらい、今時小学生だって失敗しないってば……」
今後向こう1年間俺の専用になるのは、マジックで荒々しく「永野」と書かれたロッカー。先輩には「いつまでも自分の名前が残ってんのも恥ずいし、ベンジンでよう消しとけ」と照れ混じりにお願いされたけど、その申し出に答えられるのはもう少し先のことになるだろう。
副キャプテンとして部を支えている、という確固たる自覚。それを自分なりに感じられるようになるまでは、静かな名参謀を綴るこの黒きあざなを残し続けて、しかと見届けてもらおう――そう決めたから。
「そ、それより功、いい? 今日はレア禁止よ。わかってるわね?」
「くどいっつーの。二度とあんな辛い思いしたくねーもん。焦げるまで焼くってばよ」
「ったく、どの口がそんな偉そうな文句を垂れるかねえ……」
そして総体の終わった翌週末である今日ここに、3年生の追い出し会が行われているという訳だ。今いる場所は、総体1日目の夜にプチ祝勝会をしたあの焼肉屋。色々な意味で思い出に残る場所だ。絶対に忘れられない思い出が、ここにある。
と言うか、せっかくこうして俺が胸に秘めたる堅い決意に思いを馳せているというのに、このお姉さんたちはさっきからごちゃごちゃとうるさいったらない。もう誰でもいいからふたりをイイ感じに黙らせてほしいぜ、まったく。
幹部交代式は追い出し会の式次第に組み込まれてしめやかに執り行われた。頼もしくもあり厳しくもあり、そして何よりとても優しかった先輩たちからいよいよ星和ソフトテニス部運営のバトンを受け取ると、責任感と大きな喪失感が襲ってくる。そう感じたのは俺だけではなかったようで、締めの挨拶を前に、マネージャーや先生も涙を見せ、皆ちょっと湿っぽくなってしまった。でも、自分たち後輩なりに、最後しっかり先輩たちの背中を押してあげることが出来たんじゃないかと思う。
大会前に言われてからずっと迷っていたが、俺は結局最後は半ば強引に土俵際に寄り切られる形での副主将就任となってしまった。1年での幹部就任という大役。これには少しというかかなり気が引けた。きっと2年生の誰かから調子にのんなてめぇ的視線を受けるに違いないと思ったし。だって思うだろ普通さあ。
「頼んだぞ、1年の星!」
「俺たち2年を引っ張ってくれよ!」
……あっさりでした。
とまあ、そんな懸念(期待)も鮮やかに裏切られ、すんなり俺の副主将の任は承われてしまったわけなんだけど。うん、よくよく考えれば2年生にとっては美味しい展開と言えるのかもしれない。面倒な仕事を後輩がやってくれるって言うんだもんな、そりゃうめぇわな。
って、いやいや、ねーよ。そこは先輩としての自覚やら責任感をもっと持ってよ……。
「えー……っと、少しでもこのチームの力になれるよう精一杯努力します。その、至らないところばかりで迷惑をかけるとは思いますが、よろしくご指導ご鞭撻の程ですね……」
「コーイチ、堅いぞーっ」「渡瀬議員、当選確実でーす」「わったっせ! わったっせ!」
やっぱり慣れない。スピーチは嫌いだ。俯いて早口で口上を述べ、恐る恐る顔を上げてみると、案の定皆ニヤついていやがりました。女子部からもクスクスといった声が聞こえてきて、さながらピエロな俺の気分はその時限りなくブラックに近いブルーでした。死にたいです。ああ、先輩たちはともかく調子に乗ってる同級生諸君よ。後で処刑するから待ってやがれ――。
壁掛け時計が鳴って目が覚める。どうやらまどろんでしまっていたようだ。時間はお昼の1時を回ったところ。最後に時計を見たときから15分位経過している。現実に引き戻されてしまい、俺はまたひとつため息。幸せがまた逃げたかもしれない。
「ふああ……」
大きなあくびが出た。止めようとしたけど無理だった。眠いぞこんちくしょう。
晴天に恵まれた日曜日なのに、目を背けて来た試験範囲の復習に時間を食いつぶされてもう何度死にたくなったかわからない。数学の教科書を眺めているうちに俺の脳は思考を停止し、何度目かわからない夢回想モードに切り替わっていた。今度は昨日の夢かよ。
「コラ!」
ばしり、という音とともに頭上に衝撃が走る。これももう何度目だろう。
「何すんだよ。なかなか痛いぞ恵姉」
「うるさい。集中抜けてんの顔見てりゃわかるっつーの」
「嗚呼、今ので俺の愛しい脳細胞たちがまた恵姉に殺された。謝れ、脳細胞らに罪はないぞ」
「うっせ馬鹿死ね! はやく解け!」
いかんせん問題を解きたくないので、さっきからこうして恵姉にちょっかいを出しては、たしなめられるという繰り返しを続けている。お陰で俺も恵姉も全然勉強がはかどらないというデスループだ。
無論、辞めるつもりはない。テストは再来週だからまだ日にちに余裕があるし、これはこれで非常に楽しい。この無意味なやりとりが、今は癒しという魔法に変わっている。
「うるさいな。これじゃあひとりで勉強したほうがよっぽど進むっての。邪魔すんなよ恵姉」
「はあ? アンタが赤点とらないようにわざわざ家庭教師してやってんじゃないの! いいわよ、功がそれでいいならアタシは部屋に帰るまでだし。じゃあね」
アホ、と言い残して恵姉がテーブルに着いていた腰を上げる。うーむ、怒っているな。
けど、ここで大事なのは下手に謝らないこと。条件提示攻略術が鉄則だ。ヒヒ。
「へー。別にいいけど。じゃ、コロンブス食べ放題権は放棄しちゃうってことでいいよね?」
「ぐっ……い、いいわよ別に。いらないわよ」
「そう。じゃあ寺岡先輩と行こうっと」
「え? ちょっと、なんでいづみが出てくんのよ!」
「別に誰と食べにいったっていーじゃん。俺さ、前に恵姉のあずかり知らないとこで先輩にお世話になってるんだよね。だからこの機にご馳走してマスターに特別メニュー作ってもらうってのもいいかなーって。何か問題が?」
「うっ……」
これはゲンキの『リフレッシュ大作戦』の時だ。まあ、理由なんて何でもいい。どうせ行くつもりはないし。第一俺が先輩を誘ってデートだなんて、考えただけで無理難題だ。血迷って誘おうとでもしてみろ、舌を噛んで死ぬかもしれない。若しくは大量発汗で蒸発だな。
「でも、どうしても恵姉が食べたいっていうなら、先輩には悪いけど次の機会にしてもらおうかな、とも思ってるんだよねー……さあ、どうする恵姉!」
「わかったわよ。ここにいればいーんでしょ。わからない所は何なりと聞いてください」
「そうでなくっちゃ!」
「はあ、なんでこーなってんのよ……」
へへ、うまく丸め込めたぜ。コロンブスで奢るといっても、あの甘い甘いスイーツはそう何品も頼めないし。せいぜい野口さん2人ってとこか。それで赤点が回避できるんだったら上出来だな。
呆れた様に首を振る恵姉を見て悦に入っていると、テーブルに置かれたケータイが鳴った。
「あ、アタシだ」
「誰だ? 先輩かな。まさかコロンブス行こうとかじゃないよなー。いや、それもいいぞ」
「おい」
天城越えのサビが流れてくる。なんと渋い選曲だろうか。何歳のご婦人だよあなたは。
そう思いつつ何気なく恵姉から視線をイルミネーション・ウィンドウへ移す。と、俺は自分の体がみるみる硬直していくのがわかった。
『草原清夏』
答えを出せないまま経過した、2週間目の出来事だった。