南牟礼老人の朝は早い。あくまで一般論だが老人の起床時間は早く、ごそごそと動き回る事でまだ夢うつつの家人を無理やり眠りから引き戻したりするものである。大層迷惑がられるのだが、南牟礼老人の場合、夜遅く仕事から帰ってくる息子と、それを待って床に就く貞淑なその嫁を気遣い、目を覚ました後は1時間以上かけて散歩に出るのが日課となっていた。
老人には日課があった。老人の家から一里四方には児童公園が6つ。大きな公園が1つあった。その全てを散歩の道すがら立ち寄り、鳩を餌付けするのである。近くに幹線道路ができたことでやや寂れた商店街の一角で老人の息子はパン屋を営んでいた。パン焼きの修行にイタリアに渡っていた息子の焼くこだわりのパンも、売れ残って持ち帰れば、こうやって鳩の餌と成り下がる。それでも鳩にも味覚があるようで、老人の餌付けにより舌が肥えた鳩達は近所の小学生が持ち帰った給食の残りのコッペパンなど跨ぐ始末である。
そしてその日課を終えると老人ははす向かいを三軒行ったところの牛乳受けから牛乳を拝借。喉を潤すのだ。あまり感心しないことではあるが、この家の主のババアは飼い犬の散歩の際、老人の玄関先に糞をさせるのである。そのささやかな仕返しでもあるし、週に一度やるかやらないかの牛乳泥棒であるからして、老人は当然の権利のように受け止めていた。
そして自宅に戻るとスポーツ新聞を熟読する。特に一面を中心とする野球欄を。
1988年10月1日。その日も老人は朝5時前に起床。雨が少しぱらつく曇天模様ではあったものの、いつもの散歩道を上機嫌で闊歩していた。というのも、彼が何よりも愛するプロ野球球団、大阪ダイナマイツが昨日の香川ブルーオックスとの試合を14対2で勝利し、破竹の11連勝で2位に浮上したのである。
シーズン序盤で主砲の秋田がアキレス腱を断裂。チームも出遅れていたのだが、首位を独走していた武蔵野グリフォンズが8月に入って失速。2位につけていた佐世保ブラックドックスと併走する形となった。そこにダイナマイツの猛追でペナントレースは鼎戦の様相を呈してきた。もしダイナマイツが優勝すれば1964年以来、24年ぶりのリーグ優勝となる。
老人はその瞬間を想像するだけで総毛立ち、尿が滲むような感覚に襲われる。
自分が物心ついたときにはすでにこの街にはダイナマイツがいた。赤子が言葉を話すのと同じ自然さでダイナマイツを応援するようになった。長い歴史の割には栄光の時は短く、変わりに冬の時代ばかり長かった。まだ老人が中学生だった頃に日本シリーズを制したものの、それがたった一度だけの日本一。主力選手の相次ぐ流出とそれを助長した球団フロント陣の腐敗。何度ファンをやめようかと思ったことか判らない。それでも老人はダイナマイツを愛し続け、応援し続けた。それが自分の人生であるとすら思い、長い雌伏を耐え続け、ようやく今年は久々の歓喜に沸く好機なのである。
まだ首位のグリフォンズとのゲーム差は3ある。残り試合は6戦と限りはあるものの、グリフォンズの日程があと2戦しか残されていないことを考えれば、かなり有利である事には違いない。
もし本当に優勝したらああしようこうしようと、取り留めのないことを考えながら老人は巡回ルートを巡り終え、帰途に就いた。自宅近くまで帰って着た時には雨足は本格的になろうとしていた。老人は駆け足で郵便受けに向かい、日刊エブリスポーツを引き抜いて玄関を上がった。
玄関の右奥にある台所では息子の嫁のあきらが朝食の準備にかかっていた。味噌汁の香りと共に甘辛い香りが鼻腔をくすぐる。良い匂いだが、どうやら昨日の残りの肉じゃがを暖め直しているだけらしい。
味噌汁、肉じゃが、それと昨日に玄さんが持ってきた土産のべったら漬け。朝食のメニューを読み切った所で、居間のテーブルに座り、老眼鏡をかける。今日のエブリスポーツはビニール袋に包まれていた。雨の日は新聞が濡れないようにという新聞屋の例のアレである。
さて、昨日決勝タイムリーでプロ初のお立ち台を飾った苦労人の山口の記事でも読むか。そう思いながら老人は梱包を解いた。が、山口の記事は一面にない。いぶかしく思いながらも老人は二面、三面とめくってみる。4面目にようやく昨日の試合の記事を発見したのだが、ダイナマイツの太鼓持ち記事しか書かない筈のエブリスポーツがこんなおかしな紙面構成にしたことは一度もない。
さては新聞屋め、間違えて報日スポーツを配達したか?そう思い一面に戻り誌名を確認したが確かに日刊エブリスポーツと見慣れた書体で書かれている。その時、誌名の欄から老人の視線が左に滑った。最初の時にはあまりの衝撃に老人の脳が意図的に認識しなかった一面記事がそこにはあった。
「大阪ダイナマイツ 身売り!?」
大きく赤字で踊るその文字の意味を理解するのに老人は数秒を要した。そしてそれを理解した瞬間、老人は意味の判らない奇声を上げて立ち上がり、新聞を引き裂いたのだった。
つづく。