トップに戻る

<< 前 次 >>

僕は出会った

単ページ   最大化   

 窓を開ける。
 爽やかな涼風が流れ込み、僕の頬を撫でていく。
 アクアブルーの絵具をこぼしたような空はどこまでも突き抜けるように高く、いくつかの小さな白雲がその大海原をゆっくりと泳いでいる。遠くから聞こえてくる鳶の鳴き声は、ほんのすこし物寂しいがとても長閑だ。残暑を逃れ、校舎はようやく秋らしい心地よさに包まれていた。
 目を閉じる。
 瞼の裏に微かに残る暖かな光。
 爽やかな空気を体いっぱいに取り込もうと、息を大きく吸う。
 こうしていると、自分が誰であるかとか、どうして生きているのかとか、余計なことを考えないですむ。そういう時間が、僕は何よりも好きだった。現代人は自分を見失っていて、いつも必死に何かを追い求めている。自分の存在を保証してくれる、何か。僕にはそれが何なのか分からないが、それでも僕は僕だ。誰かが自分のことを見てくれて、自分のことを信じてくれて「そうすれば私という存在は生きてゆける」誰かがそんなことを言っていた。僕もそう思う。それだけでいいんだ。
 風は様々な景色を運んでくる。
 仄かに色づき始めた木の葉の匂い。
 逞しく生きる雑草や、それを育む土の香り。
 そして――コンソメパンチの強烈な臭気。

 ぽりぽりぽりぽり、という不規則な音が後に続いた。

「先生、そんなとこで何を」
「おー、佐倉。ここにいたのか」
 気配を感じて僕が振り向くと、そこには抜群のプロポーションをもつ絶世の美女――を自称する担任の高辻藤子がいた。
 幾人かの女子生徒がすれ違い様に「トーコ先生、バイバイ」と手を振っていく。トーコと呼ばれた高辻先生も、気をつけて帰れよー、と応えた。27(自称)という若さのせいか男勝りのさっぱりした性格のせいか、あっという間に女子の人気を掴んだようだ。男子生徒は言うに及ばず。
 ぽりぽりぽり。
「いやー。いい天気だね。なるほど、ここからだと中庭や部室が良く見える」
 窓枠に肘を突くようにして、ウットリと屋外の風景を眺める先生。黒色系のタイトな洋服にボディラインの良さが強調される。
 教室のある第二棟の廊下の窓からは、緑化された中庭を挟んで第三棟の校舎がよく見える。第三棟には文化系の部室が多く集まっていて、文芸部もその中にあった。
 ぽりぽり。
「そのポテチですけど……いいんですか、勤務中に」
「んぁ? あー、悪い悪い。佐倉も食うか?」
 高辻先生は、窓の外に顔を向けたまま手に持った袋だけを僕に向かって差し出した。
「いや、いいです」僕が遠慮すると「そうか、佐倉はうすしお派か」と心底残念そうな顔をする高辻先生。「大丈夫なんですか」再度念を押せば「あたしは太らない体質だから心配するな」とさらに的外れな答えが返ってくる。大丈夫かこの教師。それにしても勤務中にポテチとか自由すぎだろ、ここの校風。
「それで、何か僕に用ですか」
 僕は強制的に話を本題に戻した。何か用があって僕を探していたのだろう。
「ん?――ああ、これなんだけど」
 そう言って、高辻先生は薄い冊子のようなものを僕に差し出した。
 ところどころ、脂で汚れてはいるが……とても見覚えがある。
「『モルフォ10月号』ですか、昨日配布した?」
「そう、ちょっと聞きたいことがあってね」
「何です?」
「これだよ」
 そういって、先生は――指先を丁寧に舐めてから――冊子のページをめくって目的の箇所を開いた。そこには『モフモフさん伝説を追う!』と題されたドキュメンタリー・タッチのレポートが載っていた。先生もモフモフさんに興味があるのだろうか。案外可愛いところもあるのかもしれない。
「これ、書いたのあんた?」
 文章のタイトル横には筆者のペンネームが書かれている。だがペンネームでは誰かまでは特定できない。ハルカ先輩の名前をもじって付けたものだと知っている者も多少はいるが、九月に代行教員として赴任してきたばかりの高辻先生が知らなくても無理はない。
「いえ、違いますよ。僕は配布しただけです。書いたのはハルカ先輩」
「ハルカ先輩?――誰だそりゃ」
「3年の成田晴香さんのことです。文芸部の部長で」
「ああ、成田か。あいつ、授業中は大人しく見えたのにこんな生き生きとした文章を書くとはねえ」
 さも感心したような語調とは裏腹に、文章を眺める先生の目つきは真剣だ。
「この世には特殊な才能を持つ人がいたりするのよ」
「才能ですか」
 結局のところ、モフモフさんの都市伝説は『モルフォ』に掲載された。僕は真相をハルカ先輩に言い出せなかったのだ。彼女のハイテンションに押し流されてタイミングを失ってしまった。物井さんには申し訳ないことをしたと思っている。あとで謝っておこう。
「で、その文章が何か?」
「いや、ちょっと気になっただけだよ。あんたと同じ匂いがしたからね」
「匂い?」
「いや――あたしの気のせいだろ。気にするな」
 ぽんぽんと僕の肩を叩くと、一方的に話を打ち切って高辻先生は去っていった。都市伝説もほどほどにね――と言い置いて。背中越しにひらひらと軽く手を振って遠ざかる後姿は、年頃の生徒の関心を惹くには十分のクールな魅力が感じられた。性格はともかくとして。それにしてもいったい何だったんだろう。モフモフさんの話じゃなかったのか?
 そして気がつけば、
「あ、どうすんだこれ」
 僕の手には脂まみれの『モルフォ』と食べかけのポテチの袋が握られていた。


「うまいな」
 ポテチを食べながら松崎が呟いた。第三棟に繋がる渡り廊下でたまたま遭遇したので、押し付けたのだ。
 松崎はたしか放送部だったか? 顔に似合わず意外と地味なことが好きなんだな。
「好きとかじゃなくて、成り行きってやつ。まあラクそうだったしな」
 納得。
「なあ、松崎」
「……何?」
「1組の物井さんって何部か知ってる?」
「知るかよ。なんでオレが知ってんだ。帰宅部じゃねーの」
 だよなあ、と呟いて僕は諦める。自分で探すしかないか。もう家に帰ってしまっただろうか。昼休みにでも謝っておけばよかったと後悔した。
「物井ってなんか目立たないやつだろ? その何とか先輩とかにしても――お前、そういうのが好みなの?」
「いやいやいや」
 なんでこう、17歳男子というのは何でも恋愛感情に結び付けたがるのだ。物井さんはこの間知り合ったばかりだし、詳しいことも良く知らない。ハルカ先輩は、まあ、姉みたいな感じで話しやすいしけどそんなんじゃない――慌てて否定する僕に松崎は「ふーん」と無関心な返事を寄越した。なんだか焦ってとても損をした気分だ。この場合、スルーされるよりは揶揄されたほうがまだ救われる気がした。遺憾である。
 幾分落ち込んで茫然と歩いていた僕の横で、松崎が「おっ」と声をあげた。
 彼は第三棟の階段付近の暗がりを見ていた。
「何、どうしたの」
「いや……ちらっと見えただけだから……多分猫か何かだと」
 松崎が言葉を濁す。はっきりした物言いが多い彼にしては珍しい歯切れの悪さだった。それにしたって、なんで校舎内に猫がいるんだ。
「さあ……誰かがこっそり部室で飼ってるんじゃないか」
 そう推測する松崎の言葉は確かに論理的だが、その目は宙を彷徨っている。心ここに在らずといった感じだ。何か怪しい、ほんとうに猫だったのかそれは?
「じゃあ、お前が確かめろよ。まだそこらへんにいるだろ」
 誤魔化すように松崎は早口になる。
「分かったよ」
 そう言って、僕は第三棟に向かって小走りになる。
 階段の暗がり。何もいない。踊り場。だめだ。どこかの部室、それとも上の階か?
 僕が階段を上ろうとしたそのとき、防火扉の近くの掃除用具入れからコトリと小さな気配がした。扉が少し開いている。
「そこかっ」
 そう、そこで僕は出会ってしまったのである。いるはずのない、それに。


「え、見たの、ほんとに?」
 僕達は文芸部の部室にいた。僕の後ろで松崎が、何でオレまで……とブツクサ言っている。それを苦笑しながら見ているのは物井さんだ。部室のドアの前で鉢合わせした彼女は、『モルフォ』執筆者、すなわちハルカ先輩に都市伝説の真相を告白するつもりでここまで来たところだったらしい。なんというご都合主義。そして、僕の目の前で爛々と目を輝かせているのが当のハルカ先輩である。「なんだ、随分元気な人だな」と松崎に言わしめたほどの好奇心に満ち溢れた眼差しだった。
「本当ですって、あれはモフモフさんでした」
 間違いない。
 白くてふわふわとした、大きな毛玉のようなそれ。
 可愛らしい目玉が二つ、怯えたように覗いていた。
 いろいろな生徒から集まった情報やハルカ先輩が文芸誌に書いた文章から湧いてくるイメージと、まさにぴったり一致する存在が目の前にいたのだから。もっとも、それは榎戸氏が描いたポスターのそれとも質感以外では大差なかったのだが。
「ねえ、捕まえた? 捕まえた?」
「あ、いや、もうちょっとのところで逃げられちゃって」
 あからさまに落胆するハルカ先輩。
 でも、捕まえたら不幸になるんじゃなかったっけ?――掲示板で見た内容を思い出して口に出しそうになった言葉は飲み込んだ。あんなのつまらない悪戯だ、と彼女に一蹴されそうな気がしたからだ。
「でも、そんなことって……」
 複雑な表情で言ったのは物井さんだ。
「都市伝説なんて信じないって?」とハルカ先輩が茶々を入れる。しかし、物井さんが「いえ、実は……あれはわたしが広めた噂で……」と言うと彼女の表情が変わった。「――へ、どういうこと?」
 掻い摘んで事情を説明する僕。
 事前に説明できなかったことを、この場で物井さんとハルカ先輩に詫びておいた。
 幸い、どちらも怒っている様子はなくて、不可解な顔をして考え込んでいる。
「どうせ、そんなことだろうと思ったよ」
 松崎が冷めた口調で呟いた。物井さんがまた申し訳なさそうに「ごめんなさい」と謝る。
「いやいや、ちょっとまってよ」ハルカ先輩はそれを制止した。「佐和ちゃんの事情は分かったわ。けど和貴は実際に見たのよね、モフモフさんを。松崎君も」いつのまにか、物井さんのことを「佐和ちゃん」と呼んでいる。
「あ、ああ……いや、あれは猫かもしれないし」
「いや、猫じゃない。僕も見たんだ。あれはモフモフさんだった」
 そうなんだ。ちょっとばかり、おかしなことになっていた。
 物井さんが捏造したに過ぎない架空の存在が、現実のものとして校舎内を動き回っていたのだ。「幻覚か何かだろ、きっとポテチに何か混ぜてあったんだ」とあくまでも認めない松崎だったが「僕はポテチに手をつけてないよ?」というと黙った。
「とにかく、まだ校舎内のどこかにいる可能性が高いわよね」
「たぶん」
「じゃあ、探しましょう」
「探してどうするんですか」
「捕まえて調べるの!」
 そうですか……どうせまた僕がやるんでしょう。そう思いながら溜息をつく。まあ、僕も興味はあったのだが。
 だが、今回は僕だけではなかったようだ。
「あーと、松崎君も目撃してるのよね」
 松崎の顔が引きつる。ビンゴだ松崎。「わたしもやります」と殊勝にも手を挙げたのは物井さんだった。責任を感じているのだろう。いや、自分の作り上げた幻想が勝手に現実世界を動き回っているのだ。関心を抱かないほうがおかしいか。そういえばけっこう大胆なことをする人だったことを忘れていた。
 それにしても、と思う。偶然とはいえ、普段はふたりきりの文芸部の部室に、今は四人もいて、それなりにわいわいと賑やかに騒いでいる。こんなことって滅多にないことなんじゃないだろうか。ハルカ先輩の顔もなんだか楽しそうだ。もちろん僕も、楽しい、と感じていた。願わくば、こんな日々がいつまでも続いていくことを……いやいや、僕はなに青臭いことを考えているんだ。
「じゃあ、捜索隊のみなさん、よろしく!」
 澱みない笑顔で言い放つハルカ先輩。
 部室には、何でオレまで……という松崎の呟きがはっきりと聞こえていた。
3

ファラウェイ 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

<< 前 次 >>

トップに戻る