第一話『君が少女で私が触手で』
昔々ある所に、普通の触手が生きていました。
ホースくらいの太さで赤みを帯びたその触手。表面に付着しているぬるぬるとした液体が、聞き様によっては卑猥な音を出しています。そんな触手が昔々の、とある田舎の一軒家、その物置のさらに奥、既に住民にも忘れ去られている古いツボの中。狭く暗いその中で、誰にも知られず生きていました。
もちろん前述したとおり、触手は生きています。生きているということは、ある程度成長もします。対して無機質であるツボが触手の大きさに合わせて成長するなんてことがあるわけもなく。
昔々ある所に、普通の触手がツボから晴れて顔を出しました。
『君が少女で私が触手で』
時は進んで現代。具体的な場所は省いて――もちろん僕達私達の地球であり、日本列島――、ある高層マンションに目を向ける。都会になりきれない田舎と言うべきか、周囲を圧倒する40階建ての高層マンションは、非常に浮いた存在に見える。
その一室、103と書かれたプレートが掲げられた扉。それが不意に勢いよく開くと、これまた勢いよく一人の女の子が飛び出してきた。時間は朝の七時五十分。なるほど確かに急がねば、格好を見るからに学生だろうその女の子は、今まさに遅刻になるかならないかの瀬戸際にいるわけだ。
「……」
しかしその女の子、遅刻しそうな割には焦っていない。もちろん全速力で走っているのだが、なんとも普段通り――通行人にぶつかって謝らないことも普段通りなのかはともかく――といった様子。スカートを翻しながら、瞬く間に疲れた表情を浮かべている会社員をごぼう抜き。その度に肩をぶつけているのは故意なのかそうでないのか。なんとも豪快。そんなこんなとかなりの速さで走っていたにもかかわらず、息が上がっていない女の子は学校に着いた。
……しかし。
「残念でしたね、茅山結さん。始業式の次の日でナンですが、どうやら時間切れのようです」
「……」
世の中は非常に無情。目の前で校門の柵を閉めた教師は、ニヤニヤと笑いながら女の子――茅山結――を見つめていた。
正面に位置する校舎、設けられた時計を見れば八時十六分。ホームルームは十五分からなので、なるほど、確かに教師の言う通り、結は遅刻していた。
対して、結は何ともつまらなそうに教師へ視線を向けて。
「……FTO」
と、辛うじて聞き取れるような声で口を開いた。だが、意味はわからない。もちろん教師も“FTO”が意味することを理解できなかったようで、眉を片方だけ上げながら口を開く。
「なんですか、その、FTOというのは」
「ふぁっきんてぃーちゃーおおやま」
大山とはこの教師の名前である。
「それはそれは、ははん、ははっ…………なんだって?」
少々キレ気味な大山は結を、これまたキレ気味な目で見る。が、結はまたもつまらなそうな目で大山を見ると、何も言わずにその場を後にした。
確かに人をイラつかせるような言い方で喋っていた自分も悪い。自覚はしている。しかし、何故遅刻したロリに罵倒されなければならないのか、大山はそんなことを考えつつキレながら教壇に立ったのは言うまでもなく。
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とにかくこの町はどっちつかずである。前述したとおり、田舎というわけではないが都会でもなく。山に面しているが、海も傍で広がっている。特別暑いわけでも寒いわけでもなく。そんな中途半端な町で育った茅山結は、親がいない。歳の離れた姉と暮らしてはいるが、親の愛情を十分に受けていない結は、当然と言うべきか“少々”捻くれている。端的に言えば、結は人が嫌いなのだ。赤の他人はもちろん、同じ部屋で暮らしている姉でさえ“好き”ではない。
逆に言えば、人間以外は大好きなのだ。
だからだろう。学校で門前払いを食らった結は、別段悪びれるわけでもなく、自然と少し歩いた所にある森の中へ。そう、少し歩けば周りは平屋が点々と建っているだけの景色が広がっている町なのだ。
季節は秋。硬く乾いた木の葉を踏み締めながら、森の奥へと進む結。森と言ってもそこまで広くはないが、それでも端から端まで歩くには少々長い道となる。
そして太陽が真上に来る頃、結は虫や草花と戯れながら森の中心に近い場所へと来ていた。伐採するには木が少なく、自然も必要だと主張する市によって保護されているこの森。かなりの年数が経っており、人の手があまり及んでいない。ということは、昔の人間が建てた家があっても、そこまで不思議なことではない。
結は手に持っている木の枝を鼻歌に乗せながら振っていた。……そして、足と手の両方が止まる。陽光を遮るほどではないが、それでも相当の木が生えている。その木の数が減り、少し開けた場所に出たのだ。手を加えられているにしては少々雑。しかしながら何者かが居るのだろう、結の目の前には木造の古い家が建っていた。
「……家?」
手が加えられている、と結が思うのは木造だというのに腐っていないから。だが、雑草は伸び伸びと元気よく生えているし、家の周りに置いてある桶などの道具は手入れがされているようには全く見えない。この家だけを目的としている誰かが居る。そう結論に到った。
前述した通り、結は人間を嫌っている。もしもこの家に人が住んでいるのならば、自分から近付くことなどするはずがない。しかし、この森の中で一人――だろうと思われる――で住んでいるとなれば、少なからず周りの風景、自然が好きなのだろう。そう思うと、結は不思議とここの住人に対して嫌悪感を抱くことなく考えることが出来た。
「入って、みようかな」
独り言。その決断をすることにそう時間はかからなかった。
金属を使っていない、木材だけの扉が耳障りな音を立てながらゆっくりと開く。もちろん電気など来ておらず、昼間とはいえ家の中は予想以上に暗く、全体が掴めない。短い髪を揺らしながら結は一歩踏み出し、そこで立ち止まる。家の中から微かに香りが漂ってくるのだ。……金木犀、この季節になると街中でも鼻を掠る香り。甘すぎるその匂いは好みが分かれる。そして、結はその匂いが嫌いだった。
(だって、この匂いがする頃に、お母さんとお父さんは)
立ち止まり、結は昔に思いを馳せる。……そう、金木犀が薫る秋に、自分と姉を残して親は消えてしまったのだ。よく覚えている。よく覚えているがゆえに、その時に姉から言われた事実と圧倒的な喪失感を、この香りを嗅ぐたびに思い出してしまう。出来れば嗅ぎたくない、結にとってそんな匂いだった。
そんなことを考えていたからだろう、結は目の前でうごめく気配に気付かなかった。気付いた時にはもう遅い、その“生き物”は結のすぐ目の前に迫っていた。
「なっ、なにっ?」
「…………誰だ」
結はわけがわからないと言った風に、目を動かす。確かに何かが動く気配はあった。確かに声も聞こえた。なのに、その姿が捉えられない。依然と香ってくる金木犀の匂いに翻弄されながら、ふと、自身の足元を見る。……何かが、居た。
「確かに私の姿は世間一般的に見てあまりいい印象を与えないだろう。しかし聞いてくれ、私は君に危害を加えるつもりは全くない」
「……あなたが、喋ったの?」
「認めたくない気持ちは理解できる」
自身の足元。そこには……なんだろう。そう、触手としか表現できないモノが動いていた。水道に繋がっているホースくらいの太さ、そんな触手が十数本、中心に位置するプルプルとした円形の物体から伸びている。
そうやって動いているだけではなく、あろうことか、その今までに見たことのない生き物は目の前で喋って見せたのだ。声を出す度に体が震えているが、どこから声が出ているのかわからない。けど、確かに喋っている。
人間じゃない。けれど、この生き物は喋っている。結はこの時、初めて自分が勝手にこの家に入ったことを思い出した。
「ごめんなさい」
「なに?」
「勝手に家に入っちゃって……ここは、あなたの家なんですよね?」
「私の家と言うのもなんだが、確かに私はここに住まわしてもらっている。その、ぶしつけな質問で申し訳ないのだが、私を見て驚かないのか?」
ゆらゆらと触手を動かす仕草を見て、結はきょとんとした表情を浮かべる。確かにこんな生き物は見たことがないけれど、別に居たっていいんじゃないのか。そんなことを考える。
未だに驚かない結を見て、触手は少々と言わず相当に動揺していた。何百年と生きてきたが、こんな容姿、しかも喋り、私を見た人間は皆驚き、恐怖し、背を向けていった。だというのに、この少女は驚かない。……何故? それが触手の行き着いた考えであった。
「あの、名前を教えてもらってもいい?」
唐突に、結がとんでもないことを言う。とんでもないというのは触手の思いであって、結は別段変わったことを言ったつもりはない。人としての名前ではなく、“生き物”としての名称を知りたかっただけ。
そして触手は、今の今まで、自分に名前がないことに気付いた。
「名前はない。そうだな、私のような生き物が他に居るとは思えないし、見たまま“触手”と呼んでくれて構わない」
「触手……さん。よかったら、お話しない?」
「別に、構わないが」
触手は疑問を感じていた。先に言った通り、ここまで自然に接する人間など、今まで現われたことがなかった。お互いを傷つけあうと思ったからこそ、触手は人里から離れた場所で暮らしていたのだ。その行動を、目の前の少女はこうも簡単に打ち崩し、自分と“お話”をするなどと言っている。……陳腐な表現だが、自分はときめいている。初めてとなる“会話”に。もちろん結は言わずとも、触手に対してなんら負の感情を抱いていない。人間が好きではない結にとって、“人間以外の喋る生き物”というのはまさに理想の話し相手と言えるからだ。
お互いがお互いを必要としている。口には出さずとも、二人はそれをなんとなくわかって、他愛もない会話をする。触手が言うに、自分は何百年と生きてきた。言葉を解する自分に最初は疑問を持つことがなかった。しかし、自分と人間は違うのだと。結が言うに、自分はそんなこと気にしない。人が多いところで暮らしてきたからこそ、人の嫌な部分もたくさん知ってる。わたしは、触手さんのほうが好き、と。
「滅多なことを言うものじゃないよ。それこそ私は最近の人間を知らないが、親まで嫌いなどと言ってはいけない」
「でも、捨てられちゃったんだよ? もう会えないし、どうしようもないじゃん」
「だからと言って、自分を生んでくれた親を嫌うのは道理に反している。それに、君を育ててくれているお姉さんはどうなる。君を好いていなければ、出来ることではないだろう」
結を論すように触手は言う。しかし、触手は駄目だな、と、自分で言いながら思う。自分が言っているのは所詮綺麗事。結の見た目からして幼いと思ったが、予想以上に心は嫌な方向に成長してしまっている。
話を聞く限り、結は筋金入りの人間不信だ。たとえ結の姉が底なしに良い人であったとしても、そう簡単に心を開くことはないのだろう。
「それは、わかってるけど……」
妙な沈黙。別に気まずいわけではないが、自然と二人は黙ってしまった。家の中にある木製の椅子に座っていた結は、ふと傷や埃に塗れた窓を見る。真っ赤な光が、窓から差し込んでいた。
「……そろそろ、帰らないと」
「そうか」
椅子から立ち上がり背を向ける結を、黙って見送ろうとする触手。触手が動くと、体から分泌されているのだろう粘液が木造の床できらきらと夕焼けの光を反射させる。そんな“帰る”空気で充満された場所で、結は不意に立ち止まる。
「…………触手さん、もしよかったらでいいんだけど」
そう言うことが当然だと言わんばかりに、結は振り返り、あることを提案した。
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「ひぃやぁああああ!」
茅山陽子――結の姉――は戦慄していた。
今日も不条理なサービス残業で会社に遅くまで残り、色目を使ってくる中年の上司を言いくるめて辛くも帰宅、本音を言えばすぐにでも寝たいところを家事があるからと気持ちを奮い立たせ、いざ自宅へと足を踏み入れればなんてことはない。
「なっ、なん、なな」
玄関に入ると、すぐ視界に入ったのはぬめぬめとした液体が塗りたくられたフローリングだった。続いて、リビングに見える触手状のうごめく物体。しかも近付いてくる。恐怖のあまり後退るが、もちろん後ろには今閉じられたばかりの扉があるのみ。ガツンと勢い余って頭を扉にぶつけてしまうが、そんなことは関係ない。現に恐怖の物体は近付いてきているのだ。
ゆっくりとした速度で近付いてくる触手。それを凝視していた所為か、陽子は軽やかな足音を聞き逃していた。
「おかえりなさい」
「え、あ、結、ただいま。……え?」
物怖じすることなく、結は陽子の目の前で触手を胸元まで持ち上げると、それこそなんてことはない、と言った風にとんでもないことを口走る。
「今日から一緒に暮らすことになった触手さんです」
「食費は全くかからないし、住む部屋もとらせない。申し訳ないとは思うのだが、結たっての願いだ。聞き入れてくれると私も嬉しい」
「それ、喋って、え、住む? ここに? え?」
現実に疲れすぎて、妙な幻覚を見ているのだと信じたい。しかし、逃避するにしてはどうにもおかしい妄想。あたしはこんな願望を持っていたのだろうか。
あまりにも現実離れした光景、現実離れしたことを言われ、陽子は気が遠くなるのを感じた。
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つづく