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1.遅い春

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 天気予報が太陽のマークを並べ立てて、ここ最近で一番高い最高気温を示している。僕はそれを見て、もう完全に春だな、などと思いながら玄関へと向かった。
 これは別に、季節の移り変わりに何か詩的な感銘を受けているわけじゃなくて、単なる感想だ。今年の三月は例年より寒くて、なかなか春が来なかった。四月になっても暖かくならなくて過ごしにくかったから、嬉しくなくはないんだけどな。
「いってきます」
 割と毎朝元気よく発声するこの言葉に、僕の姉はトーストをかじりつつテレビに目をやったまま、これまたいつもの朝と同じように答えた。
「……いってらっしゃい」
 姉がこんなに愛想がないのは、別に僕らがケンカをしているからでも、彼女が悩みを持っているから沈んだ雰囲気で喋っているわけでも、僕たちの仲が悪いってことでもない。ましてや、さっきまで天気予報をやっていた、朝のニュース番組の占いのコーナーに夢中だったなんて有り得ない。でも、いつからだったか、ずっとこんな感じなんだ。こんな感じなのが、僕らの日常だった。

 僕は、ボロボロに錆びていて、崩れてしまうんじゃないかとも思える階段を下り、アパートの一階の駐輪場に止めてある自分の自転車の鍵を外して、サドルにまたがって自転車を漕ぎ出した。
 昨日入学式だった僕の高校へは自転車で10分。家に近いから、って理由で選んだ学校だ。通学が面倒だったからじゃない。二人きりで暮らす姉から、あんまり遠ざかりたくなかったから。
 こんな言い方をするとシスコンっぽい――完全に否定するわけじゃないが――から嫌なんだけど、姉が心配だったからだ。まあ彼女自身だって週4回、最寄りの大学の講義に出るから、近くに居たってどうこうってことはないんだけど……。
 僕は進路選択で、偏差値5程度と引き換えに、姉の近くに居られるという安心を買った。姉に何かあれば、すぐに駆け付けられるというチケットを手に入れた。クラスメイトたち(友達、と言うほど親しくなかった)や先生には「もったいない」なんて言われたが、僕は後悔していない。僕にとってはそんな無意味な数字より、姉の方が大事だったから――。



 ――僕が手をかけて横に引くと、ガラッ、と乾いた音を立てながら、教室の戸が開いた。2-3という札が掛ったその教室に入って行った僕に、軽蔑や好奇心の交じった視線が突き刺さる。それも一瞬で、その視線はまた自分たちの談笑の輪の中へと納められていく。
その日は、教室に入ってすぐに目につくような位置で、3,4人の女子が固まって話していた。クラスでも中心の方のポジションにいるグループだった。
「昨日のドラマ、見た?」
「見た見た! 見逃すわけないじゃん、最終回なのに」
「全然、私が考えてたラストと違っててビックリしたよー! まさか……」
「ちょっとー……アタシ、録画しててまだ見てないんだから、言わないでよ」
「あー、ゴメンゴメン! だってさー、あまりに……!」
 そんな他愛もない談笑も、自分の席へ向かう途中の僕が近くを通り過ぎると、ぴったりと止まって、押し殺すような笑い声に変わってしまった。クスクスというその笑いが何に向けられているものかは、分かりたくなくても分かるというものだ。「彼女らは昨日のドラマの内容を思い出して笑っているんだ!」なんて言うバカはいないだろう。
 期待しているのだ。その日仕掛けられた『ちょっとしたイタズラ』に、僕がどんな反応をするのかを。
 確か机の中に濡れ雑巾が目一杯詰まっていたんだっけ、その日は。そして、僕が机の中から大量の汚い雑巾を掻き出す様を、クラスのやつらは決して大笑いではなく、嘲るような、楽しむような、そんなニヤニヤした笑いを浮かべて眺めていた。
 僕は怒りや憤りを感じるなんてことはまったくなくて、ただただ惨めだった。
 一時的とは言え、相当堪えた。こんなことを相談できるのは姉だけだったから、家に帰ってから姉にこの話をした。
 相談、っていうのは適当じゃなかったな。話を聞いてもらう、という感じだった。
 僕は学校での辛い体験を、酷かった時期は毎日のように、涙を流しながら姉に語って聞かせた。
そして姉はいつも、まったく抑揚をつけずに、

「――そう、大変なのね。 ……大丈夫なの?」

とだけ言ってくれた。信じてくれないかもしれないが、僕にはこれで十分だった。



 そんな中学生時代はまったく楽しくなかった。こんな社交性のない僕だから、友達も、もちろん彼女もできやしなかった。果てはこんな風にイジメまで受けるようになったんだけど、あんまり僕は気にしなかった。いや、気にする素振りは見せなかった、というのが正しいかな。
 心の中では泣き叫んでいて、誰でもいいから助けてくれだなんて、一人前に許しを請うていた。
 そして、助けてくれるような友達が一人もいない自分を呪った。
 ――だから、話だけでも、姉に聞かせた。
 そのおかげで多少楽になっていて、学校ではまったく歯牙にもかけない様子を必死で繕うことができたから、向こうも反応のない僕に飽きたのか、そのイジメは一時的なもので済んだ。
 とは言え、上履きを隠されたり、机を隠されたり、教科書に落書きされたり――。そんな幼稚なことをされても何もやり返せない、言い返すことさえできない自分が情けなくて情けなくて、誰でも知られずに、学校のトイレの中で泣いたりもしていたんだけど。

 そんな僕だけど、友達や、お互いに好き合うガールフレンドに興味がなかった――なんてわけはない。他人がいるところでは恥ずかしくてそんな素振りは見せられなかったけど、僕だって人並みに友達っていう関係に憧れていたし、好きな娘(その娘も僕に対するイジメに加担していた)だって居たんだ。でもやっぱり、両方とも叶わぬ夢だった。
二兎追う者は一兎も得ず、なんて言うけれど、僕は最初から一兎でさえも追わなかった。追う勇気がなかったんだ――無駄だってことは分かっていたから。でも、そんな寂しい学校生活に耐えきれなくて、イジメが無くなってからも、泣きながら姉に自分の哀しい学校生活について語って聞かせたりした。
 そんなときに姉の口から出る「そう」という一言が僕を救ってくれていた。

 そんな暗い、ジメジメした中学時代を送ってきた僕は、これから始まる高校生活に期待はしていない。そんなの、無駄だと分かってる――。
 でも、ホントは分かってない。理解していても、「それでいい」だなんて納得はしてないんだ。『期待していない』だなんて大ウソで、『予想していない』だけなんだ――。
 だから、入学2日目で、少しずつではあるけど、他のクラスメイト同士の会話が増えてきた今日、僕に話しかけてくれた娘が居たのは凄く嬉しかった。

「――ねえ、メルアド交換しようよ」
 いきなりメールアドレスの交換から始まるコミュニケーション。今の高校生の間じゃ、珍しいことでもないのかもしれない。
 僕はというと、まさか自分に声を掛けてくれるクラスメイト(しかも女子)がいるなんて思ってなかったから、彼女の方をまともに見ずに、しどろもどろになってしまって、無愛想な感じで、「え、ああ、うん」なんて言った。
 ――バカか。クールでカッコいい対応だとでも思ったのか、僕は。
「へえ、光谷くんって、下の名前、ひらがななんだ?」
 赤外線通信で送った僕の電話番号、アドレス、名前を見た彼女はそう言った。
「ああ、男だとちょっと珍しいみたいで、自己紹介すると結構ツッコまれるんだ――」
 未だに僕は彼女と目を合わせようとせず、自分の携帯に送られてきた彼女の情報を確かめているフリをしていた。
 みつや とも。それが僕の名前だった。
 我ながら皮肉な名前だと思っている。『光』だなんて。『友』だなんて。ちっとも光ってなくて、友達のいない自分には、相応しくない名前だと常々思う。
 そういう風に考えていると、自分でも可笑しくなってきて――……そして、悲しくなった。そんな思いに耽っていると、彼女が何やら話していた。
 彼女の言葉にまったく意識が言っていなかったので全く聞きとれなかった僕は、「へ?」なんて間抜けな声を上げた。
「だーかーらー、私と一緒だね、って」
「……何が?」
「私も、ひらがなでしょ?」
 そう言うと、彼女はその細い指で、僕の携帯のディスプレイを指差した。その先には、

倉木 ゆう

という名前が映し出されていた。
 僕は顔を上げて、初めて彼女の顔を見た。
 ――細くて涼しげな目をしていて、髪の長い、綺麗な少女だった。
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